velho

それでも私達は、平和をもたらさねばならない。

共鳴とは人々とその生活に安寧をもたらすものであり、我々の繋がりを血筋よりも頑丈に紡ぎ合わせた。全ての隣人家族は手を取り合い、樹木は我々の家となり大地となる。始まりがどのような形であっても、生活はいつでも尊重される必要があるのだ。
~詩節、歴史より抜粋~

ただ静かにその光景を見ている。初めに蒔いた種がこの手から零れ落ちたものだとしても、立派に育った生活という樹木を切り倒すことは出来ない。その資格が、もう自分にないことを知っている。



velho



柊が集落を抜けたのは青年期も後期、その終盤に差し掛かった頃だった。
velhoの歴史は土の茶色と樹木の緑を始まりとし、今では血塗られた赤へ変色した。柊はその赤が、数年前、自身の左目を伝ったことをよく覚えている。生温かくてぬるりとした感覚。あの時自身の眼球もまた歴史の土壌となったのだ。
元より柊がvelhoという存在で生まれた以上、彼もまた歴史に埋もれる定めである。他のvelhoがそうであるように。今までの、これからのvelhoは皆等しくこの連鎖の繋ぎ目だった。
柊は深き樹海を南下していた。国境と荒波のように生えそびえる木々のせいで、この樹海の全容はいまだ暴かれてはいない。集落の長にして知識人である梓をもってしても東西部以外を知る術を持たずにいる。その波をかき分けるよう柊は進んでいた。理由は簡単だ。
──集落とvelhoの運命から逃れたかった。
velhoは平和をもたらす者である。太陽の届きにくい樹海で生活するには様々な制限があり、それを取り除ける選択肢こそが他国の存在だった。彼らがvelhoの生活を担保する以上、彼らはvelhoに平和をもたらす者となる。ならばvelhoはその力をもって、他国へ平和をもたらす者になるのだ。横の繋がりのせいで、どうしてこんな歴史を辿らねばならないのだろう。
ふと柊は足を止めた。枝が絡み合う樹海の中、一か所だけが不可思議な形状で覆い隠されている。それは疑似的な洞窟のようだった。柊がそちらに足を向けようとした瞬間、近辺で一番大きな樹木の太枝が柊に襲い掛かった。
深き樹海の木々は意思を持つ。だからかつて、この地を開拓した時に共鳴が使用された。これはvelhoとして集落に迎え入れられた全員が教えられることだ。
「……何を守っている?」
バチンと柊の視界が揺れ、襲い掛かった枝の動きが止まる。尖った切っ先は明確に柊の喉元を狙いすましていた。明確な敵対行動だ。柊は反発の余韻を受け流しながら彼らが守っていたものへと近づいていく。ざわざわと揺れる木々は攻撃こそしないものの、柊を歓迎しない姿勢は貫こうとしているようだった。もしかすれば、先程の共鳴を見て恐れをなしていたのかもしれない。最後、洞窟の穴を塞ぐよう絡んだ枝々だけが互いの身を寄せ合った。一瞬だけその隙間から見えたのは、一人の少女の姿だった。

樹海に捨てられる子供は少なくない。突然変異として発現した共鳴は、いまやfiktiの様々な場所で見られるようになった。幼年から少年期にかけて発現する力は未だこの大地では受け入れざる忌みである。それ故に例え最愛の血を引く自身の子であろうとも、共鳴持ちは揃って樹海へ捨てられるのだ。
「お前、どうして集落に行かないの?」
柊も、集落に住むvelhoも出身には差がある。だが経緯は大体同じだ。捨てられたからここへ来た。意思を持つ木々は彼らに道を指し示してくれるし、集落は等しく温かい。柊のようでなければ、あそこはvelhoにとって良い家となる。
少女は沈黙を保っている。その息遣いすら聞こえないものだから、一瞬柊の脳内に死が巡る。だが死臭や肉を食いに来た動物の形跡はない。そもそも木々がここまではっきりとした意思を持つことは異常だ。明確な敵対心による攻撃だとしても、あれほど的確に人を殺そうとすることはない。となれば間違いなく、この少女が関係しているのだ。樹海に一人でいる子供なんてものは皆共鳴持ちと相場が決まっている。そうでなければ樹海に入ることすらままならない。つまり彼女は、自らの意思で木々と共鳴し、その身を守ろうとしているということになる。
「俺は敵じゃないよ」
そも共鳴を持つ者──velhoは、皆velhoの敵ではない。
柊は少女へ共鳴を試みようとして止めた。重ね合う枝々が僅かに離れ、少女の淡い灰がかった瞳が確かに柊を映し出していたからだ。表情筋は硬く、それでいてあどけない顔つき。静かに凪いだ湖面のように慎ましく、ただじっと柊を見つめる少女に、柊の心が揺らいだ。
「集落には行きたくない?」
昔はこんな風だったかもしれない。成熟した男の声になっていくのと同時に、柊自身も随分と変わってしまった。だからこれほどまで優しい声を出したのは久方ぶりだ。
柊の問いに少女は小さく、本当に小さく頷いてみせた。その目に深い感情は伺えないが、彼女にもそれなりの理由があるのかもしれない。柊だってそうだ。それは他のvelhoにも同じことが言えるだろう。詮索とは他者の心を暴く行為であり、隠し事を許さない脅迫である。
「じゃあ俺と行こう」
しゃがみこんで目を合わせた柊は、ここで初めて少女の声を聞いた。か細く柔らかい、それでいて凛とした声だった。柊は少女へ共鳴を使用する。彼女を覆い隠すよう組まれた洞窟がゆっくりと解かれ、樹海から僅かに差し込む日の光が桜鼠色の髪を照らしていく。
青年期の後期、その終盤に差し掛かった頃。柊は多分に漏れず、他のvelhoと同じように弟子をとった。年齢より随分低い身長と柔らかな手を持つ少女だった。

velhoが真っ先に覚えなければならないのは共鳴の制御である。不用意な使用は身を滅ぼすきっかけになり得るし、そもそも共鳴とは自分の意思を対象に上乗せしなければならないものだ。力次第で他者を自分の思い通りに操ることが出来る共鳴は、やがては使用者の人間性も問われるようになる。道徳の元、共鳴を正しく扱う。それがvelhoが忌みなどではなく一人の人間として生きる為に必要な行いだった。
少女──橘は、本当はそこまで敵対心がなかったのだという。集落に行きたくないのも単純に人への恐怖、所謂人見知りからくるもので、その恐怖心が彼女の制御しきれない共鳴により木々に敵対心を与えた。柊が襲われたのは決して橘の意思ではなく、不運な事故というだけであったのだ。とはいえ橘は、懐いた人の後をずっとついていくような子供だった。心を開いた彼女には柊の元から離れるという選択肢がなかったので、二人はいよいよ集落から幾分か南下した樹海の中に住居を構えた。
生活基盤が整えられた頃、柊は共鳴について一通り橘に話して聞かせた。velhoが集落へ迎え入れられた時に必ず教わること、velhoの簡単な歴史。なるべく簡潔に噛み砕いた内容は、単に柊に話したくないことが多すぎた結果だった。このvelhoの運命は、まだ幼い少女も巻き込もうというのだ。純粋無垢で幼気な子供すら怨嗟に囚われるなどあってはならない。
「お前は飲み込みも早いし、才能だってあるよ」
柊にとって、それが良いこととは思えずにいた。決して共鳴が嫌いなわけではない。だが共鳴を持ったが故の扱い──平和をもたらす者──には不満がある。培われた土壌がどれだけ穢れているか、初めの純心を知らず自分達を持ち上げようとするのは間違っている。velhoというのは本来、力を授かった初めの賢人のように尊くていい。
樹海の木々は皆意思を持つ。樹海で生活する人々のことは木々が全て知っている。彼らの噂話は瞬く間に樹海全土へ広がって、それはやがてvelhoの耳にも届くようになる。
「その選択が間違っているとは言わないがね」
樹海の中でも一際目立つ大樹を囲うようにして建てられた社で、梓は数人のvelhoと話し込んでいた。話題の中心は勿論一人で集落を出ていった柊のことである。行き先も告げず立ち去った柊のことを遅い反抗期としか捉えていない集落の人々は「一体どこをほっつき歩いてるのかしら」程度にしか心を推し量れずにいる。帰ってきたら温かいご飯を用意してやろうとか、ほつれた外套の手入れは上手く出来るのかとか、そういった類の献身は地域ぐるみの愛といえば聞こえはいいだろう。梓はそんな人々が吐き出す愛の受け皿となっていた。柊にとって、きっとこれらの献身はしがらみの一つであると察していたからだ。
柊は干渉を嫌った。他者を理解するのではなく、他者に理解してほしかった。
──その点では、彼はvelhoに相応しいんだがなあ。
梓は心内に一人ごちて、愛想笑いでその場を後にする。大樹が梓を呼んでいるのが聞こえたからだ。社の中心部にある大樹は樹海が開拓された当時から立派に根を張っていて、その樹齢は推定数千年にも及ぶ老樹である。彼には他の樹木とは違う性質があった。|viisaus《叡智》と名を冠する知恵ある老樹は、velhoの知り得ない先見すら可能にしたのだ。
梓が到着すると当時に大樹の御身がパキリと音を立てる。剥がれ落ちたのは彼の皮膚、木簡だ。梓はそれを拾い上げて懐に仕舞いこんだ。これは全て、今年実る若者への大切な祝福だった。

木々の便りが届いたのは季節も一巡しようかとする頃であった。
「君が弟子を大切に思うのなら、せめて総会くらいは二人で顔を出しなさい」
それは真っ当な梓の言葉だった。柊は部屋の隅で静かにしている橘の顔をちらりと見る。彼女はおよそ一年の間にvelhoの全てといっていい力を身に着け、その道徳心も立派に育った。柊は早々に気付いていたことだが、橘は現代velhoの中で最も力を持つvelhoだ。まさに天性の逸材である。
数日に渡り開かれる総会では、その年にvelhoになった者へ木簡が与えられる授与式も行われる。梓が顔を出せというのはこれに対する発言だろう。木簡はvelhoをvelhoと証明し繋がりを保つものであり、もっと噛み砕くならお守りのようなものだ。|viisaus《叡智》がvelhoに、その知恵をもって勇気を与えてくださる。木簡の紋様は人によって違いがあり、それらには|viisaus《叡智》からの意思と祈りが込められているという。尤もその紋様を解読できたものは未だ存在しないし、大樹本人も沈黙を貫いているのだから、それはお伽噺といっても過言ではない。結局のところ都合よく解釈するのが人間だ。守ってくださるのなら、それは本人にとってそうあってほしいからに違いない。
──橘のことは、守ってやりたい。
例えあの老樹が身を剥がしてまで生む木簡にそれだけの力が宿っていなくとも、可能性は多い方がいい。木簡はvelhoとしての名刺であり、祝福だ。今だって柊の外套、その内ポケットには柊だけの木簡がしまわれている。それがない暮らしを柊は知らない。はじめから受け取ることが慣例だったのだ、疑問に思うこともなかった。童心の柊はそれを受け取ることで、はじめて本当の意味で家族になれた気すらした。例え今、集落から立ち去っていようとも。
「橘、おいで」
「ん」
少し足早に柊の元へ駆け寄ってくる橘は何も知らない。柊はその軽い体を持ち上げて、自分の膝の上に座らせる。きょとんとした橘の頭を撫でて、柊は少しだけ微笑んだ。
「来週、一緒に集落へ行こう」
自分に出来ることは一体なんだろうか。彼女を安心させてやるには、守ってやるには、何が必要だろう。本当は少しだけ、木簡なんて受け取らなくてもいいんじゃないかと思っていた。そうすれば彼女は本当の意味で認められず、同じ道を辿らずに済むかもしれない。だが、柊には責任が取れなかったのだ。もし彼女が正しくはぐれ者となってしまった時、自分に残せるものはそう多くないだろうから。

・・・ ・・・ ・・・

総会には全てのvelhoが顔を出す。老若男女、師弟を問わず、その数は百を超える。
境内は混雑していた。社本殿では梓と数人の巫がこれから始まる授与式の準備をせっせと進めている。柊は橘を抱きかかえ、境内の隅でその光景を眺めていた。
「あら、柊じゃない!」
なるべく人目につかぬよう努めていても、柊はvelhoの中でも有名人だった。見目麗しく、現代の中で最も力ある者として実力を認められていたし、今は反抗期の若者としてもそれなりの目をかけられている。とはいえ柊はかけられる声全てに無視を決め込んでいた。橘も柊の外套を握りしめたまま、黙って来る人々の顔を眺めていた。橘が声をかけられても返事を返さないのは、単に人見知りが発揮されていたせいだった。
「只今より、授与式を始めます」
巫の声で境内の雑踏が止む。今年木簡を授かる者は橘も含めて十人程度、年齢も十二から十五くらいだろうか。実年齢もさながら、その中で橘は誰よりも幼く見えた。
授与式は一人ずつ行われる。師が手を引き社まで向かい、若者は一人で壇上へ上がる。そうして梓の元、若者は共鳴の力で木簡を砕くのだ。指紋のように複雑な模様が描かれた木簡をあるべき形に仕上げる、それがこの授与式に必要な儀式である。
木簡が崩れる音が響くたび、境内からは拍手や歓声が沸き起こる。新たな門出を迎える若者への期待であり、velhoとして正式に受け入れられた者への歓迎だった。柊は同調するわけでもなくただ砕かれる音を聞いていた。梓の配慮により、橘の番は一番最後だった。
変りばえのしない共鳴。樹のひび割れる音は骨が砕かれる音とよく似ている。どちらも同じ砕くという表現なら、それも妥当だろうか。樹と人間は大差ないというのなら、どうして。velhoはまるで、人じゃない。
「橘」
梓の太い声で柊の意識は現実へと戻される。柊は軽く息を吸いこみ、ゆっくりと社までの参道、その中央を歩いていく。橘の目には柊の憂いが映されていた。
──どうして?
身をかがめた柊がそっと橘を地面へと下ろした。橘の小さな背が少しずつ遠ざかっていく。誰もが橘の姿を目で追って柊の表情など気にも留めない。その心情はとっくの昔に晒されることを諦めていた。
梓に促され橘は木簡に触れる。刹那、聞いた事もないような音が境内に轟いて、誰もが呆然とした。誰しも触れられたくないものがある。それが心だ。そこに触れるvelhoは常に反発と共にある。木簡はただ「パキリ」と音を鳴らしたにすぎず、だがvelhoには確かに聞き取れたのだ。橘が響かせた音は反発を微塵も感じさせない、感受の音だった。
「sinulle、siunaus。大切にしなさい」
梓が橘の手に木簡を包ませる。境内からは拍手、歓声の一つも起こることはなかった。皆が打ちひしがれ、その溢れる才にただ感心するばかりだったからだ。橘は表情一つ変えずに壇上を下り、同じ場所で待つ柊に抱き着いた。
「おかえり」
同じように抱きかかえて柊は社に背を向ける。嫋やかさの下、思い巡るのは過去の自分だ。橘が鳴らした感受の音、かつて同じ音を柊も鳴らしたことがある。ある、といっても全て周囲のvelhoが称しただけだ。柊にはそれが感受の音だと思えずにいた。
あの時柊が聞いたのは、紛れもない人々の悲鳴だった。

その後、瞬く間にvelhoの話題が橘で埋め尽くされたことは想像に容易いだろう。齢十、今年のvelho最年少の彼女は正に才能の塊だ。その師が同じく天性の才を持つ柊なのだから、velhoは尚の事熱狂した。二人は稀代の素晴らしき師弟である。
あの日鳴らした音色は、橘の印象には残らずにいた。橘にとって木簡が砕ける音はただ「パキリ」の一言であって、そこに遜色は存在しない。帰り際に聞こえた感受の音という表現も橘にはいまいちピンとこなかった。柊の「どうだった?」という問いに対しても、特段思うことがないことを正直に話したほどだ。その言葉に柊はやけにほっとしていたようだから、それは良いことなのだと橘は解釈した。
年を跨ぎ、二人の辺境生活も随分と月日が経とうとしていた。橘の身体的成長速度は非常に緩やかで、まだ同じようなあどけなさが残されたままだった。
「隣国の大きな戦争のせいで、velhoはまた外へ出たよ」
「隣国は探しているよ」
「柊」
集落を去った柊にとって、木々は情勢を知る唯一の手掛かりだ。家の中に橘を残し、柊は一人で木々の噂話を聞いていた。ざわざわと音を立てる木の葉は柊を煽ろうとしているように見える。それも全て、赤色を知った柊のことも知っているからだろう。
「あの人達はみんな戦地へ行くの?」
「velhoは誰の為に血を流すの?」
「うるさいな!」
訪れた静寂を壊したのは橘の開く扉の音だった。木々は怯んだまま何も言わず、隙間から吹き抜けるそよ風でカサカサと身を震わせるばかりだ。これが人間の姿をしていたなら、明後日の方角を見て口笛でも吹いているのだろう。
「どうしたの?」
「なんでもない。なんでもないよ」
心配そうに声をかける橘の背を押して柊は家の中へと戻っていく。去り際に残した共鳴は橘に気付かれていないようだった。
隣国の戦火が徐々に勢いを増しているのは、以前より増した噂話の内容でぼんやりと把握していた。だが自分には関係がない。他のvelhoがどうなっても知ることではない。そもそも初めから何もかもが間違っているのだ。いくら生活が苦しかろうと、別に生きていけないわけじゃない。向こうだって別に、velhoがいなくても生きていける。双方にとっての平和とは、果たして本当に平等といえるのか?
橘は何も知らず健やかに成長している。その身に宿る共鳴の使用も彼女の負担にならない程度に留められている。全て柊が望み、橘が受け入れたことだ。外界との交流こそないが、今の生活はある意味ではvelhoにおける理想とも言えるだろう。干渉されず、迫害されず、ただ静かに生の道を歩む。
だが柊の心中には一抹の不安が残っていた。隣国が探している、自分という存在を。

全ては因果に収束され、先見を持たぬ者はそれを運命と名付ける。
柊が避けたがっていた怨嗟は、二年の歳月をかけ彼の居場所を探り当てた。その静謐すらも簡単に壊してみせる暴力は今も密かに足を動かし続けていたのだ。隣国の軍人が柊の家を訪れたのは、あれから一週間後のことであった。
開けられた窓からは、うっすらと火薬の臭いが流れ込んでいる。彼は音も聞こえぬ遠い場所で樹木を傷つけ、自らの道を切り開いたのだ。深き樹海は仕方なくその道を譲ったに他ならない。
「何度言われようと、俺は協力しない」
「velhoは平和をもたらす象徴である。貴公らが我が国に認められた功績は栄誉そのものだ」
「だとしても、俺は栄誉だと思わない」
軍人は赤紙を柊の眼前に突き付ける。異国の言葉で書かれた文字はvelhoなら必然的に読める内容で、柊はそれが酷く不快だった。だって、そういうところが原因だろう。velhoを崇めるような言葉を並べど、態度は侮蔑そのものであることを自覚していないのだ。その実隣国を含めた他国との意思疎通だって全てvelho側の善処によるものだ。どうして? velhoのことを一つも分かろうとしないのは、どうして。
「では、もう一人の答えを聞こうか」
軍人が二枚目の赤紙を取り出した瞬間、ドンと重い音を立てて軍人が床に叩きつけられる。それは反射的に繰り出した柊の共鳴だった。
「あの子には手を出すな」
「橘はもう一人前のvelhoだろう」
「あの子には手を出すなと言っている!」
集落と距離を取ろうが、戦地を離れようが、所詮velhoはvelhoだ。怨嗟が柊の居場所を見つけ出せるなら、同じ鎖に繋がれる橘のことだって見逃すはずはない。苦しさが募る。橘のことだけは守ってやらなければいけない。人間は、自分達は、それぞれが一人の人間であって、歴史の土壌となる砂の一つではない。
橘は下層から聞こえる物音で部屋を出た。低体重の橘は階段を下っても足音一つ立てることはなかったが、柊の怒号が物音全てをかき消していた。橘はそっと音のする部屋を覗き込む。柊の顔は見えないが、その怒りだけは背中越しに強く感じられた。
最近の柊は声を荒げることが増えた。橘の前ではいつもの穏やかな柊のままだが、時折外から聞こえる柊の声は、橘にかけられたことのない声色であることが多かった。その怒りが一体何を差しているのか橘には知り得なかったが、橘にとって柊が苦しむことは避けたかった。取り除けるなら取り除いてやりたいとも思った。
「それはお前の返答だ」
軍人が無理やり上体を起こして腰に手をやった。
「俺を撃って、それでどうする」
「随分大切な愛弟子なんだろう?」
鉄の塊の正体を橘は知らない。だが紛れもなく今二人の間に起きる事柄は戦争そのものだ。軍人が重い右腕を上げて、標準を合わせて、引き金を引いた。
「柊を傷つけないで!」
銃が発した甲高い叫び声は樹海をこだました。部屋に残る消えかかった残り香はこれから生まれたのだと橘は知る。五感が麻痺するようで嫌な臭いだ。ビリビリと震える空気の中、橘の頬に赤い直線が垂れた。
「橘!!!!」
一拍置いて、弾かれたように柊は橘に駆け寄った。何が起きたのか分からなかった。ただ橘の頬に流れる赤がやけに綺麗で、胸が苦しくなって、痛くて、心拍が上昇する感覚だけがあった。柊は橘を力いっぱいに抱きしめる。うわ言のように何度か橘の名前を呼んで、ようやく袖で流れる血を拭った。どうして? 酸化する前の血が綺麗なのは、どうして。
軍人の放った銃弾は木の幹に深く撃ち込まれていた。確かに柊の胸元を撃ち抜いたはずの射撃は決して狙い誤ったわけではない。全部橘が咄嗟に使った共鳴のせいだ。velhoという生き物はこれだから困る。一般人には武力という選択肢しかないにも関わらず、その武力を成す術なく力任せに押さえつけ捻じ曲げるのだ。それ故にご機嫌取りをする同僚もいるが、意味の分からない存在の機嫌を取るのは得意ではなかった。
──そもそもこいつらがおかしいんだ。
こちらがvelhoの生活を担保しているにも関わらず、どうして牙を向けるだろうか。その抵抗のせいで全ての生活が失われた時、その身だけで責任が取れようか。あの大軍を相手取って以降、柊は自分勝手な振る舞いをしてばかりだ。本当に、うんざりする。
「どうしても、俺達が必要か」
柊は一度強く橘を抱きしめて、そっとその場を離れるよう促した。橘は心配そうな目を向けたまま黙って頷いて部屋へと戻っていく。聞き分けのいい子でよかった。だからこそ、これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。ゆっくり立ち上がる時、柊の視界の端に汚れた袖が映る。これがあの子が流した赤だった。
「お前らがどうしてもと言うなら、俺が行く」
誰かの為に血を流した時点で、もう運命は定まっていた。velhoは怨嗟の渦に閉じ込められている。華々しい賢人と築き上げた新緑の息吹はどこか遠くへ忘れ去られていく。そう思えば、賢人すらも砂の一つにしかなれないことに気が付いた。
「俺じゃ不満だなんて、そんな口利かないだろうな」
砂の一つになるのは自分だけでいい。橘にはせめて、砂ではなく砂金であってほしい。溢れんばかりの未来が、希望となって橘の傍にあればいい。そうだ。無意味な争いはここで終わって、この先のお前が幸福でありますように。
軍人の肯定を聞いて、柊は散らばった赤紙の一枚に名前を刻む。これで全てを変えられればいいと、柊はいつだって願っていた。

・・・ ・・・ ・・・

自分はあまりにも無知であることを知った橘は一人で集落を訪れていた。柊は数日留守にすると理由を散々濁して家を出たが、それに先日の件が絡んでいることは橘も理解できる。だからこそ今しかないと、橘も柊に内緒で家を出たのだ。
「紀元百五十三年。開拓隊の手によって深き樹海の西部が開拓された。私達がここに住居を構えるようになったのはおよそ五百年後になる」
梓の太く男らしい指が本の一節をなぞる。橘はたった一度きりの記憶を頼りに社へ赴き、梓の書斎で数々の本に囲まれていた。それは橘が知識を得る為に必要な行いだった。
突然の訪問に梓は内心驚いたものの快く橘を迎えたのは、木々の噂を聞いていたからだった。柊が戦地へ赴いた、それは数年もの間聞くことのなかった言葉である。大軍を相手取った戦いを経て、片目を失ってから招集を拒み続けていた柊が、一体何のきっかけで再び戦地へ向かったのかは知る由もない。だが今の柊にまた少し心情の変化が見られることは梓も気付いていたし、その理由が橘であることも薄々勘付いていた。柊にとって橘は本当に大切な愛弟子で、あるいはそれ以上の感情すらも抱えているのかもしれない。とはいえ、橘の知識は他のvelhoと比べて随分薄い。それは柊が橘に正しい教育を与えなかったということだ。
「橘は、velhoをどう思う?」
「……velhoは、誰かのために戦う人」
柊はあまり人に心を開かない。というよりも、開いた結果閉ざされたという方が近いだろう。velhoは皆自身の運命を背負い、それを拒むことはなく、ただ生活の在り方として受け入れている。この地において柊の理想は最早velhoそのものの否定だった。
梓にとって、橘の認識は正しいと言わざるを得ない。彼女の言葉は現代のvelhoに通ずるからだ。平和とは安寧であり、それは人々が穏やかで豊かな生活を送ることである。梓は頷いて橘の頭を撫でた。橘は何度か瞬きをして梓を見ている。きっと今、両者の間には少しばかりの誤解があった。
──どうして?
分かり合えないのは、どうして。いつまでも変わらないから共鳴は利用され、戦争は止まない。別所、柊は砲声の音を遠くに捉えながら移動していた。今日の戦場は風が強く砂埃が巻き上がっている。柊の左目を隠すように伸びた前髪が何度かはためいて、その顔を白日に晒そうと足掻いていた。風に混じり届く火薬の臭いと喧騒が柊の記憶を蘇らせる。まるでこの数年が夢のように消えていくみたいだった。
「目標地点はこの先です」
戦争の光景は数年間であまり進歩していなかった。技術の発達により人々に与えられたのは前よりも少しだけ良質な武器である。人を蟻のように潰せる巨大な建造物とか、一撃で地面に大穴を開けられるような爆撃はいまだ叶わず、戦争は常に人間の集団により繰り広げられる。そういった場所でvelhoの共鳴は近未来的で最新鋭の武器だった。徐々に大きくなる戦闘の音と開けていく視界が柊の面持ちを変える。その目は一切を映さず、それでいて強く見通すように鋭かった。
「velhoが出たぞ!」
誰かがそう叫んだ瞬間、全ての騒音が情報へと書き換えられていく。velhoを見て怖がる者、逃亡を図ろうとする者、勇敢にも武器をむけようとする者。誰かが呟いた「死神」という言葉はたちまち喧騒の中にかき消される。瞬く間に伝播する怯みの中で、柊だけが整然とそこに立っていた。
「ひれ伏せ」
その声は本能に刻まれた畏怖を覚醒させる。絶対的に抗えない存在がこの世にあることを思い出させる。人はいつだって無力であることを自覚させる。ガクンと強い衝撃が体を襲って、柊の視界が一瞬ブラックアウトした。高所からジャンプした後のような、じぃんとした鈍い重みが衝撃の後を追って脳へせりあがってくる。
闘争の抑圧、従順の上書き。他のvelhoなら数人で対処する人数を柊は一人でやってのけるのだから、当然柊の体には強い反発が刻まれる。力ある者はいつもそうだ。誰かの負担を肩代わりして、それ以上の負担まで背負わねばならない。足元には徐々に血の海が形成されていく。無力な敵兵が無抵抗のまま鎮圧されているのだ。その様を柊は見つめている。これは本来、velhoが背負う代償なのだろうか。
どうして。
「流石のお手並みですね」
少し離れた後ろに控えていた軍人が手を叩きながら柊の隣へ歩いてくる。柊は戦争の内部構造に興味がなかったが、指揮官は後ろで指揮を執り、人々が散っていく様を見てはただ駒として勘定することを知っている。つまるところ柊もまた駒の一つであった。
「貴方が帰ってきてくれてよかったと、私は本気で思っているんですよ。だって貴方なら全てを解決できるでしょ?」
「お前らも殺せば全部解決するかもな」
「ふふ、面白い冗談だ」
二人は前線基地へ引き返し簡単な報告を済ませ、本拠地へ着いたのは既に深夜を迎えた頃だった。底冷えする寒さで柊の息が白くなる。空に浮かぶ雲は少なく、高く留まった星々は座を形作るよう手を繋ぎ合っている。柊は出迎えた数人の軍人と共に建物内へと足を進めた。足音の響く無機質な箱はどこか外気を貫通するように冷え、心すらも凍り付かせるようだった。
「ご苦労」
一室で待機させられた柊に強面の将校はただ一言そう告げた。将校という立場から見れば、わざわざ馬の骨の元へ足を運んだだけでも十分な評価なのだろう。柊は特に返す言葉もなく、足早に部屋を出ていく将校を一瞥した。
隣国へ赴くまでに一日、戦争の拘束期間に数日、帰国までに一日。およそ一週間の間樹海を留守にしている柊は、この期間で橘のことを忘れたことはなかった。まだ幼い子供を一人置いてこの地へ来たことに不安はあれど後悔はしていない。橘を少しでも守ることが出来るなら柊はなんだってする覚悟だった。
狭い部屋、柊は薄い毛布を手に取り浅い眠りにつく。そうして明朝に出立した。
「ただいま」
深き樹海の木々が大きな葉を揺らしながら柊の帰還を歓迎する。柊は橘を力強く抱きしめ、橘は小さな体で懸命に手をまわした。その光景は柊の復帰前と何も変わらないようだったが、確かに柊は自分が変わってしまったと、落ち着いていく心の中で感じていた。数年の月日を経て薄れかけた戦地の影が再び色を取り戻したのだ。その影は更に根を張るよう深く柊に纏わりつき、velhoの怨嗟に燃料をくべる。どれだけの無垢材を差し出そうと穢れは落とせない。あの時嗅いだ火薬の臭いも、幹に撃ち込まれた銃弾も、今はなくとも確かに住処へ染料を落としたことを知っている。柊は、どこまで橘を守ることが出来るだろうか。

・・・ ・・・ ・・・

長い歴史の中で安寧が訪れたことは少ない。その方法に武力を用いるか否かで、諍いそのものは常に身近に存在する。だが今日に至るまで諍いは苛烈を極めており、velhoに当分の憩いは訪れそうになかった。
柊は何度か赤紙に署名し、橘を置いて隣国へ向かった。片目を失ったとはいえ柊の実力は今も折り紙付きだ。velhoで抜きん出た才能を持つ彼を再び扱えるとなれば隣国はより一層柊を求め、その甲斐あってか順調な戦績も残しつつある。貪欲に勝利を渇望するならば際限などない。隣国は更なる泥沼へ足を進め、velhoもまたより深い沼地へ進むしかなかった。
「まあ座ってくださいよ、これからが本題ですし」
「velhoが関わる必要はないはずだ」
「貴方だから、関わる必要があるんですよ」
渋々椅子に腰かける柊の前には張り付いた笑みを浮かべる軍人がいる。彼は柊がまだ燻る前からの付き合いがあり、柊が復帰した後も頻繁に柊の担当になっていた。この数年間で着実な出世を果たしているのだろう彼は、胸元の勲章がまた一つ増えていた。
「あんな生ぬるい戦争じゃあ、貴方も満足しないでしょ?」
軍人は懐から一本のナイフを取り出して自身の掌に押し当てた。ぱっくりと割れた傷口から流れ出す血が二人を隔てる机に滴り落ちる。静かに押し黙る柊の視線を受けて、軍人は不敵な笑みを浮かべてみせた。
「死神」
ゆっくりと、柊にも分かるような発音で、わざとらしく口を動かす。柊は怒りから少しだけ目を見開いた。この男が柊に何をさせようとしているのか、確信に変わったからだ。
「貴方にとっておきの仕事があります」
「……嫌だと言ったら?」
「一つ教えておきますね。貴方、戻ってきたあの日、笑ってたんですよ」
一人前となって初めての戦場で、柊は赤色を見た。あれは今よりもっと混乱した場所で、柊が共鳴する前からあちこちに血が飛び跳ねていた。連れ添いのvelhoが顔をしかめていたのを覚えている。
最も力を持つ者として戦況が苦しい中、本来一人では到底相手できない軍勢を前に、その身に受けきれない反発を受けた。耐え難い激痛と共に揺れる視界が暗転する寸前に見た、顔から滑り落ちる鮮やかな赤を覚えている。何度も取り換えた包帯の黒く染まった赤を見るたびに、その鮮血を思い出した。
命を奪う最も残忍で、確実な方法。それ故に戦場ではいつも血が流れている。だが人間は、人間であるから誰しもが血を流している。velhoも、柊も、橘も、皆誰かの為に血を流した。
「ねえ気付いてます? 貴方、今だって笑ってる。それはどうして?」
血を愛しく思うのは、どうして。
柊は無意識に口角へ手をやった。それがあまりにも滑稽に映ったのか、軍人は失笑してナイフを机へ置く。雑な処置でぐるぐると包帯を巻いた後、一度足を組み直して彼は柊へ迫った。それは深淵への誘いだった。

橘は、ある日を境に帰ってくる柊がひどく焦燥していることに気付いた。以前までは真っ先に抱擁してくれたにも関わらず、今は何度も手を洗って身を清めて、ようやく薄く笑って抱きしめるようになった。それでいて夜、一緒に眠る時の柊は何もかもを気にしていないように強く橘を抱きしめるのだ。
橘はまだ柊を知らない。どうして。そんなにも苦しそうなのは、どうして?
「梓に会いなよ」
「梓は何でも知ってるよ」
樹海の木々は物知りだ。だから柊が再び戦地へ赴いた日、橘も社へ顔を出した。柊が少しずつ変わっていくなら、橘に出来ることもきっと増えている。そのためにもっと深く柊のことを知らなければならないのだ。
「あれは変わり者だ。だが変わり者というのは、なにか一つのことに本気なだけで、唯一深く向き合える人でもある」
柊は昔から血が好きだった。さらに言えば、人の苦痛も好きだった。そしてそれがおかしいことも知っていた。velhoは集団生活を送っているようなものだから噂話は絶えない。集落の目は等しく全てに向かれており、誰を取りこぼすことだってない。良いことも悪いことも、人の価値観故の行動も全て大勢の第三者により吟味される。閉鎖的空間ではよくある話だ。その良し悪しは最終的な常識となり、人々はみな常識に沿って人格を形成していく。柊もそれに倣って、自身の常識を築き上げていった。
血と苦痛を好むのはおかしいことだ。間違っている。快感の為に他者を傷つけるなどもってのほかだ。だがvelhoは一人前になれば戦地へ赴き、戦場では常に血と苦痛が伴っている。今まで自己否定すらしてきたものが、ここでは正当化され飛び交っているのだ。柊は気が触れそうだった。
velhoは皆怨嗟に囚われている。平和をもたらす者と持ち上げられ、いつまでも寄りかかられた姿勢を正せない。傷つけることが悪ならば、武力を用いず平伏させるvelhoだって悪だ。本来あっていい形はこうではない。velhoの慣例の中で柊の抑圧は方向性を変え、やがて反旗を翻す火種となった。自身の異常性を知っているが故に、velhoの盲目性を許せなくなったのだ。
「橘、君はどうしたい?」
別に木々はずっと素直なわけではなくて、梓は何でも知っているわけじゃないんだなと橘は思った。
柊の苦しみは橘には取り除けない。橘がvelhoとして戦地へ赴けば、柊はvelhoとしての橘を見て苦しむだろう。それでも、せめて焦燥だけは和らげてやりたいのだ。そうすれば柊は帰って一番にきつく抱きしめてくれるようになるかもしれない。橘にとって、少しでも柊の精神状態が快方へ向かってくれるならこれ以上のことはなかった。
橘は不意に内ポケットの木簡を思い出す。これは知恵をもって勇気を与える祝福だ。知識は新芽を育むに充分な栄養を孕んでいて、橘は物事を知るだけの足を踏みだした。
──sinulle、siunaus。
「柊に必要なのは、祝福」
柊はよく分からないままの橘に教えを説いてくれた。あの総会しか顔を出してないところから察するに相当集落のことが嫌いにも関わらず、授与式に参加してくれた。誰よりも心配して守ってくれた。ずっと大切にされていたことを橘は知っている。ならば橘は少しでも、この力で柊のことを大切だと伝えたい。
その答えに、梓は橘の頭を優しく撫でた。梓は、もう自分では柊を救うことは出来ないと思っている。だからこそ彼に愛される橘が代わりに引き受けてくれるなら、願ってもないことだった。

柊はいつものように戦場へ立ち、血を携え、深い闇へと溺れていく。重い扉を開ける度に柊は消えてしまいたいと思った。仕事用にと分けた手袋は丁寧に洗って、なるべく橘に見せないよう保管していたが、それをはめる手だけは替えが利かない。穢れが繊維を伝って皮膚の奥底に沈殿するようで、柊は何度も手を洗った。
今日も基地で厳重に管理された一室から退出する。部屋に染み付いた血の匂いが体に移っていないか不安だった。これだけは、この様だけは持ち帰るわけにはいかないのだ。恐らくvelhoが誰も経験したことのない部分へ柊は踏み込んでいる。宿命と怨嗟の轍が残らないよう、陰湿を悟られないよう、柊は常に息を殺していた。これ以上velhoに争いが刻まれてはいけない。教えられる道徳に傷がつけば、人としての尊厳すらも失いかねない。かつての賢人が砂の一粒であろうと、その実velhoになんの栄光がなくとも、たしかに今自分達はここで生きている。
早く帰りたい。柊はただその一心で、碌な休息もとらず帰路へついた。夜道で襲い掛かる獣も暗く見えない足元も柊にはどうでもよかった。あの場に留まるほどおかしくなりそうで、一刻も早く立ち去りたかったのだ。鮮血はいつだって美しい。だが、体内から零れる血を見て内心悦びを覚えることが心底気持ち悪い。嫌悪するべきものは嫌悪し、くだらない陰謀の為に正当化されるべきではない。倫理から外れるほど、どこか輝いて見えるのは間違っている。
だから俺は間違っている。柊は心の中でそう呟いた。
「おかえり」
翌日先に声をかけたのは橘の方だった。柊は軽く挨拶をして足早に立ち去ろうとしたが、その手を橘が握りしめる。橘にとって何よりも大事な話をするために、どこへも行ってほしくなかったのだ。柊は困った顔で出来るだけの距離を取ろうとして最後に諦めた。拒絶できないのは柊が優しいからだった。
橘の口が動く。真っ直ぐな目とは裏腹に何度か言い淀んで、遠回りして、そうして橘の願いが柊を貫いた。柊の呼吸が浅くなる。どうして。
「わたし、柊に苦しんでほしくない」
橘が変わっていくのは、どうして?
足元が崩れそうな感覚があった。それは反発よりずっと柊の体に残り続けて、気を緩めば涙に変わりそうだった。橘のことは守ってやりたかったのに、velhoはやはり怨嗟から逃れられない。橘には何も知らず純白のまま育ってほしかった。それが土台無理な話なのは、柊自身が誰よりも穢れてしまったからだろうか。
「どう、して」
ずっと柊の脳を駆け巡り続けた問いが、初めて柊の口から零れ出た。在り方に疑問を抱いた日から柊はその答えを探し続けている。それが一人では到底見つからないものだとしても、柊は今までずっと一人で求めてきた。橘は柊を抱きしめる。何も変わらない穏やかで少し寂しい、温かい大地の香りは、橘の好きな匂いだ。
「一緒にいこう」
「……お前とは、一緒に行けないよ。俺は、お前とは」
「じゃあ、一緒にいくから」
これは誘いではなく決断だ。橘に柊の苦しみは拭えない。だが少しばかりの共有をすることは出来る。共に柊の嘆きを見に行って、柊と共鳴することが出来る。反発のない感受は橘が与えられる祝福だ。velhoの怨嗟などでは決してない。橘が自ら選んだ道にvelhoが、柊がいる。それだけだ。
「大丈夫だよ」
逃げることも、怯えることもしなくていい。笑いかけた橘に、なんと返せばいいのか柊には分からなかった。柊が怖いのは戦争や宿命などではない。橘が血濡れの影に追いつかれてしまうことが怖いのだ。守ってやれていると信じていたが、静謐が奪われた日から柊はもう橘のことを守り切ることは出来なくなった。この先更に迫りくる黒煙を振り払うことは、きっと柊には難しくなっていく。
柊にとって、橘がこの場所で静かに、穏やかに生きてくれれば満足だった。祝福は博愛の証拠だ。ならばいつか戻れないところまで柊が歩みを進めても、その帰りを待ってくれるだけでよかった。だが選ばせてしまったのは紛れもなく柊自身なのだ。velhoの怨嗟は隣人から生まれている。無垢な幼木を滅びへ巻き込んだのは病を患った老木だった。柊は静かに目を閉じて一言、ごめんと呟いた。

翌日、柊は珍しく集落へ踏み入った。目的地は梓のいる社だ。柊と梓はかねてよりの友人である。とはいえそれは幼少の頃に義兄弟の真似事をしていただけで、二人は歳を重ねるごとに疎遠になった。梓は集落の長になるべく祭司の仕事に就くようになり、柊は力あるvelhoとして戦地へ赴くようになったからだ。二人の間には学問と武道のように、力と知識に大きな差があった。興味の矛先は似たものだったが、二人に求められるものは違う。いつしか柊は集落を立ち去り、梓は集落の取りまとめ役となった。
先見を持つ|viisaus《叡智》は柊の来訪を知っていたのだろう。集落を見下ろす大樹が柊の前に一枚の葉を落とす。大樹なりの挨拶だ。柊は無視して社の内部、梓の書斎へと進んでいく。その表情は険しかった。
全て梓が教えたのだ。柊が隠していたことも、消し去ろうとしていたことも、全て。橘と柊は違う。橘には知らなくていいことが沢山あったはずだ。橘の決心が柊を理解してしまったが故ならば、柊のことを知らなければ橘はvelhoとしての決断を下すことだってなかった。無知は罪と言うが、柊にとって無知は救済だった。知れば知るほど元の眼には戻れないことを柊は知っている。どんな薬でも過剰摂取すれば毒薬だ。成長は時に人を苦しめる。
「恨んでいるか?」
柊が書斎に入るなり、開幕一番に梓は柊に問いかけた。その口ぶりは、まるでこの瞬間に柊がここへ来ることを知っていたようだった。恐らく|viisaus《叡智》が告げ口でもしたのだろう。それか、橘へ教えたことを梓自身が反省していたのかもしれない。
「俺が恨んでるわけないだろう」
梓は整理していた棚から目を外し、ようやく柊の顔を見た。その表情はいつもと変わらず、凛としながらも憂いを帯びている。梓は少しだけ気を緩ませて、ソファを軽く叩いて、自分は反対側のソファへ腰かけた。
「我ら俄然と手を伸ばしゆきても、浮雲の月は手中に収まるところを知らず」
柊もまた促された方のソファへ腰かける。幼い頃はよく二人で樹海を駆けまわり遊んでいたことを思い出した。あの頃はまだ幼気な童心が、くすみない星のように輝いていた。少し年上の梓が一人前と認められた時は、柊がせがんで木簡を間近で見させてもらったこともある。そう思えば、当時はどちらも可愛げのある子供だったのだ。それがいつしか一人前になり、声変わりを迎え、背丈も伸びた。お互いが交わることは滅多になくなってしまったのは必然であったが、今も梓は柊のことを気にかけていた。
「なれど夜空には未だ月在らん。その距離、互いに測れずとも御身の傍隣には必ず月が居るのだ」
「……本当は喧嘩でもしてやるつもりだった。でも、それもお前からすれば馬鹿らしいよな」
velhoはいつしか宿命を与えられ、それが使命となり怨嗟を生んだ。恨みは鎖をより強固にする材料となる。誰かを恨めば恨むほどに、憎しみが募るほどに、心優しい隣人はより一層渦の中心へ引きずり込まれる。だからこそ柊は、今までに一度も他人を恨んだことはなかった。柊は己を博愛とは到底言えなかったが、例え偏愛だとしても、柊の矜持は尊いものであった。
「橘が望んだんだ、柊」
「そうだとしても、あの子を盾にするなよ」
柊が橘を庇護するように、橘が柊に祝福を与えたように、velhoは全員が優しい。例え本質を理解できずとも、いつも誰かを気にかけている。集落に住まう人々だってそうだ。柊が受け止められないだけで、一人立ち去った柊のことを他のvelhoが心配していることも気付いていた。だからこそ梓が橘に教えたことも梓の見せた一つの優しさだ。それならば柊が頭ごなしに梓を罵倒するのは間違っている。「恨んでいるか」なんて言葉は、普通そう簡単に出てくるものじゃない。
柊は梓に見えない場所で外套を握りしめた。この外套にはvelhoの宿命と過去の歴史が刻まれている。赤色に染まる前の、賢人が樹海を切り拓いた時から続く、velhoがまだ名を持つ前からの歴史。今ではほとんどのvelhoが忘れてしまった新緑の時代を柊は忘れずにいる。柊の目指すvelhoの姿は過去にあった。だが時代は前進し続けて、柊を置いていくことはない。全てが前を向き続けるのなら、柊はこの先を変えるために願い続ける必要がある。
橘の代わりに戦地へ赴いたのだって橘の未来を照らすためだ。橘がこの争いに巻き込まれることを望んだなら、柊はなるべく早く橘に朝日を浴びさせる。もう守りきれないのなら、橘を逃がし続けられないのなら、今は見えないvelhoの終着点を柊が与えてやる。
一緒に行こうと最初に声をかけたのは柊の方だった。
「梓。俺はもう誰にも顔向け出来ないくらい穢れたよ。それでも、祝福と共にあってもいいかな」
「勿論。それが全てのvelhoに与えられた権利だ」
「……sinulle、siunaus」
長い月日をかけて、柊はようやく苦痛の重荷を現実へ置くことが出来た。それは一種の諦めだった。柊は呟くように祝福の言葉を口にする。“君”という対象は誰でもない。だがその“君”とは橘のことであり、ひいては柊自身のことだった。
この樹海に撒かれた宿命は柊にとって全てが毒であり、今日まで柊の体を蝕み続けてきた。そうして形作られた人格と先天的な性格が互いに牙を向け合っている。誰かも分からぬ影が背中を押し、平和をもたらす者として凄惨な現場へと突き落している。velhoは覚悟もなく流されるまま、適当な理由をつけて行為を正当化している。全てが理想と現実との乖離によって生み出された柊の苦痛だ。そも大勢のvelhoが疑いの余地もなく戦いに身を投じているのなら、初めから怨嗟とは柊が定義した苦難の証明である。だからこそ理想ではなく現実を見据えた時、柊には今示されている道を歩くことしか出来なかった。この時初めて、あの問いが柊の脳内から消え去っていた。
「君に祝福を。二人に安寧と泰平が訪れんことを祈っている」
柊は自傷気味に笑った。こうなってしまった以上、今更安寧が訪れたところで、それはもう本当の安寧とは言えないだろう。柊の望む安寧とは初めから静かな暮らしを得ることで実現する。
だが泰平はきっとこの先で迎えられる。いつか老木の樹齢が千を超えた頃、無意味な争いにvelhoの意味が見出されなくなっていれば、それは柊の望む泰平だ。
柊は静かに席を立つ。いまだ渦巻く後悔こそあれど、柊は叶えたい未来の為に踏み出さねばならない。誰かを守るのはひどく難しいことを柊は知った。集落の人々が柊の求める優しさを差し出すことが出来なかったのも仕方がなかったのだ。それでも柊がいまだ見捨てられていないように、柊も見捨てることは出来ない。よりよい守護の方法を模索しながら、これからも歩み続けていく。粉塵の香りがもうすぐそこまで近づいていた。

・・・ ・・・ ・・・

橘が隣国の招集に応えたのは、橘が十二の誕生日を迎えた後だった。
初夏の陽気が近づく中で拠点内はいまだ冷ややかだ。柊と橘は黙って簡素な椅子へ腰かけ軍人の迎えを待っていた。最前線へ向かえばもう逃げ場はない。橘は初めて大勢を相手に共鳴を使う。柊にはそれが酷く恐ろしかった。いくら橘が柊すらも超える力ある者だとしても、大軍を相手取れば相応の反発が返ってくる。そして、やはり同年代より一回り小さい彼女はまだ幼いと言わずを得ない。その体躯に今まで受けたことのない反発が刻まれる時、橘は本当の意味でvelhoを知るだろう。velhoの置かれた境遇は幼子にとってあまりにも残酷だ。
柊は橘がこれから受ける痛みを理解できる。だが痛みを引き受けることは出来ない。一緒に行った、その先はいつだって一人だ。偏愛の柊が片目を失う戦場は、博愛の橘の命をいくらでも奪い取れる。向けられた刃の切っ先を柊が掴まねばならない。悶々と柊の心中が渦巻き続ける中、橘はいつもと変わらない態度で大人しく座っていた。橘には迷いがなかった。後悔も怯えも自信もなく、ただ普段通りの凪いだ心持ちであった。
「お待たせしました」
薄い布の垂れ幕が捲られて、二人は僅かに差し込む太陽の光を浴びた。柊は橘の手を強く握りしめる。橘が見上げた柊の表情は鋭く真っ直ぐで、何にも代えがたい強者の面持ちだった。
隣国の戦線は更に押し上げられ、既に侵略先の大都市にまで足を踏み入れている。相手は必死に耐えているようだが、この都市が陥落するのも時間の問題だろう。なにせこちら側にはvelhoという人間兵器が投入されているのだ。相手は共鳴による強制的な敗北を止めない限り戦争という土俵にすら立つことを許されない。
──velhoは不死身ではない。
鉛の銃弾を受ければ死に至るし、大量の血液を流しても当然死ぬ生き物だ。敵国がvelhoを敵視する以上、velhoが戦争に関わる以上、敵の大軍に単身で乗り込むvelhoには当然命の危機も付き纏う。移動中は国が最低限身の安全を守ってくれるにしても、彼らだって万能ではない。かつて戦死したvelhoを柊は沢山知っている。柊が片目の犠牲だけで済んでいるのも、それが反発によることも、ある意味では幸運と言えた。velhoが共鳴を使うことで容易く刈り取られる命があるように、人が武器を使うことでvelhoの命も容易に摘み取れる。共鳴を持っているだけで、所詮は等しく人間という雑草の一つにすぎない。命の本質は重くとも、その見た目は軽く浅はかだ。
都市の中央に流れる河がキラキラと輝いているのを柊は見た。美しいと思った。河が歴史なら、この輝きこそが未来に根を生やす希望であり革命だ。だが河そのものは深い汚れを蓄え形を成している。今、柊はその水面を形成する澱になろうとしている。そうして柊が成した澱に陽光が当たるのだ。
道には崩れた瓦礫があちこちに散乱している。住人はとうに避難して、雨風に晒された家具が徐々に腐敗を始めていた。道の先から戦いの音が聞こえてくる。包囲網を展開した国の作戦により、敵軍は徐々に一つのまとまりへ姿を変えていた。全てvelhoを一番上手く扱うための戦略だ。柊は橘を見た。今もなお表情を変えることのない橘は一体何を考えているのだろう。他のvelhoと同じように使命のまま突き進んでいるのだろうか。それとも彼女にも疑問があるのだろうか。例えば。
──強くあれるのは。
「velhoだ!」
柊にとって銃口を向けられるのは初めてではない。家に軍人がやってくるより前からその筒口が何度も柊を狙ってきた。だから死なないように、いつだって引き金を引かれるより先に柊は力を振るうのだ。
柊はそっと橘の頭に手を置いた。橘より先に自分が共鳴を使ってやればいいとも考えたが、きっと橘はそれを許さないだろう。不安を消し去るように柊は橘に声をかけた。橘の体はひとつも緊張していなかった。
「集中して。ただ相手を降伏させればいい」
「うん」
パツンと何かが弾けたような音がして前に突き出した橘の手が震えた。そうして静かに橘は手をおろす。橘の身に返ってきた反発は、言ってみればその程度だった。
velhoが共鳴を使う時、まず人の心に触れる必要がある。故に感受とは橘に一番相応しい言葉だった。橘は正に博愛である。彼女は柊をはじめとする大抵のvelhoが抑圧し上書きする方法ではなく、寛容と説得を用いてその心情を書き換えたのだ。敵が抱く怒りの矛先をすり替えたといってもいいだろう。真に憎むべきはvelhoや敵ではなく、この戦争そのものである。橘は平和をもたらす者として戦地に立っていた。
奇跡だと、柊は息を呑んだ。武器を下ろした彼らの顔は一人も歪んでいない。ただ茫然と雲間から覗く日を浴びて二人のvelhoを見ていた。彼らの中でこの一瞬、時が止まったような感覚だった。人と人は本来争う必要などなく、相手が誰であれさして関係はない。手を取り合えないなら傍観でいい。それでもvelhoが樹木と共存するように、人種も立場も生活の一部となれば、きっと穏やかな日常が訪れる。安寧と泰平がいつかの未来で待っている。橘が柊の袖元を小さく引っ張り、柊を見上げ薄く微笑んだ。柊は不意に、この小さな愛弟子に「大丈夫だよ」と言われた気がした。
自軍が戦意喪失した敵軍の身柄を拘束し始めたところで柊は我に返った。そして柊は橘を抱きかかえ、その光景から目を逸らすよう戦場を後にする。すぐさま血が流れなかったことは幸いだ。どれだけ橘が美しい賢人のようなvelhoだとしても凄惨な現場に立ち会わせるわけにもいかない。むしろ祝福を宿しているからこそ穢してはならない。新緑に芽吹いた若葉には朝露がかかる、その程度でいてほしい。日が差し込むのならその身を譲り、暴雨が訪れるのなら懸命に守ってやる。それが柊だ。橘は柊に抱きかかえられたまま大人しく体を預けていた。
拠点に戻れば橘の仕事は終了だ。長い距離を移動して到着した本拠地で、橘は複数の軍人から称賛を得ていた。橘の隣にいるはずの柊は別任務で席を外している。こんな場所に橘を一人残すことになる柊の苦しみは推して量るべきだろう。ともあれ橘は決して口数の多い外交的な子供ではなかったから、軍人も幾らか声をかけた後さっさと部屋を後にした。橘は窓もない簡素な部屋でぼんやりと柊の迎えを待っていた。
「いやはや、まさか貴方みたいなのからあんな子供が出てくるとはね。まあでも、確かに貴方も天才ですから。そういう意味では良くお似合いですよ」
ペラペラとよく回る口で軍人は柊に話しかける。柊の返答など初めから期待していないような、だが柊の精神を妙に逆撫でするような話題ばかりで柊はうんざりしていた。柊の担当になることの多いこの軍人は橘のことも気に入った様子だが、彼の間違った社交性の餌食にならないことを祈るばかりだ。柊は重く冷たい扉を開ける。柊のよく知った、馴染み深い錆びた鉄の匂いが柊を歓迎していた。
「いつもいい子ぶるの、疲れるでしょ?」
柊の背後で、軍人が薄ら笑いを浮かべているのが手に取るように分かった。
「いいんですよ。血と苦痛に興奮しても、ここだけは誰も貴方を咎めない」
「余計なお世話だ」
柊は戦場で死神と恐れられている。その圧倒的な実力と、他者に一切の気遣いを見せない姿勢が、まるで死を与える独裁者のようであるからだ。軍人にとって、そんな柊が橘の師であることは非常に愉快な事柄であった。柊が誰かを育てること自体が面白くて堪らない。ましてや橘の共鳴はどうやら柊の共鳴とは少し違うらしいのは、拘束した捕虜達を見れば一目瞭然だ。
捕虜の顔を見るに、橘は天使だ。死神が天使を育てるなど、これほど滑稽なことがあり得るだろうか。軍人は心の中で声をあげて笑った。そして一通り好き勝手扱った後、ふぅ……と息を吐いた。
──死神も天使も、結局どちらも死の象徴に変わりないな。
行く先が天国か地獄か、慈愛か酷薄か。二人を分かつのは結果に過ぎない。

泥沼の深淵から、今後柊は這い上がることが出来るだろうか。絶叫と共に広がる汚物と舞い踊る血が、錆びついた鎖の鈍い音と共に部屋を満たしていく。こんなことをして一体何になるというのだ。橘の見せた輝きはあれほど美しかったのに、今もなおこの部屋では悪意が蔓延しているばかりである。それも戦争が終われば、表面が浄化されれば、徐々に濾過されていくだろうか。
血と苦痛が柊を興奮させる。奥底に眠らせたはずの邪な背徳感がせり上がってくる。冷静な自分の耳元へもう一人の自分が顔を寄せようとしている。囁きかけるのだ。それでいいと、そのままでいいと。
いいわけがない、と絶命した裸体を前に柊は佇んでいた。血も苦痛も柊の奥底を満たす潤いの一つにはなるだろう。だがvelhoが他国の手を借りずとも生活できないわけではないように、柊も別に血や苦痛が必ずしも必要なわけではないのだ。それに今は隣に橘がいてくれる。柊の渇きは橘が潤せる。生臭い殺傷ではなく、ただ当たり前の日常生活があればいい。
「……こんなこと、もうやめてしまおう」
柊はたったそれっぽちの小さな覚悟ですら、今まで言えずにここまで来てしまった。もしかすれば、戦場を離れてから数年間浴びられなかった死臭を取り戻そうとしていたのかもしれない。おぞましかった。あれだけの平穏を願っておきながら未だ柊は平穏とは真逆に位置して、あろうことか享受までしていたのだ。そのくせ橘に見せる顔もなく、彼女にいらぬ心配までかけさせた。足を踏み出せなかったくせに、柊が引き込んだくせに、怨嗟にばかり目を向けた。もっと早くに深淵へ背を向けていたのなら、橘だって巻き込まれずに済んだかもしれない。柊はいつも選択を間違えてばかりだ。
重い扉を押し開けて柊は廊下へ出た。やはりいつものように体に纏わりつく臭いや汚れが気になった。今日は橘も一緒なのだ、より濃い臭気を漂わせ彼女と顔を合わせなければならない。汚れた手袋を入れた袋はきつく口を縛り、柊は見える範囲で体に血痕が付着していないかを確認する。部下から連絡が入っていたのか、軍人がその様子を見て笑いながら柊を迎えに来た。
「今日もご苦労様です」
そうして軍人が柊と目を合わせた時、軍人は言葉に詰まった。柊はもう無意識の笑みを浮かべることなく、ただ硬い表情で真っ直ぐ軍人を見ているのだ。それはまるで戦場に行く前のような、自分が全てを終わらせてやると気の張った顔。柊が僅かに纏った汚臭すら、柊の背に控える霊のように姿を変えていく。
「俺は、今日でただのvelhoに戻る」
「……は?」
「初めからこんなこと、velhoがやる必要はなかったんだ」
全て変えようと思っていた。いつだって、自分が動くことで変わればいいと柊は願っていた。集落を出ればvelhoがその意義を考え目を覚ましてくれるかもしれない。柊に続いて誰かも同じ志を得てくれるかもしれない。戦場に行かなければ他国はvelhoとの関係性を見直すかもしれない。
橘を迎えてからは、むしろ自分が戦場へ行くことで橘を守れると思った。橘にくっついたvelhoの運命を変えられると信じていた。それがどうだ。変えられたのは運命ではなく、ただ柊自身だった。
「それ、本気で言ってます?」
「俺が戻ってきたのも、今歯向かってるのも、お前なら分かるだろ」
「ふん。じゃあ貴方の後継を探さないとね。……橘なんて、最有力候補じゃないですか?」
「俺だから任せた仕事を他のvelhoに振るか。俺ほどの残虐性が見込めるといいな」
柊は橘に弱い、その弱点を突けば柊のことは思いのまま動かせる都合の良い駒であった。それが挑発にすら動じないとは一体どういう心境の変化か。軍人は心内で舌打ちした。
軍人とvelhoは別の人種だ。国も、故郷も違い、関係性も違う。だからこそ双方の心中は図れない。柊は橘と共に歩むことに決め、怨嗟の正体を突き止めた。橘が戦場へ立ってしまったことでもう振り返ることが出来なくなった。この先は一緒に行く。柊に祝福を与えてくれた橘に、今度は柊が祝福を返す番だ。
柊は軍人を置いて足早にその場を後にする。柊は、もし橘に悪臭の理由を尋ねられたら正直に話そうと思った。結局柊はいつも橘に甘えてばかりだ。だから次は真っ直ぐ手を引いてやりたい。力の限りを尽くして、橘の未来に平和をもたらしてやる。柊は彼女の待つ部屋の扉へ手をかけた。
「おかえり、柊」
柊の大切な愛弟子が、柊に微笑みかけた。



velho



温かくて優しい大地の香りがする。橘を拾い育ててくれた、他でもない橘の大切な人。
家に帰り寝支度を済ませた橘はベッドの上で柊を抱きしめた。柊は微笑んで頭を撫でてくれる。橘はその温もりが好きだった。
柊が今まで吸い上げ続けた土壌の毒素は、これから橘が時間をかけて綺麗に取り除いてやれる。痛みの肩代わりは出来ずとも、互いの理解はきっと叶う。ならもう怖いものは一つもないだろう。

一緒に行こう。この先も。そして私達はこの力で、貴方へ平和をもたらす。

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