エスプレッソマシン



「数学……数学って何なの?」
教科書を開いて練習問題を解いていた宮坂が、ああもう、と小さくわめいてテーブルの上に突っ伏した。
試験勉強をしていると、煮詰まりすぎた宮坂が一番先に爆発する。
大抵は、一也が用を足しに行ったタイミングでこういう地金が出る。
その裁縫の腕があるなら、趣味を生かして医学部に行けばいいじゃないか、とかなり手前勝手な理由でこの先の進路を捻じ曲げさせたメフィストフェレスには、何を言っても構わない。裁縫好きで礼儀正しい趣味人の宮坂にもそういう面があるらしい。
テツが中学の卒業祝いに持たせてくれた小さく薄いスマートフォンをタップしてグーグルのページを立ち上げ、数学で検索を掛けると答えが返って来る。
新しいものがそこにあるなら譲介に与えてやらねばと思ってしまうのがテツという男の弱点なのだ。
ネットに頼り過ぎると馬鹿になるぞ、と釘を差されてはいるけれど、そんな言葉一つで言い聞かせることが出来なくなるのが十代の子どもというものだ。
「数や図形を研究する学問の総称。」
平板なその言葉に、がば、と音がする勢いで宮坂が顔を上げてこちらを見た。
「研究?」
「そもそも、ゼロの概念を見出したのはインド人だ。数学はそこから始まった。」
らしい、とか思う、とかそういう言葉を排したのがハッタリの使い方だ、と譲介の保護者は言う。
多少自信がなかろうが、言い切ってりゃそのうち箔が付いてくる、と言うけれど、こっちからすれば、四十も半ばを過ぎて、あの人は一体、僕を何と戦わせるつもりなのかと思う。
世間の荒波?
僕がストレートで入試を突破したとしても、医学部を卒業するまでにまだ十年はある。
受験戦争?
そのハッタリで国家試験まで乗り切ることが出来ればきっと人生は楽勝だろう。
親のいない高校生の人生と言うのは、好戦的な保護者に乗せられるほど単純でもないのだ。
それに、テツが与えてくれた生活によって作り上げられた今の自分が気に入っていた。
「今すぐタイムマシンに乗ってそいつの頭に石を落としにいけないかしら。」
宮坂は、ため息を吐きながら、切り揃えられた前髪を持ち上げている。
「物騒なことをしに行くなら、ちゃんとあいつを連れて行けよ。」と言うと、いーと言って舌を出して来た。
出会って半年と少し。定規を引いたように切られた尼削ぎのような前髪は、見る度にきっちりとしていて、親が毎月自分の子どもに美容院へ行くようにと金を渡していることの証でもある。その上、この時代、男に見初められるという理由があるわけでもなしに、裁縫が趣味と公言している女の一徹さは、大和撫子の卵というよりは、侍か剣士と言った風情だ。
生真面目な親に、目を掛けて育てられたのだろう。一也もそうだ。
偏差値が高い学校に進んで面食らったのは、これまでの人生では縁がなかったような相手と、自分がこうして屈託ない調子で話せるようになったことだった。
「私と黒須君がインドに行っちゃったら、その間に和久井君はどうしてるつもり?」
「お前たちが破天荒な冒険に満足して戻ってくるのを、コーヒーを淹れてここで待ってるよ。」
何しろ、この人生のほとんどを、誰かを待って過ごしてきたのだ。
免許皆伝だ、とあの保護者なら言うだろう。
待つことには慣れている。
「あ、今日コーヒーなんだ。ということは、おやつはケーキ?」
宮坂詩織は、こちらのしんみりした気分をぶち壊すことに掛けては折り紙付きの女だった。まあ、だからこうして付き合ってもいられるんだけど。
「……鼻が利くな、宮坂。」
「ちょっとお!」
人を犬みたいに言わないでください、と宮坂は不機嫌なときの口調で言った。
「集中力が切れたか?」と時計を見て指摘すると、そういう切り返しは予想してなかったのか、困ったような顔になった。
「そうみたい。そろそろ英語に切り替えようかしら。」
「まあ、休憩を入れてもいいだろ。」とキッチンスペースへ行って直火式のエスプレッソマシンに粉と水を入れたところで、一也が戻って来た。
「あ、譲介、悪いな。」
手伝うよ、と言って一也は勝手に隣に寄って来て、棚を開けて、コーヒーならいつものティーセットじゃない方がいいか、と言っている。
宮坂に対する態度は煮え切らない上に、自分から動くことは滅多にない。そのくせ、こういう時は妙に素早い。明らかに「家事を主体的に行う誰か」を手伝うことに慣れている様子だ。
こいつからは、親の話より、お手伝いさんらしい人の話しか聞いたことがないけれど。
じい、と譲介が見ていると、視線に気づいた一也は瞬きした。
「………何だよ? 頭に何か付いてる?」
「いや、うん、まあティーセットでもいいだろ。エスプレッソだから量は多くない。」
冷蔵庫の扉を開け、急に帰宅したテツの目からも隠せるようにと、野菜室のそのまた奥に入れておいた、二本のパウンドケーキを取り出した。
今日もどうせ、欠食児童のような客がふたり来るのは分かり切っていたので、朝の時間がある間にナイフで切っておいたのだ。
私も手伝う、と言って、英語のテキストを広げていた宮坂が席を立ってキッチンスペースにやって来た。一番範囲が進んでないやつが出て来てどうする、と思ったが、まあ腹が減っては戦は出来ぬという話でもある。
手を洗って盛り付けを始めると、「これ何? ハムとチーズ?」と横から顔を出して来た一也が言った。
「ケークサレ風。こっちはいつものにココアを入れたやつ。卵抜き。」
「う~、いつもながらありがたいわ。」
宮坂は、涙を流さんばかりになって、和久井君、様、と適当に敬称を変えている。
他人の僕からすれば大概オーバーリアクションだとは思うが、いつかの雑談で「アレルギーが卵ならまだマシなのよ。色んな製品にちゃんと記載があるから。」などと親の受け売りのような言葉を話していたことから、食にまつわるどんな苦労があったのか、少しくらいは想像が付く。外では、買い食いが難しいと曇らせた顔を無理やり笑顔に戻す宮坂のリアクションには、譲介自身にも、身に覚えがあった。
「『殿、つまらないものですがお召し上がりください。』」と皿に盛りつけたパウンドケーキを両手で捧げ持って差しだすと、「『うむ、苦しゅうない。』」と唇を引き結んだ宮坂から返事があった。
いつもの茶番だ。
「オレも食べたい!」という一也は、順番だ、と言っていなす。
「宮坂は貴重な試食係だからな。おかわりもあるから沢山食べるように。」と小芝居をやっている間に湯が沸いた。
テレビでやっている昼の再放送でこうした言葉遣いの時代劇を見ていたのは、テツに大人しく九九を覚えるようにと言われていた十歳の頃だった。あの頃の僕は、ただ勉強を頭に詰め込むのに手いっぱいで、こういう遊びが出来る友人を自分が欲しがっていると思ったこともなかった。
「一也、お前も先に食べてていいぞ。」と言うと、エスプレッソマシンがいつもの音を立て始めた。
こんな風に菓子を作るのと並行して、コーヒーの淹れ方も多少は研究したけれど、同じ探求でも、あちらは旨い不味いの境目が曖昧過ぎる。最終的には、蒸らし時間を取るのと、コーヒーの粉をケチらないというのでそれなりの味になることが分かっただけで十分だ。
とにかく、受験勉強に精を出す学生に飲ませるコーヒーにしろ仕事漬けの医者に出すコーヒーにしろ、濃すぎて困ることはない。
二、三人分の量はこれくらいだ、と言われている粉の量に、半匙からひと匙くらい多く入れて、浸すくらいの少量の熱湯で粉を少し蒸らしてから、残りの湯を注ぐ。それだけの工程に万単位のお金を掛けて器具を揃える必要もないが、今使ってるマシンは便利だった。
粉を入れて火にかけるだけで美味しいコーヒーが出来るのだ、人間の手伝いは必要ない。
「客らしくしてろって。」
「何言ってんだよ、譲介。普通は料理を作る人間がお殿様なんだぞ。コーヒーはぼくが淹れるから。……っあっち!」
「一也、おい………。」
お前って本当は馬鹿なのか、という言葉は、それなりに親しく付き合っている相手に対しては使いたくないので、早く水で冷やせ、と流しの蛇口を指さす。
「……無念でござる……。」と言いながら一也はケーキの方を見ている。
正しくは、ケーキを頬張っている宮坂の方を見ているのだが、本人がその熱視線に気づいた様子はない。
「お前はいいんだよ、そういうのは。」
似合ってないぜ、と言うと一也は、心外だ、という顔をしてこちらを見た。
「オレも早く譲介の作ったケーキが食べたい。」よろしくお願いします、と差し出された皿は、テツのためにワンプレート焼き魚ランチを作るべく買ったばかりの、直径二十五センチの平らな丸皿だった。
ちなみに、未使用。
自分の胃袋にどれだけの量が入るのかを熟知した一也の、一種託宣めいた絶妙なセレクトに笑いそうになる。
「お前は何食っても旨いとしか言わないからなァ。」と言いながら、一也の皿には、実験的に、ふたつずつジェンガのように縦に乗せてみる。
切り口と見た目は、チーズの白とハムのピンクがあるので、割と上出来に見えるが、ココアの色の取り合わせはいまいちだ。
……この組み合わせは止めておこう。
ケーキも、普通に横に寝かせて、少しづつずらしてみる。
これ、ジャムを買って来てフランス料理風の盛り付けにすると楽しい気がするな、と考えていると、おめぇは料理するより勉強してろ、と角を出したテツの顔が思い浮かんだ。
そうは言っても、テツのいない部屋でひとりで点滴や採血の練習してても虚しいだけだ。
その点、料理は楽だった。
自分でコントロール出来る範囲での成功があり、一緒に食べる人間さえいれば、時には失敗ですら楽しいと思える。
つらつらと不在がちの保護者のことを考えていると「いや、だって譲介の作るもの、本当に何でも旨いんだからな。」と一也がぼやく言葉が聞こえてきた。
まあそうだ、最終的にテツの口に合うものを作るのが目的だと言っても、途中の手抜きは僕の流儀に反する。
「それにしたって、人を褒めるときにそういう声を出すなよ。」
「そうよ黒須君。ちゃんと和久井君を褒めておかないと、私たち、明日から美味しいおやつが食べられなくなっちゃうわよ。」
多少は不安定が改善したケーキの皿を一也に差し出して「落としたら、今月のおやつは今日が最後になるぞ。」宮坂の脅しに乗っかる形で一也に告げてから、カトラリー入れから二本目のフォークを探す。
「譲介、オレに厳しくないか?」

――譲介、おめぇはいいんだよ、男だから。

まただ。ここにはいない人の声。

「まあいいだろ、ほら、フォーク。」
最終的には、二切のケーキを盛りつけた横に生クリームを付ける予定だ。
闇医者が太っちゃ格好が付かねえだろうが、とテツはぼやくが、僕の知ったこっちゃない。
テツが先週この部屋に戻ってきた時に、向かい合わせでデニッシュを食べて、淹れたばかりのエスプレッソを一緒に飲んだ。
外の明るい景色を眺めながら、頭っからつま先まで、おめぇは必要なものは必要と言うが、何が欲しいとは言わねえからなァ、というぼやきと共に、だからあれは、オレの人生で三番目に真っ当な買い物だ、というテツの言葉を、今は宮坂のいる席に座って、ぼんやりと聞いていた。
ちなみに、一番目はあのハマーで、二番目はこのマンション。
今の僕には逆立ちしても手の届かない値段のこのエスプレッソマシンでも、笑えることに一番安い。その上、僕がまた孤児になった時に備えて、昔住んでいた家の近くにある、引き取り手のない子どもを預かっている施設に、今でも寄付を続けているらしい。テツは、僕の知ってる中では、一番に馬鹿な大人だった。
馬鹿で大事な人に、この先もずっと厄介になっていきたいとは言えないし、言いたくないから、発散のために料理を作るのだ。
「うわ、いい匂い。」と宮坂の明るい声が部屋に響く。
「宮坂、味はどうだった?」とふたり分のエスプレッソを、宮坂と一也の順番に差し出す。
自分の分は、適当に。
皿に盛りつけるのも面倒なのでティーソーサーの上に端切れの部分を乗せて手を洗ってから食べる。焼きが甘くて、表面はあまり美味しそうに思えなかったけれど、それほどダメでもない。
カットボードの上に残ったケーキは、あと八切。
一也の腹具合で残るか残らないかが別れる微妙なところだった。
まあ、多少は残ったとしても、宮坂が夜食に食べる分の手土産に持たせてもいいかもしれない。
この家では、基本的にはレディファーストだ。
そういうのが、大抵の相手にゃ、箒を逆さにしとくよりはよっぽど効き目があるぜ、とテツは言うけど、どれほど帰りが早くったって頻繁に通ってきたら意味がない気がする。
多分、どっちかと言うとこれまでのテツにはそういう縁がなかったんだろう。
「ケークサレの方は、優しい味だった。私は好きだけど、ココアケーキが甘いから、人によっては物足りないかも。」
なるほどな、と思う。
確かに、一切れ食べても味が弱い。
チーズの種類を変えてみるか。
「ねえ、和久井君。」
「何だよ。」
「しょっぱい系のおやつって、あんまり作らないよね。」と宮坂が言った。
「いや、この間も作っただろ、クロックムッシュ。」
やっと自分の分のエスプレッソを味見した。
そういえば、いつもざっと洗って終わりにしているから、今日あたりは、テツが帰って来る前にマシンをちゃんと掃除をしておこうかと思う。
「あ、そうだったわね。ご馳走さま。」
ココアの方も食べてみる。こっちはいつもの味だ。一晩寝かせたので味が馴染んでいる気がする。
「譲介、あれ、また作らないのか。」
美味しかったのに、とケークサレを頬張りながら一也が言う。
「ベシャメルソースが面倒だし、あったかくないと美味しさが半減するだろ。」
「ふうん。」
「あの人、時々、暖めて食べるのも面倒くさがるから、冷めても旨いと思える料理じゃないとダメなんだよ。」
もう一切れ食べるか、と思ってカットボードの上を見ると、気のせいか、ココアの方が一切れ減っている気がする。
「それでお菓子なんだ。」
なるほどねと宮坂は言って、顔を上げてから目を丸くした。
「試食も済んだから後は本番だな。まあ、いつ帰ってくるのか分からない人だけど。」
「そりゃ楽しみだな。」と声が聞こえた。
声に反応して恐る恐る振り返ってみると、そこにはテツが居た。
「…………は?」
「は、って何だ、おめぇは。ご挨拶だな。」
時折譲介の夢に出て来る薄着のテツではなく、白のコートを羽織った完全体だ。
久しぶりに会った保護者におかえりなさいの一言もナシか、と笑いながら、テツはケーキを食べている。一口が大きいから、すっかりハムスターの頬袋だ。
「うめえな、これ。」
残ってんのも食っていいか、とテツが話しかけて来る。
「なんでですか。」
目の前にマイクがあったらハウリングを起こすような声量で叫びたいような気分になったけれど、同席の友人がいるシチュエーションというのは、まったく具合が悪い。
「仕事が終わったからに決まってんだろうが。………ったく、ダチが来てるなら先に言えってんだ。」
すっかり一切れを食べてしまって、ぺろりと指を舐めている。
…………最悪だ。
テツが家に帰って来たこと自体は常に喜ばしいことではあるけれど、つまり人生っていうのは、僕にとって都合が悪い事態の集合体であるってことには変わりはないということだろう。
今、この瞬間、テツの中身がハムスターになったと言われたら、生まれてから一度も信じてもいないし、祈ったこともない神様ってやつに感謝をしてもいい。
そんな旨い話は世界のどこにも転がってないと分かっているけれど。
「宮坂詩織です。譲介君にはいつも世話になってます。」
「黒須です。あの、勝手にお邪魔してすいません。」
これまで寛いでいたふたりが、急に現れた、しかも立派な保護者然としてるでもないテツにしゃちほこばって挨拶している様子をバツの悪い気分のまま眺めた。
まあ、緊張はするだろう、テツはぱっと見ただけならかなりの迫力がある。
「気にすんな、ここんとこはオレも世話になりっぱなしだ。譲介の作るもんは、まあまあ食えるだろ。」とテツは僕に親指を向けた。
おい、どっちがおめぇの本命だ、と耳打ちされる。
「テ ツ !!!」
僕を引き取って以来、面白くない冗談は控えているらしいけれど、こういうタイミングで飛び出すから油断できない。
「……いえ、あの、僕たち、譲介君には、いつも美味しい料理をご馳走になってます。」
一也の一言は、最早何のフォローにもなっていない。テツは一也の顔を見て、ふと眉を上げたように思えた。
「愛想がねえのが玉に瑕だが、仲良くしてやってくれ。」
「食べる分は残しておくから、先にシャワーでも浴びて来たらどうです?」
さあ、あっちへ行ってくださいと今の全力で身体を押しても、腹立たしいことにびくともしない。
あ~うるせえうるせえ、と言いながら風呂場の方に消えていくテツの背中を見て、ため息を吐いた。
「和久井くん、……今の人が例の「あの人」なのね。」と宮坂が言った。
「そうだよ。」
学校で被っていた猫の皮が、身内を前に剥がれるところはこの二人には見られたくはなかったけれど、もう仕方がない。
本人にしてみれば、今のでも多分、普段他人に接する時よりは若干のフレンドリーさを演じてるつもりなのだろうけれど、初対面の宮坂は完全に気圧されていた。
「オレ、どこかであの人を見たことがある気がする。」
「……目立つ髪型してるからなあ。」
「いや、そういうのでもなくて。……どこだったかな。」
思い出したら言うよ、と一也が言うなり、奥から洗濯機を回す音が聞こえて来た。
テツの部屋と脱衣所の動線は、玄関からの延長線上にある。
さて、問題です。宮坂は自宅で中年男性の半裸を見慣れているかどうか。
いや、家族の半裸だって、今時はただのセクハラだ。
「勉強会、今日はお開きにしよっか? それとも、駅前の喫茶店で続きをする?」
絶妙なタイミングで発せられた宮坂の発言に、とっさに一也の方を見てしまった。
一也はともかく、宮坂はもう帰った方がいいと思う、と口に出せれば話は早いが、なぜと訊かれて正直に話せるような内容でもない。
箱入り育ちの宮坂に、指の間からテツの竿を見るくらいの余裕があればいいけど。そうでなければ、真っ赤になって逃げるか、青筋を立てた宮坂が蒸気機関車さながらに沸騰した顔つきで帰るところに一也が付き合う羽目になる。
そもそも、テツの風呂上がりは見せ物じゃないのだ。本人のポカによる不可抗力でなければ、どうあっても他人には見せたくないし、見たいと言う奇特な人間がいたら、僕はそいつの尻を蹴っ飛ばしに行くだろう。
「まあ、明日もあるから、今日は退散した方がいいんじゃないかな。譲介もフォローがあると思うし。」
家族団らんだよ、と苦しい言い訳をしている。
また明日な、と言って玄関まで見送りをすると、玄関の扉を閉めてチェーンを掛けたところで、あいつら帰ったか、と湯上りのテツが顔を出した。
片手には、水のボトルを持っている。
一応はノースリーブの下にトランクスを履いているのでほっとした。
「勉強会でもしてたか?」
「ええ。」といつもの猫を被ると、口調がいつもの猫っかぶり坊やに戻ったな、という顔でニヤニヤしている。クソっ。
「おめぇがどんなダチを選ぶのかと思ったら、なかなか育ちの良さそうな坊ちゃん譲ちゃんじゃねえか。」
「二人とも医学部志望だから。」
正確に言えば、僕が宮坂を医学部志望に引き込んで、その後で同じクラスの一也が付いて来たのだ。
「おめぇがそういう理由でダチを選ぶようなタマかよ。あの二人に、おめぇがピンと来る何かがあんだろ。」
人間が、らしくねえことをするには理由があるんだよ、と言って、湯上りのテツはミネラルウォーターのボトルを傾けた。
確かに不思議だった。この部屋のキッチンは長い間、僕だけの城のようなものだったけれど、あの二人がいてもそれほど気にはならない。
テツのことが一番大事だ、という気持ちは、全然変わらないのに。
「あの、ついでにエスプレッソも飲みます?」
「おう。」と返事が返って来る。
多めに入れておいて良かった。
一也には見せずにいた、二客だけの小さなデミタスカップを、普段は使わない上の棚からそっと取り出す。
「後で、夕飯の魚を買ってきます。」と言いながら、エスプレッソマシン本来の量を分けていれると、中身は丁度なくなった。
「いや、ケーキも食ったし、暫くは持つだろ。せっかくだし、おめぇの勉強がキリのいいところで、外にでも食べに行くか?」と水を飲み干したテツは言った。
長い不在の後でここに戻って来たテツは、必ず僕に聞いてくる。
それが、僕にとっての一番の褒美になると、今でも思っているのだ。
だけど、テツの財布から出るお金で報われることをただ嬉しく感じる子ども時代はそろそろ卒業しなきゃならない。
「買い物はその後でもいいだろ。」というテツに、どうぞ、と小さなカップを差し出す。
彼の手には小さすぎるデミタスカップは、今の僕にも小さく感じられる。
「冷蔵庫に、昨日のカレーがあるんですけど。」
「――またカレーか。おめぇはいつもそればかりだな。」とテツは小さく笑っている。
「二日目の方が美味しいですよ。」と僕も笑った。デミタスカップの中の二杯目のエスプレッソは、さっき飲んだよりも少しだけ苦く感じられる。
「あ、風邪引く前にちゃんと上に何か着てください。」
不在の間にもソファの背にかけっぱなしにしておいたシャツを、はい、と言って手渡すと、テツはうるせえガキに育っちまったもんだ、と呟いて素直にそれを羽織った。
「そういえば、エスプレッソマシンを洗っておこうと思ってたんだ。」
そうやって、不自然に僕が顔を逸らした理由を、鈍感なテツはまだ気づかないでいる。
いつまで隠し通せるだろう、とため息を吐きたい気分で、腕まくりをすると、ふわあ、と大きな欠伸の音が聞こえてきた。
「テツ、食べ終わるまで寝ないでよ。」と言うと、分かった分かった、と言ういつもの適当な返事が、静かな風のように僕の耳をくすぐっていった。


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