ぬるく、ゆるく - デプ/ウル

 階段を上がる足音を耳が聞くよりも早く、鼻先に触れたにおいでマグカップを予定よりも一つ多く用意する。ドアをノックされる前に鍵を開け、ドアノブを引くと空気がかき回されて外のにおいが顔を扇いだ。
「、お前」
「テキスト、見てない? 何も聞くなって送ったんだけど」
「何があった」
「OK、見てないのね」
 足早にドアをくぐって脇を通りすぎたウェイドから、かすかな鉄錆と泥のにおいがただよう。いつも通り目深にかぶったフードでは全容はわからなかったが、わずかに見えた口元には確かに血の跡があった。
「誰にやられた」
 キッチンで湧いた湯の火を止めるウェイドの背中に声をかけても明確な答えはなく、代わりに「ブラック? ラテ? 俺いまラテの気分」とずさんな語調でマグカップを覗き込んでいる。
「ウェイド」フードに伸ばした手は、目に留められることもなく掴まれた。振り払うようにしてキッチンを抜け出して、ソファへと身を投げて沈みこむ。ぼすん、と無理やり空気を吐き出されたソファから埃が噴き出し、窓からわずかに入り込む陽に反射した。
「大したことじゃない。触れられたくない話題だって、この態度見てわかんない?」
「触れられたくなくて俺のところにくるのか」
「ちょっと会わないうちに性格悪くなった?」
「十日ぶりで寂しかったか」
 ファック、と呟いて、それきり。ウェイドはそのまま呼吸をしているのかも怪しいほど身動がず、革のくたびれたソファにすっかり埋まった。
 棚を開けてインスタントコーヒーを出すと、瓶のほぼ底面が見えかかっていることに気づいた。買い物のたび買い足すことを忘れ続けること数回、今を逃したらまた忘れると自分を信用することを諦め、メモ代わりの携帯端末を手に取る。画面を付けてすぐ、ウェイドの名前で入った通知が「あらゆる質問は禁止」というテキストを綴っていた。メッセージを開くと、その三十分前の時間に「アンタの家に向かってる。セルフプレジャーの時間を邪魔したらゴメン」と入っている。
「殴られただけだ」
 画面から顔を上げる。ソファに埋まったままだと思っていたウェイドは、いつの間にか起き上がって彫像のように茫然と前を見て座り込んでいた。こいつは時々ニンジャのように音のない時がある。「それで?」
「マジで、それ以外何もない。通りすがりに殴られたって点ではサプライズがあったけど。どうせ目が合ったとか合ってないとか、顔が気持ち悪いとか、ヤクの臭いを嗅ぎつけてかっぱらおうとしたとかそんな理由だ」
「相手はどんなやつだ」
「仕返ししてくれるの? 優しいな、ダーリン。俺のためにそんなことする必要はないんだ。向こうも今頃病院か、病院に行くこともできずに血を吐いてゴミ溜め這いずり回ってるか」
 湯に溶けたコーヒーが、モカ色の泡を作って水面を回る。一口啜りながらウェイドを見れば、今度は膝に頬杖をついて俺を見ていた。フードが脱げて見えた顔にはやはり、口の端と顎の縁に乾いた血が残っている。俺の視線の先を見て、赤い口の端がちらりと持ちあがった。奴お得意の「大丈夫だよ」の顔は、傷の色に縁取られていっそう痛々しい。
「ネズミの餌にもならないクソ野郎の話題はもう終わりにしよう。どうせ話題にするなら噛ませ犬に仕立て上げて『そんなやつ俺が忘れさせてやる』って慰めてくれよ、そのほうがずっと楽しいしクソ野郎も役に立てて嬉しいはずだ」
 足取り軽く滑り寄って来たウェイドが肩に腕をかけ、視界を塞ぐように首を傾ける。マグカップの手を遠ざけ反対の手で顔を押しやると、へちゃむくれの顔が一層むくれた。血の跡を親指で拭えば、パリパリと薄い塵が爪の間に残る。
「相棒に怪我負わされてお楽しみに浸れるか」
「もう治ってるし」 
「まだ治ってない」
 まだらの肌に残るそれをこそげ落とす間、ウェイドは肩に腕を残したまま、じっとおとなしくしていた。血痕があらかた拭えて俺が手を離すと同時に、腕を下ろす。押しやって冷蔵庫から牛乳を取り出す間も静まり返って、それから急に俺の背中にもたれこんできた。マグカップからはみ出た牛乳が、キッチンシンクに垂れて流れていく。
「あんたになら何をされても嬉しい俺を、いちいち大切にしようとするあんたが最高に憎らしい」
 冷たい牛乳がマグカップのなかうねりを作り、底から浮かびあ上がって色を変えていく。湯気を飲みこんでぬるくなっただろうラテは、それなりにまずそうだった。
「何をされても嬉しいんだろ」
 縁に牛乳を垂らしたままのマグカップを、肘の横から差し出す。背中にもたれたままのウェイドはそれを受け取って一口、人の肩口でげぇ、と舌を突き出す呻きを漏らした。
「|Fuck you《くそったれ》、ウルヴァリン」
「|I love you too《俺も愛してる》、ウェイド」



@amldawn

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