光の旅人

 漣の向こうから声がする。
「こら。いけないわ。まだ眠っているのだもの。なあに? ああ、一緒に眠りたいの。……この子は許すだろうけど」
「だが俺が許さん。散れ散れッ! またやってきたな、鳥にリスにウサギに蝶共め! ハッ、おい今度は鹿までいるじゃん! 降りろ! 鹿肉にするぞ! コラッ! 父のためならそれもやぶさかでもないみたいな顔やめなさい! 冗談だから!」
 ばさばさ、っと鳥が飛び立つ音がする。もう、とそれを誰かが窘めた。
「きゅーう? 暴力はいけないわ」
「暴力じゃないし。いいかキュレネ、これは我が親友の安眠のために必要な抑止力なんだ。俺がここにいるとあいつらが近づいて来ない。つまり?」
「……まあ、この子はこのまま眠れるわね?」
 水面の向こうから聞こえてくるようなその声に、あっやべ起きたかも、と少し慌てたような声が重なる。遠くその光の方へと手を伸ばしたが、丹恒はその伸ばした手が、再び自分の胸の上にゆっくりと倒れるのを暗がりの中で感じた。「……穹、どこだ、……どこにいる」と、尋ねた瞬間、音が一瞬止まった。戸惑ったような息遣いのあと、まだ寝惚けてるな、と声が呟く。そうね、まだそっとしておきましょ。キュレネ、しーっ。しー……。――……。――。

 深い森の奥に、既に滅びた都市国家が残した遺跡の跡があり、その小さな古城を動物たちは塒としていた。丹恒さま、丹恒さま。もうじき雨が降り始めます。どうぞわたくし共の城へおいで下さい。あるじさまがお待ちです。肩に乗ったリスや頭上を飛びぱたぱたと羽を羽ばたかせる小鳥たちが言う。狐が足元へ並び、ウサギはその後を少し離れてついてきた。
 彼等が導いてくれた獣道の奥に、そのうち、一頭の鹿が見えた。あるじさま、というのは恐らくあの鹿のことのようだ。苔むした角の大きさからして、随分長い間生きているのだろう。身体の一部が腐り始めており、寄生型の植物がそこに芽吹き、苗床となっている。恐らく、もうそう長くはなさそうだ。その鹿がゆっくり、ゆっくりと古城の中へ丹恒を招く。
 崩れた城壁から中に入ったところで、丁度外から壁を打つ雨の音が聞こえてきた。古城の主はゆっくりと腰を下ろした丹恒の傍へ近づいてくる。
「すまない、助かった。一晩場所を借りる。……ところで、人を見なかったか。友人を探しているんだ」
 年老いた鹿は続けて彼の特徴を伝えた。星の色の髪をした、金色の眸の少しあどけない顔の少年だ。破天荒で、もしかすると意味の分からない行動をしているかもしれない。そう尋ねた丹恒に、年老いた鹿はゆっくりと首を振った。彼は白濁した眸で丹恒をじっと見つめ、森を抜けた先に海がある、海の智者に聞いてみるのはどうだろう、と静かな声で答えた。私はあなたの御胸に抱かれ眠る僥倖にありつけたのに、あなたの探し人を見つけられずすまない、と。
 雨の中でも古城にはひっきりなしに外から来た動物たちが、自らの棲家の近くに人影をさがしては、いなかった、見つからなかった、と丹恒に伝えにきた。いつしか暗がりの中で鹿の背に寄りかかって眠るまで、彼らは丹恒の代わりにこの森での目となり、彼を探してくれた。明け方漸く止んだ雨の中、冷たく、硬くなった鹿の背をゆっくりと撫で、丹恒は静かにその場を後にした。
 森を抜けた先には年老いた鹿が言った通り、確かに大洋が佇んでいた。鳥たちの声は波間に顔を出した魚やイルカたちに届き、そのうち、海の向こうから水飛沫をあげ一頭の若い鯨がこちらへゆっくりと近づいてきた。彼にもまた、丹恒は「人を探しているんだ」、見なかったかと尋ねた。若い鯨はゆっくりを瞬きをし、見つけられなかった、としばらくして申し訳なさそうに答えた。またいずれ尋ねることもあるだろう。もし見かけたらこの世界のどこかにいるから俺まで伝えてくれ、と言って、その時はそう時間をあけず、丹恒はすぐにまた山々を登り始めた。
 数百年経って、再び海の前で丹恒は足を止める。あの時はまだ若かった鯨は、今や当時より一回り以上も大きくなっており、その頭に古い傷やフジツボが瘡蓋のようにその表皮を覆っていた。数回、既に同じように同じ言葉を訊ねている。またお会いしましたね、と語り掛けてくる鯨に、丹恒はまた「人を探しているんだ」、見なかったか、と尋ねた。鯨はまたゆっくりと瞬きをし、また見つけられませんでした、と申し訳なさそうに答えた。
「……そうか。引き続き探してくれると助かる」
「ええ、もちろん。……少し、深いところまで探してみましょうか。深海に放った伝令が戻るまで少し時間が掛かりますが、その間私と話すのはいかがでしょうか」
 鯨はどうやら、自分と話したいように思えた。丹恒は急いだところで彼が見つかるわけでもないと分かっていたから、鯨の言葉に耳を傾けることにした。
「――丹恒様が初めてこの海を訪れたのは、もうかれこれ九百年ほど前の事です」と、鯨は言う。「その間、一頭、また一頭と仲間の鯨はいなくなり、この広い大海に住む鯨は今では私だけとなってしまいました。幼い頃の私は孤独ではありませんでしたが、いまの私は孤独です。小魚やウミガメは良き話し相手ですが、私をおじいさんと呼び友人のようには接してくれません。親しかった友人は皆いなくなってしまいました。丹恒様、今私はあなたの孤独をやっと理解出来ている。こころは波のように砕けてはいませんか」
「ありがとう。心配には及ばない。――俺には、……思い出があるからな。……お前の仲間は、本当にもう、一頭もいないのか」
「果ての海まで探しましたが、残念ながら。――とはいえ、いずれ私の種もどこからか再び、気ままな旅人のように現れることでしょう。あなたという船に乗る幾千幾万の生命とまた同じように」
「…………、」
「記憶とは、そういうものです。……この天地が旅の宿であるのなら、行きかう時やその波の中を泳ぐ我々はただの旅人でしょう。見つからないご友人も、この世界にまだいるのであれば、あなたと同じくどこかを旅しているのかもしれません」
「……そうだな。随分長い間迷っているようだ。……いつか見つかると思うか?」
「いずれ旅路がまた重なる日も来るでしょう。……思い出してみてください。あなたが私に探し人を尋ねてくるのは、もうこれで九回目なのですから。私ですら、九回もあなたとひと時を重ねました。……次はきっと、しばらく時間が空きますね」
 その間に見つけられるといいのですが、と鯨はゆっくりとした口調で言う。いつかの年老いた鹿と同じく、昔黒曜石のように光を放っていた眸は、今や白濁した瑪瑙のようだ。まるで丹恒が考えていることが分かったかのように、鯨は答える。
「もう見えてはおりませんよ。ぼう、っと、暗い中に、光だけが見えています。ですが、何も見えなくとも、あなたのことは姿も形も色もわかるのですよ。覚えていますので」
 そして、あなたもそうでしょう、とにこりと笑った。
 そうか、と頷く丹恒に、鯨はゆっくりとその眸を閉じ、「最期に触れていただけますか?」と一つ願い事をしてきた。それくらいであれば、と快く眸の上を撫でてやると、彼は満足そうにその白い眸を細め、あなたの昼が日差しにあふれ、夜が愛に満ちたものでありますように、と最後に返して、もう二度と、呼びかけても近くまでやってくることはなかった。
 彼を探してくれた幾千万の他の目は、彼を見つける前に光のように過ぎ去ってしまった。その光と同じように、この旅も外に出ればほんの一瞬の出来事なのだろう。彼を探しまわったこの記憶域での約千年に近づく数百年は、そうやって瞬きの間で見た光のようなものとなる。だからこそ諦めきれなかった。その一瞬の間にお前がここに戻ってくるのなら、これ以上目に見えないところに居ることがないのなら、己のすべてを賭しても構わない。
 心が波のように砕けることはなかった。砕けそうになったことはあったが、彼と過ごした確かな記憶が、砕けきる前に心を繋ぎとめてくれたから。だから姿も、その形も、色も、温度も何もかもを、まだ鮮明に思い出せる。
 ただ――もうそろそろ、この長い夜も明けるべきだろう。今が一番暗いなら、光を見つけるにはかえって都合がいいかもしれない。丹恒は光を見ようとする。目を閉じて、暗がりの中から光を探す。目を閉じていても光は見えた。感じられた。変わらずそこに在り続けるものだったから。

 水面の向こうから、また声が聞こえてくる。それは呼び声のようなものではなく、小鳥のさえずりのように小さく、微かな明るい声だった。ざり、っと靴底が石を擦って微かに音を立てる。あら、と声は少し離れたところで止まった。
「――もう、結局、また寝てしまったのね? 穹ってば……」
 ミイラ取りがミイラになって、ミイラ取りに戻ったと思えばまたミイラに、と言葉遊びをするように、小さな声は鼻唄混じりに降ってくる。薄く瞼を開けたその眸に、光が射した。春を見た。「……あら。起こしてしまったかしら」。輪郭を描く前に、瞼を手のひらがそっと伸びてきて、開いた瞼を上から閉じていく。
「あなたもまだ眠ってていいわよ。みんなまだ眠っているから。……こら、邪魔しちゃだめよ」
 その影と共に、数匹の鳥や小動物の気配がそっと傍を離れていく。丹恒さま、おやすみなさい。おやすみなさい、丹恒さま。耳元を擽るようなその小さな声に、丹恒は少しだけ身じろいだ。ぐ、っと少し硬くなった体から息を抜く。身体がぽかぽかと温かいな、とぼんやりとしていると、続けて、すうすうとすぐ近くから寝息が聞こえてくるのに気付いた。ぼう、っとしたままその寝息に耳を傾け、丹恒は光の中に浮かんだ輪郭をもう一度描き直す。数回瞬きをして、漸く微睡の水面からあがることが出来た。
「…………、……――」
 どういう状況だ、これは、と丹恒は少し痺れた腕を動かせないまま、ふかふかのラグの上に横たわる自分たちをどうにか俯瞰して見ようとする。微睡んでいた、ということは眠っていたようなのだが、まだ頭が長い旅に出ていた時の夢から帰ってこない。ああ、そうだ。姿を探しているうちに、こんなところで眠っているのを見つけてしまったから、キュレネに掛けるものでもないかと尋ねに向かい、しばらく彼の傍にいるうちに自分も眠ってしまったのだ。
 漸く合点がいって、丹恒は次に、そっと腕の中の少年を見た。随分安心しきった顔で眠っているものだから、起こす気は元からなかったが、下手に動かすと起こしてしまいそうで、枕にされた腕を動かすことも出来ずに困ってしまった。どうするべきか、と痺れた腕の代わりに枕を探そうとして、丹恒は僅かに上体を起こす。
 少し離れたところに、誰かが持ち込んだクッションが無造作に転がっていた。手では届かないが、と少し迷って、丹恒は自分の別の姿を頭の中に思い浮かべる。手の代わりに伸びた尾の先が、クッションをぽんと上に跳ね上げこちらへ引き寄せる。腕をそっとその枕に変えようとしたところで、ぐ、っと腕を掴まれた。
「……おい」
「…………」
「起きているならそう言え。枕には少し硬いだろう」
「急に高さが変わったから起きた……」
「それはすまなかったな」
 ほら、と丹恒はせっかく彼を起こさないようにと行動を起こした数秒間が無駄になったと分かって、雑にその後頭部に引き寄せたクッションを差し込もうとした。だがいやいやと頭を振り、穹は何故か腕を伸ばしてくる。ごっ、と起こした上体を再び床に無理に戻されて、後頭部に重く音と鈍痛が走った。う、と小さく上げた呻き声に、穹の手が少し緩む。だが彼は謝りもせず、まだ眠いと愚図る子供のように丹恒を抱き込むと、ぶつけた後頭部をさするように撫でてきた。
「何の夢見てたんだ。さっき、寝惚けてたぞ。丹恒」
「……何の、……――強いて言うなら、長い夜の夢だな」
「それ、……俺が聞いてもいいやつ?」
 ただの夢の話だというのに、まるで心にでも触れるような声音で穹が尋ねてくる。いや、実際似たようなものだろう。もうとっくに取り返しのつかないところまで入り込んでいるくせに、こういう時だけお前の心に触れてもいいかと彼は馬鹿正直に尋ねてくるのだ。他に気を遣う所はいくらでもあるだろうに。
 お前は、と言いかけた言葉を丹恒は飲み込んだ。何故か言葉に一瞬詰まった。顔が見たいのに抱きしめられたままだから、穹が今どんな顔をしているのかすらわからない。だが予想は付く。瞼の裏には描けている。
 丹恒は自分が砕ける波とならず、彼の前に再び戻って――彼を見つけられたことを、その随分長い時間のかかった必然を、もう一度噛みしめるようにその体に腕を回した。
 聞かれなくとも、丹恒の中に答えはもう初めから、たった一つしか存在しなかった。たとえ心にだって「触れてもいい」。お前であれば。……お前なら。


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夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過各なり。

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