仕返し



「おい、譲介。久しぶりにデートでもするか?」
「え?」
パートナーからのデートの誘いがあまりにいきなりだったので、いつものホットケーキとベーコンとを焼き終わって、そろそろエプロン紐を解こうかというタイミングで、譲介は片手に持っていたフライ返しをそのまま床に落としそうになった。
「デートだよ、デート。まあ、当日おめぇもオフに出来るならって話だがな。」
小腹が減ったのか、彼は先にホットケーキの彩りのために添えていたオレンジをひと切れ、口に入れた。
その言い方で、同居後にクラウドサービス上で共有していたはずの互いのスケジュールが、ここ数か月、譲介が学会、会議、また学会の日々を続けているうちに、ほどんど更新されなくなってしまったことを思い出した。
せめて、仕事が終わった時間に、その日決まった分のスケジュールだけでも更新するようにしておかなければ、とは思っていたが、一度習慣から外れてしまったルーティンをまた日常に戻すのは難しい。すいません、と譲介が謝ろうとした瞬間、どこから取り出したのか、TETSUは食卓に二枚のチケットを置いた。
目の前に差し出されたそのチケットを見つめて、譲介はホッと胸を撫で下ろした。

『明日、必ず埋め合わせをしますから。』

そんな言葉を、何度口にしただろう。
ベッドに入ってしまえば数秒後に寝入ってしまう譲介のことを、この人は怒ってはいないはずだ。自分勝手にそう思って安心していたけれど、全く怒ってもいないという確信も持てなかったのだ、と今更ながらに気付く。
もし、提案されたこのデートで失点が挽回できるようなら、ぜひそうしたいところだった。
問題は、日程だ。
譲介は今、容易には休暇が取れない過密スケジュールの中で働いている。

――また暫く、譲介君にはキリキリ働いてもらうことになりそうだけど、いいかい?

そんな風に、精力的な顔つきで微笑んでいた朝倉先生の顔を思い出す。
暫くしたら、次はたっぷり一か月、海外での研修が入っているのだ。
譲介はいつもの席に腰かけ、朝倉先生に打診した上で、もし休暇が取れないなら取れないで、この人に誠心誠意謝るだけだ、と差し出されたチケットを手に取った。
而して。
人生における、退屈と言う退屈をなぎ倒して生きて来た人のツキというのは侮れない。
カトラリーが並ぶ焼きたてのホットケーキの皿を前に、譲介は手に取ったチケットを見て目を瞬いた。
日付は、譲介の休日とぴったり合致した。
ただし、そのチケットに書かれていたのは――。
「キングス対クラーケン、ですか?」
こんなものどこから、と譲介が問いかける前に、食堂でもらった、とTETSUは言った。
どうやら、クエイド財団の食堂には、特殊な伝手を持つ患者ないしは職員が大勢いるらしい。
それにしてもプレイオフ進出がほぼ決まっているような地元のアイスホッケーチームのチケットがこの時期に手に入ってしまうとは。
譲介がスポーツに疎いと言っても、長年ここで過ごしていると、それなりに知識は入って来る。入手困難なチケットをどうして、と思ったが、何事も抜け道はある。
それに、以前この人から手渡されたゲッティセンターの予約チケットは、パートナーと行くから二枚くれ、と言って下心満載の相手から両方とももぎ取って来たといういささか複雑な来歴だった。
「一応聞きますけど、これ、ナンパを撃退した結果のあの……いつものアレじゃないですよね。」
アレとは何だ、と自分でも思うけれど、あちこちに顔を出しているこの人がモテていることは事実であり、本人もそのことに無自覚ではない。
「まあ、昨日はおめぇが心配するようなことは何にもなかったぜ。」
昨日は、か。
本来、何ごともないなら入るはずもないその但し書きに、譲介は胸の中で大きなため息を吐いた。
複雑な胸中を悟られないよう「ホンダセンターじゃないんですか?」と唯一覚えているリンクの名を譲介が挙げると「そっちは違うチームのホームなんだとよ。」とTETSUが答える。
そういえば、ロスにNFLのチームが二つあるというのは、大学に通っていた頃に聞いた気がする。
なぜかは分からないが、譲介の観測出来た範囲内では、野球やフットボール、バスケットボールチームよりアイスホッケー選手の贔屓が多かった気がする。部屋着を好きなアイスホッケー選手のユニフォームにしていたのは男女を問わず、好きだった選手がニューヨークのチームにトレードで移籍してしまったと言って泣いていた男がいたくらいだ。
「ここから近くないですよね。」
「サンノゼよりは近いだろうが。……まあ小旅行とでも思えばいいだろ。」というTETSUの声は、心なしか浮ついた雰囲気を醸し出している。
――この人、運転したいんだろうなあ、あの新車を。
不意に頭に浮かんだこの答えが、今回の変則的なデートのお誘いの真実に一番近いような気がした。クリスマスの時期に買ったのハマーの新型車は、休みが明けるたび、ピカピカに磨かれている。
「成績は悪くねえらしいが、親がプレーオフに出られるか気に病んでるガキが、自分が見に行かない試合ならオヤジが勝つんじゃないかと思っちまったらしくてなァ。せっかくホームでの試合だってのに。いい席のチケットがあるからいかがですか、って身重の女に押し付けられちまった。」と言われた。
「僕は、今季はプレーオフ進出がぼちぼち決まっている様子と聞いていますが。」
「そうなのか? まあ妊婦になっちまった母親をあちこち連れ回すのが心苦しくなった子どもが気を回したのかもしれねえな……どっかで聞いたような話じゃあるが。」と言いながら、TETSUは譲介の焼いたホットケーキにナイフを入れて食べ始めた。
「どっかで、って、」
どこで聞いた話なんですか、とそこまで言いかけてから、譲介はホットケーキの山から流れ落ちる、半分溶けたバターを眺めた。
鼻先に漂うその匂いに、すっかり忘れそうになっていた空腹の感覚が戻って来る。
年上の人に倣い、食べながら話を聞くことにして、譲介はフォークとナイフを取った。
「向こうにいるとき、野球好きなヤツで似たようなことを言うのがいたんだよ。」と彼が言うので、譲介は、黄色と黒の縞模様の名刺を、坊ちゃんどうぞ、とその場にいた医者見習いにも差し出してきた押し出しの強い男の顔を思い出した。
「まあ、手術や治療以外のことは、仕事が一区切りになりゃ、必要なことだけをカルテに残して忘れることにはしてるが。」
TETSUが、あの頃の『ドクター』の顔でおめぇもそうしてるだろうな、と言いたいような目付きでこちらを見たので、譲介は無言で笑い返す。
「まぁ、筋金入りの馬鹿ってのは洋の東西を問わないってことだ。」
譲介は、かつての顧客の思い出に苦笑し、その口元を緩めたまま、自分のプレートに乗っているホットケーキの上に、買って来たばかりのメープルシロップを逆さにして掛けている人の顔を眺めた。
ハンバーガーショップなんかでよく見る光景だ。
ケチャップが足りないというのは目の前の料理に満足してない証だ。作った譲介としては、流石に少し面白くない。
「徹郎さん、それシロップ掛けすぎですよ。」
「羨ましいなら、おめぇも好きに掛けたらどうだよ?」と言われて、譲介は(僕が気にしてるのはそういう話じゃないです。)と言う反論を飲み込んだ。その隙に、TETSUは手を伸ばして、シロップの入った容器を逆さに持ったまま、譲介のプレートのホットケーキにもたっぷりと回し掛けた。当然ながら、テーブルの向かい側からサーブされたシロップは、ホットケーキの的には上手く命中しない。
「ちょっと、徹郎さん!」
「おめぇはもう少し太っとけ。」とTETSUはどこ吹く風だ。
シロップをテーブルの元あった場所に戻すと、彼は、こちらのプレートの端に付いた分を、腕を伸ばして指で掬った。
「舐めろ、」と言う権高な口調。
王様か女王かという風格を持つパートナーに射すくめるような視線を投げかけられて、譲介は、彼の意図に気付いた。
もしかしてこれ、仕返しされてるな?
差し出された指を吸い上げてしゃぶる、という行為は、基本的には身体を重ねる前の前戯で、ベッドの外で行われることはほとんどない。
「例の研修がまた長くなるようなら、朝倉に文句を付けて、もう一日別の休みをもぎ取って来い。チケットならまだある。」と言われるに至って、遅まきながら、今はもうチェシャ猫のようにニヤニヤしている彼が、こちらのこの先の予定をすっかり把握していることに、譲介は気付いた。
道理で、タイミングのいい日のデートを提案されたはずだ。
「あなた、知ってて――。」と言わずもがなのことを口にしようとすると、彼は「研修先でオレみてえな年の教官がいても惚れるなよ。」と笑っている。
「オレの指がお気に召さないってんなら、こっちを食えよ。」
薄く開いた唇から赤い舌先を出して、濡れる指先をねろりと舐めたその人は、こちらの顔がぱっと赤らむのを楽し気に観察してから、カトラリーを手に、シロップが掛かったベーコンを薄いパンケーキに包んで、譲介に差し出した。
まったく!
僕が愛してるのは、あなただけですし、どうせ後で両方食べます。
いつものようにそう言葉で伝える代わりに大口を開け、譲介は、可愛い人からの甘ったるいプレゼントを口いっぱいに頬張り、ごくりと飲み込んだ。

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