法定速度

「好きなんですか」
「えっ?」
「クロワッサン」
 最初にそう聞かれたのは初めて七海さんの送迎をした時だった。早めに迎えに行って時間までにささっと朝ごはんを食べようと思ったわたしは、車の中でクロワッサンを食べていた。家の近くのパン屋で買ったクロワッサンは無理矢理鞄の中に突っ込んだせいでちょっとだけボロボロになっていたけど普通に美味しかった。
 確かに七海さんが乗る前に食べ終わったはずなのにどこから見られていたんだろう。ちょっと恥ずかしくなって「すみません」と謝ると彼は眼鏡を触りながら「別に謝るようなことではありませんよ」と言ってくれた。
 それから何度か七海さんの送迎をした。いつもクールな雰囲気だったけれど口数が少ないだけでコミュニケーションは良好で、仕事に対してすごく真面目で、五条さんと比べるとすごくまともで、そしていつも優しかった。
「今日は何を食べてたんですか?」
「えっ」
「さっきあなたが食べていたパンです」
 わたしが車で朝ごはんを食べた日は決まってそう聞かれる。伊地知くんからは「美味しくて高い店を知っているタイプの大人です」と聞いていたのでグルメな人なんだろうなと思っていたけど、そのなかでも無類のパン好きなのかもしれない。
 後ろに座る七海さんを見ると眼鏡が逆光になっていて表情は少し見えにくかった。チラチラと伺うようにしてそっちを見ながらわたしはわざとらしく思い出す素振りをする。
「今日はコロッケパンです」
「コロッケパン」
「え!?知らないんですか!?」
「知ってますよ。私をなんだと思ってるんですか」
「す、すみません…」
 でも知らないと言われたら確かに知らなそうという気がしなくもない雰囲気がある。良い意味で。とは言えなかった。
 失礼なことを言ってしまったかなと恐る恐る彼のほうを確認すると、ぱちっと目が合う。そのまま少しだけ、気のせいかもしれないけど、笑われた気がする。
 彼の笑顔を見るのが初めてだったのと、なんだかこれ以上見ているのは恐れ多い気がしてすぐに視線を進行方向に戻した。
「コロッケパンなら高専の近くにあるパン屋がおすすめですよ」
 後ろからふいに聞こえてきた言葉にはすぐに反応できなかった。どこかやわらかさを孕んだ声色が、きっと彼が穏やかに微笑んでいるであろうことを想像させる。
「七海さんも知ってたんですね、あのパン屋さん」
「そうですね。今はなくなってしまったんですが、昔はカスクートが売っていたので高専に寄った時によく買ってました」
「カスクート?」
 聞き慣れない単語に聞き返しながら、見ないようにしていたのを忘れて反射的に七海さんを見た。
「私の好きなパンです」
 今度は確かに微笑んでいて、その上あんまり優しい顔をして言うからどう反応したらいいのか分からなくなってしまった。
 これ以上彼を見つめていたらいよいよ運転ができなくなりそうなので無理矢理に目を離した。
 休まず進み続けるタイヤの音が車内に響く。だんだんと近づいてくる今日の任務地が嬉しいような寂しいような、そんな形容し難い気持ちが湧き出てくる。
「…今度、カスクート食べてみますね」
「ええ。ぜひ食べてみてください」
 目を伏せながらそう言う姿も、今までにないような、七海さんのあたたかさみたいなものを感じてどうしてか心臓が早くなっていく。
 車はとうとう任務地に着いた。彼は素早くクルマから降りて白いスーツの襟を正す。「気をつけてください」とその背中に声をかけると、七海さんはくるりとこちらを振り向いた。
「口に合わなかったら言ってください。他に美味しいパンを探してきます」
「そっそんな!大丈夫です!」
「いいえ、ダメです」
「え?」
「あなたが美味しそうに食べている姿を見るのは、私の最近の趣味なので」
 ふわっと音が聞こえそうなやわらかい微笑みを残して七海さんは帳の中へと進んで行った。これからあの禍々しい呪霊を退治しに行く人間とは思えない爽やかさだったし、少しきらきらしてすら見えた。
 次に七海さんの送迎を担当するのはいつだったろう。けれどあんなふうに言われたら、もういつも通りに大きな口を開けてパンを食べられないかもしれない。

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