映画
これお願いします、とレンタルして来たDVDのパッケージを手渡すと、兄弟子が顔を顰めた。
「なんでオレがお前と仲良くホラー映画なんか見なアカンねん。」
「なんでて、昨日賭けに負けたからに決まってるやないですか。」
「……え?」
「え、て何ですか?」
何の話やと思ってたんですか、と聞いたら、年下の兄弟子はパッと目を逸らした。
じわじわと頬が赤くなっていくところを見ると、別の算段をしていたと思われていたらしい。
いつものようにきつねうどんを賭けるでもなく、相手の言うことをひとつだけ聞くという話を持ち掛けたことは確かにこれまでなかったことだが、掃除の当番を代わる、とかそういう話とは端から思ってなかった、というのは。
「とにかく、今日ははよ寝てしまえ、て子どもには言うてありますから。」
外堀を埋めるつもりのこちらの言葉で見事に赤面した男は、照れを隠すためか、「お前そんな、またいつもみたいになし崩しにしようとして。」とこちらを小突きに掛かって来た。
「そんないつもでもないでしょう。」
小さな攻撃を避けながらデッキの電源を付けてディスクを入れてしまうと、やっと観念したのか「ダメやと思ったらすぐに寝るからな。」と言ってソファに腰を落ち着けた。
始まったばかりの映像はまだ予告編だというのに、見事に珍妙な顔になった兄弟子は、画面から距離を取るように徐々にソファの端に詰めていき、とうとう角に置いてあったクッションを胸の前に抱えて、ぎゅっと抱きしめた。
それ、抱きしめるもんがおかしいのと違いますか?
それにしても、ほとんど同居だった状態を解消もせずにここまで来ておいて、今更なし崩し、とは。
――まあ、この人にしてみれば、色々がなし崩しやったかも知れへんけど。
転居の後も同居を続けることは、僕が勝手に決めたことではあった。
子どもの前ではそうあからさまに振舞うことがしづらいこともあって、普段からのこっちの接触はないも同然のところに来て、自主性に任せて一人で出掛けることも多くなってきた子どもの帰宅の時間がまちまちになると、なおさらことに及ぶには慎重にならざるを得ない。
ふたりで外に出れば、お互いにタイミングを計るのが前より難しくなった反動のように、どこかで『休憩』して帰るという不文律になってはいるが、それが規定事項のようにして暮らしのルーティンに収まったというだけのことで、この人が本当にしたいと思っているかいないかはこちらの慮外の話だった。
共同生活が長くなる中で、それなりにこの人についての学びはあって、他の女のようにこっちの布団に潜り込んでくっついてくるときがサインであるというならまだいいが、それがこの人のセックスしたい時とは限らないというのが厄介なところだった。
そういう意味とちゃうて、という言葉をとっさの言い訳だろうと頭の中で断じて、ハイハイ分かりました、と聞き流しながら、その後は口車に乗せる形でセックスに持ち込んでいたが、済んだ後で、ぽつりと、オレはただ一緒に寝たかっただけやし、と言われたことが、何度かあった。
この人が経験が乏しいどころの話ではないていうのも、一遍、二遍と身体に触れただけで分かってたし、身体を重ねるうちに、ほんまに嫌やて、と脛を蹴って拒否されることもあって、ことが済んだ後での言い訳でなかったらしいというのは、この頃になってやっと気が付いたところだった。
かといって、セックスしたいからさせてくださいと直截にこちらから切り出せば、拒否の言葉と足とが同時に出る。こちらにムードがないと言って度々拗ねたような顔をするが、そもそもこっちにそういう無防備な顔を見せることそれ自体が不味いのだと、いつになったら気が付くのかというところだった。
ムードが肝心やったな、と思い出して照明を落とすと、電気消すんか、とツッコミが入るのも織り込み済みだ。
「そらまあ、ホラー映画ですから。兄さん、もしかしてもう怖いんですか?」
これで怖がってへん、と言われても全く説得力がないスタイルのままで、そんなはずないやろ、という低めた声が返って来る。
予告編が明るい色を帯びると、ホラーでなくなったと気づいた途端に普段の元気が戻って来たようで「なあ、おい、ビールとかないんか?」とカーペットを敷いた床に座った僕の肩を、その長い足で蹴った。痛い。
「缶をほかしに行くのが面倒やて、こないだ言うてたやないですか。」
「そら、ほかしに行くのがオレの当番やったから言うただけやん。」
「そうですか……。」
小草若はほんま、いつまで経っても子どもみたいで、とため息ばかりを吐いていたおかみさんの顔が思い出される。
おかみさんが亡くなってもう二十年。そろそろ二十三回忌というところになっているというのに、あの頃から驚くほど変わっていない。
「……子どもが飲みたいて買って来たジュースならありますけど。」
「歯ぁ磨いてしもたからなあ。」
「後は麦茶しかないですよ。」
日本酒を買うのは盆暮れだけと決めている。
「そんなら麦茶でええし。」
言うだけ言って、人に取って来させようとするのである。
これがビールなら、自分でいそいそとジョッキなりゴブレットなりを持って来てつまみも準備するとこがまた腹立たしいというか。
家の中では兄も弟もないでしょう、とこっちで言うたが最後、拗ねるし、普段から散々こきおろしている草々兄さんと若狭の家の話を引き合いに出してくるしで、質が悪い。
だいたい、キスなんかはレモンの味がええし、ドレッシングとか焼き鳥のタレの味とかすんのはちゃうやろ、とか、そういう女子高生が口にするようなしょうもないことを言い出したのも、明らかにあの妹弟子の悪影響のような気がする。
「一升瓶でも買うて来といたらよかった。」
「何か言うたか。」
「別に何も。」
席を立って麦茶をボトルごと、コップをふたつ持って来て、並んでソファに座ることにした。
やっと予告編が終わって、見慣れた配給会社の映像が流れて来る。
「怖かったら、好きにくっついてええですよ。」と告げれば、そんなんまだええわ、と言いながら、相手はソファの真ん中に寄って来た。
まさか、ここまで怖がるものとは思っていなかった。
ボトルから麦茶をコップに入れてどうぞ、と渡すと、麦茶を飲むその音までが、緊張して唾を飲み込む嚥下の音そっくりに聞こえて、こちらも緊張してしまいそうになる。
「ほんまに怖いんとは違うからな。」
そう言って、抱きしめたクッションを手離して、僕との隙間を埋めるようにして間に置いている。
何をしたいんや、ほんまに、と呆れて隣の人を見ると、心細いような顔をしているのが妙に可愛らしく見える。
後で子どもに映画の筋を聞かれたら困るな、と思いながら、僕は怖いですよ、と言って、隣に座る人の手をぎゅっと握ってみると、握り返してくる手が妙に冷たく感じられた。
もう少しこのままでいましょう、と言うと、年下の男は頷いて、お前も怖いんなら良かったわ、と言う声が、ゆっくりと耳に届いた。
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