馬鹿げた男と愚かな星

 星に手を伸ばすなんて馬鹿げた話だ。

 ゴ、と動いた心臓を間髪入れずにゴ、と殴った。
 当たり前だけれど、心臓を殴ると痛い。それも何の加減もしないで殴ったものだから余計に痛かった。鈍い痛みは胸元から全身に広がっていく。
 明浦路司の恋心は自覚されると同時に、そのような痛みと共に散っていくことになった。

 あ、これって恋愛感情だ。そう気が付いてしまったのはその人が笑った顔を見たときだった。それも僅かに上がった口角を見てしまったときだった。嬉しい、と思った時には心臓が変な音を立てて動いていた。
 至極単純な理由だった。だって、好きな人が笑ってくれたら嬉しい。それが親愛の類いではないと気が付いたのは、そのまま抱き締めてしまいたかったからだ。自分の腕の中で笑っていて欲しい。それが親愛や友愛を飛び越えたものだと自覚するのは簡単だった。
 その人は司がずっと憧れていた人だった。
 夜鷹純。
 中学生の頃の司の目を奪い全てを焼き人生そのものを変えてしまった人。そして司にはほど遠い人。
 中学生の頃の自分に夜鷹純とはどういう人か、と聞いたら、きっと美しい流れ星のような人、と答えるだろう。暗い夜空にパッと燃えさかる一筋の光を灯してくれた人。転じて地上にいる自分には絶対に手が届かない人。司にとって、夜鷹純とは長年そういう存在であった。
 そんな人とどういうわけか、同じ氷の上に乗っている。それも一回ではない。多くて週に一度、少なくとも月に一回は夜鷹の貸切にお邪魔させてもらっている。
 それがいけなかったのだ。長年焦がれていた人が目の前に現れてしまったから。しかも時には会話まで出来ちゃったりして。中学生の頃の今の自分の話をしたらきっと呆れた顔をされるだろう。冗談や妄想も大概にしろ。
 しかし夜鷹は司の目の前に現れてしまった。相変わらず苛烈とも言える姿で氷上を舞っていて──相変わらず司はその姿に釘付けになってしまった。

 そんな人に勝手に恋心を抱いてしまった。ここらで潮時だ。司は誰に言われたわけでもなく、自分の感情の後始末をつけることにした。そもそも会えるはずのなかった人に会ってしまったから。近づいてしまったからこんな感情を抱くようになってしまった。舞い上がってしまったのだ。
 じゃあどうすればいい。
 会わなければいい。
 これまた単純な話だった。会う機会が増えたから好きになってしまった。じゃあ会わなければいい。偶然転がり込んできた幸運を手放すだけだ。こんな幸運はもう二度とないだろうが、こんな感情が相手にバレてしまうよりはマシだ。
 そういうわけで、司は夜鷹の貸切に行くのをやめた。元々夜鷹とは連絡先も交換していなかった。夜鷹の友人で以前から夜鷹の貸切に参加していた慎一郎からはまた来ませんか、と何度も打診をもらったが、それも丁重に断った。今は忙しくて、と返事をすれば、慎一郎はそれ以上誘ってくることはなかった。
 司の生活から一気に夜鷹の姿が消えた。
 とは言え動画サイトに上がっている夜鷹の演技は今まで通り毎日の日課としてみている。
 しかしスマートフォンの小さな画面に映る夜鷹は以前見ていた夜鷹そのままで、つまりは夜鷹はまた星となったのだった。
 そうだ、元々これくらいの距離だった。あの人は元々星だった。自分なんかが手を伸ばしても届かない場所にいる。
 きらきらした宝物のような日々を手放して、いつも通りの生活に戻っただけだ。それでも生活は続いていく。

 その日、クラブの貸切練習を終え、後片付けも終わらせて外に出たところだった。出口の階段を降りきると、ぐい、と腕を引かれた。あれ、と思っているうちに横付けされていた車に押し込まれる。は? と思った時には車が動き出していた。
「え、は……!? 何!?」
「うるさい」
 隣には黒い影のような人が足を組んで座っていた。数ヶ月ぶりに聞く声は司の心臓を思いきり跳ねさせた。
「よ、夜鷹さん? 何で? え、これどういう状況!?」
「うるさい。黙って」
 暗い車内の中でも睨みつけられたのが分かった。だから司はそのまま口を閉じるしかない。一体何が? 何でこんなことに? 自問自答をしたところで何も答えが浮かんでこない。当然だ、司は何が起こっているのかまるで分かっていない。
 司と夜鷹を乗せた車はある場所で止まり、司は夜鷹に腕を引いて降ろされた。そのまま腕を引かれて建物に入り、エレベーターに詰め込まれる。音も無くするすると上がっていくエレベーターがどこに向かっているのかさっぱり分からない。
 緩やかに止まったエレベーターの扉が開くとまた司は腕を引かれた。廊下のような場所に差し込む月明かりで腕を引いている夜鷹純の後ろ姿を見た。地上にいる夜鷹純は相変わらず黒づくめで、そのまま闇夜に溶けてしまいそうにも見えた。
 さて、司が連れ込まれたのはマンションの一室だった。恐らく夜鷹の家なのだろう。電気も付けずに連れ込まれた部屋で、夜鷹はソファーに座った。ようやく腕を解放された司は、そのまま床に座った。目の前から強いプレッシャーを感じたからだ。
 夜鷹は司を家に連れ込んだくせに何も言わなかった。司も何も言う言葉を持たなかった。強いて言うなら帰りたい。しかし今目の前の夜鷹に帰ると行ったらどうなるか分からない。そもそも夜鷹がどうしてこんなこと──司を誘拐し自宅に連れ込むなど──をしたのかすら分からない。分からないことだらけで司は身動きが取れなかった。
「君は」
 いきなり夜鷹の声が聞こえた。物音一つしないせいか、その声は外で聞くよりも響いて聞こえた。
「……君がそんなに馬鹿な人間だと思わなかった」
 君がそんなに馬鹿な人間だとは思わなかった。司は思わず夜鷹の言葉を脳内で復唱した。君がそんな馬鹿な人間だと。
「は、はあ!? そんなこと言うために俺を誘拐したんですか!?」
「そんなこと?」
 バチ、と目線が向けられる。射抜かれている、そう思うだけで司の身体は硬くなった。
「君は僕と滑る機会を自分から手放した」
「あ、……」
「君のスケートに懸ける思いってそんなもの?」
「ふざけるな!」
 叫んだ声が自分の耳をつんざいた。カッと頭に血が上るのが分かる。握りしめた拳はわなわなと震えていた。
「そんな思いでやってない!」
「でも実際そうだろ。君は貸切に来なくなった。慎一郎くんがいくら誘っても断った」
「俺が貸切に行かなくなったのは貴方を好きになってしまったからで! あの状況でそういう想いが混ざるのが嫌だったんです!」
 司は夜鷹のスケートを尊いものだと思っていた。そこにどろりとした自分の劣情を感じてしまうのが苦痛だった。前みたいに純粋に見ていたいのに。身を焦がすような熱に切なさなんて湿っぽいものが混ざってほしくなかったのに。
「好き?」
「あっ」
 司は咄嗟に口を塞いだ。しかし全てが手遅れだった。一気に血の気が引いて頭がぐらぐらと揺れた。言わなくていいことは言ってしまったし、言ってしまったことはなかったことには出来ない。
「君が、僕を好き」
「あ、いや、えっと、あの……、すみません!」
 とうとう司は立ち上がって逃げ出した。けれども夜鷹の方が早かった。すぐに腕を引かれてしまった司は玄関まで逃げ切ることが出来なかった。司の左腕は夜鷹に掴まれたままで、しかし夜鷹の方を見ることも出来ない。取り返しのつかないことをしてしまった。背中にじっとりとした汗が滲んでいる。
 夜鷹の部屋にしばらく沈黙が落ちた。それからどれくらい経っただろう、再び口を開いたのは夜鷹だった。
「……別に良いよ」
 司の腕を掴んでいる夜鷹の指が更にぎち、と食い込んだ。跡が残りそうな力だった。
「へ?」
「君が僕を好きでも」
「いや、でも、多分夜鷹さんの思ってるような意味じゃなくて」
 どう説明したらいいものか、説明なんかしたくなかったけれど、と混乱しているうちにいきなり襟元が引っ張られた。ぐえ、と悲鳴が漏れた唇に柔らかいものが触れる。それはすぐに離れ、目の前には夜鷹純の顔があった。
「二度は言わない」
「はあ……」
「来週は水曜にあるから」
 それだけ言って、夜鷹は再びソファーに腰掛けた。司がふらふらと玄関に向かっても、夜鷹はもう追いかけてこなかった。
 君が僕を好きでもいい。帰りながら何度も反芻した司は、何度も足をもつれさせ転んでしまった。地面に這いつくばって立ち上がる度に見える夜空には無数の星がきらめいている。
 星は空で輝くから星であって、手が届かないからこそ憧れるものだ。
 いきなり目の前に現れてしまった星はどうしたらいいのだろう。見つめてもいいのだろうか。手を伸ばしてもいいのだろうか。……いつか、掴めてしまったりするのだろうか。
 そんなことを考えているうちに司はまたアスファルトにキスをした。それはしっかり固くて砂利っぽくて、司に現実を突きつけてくる。
 浮かれるな舞い上がるな思い上がるな。司は己に強く言い聞かせ身体を起こした。頭上に広がる満天の星空は今日もきらきらと輝いている。

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