駆けてゆく、夜

 自宅で夕食も風呂もスキンケアも済ませ、あとは寝るだけというタイミングで、HiMERUのスマートフォンが着信を知らせた。時計を見れば時刻は0時になろうとしている。
「……、はあ」
 不躾にもこんな時間に電話を寄越すような知り合いはあの男くらいしかいない。HiMERUは相手の名前も見ずに通話に応じた。
「――もしもし」
『もしもしィ? 俺っちだけど』
「わかってますからさっさと用件を言ってください。手短に」
『あ? 何イラついてンだよ、明日オフっしょ? どーせ暇だろ、メルメル♪』
 相手は予想通り、傍若無人なユニットリーダーだった。深夜にいきなり電話を寄越したかと思えばこの言い草だ、イラつくなという方が無茶な話だ。こちらから切ってやっても良いんだぞ。
「――暇ではありません。HiMERUはオフでも自己研鑽に忙しいのです。用がないのならこれで」
『ちょっ、ストップストーップ! 悪ィって、怒らねェで下降りてきてくんね?』
 あったかいカッコして来な。そう言って天城燐音は一方的に通話を終えた。「下へ降りてこい」? マンションの下へ、ということだろうか。つまりもう下にいるのか、あいつは。
 奴の目的がわからない以上無視して寝てしまうわけにもいかず、HiMERUは渋々ロングのベンチコートを羽織りエレベーターに乗り込んだ。

「よっ」
「……何をしているのですか」
 果たして天城は車のボンネットに寄り掛かり、缶コーヒーを弄びながらHiMERUを待っていた。数歩歩み寄ると手の中のそれをこちらへ投げて寄越す。熱々というほどではないがぬるくもないスチール缶は、今しがたそこらの自販機で買ったばかりのもののようだ。
「まあ乗れって」
「――あなた、運転出来たのですか」
「まァな〜。燐音くんなら運転くらい出来て当然っしょ。どこ行きたい?」
「どこも何も…」
「きゃはは、まァいーや。テキトーに走るわ」
 天城はそう言って助手席側へ回り、ドアを開けた。
「ドーゾ」
「……。気障なのですよ」
 何だか既にこの男のペースに乗せられかけている気がする。促されレンタカーに乗り込んでしまった時点でもう十分天城の思う壷なのだが、HiMERUは程々に付き合ったら家まで送らせるつもりでいた。この時は、まだ。



 走行中のハイブリッドカーがこれほど静かだとは知らなかった。深夜のハイウェイを時速百キロで飛ばしても、エンジンの駆動音は殆どHiMERUの耳に届かない。目的地も告げずに、車は環状線をひた走る。時折追い越し車線を猛烈にぶち抜いていく後続車やバイクの走行音が、追い抜く瞬間に僅か一瞬空気を震わせては尾を引いていく。これがドップラー効果か、と無意味に実感しつつ、HiMERUはすっかり冷たくなった缶を煽った。
「……♪ 〜〜♪ ♪♪」
  カーステレオからは『Trickstar』がパーソナリティを務めるラジオ番組が流れていた。先週リリースされたばかりの新曲を、ハンドルを捌きながら小さく口ずさむ天城。また横を追い抜いて行った車のヘッドライトが少しの間男の横顔を照らし出す。真っ黒なガラスにしばし映る真っ白い横顔。次いでテールライトを浴びた赤い横顔。この男にはこちらの方が似合う。
 HiMERUは前を向くふりをして、目だけを動かして天城を見ていた。運転をしている彼は普段と比べ静かだ。ちゃんと大人に見える。車中で馬鹿みたいに話し掛けられたら気が狂うかもしれないと不安に思っていたHiMERUにとっては、都合が良かった。
「……」
 HiMERUも口を利かなかった。ただ、『Trickstar』の新譜はあたたかくて綺麗なメロディだったから、なんとなく気に入って一緒に口ずさんだ。環状線を滑るように進んでいく鉄の箱の中を流れる時間は、ひどく穏やかだ。
 唐突な誘いだったものの、この空間は嫌いではない。HiMERUは一定の間隔で真横を通り過ぎるオレンジの照明を、何の気なしに途中まで数えてみて、やめた。



「うお〜、さみィな」
「――マイナス一℃。夜中、一月、おまけに山ですからね。寒いに決まっています」
 随分前に都市部を抜けて、山間部に差し掛かる手前の小ぢんまりとしたパーキングエリアで車を停めた天城は、「一服!」と言って出て行った。手洗いと自販機以外何もない寂れたこの場所は、自分達の他には誰もいない。HiMERUは少しだけ寂しい心地がした。喧騒から遠く離れたここは暗くまるで異世界だし、冬の冷たい空気は人を心細くさせる。
「なんだ、来たンかよ。中で待ってりゃいいのに、風邪ひくぞ」
「――星でも見えないかと思いまして」
「あ〜、お生憎さま。雲が厚くて見えねェっしょ」
 こんだけ空気が澄んでりゃよく見えたろうに残念だな、と天城が言う。本当に残念に思っているかはわからないが、HiMERUに合わせてそう言ってくれているのだろうと思う。気遣いは出来る男だ。
「わはっ、すげェ。煙凍りそ〜」
 不意にはしゃいだような笑い声を上げた天城は、自分が吐き出した紫煙が立ち上ってゆくのをじっと眺めていた。吐いても吐いても煙が吐き出しきれない、なんてことはなく、後半はただの水蒸気。天城の呼気だ。こんなしょうもないことも日常から切り離された場所にいる今は、やけに面白く感じる。
「喫煙所で口から白い息吐いてっと、メルメルも煙草吸ってるみてェ」
「それは風評被害ですね」
 寒い寒いと騒ぎながら、新しく買ったホットコーヒーに口をつける。「お、」と気の抜けた声を出した天城が、スマホの画面をこちらへ突き付けてきた。
「雪だってよ」
「え?」
「これから降るらしいぜ、このへん。帰れっかな」
「そんな予報は――」
「山の天気は変わりやすいンだよ」
 あーだこーだ言っている間に、本当に雪がちらつき始めた。道理で寒いわけだ。これではコーヒーもすぐに冷めてしまう――それから、『俺』も。
 「ンじゃ酷くなる前に帰るかねェ」と歩き出した天城のモッズコートのフードを、咄嗟に掴んだ。首が絞まったのか「ぐえっ」と苦しそうな声が聞こえ、ほんの少し罪悪感が湧く。それでも今、無理矢理引き留めてでも、言いたいことがあった。
「くるし……、メルメル?」
「……いい、です」
「ん?」
「帰れなくて、いいです」
 天城がどんな顔をしているのか、目線を上げて確かめる気にはなれなかった。それでも「行くぞ」と手を引く掌がじっとりと濡れて熱くて、ああ、きっと聡いこの男は俺の想いを正しく汲んでくれたのだと、じんわり嬉しくなった。
 外気温に反して上がり続ける己の体温、滾る血の熱さ。この熱が冷めないうちに、その腕の中に閉じ込めてほしいと。浅ましい願いを先の一言に込めて、ふたりぼっちの異世界にもう少しだけ、留まれるように。

 パーキングエリアを後にしてからの運転は先程までよりも幾らか荒っぽくて、そのあまりのわかりやすさにHiMERUは喉の奥で少しだけ笑った。





(ワンライお題『ドライブ/雪』)

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