愛しのホワイトアスパラちゃん

 地面を踏んでいるはずなのに、どこか感触が遠い。まだ空を飛んでいるような気がする。
「──ふう。そこそこ眠れましたね……、大丈夫ですか?」
「……わかんねェ……」
「慣れていないときついのですよね、長時間のフライトは」
 〝きつい〟だなんて少しも思ってなさそうな涼しい顔で、要はバケットハットを被り直す。十三時間に及ぶロングフライトを終えてもなお完璧に整った立ち居振る舞い。たとえ今がプライベートであれここが海の向こうであれ、いっそ見飽きるほどに一定のスタンスを保ってくれる彼は、初めて外国の土を踏んだ燐音をひどく安心させた。
「──何を怯えているのですか」
「お、怯えてねェっしょ」
「内弁慶」
「は? 失礼な! 裁判長、異議申し立てを希望します」
「棄却します」
 生まれて初めての海外旅行にド緊張していたのは事実だ。言葉は通じない、文化は違う、日本人は舐められるとも聞く。そんなん怖え〜じゃん。
 それでも要が、己と一緒に行きたいと言ってくれたから、彼氏としては日和ってもいられないと思ったわけで。二十数年を過ごした島国にしばしの別れを告げ(せいぜい二週間ほどだが)、燐音は文字通り飛び立ったのだ。
「ン〜これが花の都の香り」
「まだパリに着いたわけではないのですよ。ここからタクシーに乗って一時間はかかります」
「げえッそうなの⁉ ここどこ!」
「シャルル・ド・ゴール空港です。……あなた俺の話聞いてました?」
 いっけね、お説教スイッチが入ろうとしてる。
 せっかくふたりきりで新婚旅行♡ ──ではないけれど、購入したばかりの新築マンションで同棲を始めた記念に、四徹明けの茨からもぎ取った休みなのだ。最初から最後まで互いにいい気分で過ごしたい。燐音にしたって要にしたって、アイドルのガワを脱いでゆったり羽根を伸ばす機会だ。楽しまなきゃ損である。
「ごーめん俺っちが悪かったって、荷物持つ」
「小腹が空きました」
「オッケーオッケー、そこのカフェでいい? ブ、ぶら……」
「ブーランジュリーはパン屋です。そのくらいは覚えていただかないと」
「ハイハイ不勉強でたいへんすみませんでしたァ〜」
「ああ拗ねないでくださいよ、怒ってませんから……ふふ」
 笑みを零す恋人は珍しく浮かれているようで、こちらも自然と笑顔になってしまう。ちょっとした意地悪もご愛嬌、可愛いもんだ。
 外でこんな風にへらへらイチャイチャしていても、ここにはすっぱ抜こうとする記者もいなければファンに気を遣うこともない。海外最高! と早々に掌を返し、ウキウキな旅行プランに思いを馳せる燐音であった。



 世界一有名なあの美術館に行きたい。気が合わないふたりの意見が珍しく合致し、翌日は丸一日美術鑑賞に費やすこととなった。
 階段の上に佇むサモトラケのニケを目にするなり燐音は生き別れの兄弟との再会よろしく駆け寄り、しげしげと眺めたり周りをぐるぐる回ったりした。
「会いたかったぜェ俺っち達の勝利の女神さま……本当はキスして抱き締めてェとこだけど我慢しといてやる」
「本当にやめてくださいよ」
「馬鹿、しねェって」
「あんたならやりかねない」
「心外でェす。ほれ記念撮影」
 ニケとその隣でポーズをきめる燐音を背景に、少し下にいる要が真顔で自撮り。何ともシュールな絵面だ。写真の出来を見て、一緒になってゲラゲラ笑って、後ほどニキとこはくに送ることを決めた。快く送り出してくれた彼らにはお土産もたくさん持ち帰ってやりたい。
 それからモナ・リザが見たいとリクエストして館内を進むのだが、展示室に近付くほど明らかに人出が増えていく。目当ての場所に着くと『彼女』の前はごった返していて大変な騒ぎだった。
「うわ人すげェ〜、みんなしてカメラ構えて、囲み取材かよ」
「思ったより小さいですね」
「俺も思った」
 たとえ今よりも距離を詰められたとして、『彼女』は分厚いガラスで守られており間近で見つめることは叶わない。何だか興が削がれてしまい、別の展示室に移動することにした。
 本当は手を繋ぎたいだけなのだけれど、人混みではぐれないようにという言い訳つきで要の手を取った。普段なら許さないだろうに、今はきゅっと握り返してくる温もりが愛しい。やっぱり海外最高。「にやけるな」と窘める声には「悪りィ」とにやけながら応じた。
「俺っち的には古代文明のあたりが面白かったなァ」
「ああ、熱心に見ていましたね。君主として通じるものがあるのでしょうか」
「いやシンプルにでけェしかっけーっしょ……男の子はみんな好きじゃねェの? ギルガメッシュ」
「俺は猫のミイラの方が好きです」
「ナルホドね」
 写真、たくさん撮りましたね。と要がスマートフォンをすいすい操作して見せる。確かに今日だけで何百枚か撮っている気がする。燐音は仕事以外で滅多にカメラを構えない男であるが、こうして好きな人との思い出が増えていくのは良いものだ。
「これどうよ、股下=エッフェル塔の要」
「ぶっ、ちょっ見せて……何これよく撮れてる」
「あいつらに送るわ」
「待って……ふふっ……これは?」
「どれ……おいやめろよなァ〜もっとかっこいい写真ねェの」
「食事の注文の仕方がわからなくて困ってる天城。これは〝財布スられたかも〟って大騒ぎした後にバッグの底から見つけて放心してる天城」
「おまえなァ、こんな男前捕まえといてそりゃねェよ、全然ダメ」
「え〜」
「え〜じゃない、燐音くんの良さが一ミリも伝わりません。やり直し!」
「はいはいうるさい、撮りますよ」
「ん」
 夜とは言えまあまあ混雑したビストロのテラスで大の男がふたり顔をくっ付けて、営業用でもないセルフィーを撮るのは気恥ずかしい気もするのだが(マジで新婚みたいじゃね?)。「はい、男前ですよ」なんて彼が笑えば、減るもんじゃないしまあいいか、になってしまうから不思議だ。むしろ増えているかもしれない。
 目線を通りの方へずらすと、斜向かいのアパルトマンに入っていこうとする初老の夫婦とぱちりと目が合う。彼らはにっこりと笑みを深めると手でハートをつくり、駄目押しのウインクを残して建物の中へ消えて行った。呆気に取られる燐音の横で、要は動じることもなくにこやかに手を振る。
「〝良い夜を〟だそうですよ」
「えっ聞こえたの?」
「感じ取りました」
「マジかよ、さすがフランス」
 諸般の事情で公表することが出来ない自分達の関係を、こんなにも当たり前に受け入れて応援してもらえるなんて、初めての経験で。『愛の国』の懐の広さと心地好い無関心に身を浸しながら、パリの夜は更けていく。まだまだふたりきりで見たいもの、行きたい場所が山程あるのだ。





 翌日はモンパルナス駅前のマルシェに立ち寄った。ニキからのリクエストである〝美味しいバター〟を買って帰らなければならないからだ。
 要が新鮮な青果や食器の露店を物色している間、こんな機会はそうないからと、しばし気ままな別行動を楽しんだ。昨日までは現地の人にいくらか怯えていた燐音だったが、三日目ともなれば順応して見様見真似にフランス語を喋るまでになった。『特技:アドリブ』の男は伊達じゃないし、言語の壁なんて職業アイドルのとびきり笑顔であっさり突破できるものなのだと知った。
 燐音が露店の間をうろうろと縫うように歩いていると、花売りの女性に声を掛けられた。
「ん、俺っち? ボンジュールマダム、何なに?」
 足元の籠には色とりどりの花々が溢れんばかり。中でも大振りのミモザの鮮やかなイエローに目を奪われる。他にもチューリップにアネモネ、ガーベラ、バラなどがぎっしりと競い合うように並び、賑やかに春を告げていた。
「わお綺麗だねェ、トレビアン……え? やだなァマダムも綺麗……ベル? ベルだってば」
 熱心に話し掛けてくる彼女の言葉は半分も理解できていないのだが、にこにこ朗らかに花束を勧められると断りきれない。「Si beau!」と言っているのはアレだ、「お兄さんハンサムですね」という褒め言葉だったはず。そして燐音にはハンサムの自覚があるため、当然褒められて悪い気はしない。
「しょうがねェなァ……いくら? ……二十八ユーロね、信じるからな。……うん? そーそー、俺っちのべべちゃんにプレゼント。羨ましいっしょ?」
 へらりと笑って答えれば彼女は悪戯っ子みたいに歯を見せて笑い、真っ白なバラの花束に赤いバラを一輪サービスしてくれた。




「あっいた! ちょ、やべェって要、助けて」
「天城、どこへ行っていたのですか。その花は──」
「それどころじゃねェかも」
 ゼエゼエと息を切らした燐音と合流した要は首を傾げた。今の今までのんびりと市場を見て回っていたと言うのに、何を焦る必要があるのか。
「事情はあとで話す、俺っちと逃げてくれ」
「は? 何言って、」
 問い掛けの途中で要の腕を引っ張って駆け出した。彼の肩越しに、「リンネ」「ヒメル⁉」などと喚きながら猛然とこちらへ走ってくる十人余りの女性達の姿が見えたからだ。必死に脚を動かしながら彼が叫ぶ。
「なっ何したんですかあんた、あの人達に何かしたんですか⁉」
「だァ〜! 誤解っしょ! 広場にアコーディオン弾きの兄ちゃんがいたから、歌って踊って賑やかしただけだっつの!」
 そうしたら、同じく広場にいた観光客と思しきアジア人の女性グループが騒ぎ出したのだ。「『Crazy:B』のリンネがいる」と。
「つまりあの女性達は……?」
「俺っち達のファン」
「マジか」
「ありがてェ話だけど今はプライベートだからなァ〜……説明しようにも言葉がわかんねェし、逃げてきた」
「成程」
 路地を曲がる。石畳の道は長距離走には向いていない上、花束を抱えて走るのは骨が折れる。さっさと撒いて休みたいのに、こっちのファンはタフでしぶといらしい。
 いくつかの角を曲がって細い小路へ入っていく。もう追ってこないだろうと後ろを走っていた燐音が身体ごと振り返った時、前を行く要の背中にどんと当たった。
「どした」
「……」
「かな……、っ」
 返事がないのを訝しんで背後を窺う。四メートルくらいの高さのフェンスがあった。同時に先程曲がってきた角の向こうから女性達の声が聞こえてくる。嘘だろ、捕まる。さよならかりそめの平穏、オルヴォワール。胸の前で十字を切ろうとした刹那、もう一度背中同士がとんと触れた。
「──まだ終わってない」
「さっすが諦めの悪い男ォ……」
「お互いさまでしょう?」
 ステージの上だって、どこだってそう。こいつと背中合わせで立てば何だってできる気がしてくる。おまえが諦めないと言うのなら、俺が勝手に勝負を降りるわけにはいかないのだ。
 フェンスの高さと自分達の体格、身体能力を加味して、「いける」と踏んだ。燐音が両手を組んでつくった即席の踏み台に足を乗せた要を、コンサートのポップアップリフターよろしく腕力で上空に打ち上げる滅茶苦茶な荒業。思いつきでやってみたら何とかなってしまった。さすがはダブルセンターの相棒、息ぴったり。
 ひと足先にフェンスの向こう側へ着地した彼は、己を信じて待っている。追っ手の影はすぐそこだ。燐音は手にした花束を空高く投げ上げた。おどる純白に居合わせた全員の視線が集中する、その合間に、自身も建物の外壁を蹴ってフェンスを飛び越える。宙を舞ったブーケが恋人の手に収まるまでの、たった数秒の間の出来事だった。
「すみません──いつかちゃんと、ライブでお会いしましょう」
「事務所が厳しいからごめんなァ〜」
 からりと笑って手を振る。あと少し、悔しそうに金網を揺らすファン達の姿が見えなくなるまで走って、ようやく足を止めた。
「つっっ……かれたァ〜〜!」
「はあ、ふう、あんたのせいで、散々な目に遭いました」
「ぎゃはは、スリリングで悪くなかったンじゃねェ?」
「い、いやです、もう走りたくない……」
 しゃがみ込んで「あんたが目立つようなことするからだぞ」と恨みがましい目を向けてくる要には気の毒なことをした。反省はしている。それでも。
「でもよ、嬉しいよなァ。『こっち』にも俺っち達のこと知って、好いてくれる奴らがいるンだぜ」
 これも紛れもない本心だ。かつて『Beehive』で宣言した〝世界じゅうに俺達の巣を作る〟という野望は、最早絵空事ではなくなりつつある。『Crazy:B』だから叶えられる。おまえが背中を守ってくれるから、俺は前を見ていられる。そうやって俺達はここまで来た。初めて歩く場所だって、おまえとなら怖くない。
 言えば要は呆れ顔を引っ込めてふっと微笑んだ。肯定のサインだ。
「というかこの花束は何なのですか」
「おまえにプレゼント」
「俺に?」
「そーだよモンベベちゃん」
「……意味わかってます?」
「わァかってンよ愛しのベイビー」
「うわ」
 「天城がフランスにかぶれた」なんて失礼なことを言いながら、バラを数える要。白と赤、全部で十一本を束ねたブーケを大事そうに抱き締め、「やっぱり意味わかってないでしょう」と照れ臭そうに呟く声は、燐音には届かない。
「これからどうする?」
「騒ぎになるのは避けたいですし、予定を前倒しにしてニースへ向かいましょうか」
「お、憧れのコート・ダ・ジュール。美味いワインも飲みてェし」
「ワイナリーに立ち寄るのも良いですね……モナコまで足を伸ばせばカジノもありますよ。カジノ・ド・モンテカルロ」
「マジで⁉ 良いの?」
「あくまで観光メインなら──」
「要ちゃん大好き♡」
「話聞いてました?」
 たまには甘やかしてやろうという恋人の心遣いが嬉しい。旅行の間はずっとこうだといい。むしろ帰国してからもこのままがいい。
 素直に願望を口にすると、「今は天城感謝ウィークなのです」とよくわからない照れ隠しで返された。





(ワンライお題『初めて/背中合わせ』)

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