春は野駆け
久しぶりのロケ弁を食べていると、食べ終わった細いエビフライの尻尾を箸でつついていた男が小さくため息を吐いた。
「なんや、ところてん食いたいなァ。酸っぱいヤツ。」
「……なんです、それ。」と言って口を閉じる。
デートの誘いですかと兄弟子に聞くのは、ギリギリのところで理性が勝った。
茶化しと取られても、本気にされてもどちらも面倒で、そもそも、そんなことをちらりと頭の隅で考えてしまう自分の気持ちが一番面倒だった。
そんなこちらの心も知らずに、兄弟子は「茶、もう一杯くれ。」と抑揚のない声で青い湯呑を差し出した。
そのくらい自分でせえ、と言わんばかりの当てこすりを乗せたため息をついて立ち上がり、薬缶の中に作り置いた冷えた茶を湯呑に注ぐ。
すると相手は、いつもの茶を啜って一言、「もっと熱くて渋ぅい茶はないんか。」と大して面白くもなさそうな顔をした。
「それなら先に饅頭買って来てください。」とこちらも無表情で返事をする。
雑談のネタをそのまま儲け話にしてしまうような、頭の回転が速い男が話を転がしていく『饅頭こわい』という噺は、僕も嫌いではなかった。
「……それ、ええな。オレも、栗が入ったヤツ食いたい。」
揶揄するような笑みが、緩んだ口元に浮かぶ。何でもかんでも底抜けに面白がっていた「あの小草若」が、実生活では笑うのが下手だと、誰が知っているだろう。
「もう春ですよ?」
栗は秋のもんでしょう、と僕は話を続けた。
和菓子も落語も、日本のものには大抵、季節が付きまとう。
野駆けは春、幽霊は夏から秋、掛取りは冬。
知らない訳でもないだろうに、兄弟子は「探せばどっかには売ってるやろ。」と能天気なことを言う。
弁当の紙箱の中には、まだ半分ほどのおかずが残っている。きんぴらやら、煮物やらの副菜は箸を付けられた形跡もない。
「小草若兄さん、ロケ弁、最後まで食わんのですか。」
「食べたいならお前にやるわ。」
弁当はやっぱ、昼に食うもんやな、と言って、湯呑の茶を飲み干している。
ロケ弁と言っても、今日のこれは草原兄さんからのおすそ分けだ。
関西圏のローカル局では今、『上方落語に生きる噺家の七十二時間』というテーマで、ドキュメンタリーの番組を作る企画が立ち上がっている。再び常打ち小屋を作ろうとしていることが上方落語界に野火のように広がってから、またしても、他の一門からの声がけが途絶えてしまった徒然亭に、その噂を流したのであろう天狗芸能から、いの一番で声が掛かったのだ。
出演料がぼられているんじゃないかとは思うが、受けないという手はなかった。
そんな中、朝一で撮りが終わってしまった僕と小草若兄さんに、昼からの出番になった草原兄さんが撮りで余ったロケ弁を手土産にくれたのだ。そういうことで、食べる権利が全くないわけでもない。
今夜の夕食はそのおすそ分けに預かることになったのだが、今の時間に食べるには、揚げ物が多いような気がするのだろう。
かつては、ほとんど毎週のようにして草若邸の横に出来た寝床に顔を出し、烏賊のげその揚げ物だのライスコロッケだのを、好きなように食べていた男がこれだけの量の揚げ物に音を上げるとは。お互い年を取ったものだ。
「お断りします。僕ももう腹一杯ですから。」と申し出を断って、弁当のパックを折りたたんで片付け始める。
食べ残しを部屋の中には置いておきたくはないので、これは後で外に持って行こうと思ってビニール袋の口を結んで縛ってから、自分の分の茶を汲んで喉を潤す。
いつもの湯呑を、ただ見るとはなしに眺めていると、ふと、師匠と飲んだ最後の夜の酒のことを思い出した。あの日は、おかみさんの代わりに師匠に付いていてくれた若狭の母親が、師匠に気を使って、ぬるい白湯を出してくれたのだった。
一門が揃っていて、皆、泣きたい気持ちを堪えながら笑っていた。
「草原兄さん、来月は柳眉兄さんとふたり会だそうですね。」
「なんや突然に。」
「さっきもしかしたら、その話をしに来たのかと思ったので。」
そう言うと、兄弟子が立ち上がって、壁に掛けていた黒いスプリングコートのポケットをごそごそしている。
「そういや、兄さんからお前に渡しといてくれ、て預かってたんやった。」と畳まれたチラシを差し出される。
日付、時刻、それからホールの名前を確認する。
なるほど、と思った。地方公演というわけでもないが。「……奈良ですか。」
「まあこっちでやんのと違ってガソリン代か電車賃は掛かるわな。」
「奈良まで電車に乗っていく金、手元にあります?」と兄弟子を見ると、「お前はほんま……底抜けにムカつくやっちゃなあ。」と唇を曲げた。
あの派手な車はとっくに売り払ってしまっているのだから、もうガソリン代もないだろう。
「なくても行くしかないやろ……袖から勉強させてもらって、ついでに鹿でも見るか。」
小草若兄さんは、気のない声でそう言ってから、まるでついでのようにして「お前はどうする?」と聞いて来た。
「僕も行きますよ。今の草原兄さんの実力がどんなもんか、端で聞いてみたいですし。……鹿はなしで。」
高座に上がらないことには、噺家の実力は分からないのだ。
稽古のときにはもう師匠がいない今は、特に。
――お前らロクなもん食べてへんやろ。
そう言って去っていった兄弟子の広くてがっしりした背中を思い出す。
三代目草若の筆頭弟子は、今や堂々たる貫禄で一門の屋台骨となって、色々なところに気を配って歩いている。
僕は、あの神経も身の丈程太いところのある草原兄さんが、芸に華がないとか、普段は口達者の癖に大事なところで噛んでしまうとか、そういった理由で襲名を辞退したことが信じられないのだが、四代目襲名と上方落語の常打ち小屋創設と言う二つの嵐が過ぎ去ってしまった今だから、こうして考えられるところもあるのかもしれなかった。
今時、ロケ弁も弁当屋の仕出し弁当ではなく、コンビニに事前に予約しておくことが多くなっているらしいと話も聞いてはいたが、今回はどこから予算が出たのか、良く名前を聞く店の仕出弁当だった。美味しいし、浮いた金で野菜でも買い、と言われて何の反論もできないのは悔しいが、この兄弟子なら仕方がないと割り切ってしまえるのは、三代目草若の筆頭弟子たる人の人徳だろう。
つらつらと考えていると、視線を感じた。
顔を上げると「……まあ、オレとお前でデートしてもしゃあないか。」と目が合った相手に先に言われてしまった。思わず口が開いてしまいそうになる。
「饅頭はないでしょうけど、今からコンビニに走って、何か酢の物でも買ってきますか?」
「そんなん、コンビニにあるんか?」
気まずい気持ちを誤魔化すためにちょっと外に出て行くつもりで話を切り出すと、草若の名前を継いで数年、僕が出会った頃のあの頃の師匠が身につけていた貫禄が全く見当たらない年下の男は、こちらに向かってずい、と身を乗り出した。
「わかりませんけど、僕も箸休めが欲しいと思ってたので。何もなかったら漬物でも買うて来ますよ。もういつもの惣菜屋は店仕舞いの時間でしょう。……そういえば、なんでところてんなんか食べたなったんですか?」
「別に意味なんてないわ。」と言って、男はふ、と笑った。
先程の笑い方よりは、ずっと自嘲に近い。
「おい、四草――ついでにビールも買うて来てくれ。」と兄弟子はかつてのように財布から無造作に取り出した金を僕に押し付けて来た。
かつてはこんなしょうもない買い物に一万円札数枚とご自慢のスポーツカーの鍵まで渡されることもあったが、小草若バブルもすっかり弾けて、今は夏目漱石が数枚だ。
それでも、ツケにしといてくれな、と媚びるような顔でたかられていた時期よりはずっと良かった。
「行ってきます。」と僕が言うと「行ってこい、行ってこい、待っとるからな。」と男は手を振って僕の背中に気のない声を投げかけた。
待ってなくてもいいです、と言いながら、唇を引き結んで、久しぶりの小遣い賃をポケットに入れた。
――春は野駆けをしようやないか。
暗闇に師匠の声を思い出すと、レンタカーを借りて、草々兄さんも誘えば電車賃はそれなりに浮くな、とふと思った。
外には電灯が灯っていて、空を見上げても星は見えなかった。
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