準備


草若ちゃん、そろそろ自分の部屋にも冷蔵庫入れたらええんとちゃうかなあ、という言葉にぱっと目が覚めた。
「これお父ちゃんに見つかったらあかんわ……。僕が帰ってくるまで見つかりませんように~。」
兄さんの部屋の大きなベッドに二人寝られることにまだ気づいていないらしい子どもの声に続いて、柏手を打つ音まで聞こえて来た。
昨日の夜は戻りが妙に遅くなって、あの人のいる寝床に戻って気配で起こしてまうのが可哀想で一階のリビングで寝ようとしたとこに、気を利かせたらしい子どもが先んじて毛布を置いてくれていたので有難くそれをひっかぶって寝たところが、結局は寝ているうちにいつの間にか毛布からは顔を出していた。そういう流れだ。こないして明かりがつくと覚醒してしまうという流れはもうパターン化している。
こういう時のために高いソファを買ったというのに、このソファときたら、あの人の足のだと膝がはみ出るくらいの長さしかない。そうでなくとも他人に甘やかされたい人を一人で寝かせることはしたくなかったので、こうして僕だけが時々使っているというところだった。
そこそこの年になった子どもは、パンを焼き、前日に若狭の家から貰って来たおかずを食べて出て行くことを覚えていた。
食事の支度を耳で聞いて、身体を起こそうと思うがそのまま目を瞑って寝そべっていることにした。狸寝入りとはまた違う。夏の朝は早起きする方が何かと便がいいと思いながらも、酒が入った翌朝は思うように起きることが出来ない。
というよりは、このソファに足を預けている状態から格好を付けて起き上がることが難しいというのも理由のひとつだと言えた。後は、まあ頭が痛いというほどは飲んでいないはずだが、酒に弱くなったというのも理由のひとつだろう。
パンと煮物やと牛乳はなんかあかんからご飯炊きたいけど、炊飯器を動かすと部屋が暑くなるのも嫌や~という子どもらしい理屈から、子どもは今日もパンを焼いている。端の方が狐色に焼ける匂いがする。
前の日に多めに素麺茹でといて朝も素麵やとあかんのか、と言うと、それやと朝の気分出ぇへんもん、と言うので結局パンになる。
食事をして、片付けはこちらに任せて出て行く。
昔からそういうルーティンだったが、このところは親の加齢を気にしてか、自分の皿とトースターの受け皿の部分を洗うところまではしていくようになった。
食べ終わって皿を片付けた後は、エアコンのリモコンボタンを押す音。
「お父ちゃん、そろそろ起きて洗濯せんと、もう外が割と暑いで~。」
プール行ってきます、という大きな声の後にどたどたと足音が消えて行ったところで、身体を起こそうと肘を引くと、タイミングを見計らったかのように「おチビ出ってなあ、」と階段を降りてくる音とあの人の声が聞こえてきた。
「珍しいですね、朝こないして遅く出て来るの。」
「……いや、今日は下に降りる前に、ご飯食べへんか~、てちゃんと聞いてくれたからなあ。後五分、てオレが言うたら諦めてくれたけど。」
「それは諦めるでしょう、兄さん昔っから、後五分て言い出したら、その後起きた試しないやないですか。」と言うと、草若兄さんはそうやったか、と誤魔化すように頭を掻いた。
「今日はお前も起きへんかったんやな。」
寝坊仲間だな、とは思ったが、相手が調子に乗る気がしたので口にはしない。
「酒が身体に残ってるみたいで。」と言うと、水飲んでもっぺんシャワー浴びたらええわ、という答えが返ってきた。
「水いるか?」
「自分で飲みます。」と言うと、兄弟子はパン焼くで、と言ってテーブルに残っていた袋から二枚取り出してトースターに突っ込んでタイマーをセットした。それから、牛乳を出すだけ出すと、食卓に座って子どもが置いていった新聞を広げ始めた。
冷房利かせたあるからて飲む分だけコップに入れて後で戻さんと、と思うけど、そうするとこちらが起きて来るのを分かっているのである。
腹が立つというかなんというか。
「オレも飲んだ次の日はあかんけど、お前は珍しいんと違うか。いつも適当に切り上げとるやろ。」
「僕も、過ごしたつもりはないですけど。多少は弱くなってるんと違いますかね。」
「そんな他人事みたいに言うて……。」
「ちょっと起こしてくれませんか?」
腕を伸ばすと、甘えんな、ボケと先に手が飛んでくるかと思ったら、「そんくらいならええけど、」という返事が返ってきた。
素直にしゃがんで肩を貸してくれたので、今日は優しいですね、と言うと、「オレとお前でそのうち老老介護になるかもしれへんから、準備しとこうと思ってな。」と妙なことを言い出した。
視線が近い間にキスでもしておこうと思ってたのに、気が削がれたという顔になると相手がしてやったり、という顔で笑っている。
「敬老の日はまだ先ですけど。」
「もう8月になってしもたし、9月までなんかどうせ、アッという間やて。」
チューはシャワー浴びて酒抜けたらな、と妙に調子のいい顔をしている。
「ところで兄さん。」
「なんや?」
「冷蔵庫に何入れてるんですか?」と言うと、途端に劣勢になったと感じたのか視線を逸らして口笛を吹いた。
「………あとのお楽しみや。」と言いながら、場を取り繕うためにか、牛乳を入れるコップを棚から取り出している。
どうせまた高いアイスクリームでも買ってきたんだろう。
まあええか。
シャワー浴びてきます、というと、話題が逸れたのにホッとしたのか、そないせえ、オレ先に食べとるからな、というご機嫌な声が返ってきた。
後で別のもので腹いっぱいにさせたりますからね、と腹の中で考えたけど、とりあえずそれは口にしないことにした。

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