恒久のたわむれ - 空P

 風のさざめく空の下、ピッコロは日々の務めともいえる瞑想に耽り、広く宇宙全体と己の内に意識を巡らせて今日を過ごしていたときだった。ひゅん、と遠く大気が鳴り、地球上でいちばんというほどに強い気を収めた気配が高速で移動しているのを知覚して、ピッコロは鼻を鳴らした。
 戦闘民族のように平時から戦いを求める気性でもないが、常に修行と鍛錬を繰り返しその拳の真価を己の内だけで計るには飽き始めた頃合い。孫悟空はいつもそうした安穏が飽和した時機にピッコロのもとを訪れては、たわむれのように手合わせをしかけにきた。
「よお、ピッコロ。相変わらずだなあオメエは、そんなに瞑想ばっかしてると岩ンなっちまうぞ」
「貴様こそ相変わらずだ、孫。……口のよこにメシつぶがついたままだ」
「アレッ、ほんとか? どのへんだ?」
 多少予定違いはあったとしても、交わす言葉は大抵同じで、挨拶もそこそこにお互いが気を高め次の瞬間には拳を繰りだし相手を打ち合う。
「また違う動きを覚えてきたな」
「へっへー、今日オラちょっと試したいことが、あってよッ」
「前回もそう言って滝つぼに叩き落とされたこと、忘れちゃいないだろうな!」
 瞬間的な加速で距離を詰め、わずかな隙を刺すように蹴りを繰りだし、防がれた一瞬に突かれる拳を肘で受ける。高速移動に抜き差しならないつかの間にも互いをよく謀り次の一撃を受け合う。息もつかせぬ連続した体技のぶつかり合いに、傍からは視認に及ばず、上空を通りかかった翼竜の群れは宙に響く激しい打撃音にさっさと行く先を変えて二人から離れていく。
 致命傷とまではいかずとも、それぞれが重たく急所を狙う打撃にはそれなりに気合を入れた防御とカウンターが要される。だがすでに旧知といえる二人の間には、それらにも心地よい緊張感を共有していた。痛めつけるわけではない、互いで互いを試しながら一定のダウンを狙い合う、一種のコミュニケーションで──一線を超えない常人には到底理解し得ぬ──じゃれあいだった。

 仲介するものがあれば、あるいは背をつくか膝をつくか急所を決めるか、それでようやく終わりを見せる手合わせは、しかし今日は別の邪魔が二人の間に割って入った。
「む」
「……あり?」
 ──ぽつり、と悟空の鼻先に雨粒がひとつ落ち、ピッコロの突き出した腕にもぽつぽつと雫が触れる。雨の気配を二人が察したときにはすでに遅く、暗雲垂れこめる空からはバケツをひっくり返したような大雨が二人を襲った。
「ひえーっ、こりゃやべえ! ピッコロ、あそこに逃げるぞ!」
「チッ、すっかり夢中になっていたな……」
 一瞬で濡れねずみとなった二人は、駆けていた宙からすぐ下、山野の片隅にある蕗の林へと飛び込んだ。
 ゆうに六メートルはある葉柄の上、傘のように広がる葉から時折雨粒がたまって落ちる場所を避けて腰をおろし、悟空は道着の上衣を脱ぎ絞って、ピッコロはさっさと気でもって着衣を替える。
「あーあ、せっかくあとちょっとでピッコロを倒せそうだったのによ」
「ほざけ、数発腹にお見舞いしてやったのをもうなかったことにする気か」
「ちげえって、本当だよ オラの勘じゃあもうちょっとで、ってとこだったんだ」
「言ってろ」
「ちぇ」
 雨はざあざあと音を立てて降り、すっかり二人と世界とを隔てる檻を作ってしまった。ピッコロも、あと数刻は楽しめるかと思っていた時間を急に切り上げさせられ、興を削がれてしまったのは悟空と同じだった。よくよく周囲を見てみれば、巣穴に逃げ込む間もなかったのか四足獣や翼を持たない鳥たちが自分たちと同じように蕗の葉の下、身を寄せ合い雨宿りをしている。
 雲は厚く、葉の隙間から見える空は雨に煙っているが随分先まで暗く覆われてしまっているらしい。ピッコロは腕を組んで寝そべり呆と灰色の空を眺める悟空に、言うか言うかまいか悩んで、意を決して口を開いた。「帰らないのか」と。それは言外に、お前は勝手次第で帰ることができるだろうと告げた。
「ん~、そうなんだけどよ。この後なんかすることもとくにねえし」
 悟天はトランクスと出かけてチチもブルマんとこで茶してくるってよ、と悟空は続けた。さては暇つぶしに手合わせに来たな? と推察したピッコロだったが、その暇つぶしは己にとっても同義であると思いいたり指摘することはなかった。

「それよりオラ眠くなってきたな……よっく動いたからかな」
「そうか、好きにしろ」
 むにゃ、とした視線がピッコロを向き、一方でピッコロは早々と頭を瞑想へと切り替えた。短い時間の“暇つぶし”だったとはいえ、己よりも実力のある戦士との戦いから得る糧は大きい。
 だが隣からグイとマントを引っ張る手に、少しだけ宙に浮かせていたピッコロのからだは簡単に傾いて膝を湿った土に埋めた。
「おい、」
「ピッコロ、その布っきれ貸してくれよ」
「布っきれ……何故だ」
「なんか寒くてよお」
「そんな繊細なたちじゃないだろう、貴様」
「おめえオラのことなんだと思ってんだ」
「ぐっ、引っ張るのをやめ……だぁッ!」
 ぐい、と一層強く引かれたマントにいよいよバランスを崩し、ピッコロは地面に手をついた。下敷きにしかけた悟空の顔を押しつぶしてしまえばよかったと思ったのは、間近でしまったと目を見開きながら「へへ、」と笑う顔を見てからだった。
「悪い悪い」
「ハァ……まったく」
 ちょん、とピッコロの頭の裏に落ちた雨粒は重力に従って肌理を伝い、顎から悟空の頬に垂れる。その様を何とはなしに眺め、ピッコロは重心を寄せたのとは反対の手でそれを拭った。闘気を収めたあとの全身からも、触れればわかるほどに溌剌としたエネルギーが発露し続けている。濡れた指先からじわりと伝わるしびれは、ピッコロの思考をゆるく麻痺させるほど、苛烈だった。
「……お前と一つになれば、オレは最強になれるだろうか」
 言ってから、は、と我を取り戻しても遅く。きょとんと鼻をつままれたような顔がピッコロを注視していた。

 戯れだった。
 ふと、思考の海にはなから答えの出ない仮定が顔を覗かせて、取りとめのなくそのまま捨て置く、名前もないような思考の戯れ。いつだったかひょっこりと生まれたそれは、以来幾度となく捨て置いたはずなのに糸くずのように絡まってずっとピッコロの記憶の片隅にいた。それが今ふと解けて、開くはずもなかった口から溢れ出てしまった、そうしてすっかり悟空のもとに届いてしまったのだ。戯れだったのに、いつからか万に一つも叶うことはない、夢のような存在になってしまっていた。
 実力はとうに抜かれている、追いつこうにも種の限界がピッコロには差し迫り、悟空は遥か上を飛び続け宇宙を駆けていく。最強の冠をつねに手中に戦い続ける悟空をピッコロは羨ましくも誇らしく、そしてこうした手合わせの瞬間には僥倖に思い、同時に隠された加減の力量に薄ら昏い嫉妬を抱いた。己の実力を、わきまえを知らないわけではない。それでも悟空の纏う可能性の輝きを追う視線には、憧憬がつきまとった。
 きっと始まりは、はじめからだ。ピッコロは悟空を通して世界の朝を知った。度重ねて見え方の変わったこの世は、はじめに生きていた頃よりもずっと広くなった。広がりは常に悟空を通して、天へ地へ、鳥が渡っていくようだった。同じように、きっとあらゆる世界から悟空の存在が失せた時また、ピッコロはこの世の夜を知る。始まりこそ違う朝だったが、それならば共に夜を迎えるのも悪くないとすら思う。
 戯れは、そんな夢の成れの果てだった。

「一つに、って……あ、神様みてえにか」
「チッ……ああ、そうだ」
 悔いても仕様がない、とマントを引いて足を組み直しながら、いつまでも落ち着かない尻は結局地に落ち着けた。ピッコロは揺れ動きそうになる耳に力を入れ、耐えるかのごとく歯を食いしばって悟空の応えを待つ。
 ピッコロの緊張を知ってか知らずか、悟空が口を開いたのはようやく弱まりはじめた雨に獣たちが散り始めた頃だった。
「そりゃお前と融合? したら、むちゃくちゃ強くなると思うけどよ」
 聡い耳が逆接の語尾を聞き取り、ピッコロはわずかに身構えた、が、次いで耳に入ったのはなんら言葉というものではなく大きな大きなあくびの音だった。がくん、と構えた全身から力が抜け落ちる。
「ッおい、何もそこまで真剣に考えんでも、」
「うん、わざわざ一人になるこたねえんじゃねえかな」
 眠たいしゃべりで紡がれた言葉に、ピッコロは二の句を噤む。ほとんど半分になった目がうっそりと持ち上がって、ピッコロを射貫いた。いつもの意思強い眼光ではなく、からかうような視線でもなく、目の前のピッコロただひとりを捕らえる視線で見とめ、悟空はやわく口角を持ち上げる。
「オレはお前が隣で戦ってくれてた方が心強いや」
「……そうだな。……お前はそういうやつだ」
 はくしゅんっ──隣から吹きこぼれたくしゃみにピッコロが第二指を真っ直ぐに持ち上げ、榛色のブランケットがひとつ、悟空を覆ってかぶさった。既に寝入った悟空は縮こまって丸まっていた体をふとやわらげ、間もなく寝息を立て始める。

 山野にはさわさわと静かな喧騒が続いている。
 細雨が傍らの安眠を包むブランケットに露の珠を作るのを、ピッコロは時折払っては空の気色をうかがった。雨はまだ当分降りやみそうにはないが、雲は密度を下げ向こう側に昼日向が明るく透けている。ふと、榛の端にほつれた糸くずを目につけ、黒い爪がそれをつまみ、風がさらっていった。数寸先を通りがかった鹿の親子だけが、その様子を眺めていた。




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