Strawberry Moon Midnight

 窓から差し込んだ月明かりが、ふたりを優しく包んでいる。彼女の白い肌には玉のような汗が浮かんでいて、それは自分も同じだった。
 お互いに一糸纏わぬ姿になって、ベッドの上で抱き締め合い、唇を合わせて全てに触れて。愛しい人とこんな風になれて何よりも嬉しいはずなのに、自分の中にはモヤモヤしたものが残り続けている。それはきっと目の前の彼女も同じだ。瞳を見れば分かる。
 美月は唇を開きかけてはやめて、それでもやっぱり開いて、ようやくそれを口にした。
「ねえ、いちご、その……ごめんなさい……」
 もっと上手く言いたかった。しかし、いざ何か言おうとすると、そんなことしか言えなくて。美月はシーツの皺に視線を落とした。

 ふたりで迎えた初めての夜だった。恋人同士になってからというもの、手を繋いだり、キスをしたり、少しずつその触れ合いを親密なものにしてきた美月といちご。その先にある行為に思い至るまでにそんなに時間はかからなかった。それは世間一般で恋人なら経験することと言われているというのもあるが、なにより大好きなひとと肌を重ねることをお互いが求めた結果だった。それでふたり、アイドルとして忙しい中で時間を作って、こうしてその夜を迎えたのだった。
 夕方、いちごが美月の部屋を訪ねてきて手料理を振る舞い、食後のコーヒーを飲んでアイカツの話なんかをしながらゆっくりして、それで代わる代わるシャワーを浴びてから、ベッドに腰かけてキスを交わした。
 なんだか照れちゃいますね、なんて言ったいちごに、そうね、私も、と答えてぎゅっと抱きしめる。そうするとドクドクという心臓の音が伝わってきて、いやこれは自分のものかもしれないなんて思って、さらに緊張が高まってしまった。
 そうしているうちに、美月さん、といちごが熱っぽく自分のことを呼ぶから、美月はビクリと肩を震わせた。何?と上ずった声で答えると、美月さん、なんだかすごくいい匂いがします、なんていちごは言う。きっとボディミストの香りじゃないかしらとベッドサイドに置いてあったそれをいちごにもスプレーしてやると、いちごは嬉しそうに目を細めた。華やかな薔薇の香りの中で、甘くて熱いキスを交わす。繋いだ指先があつい。自分も、彼女も――……。
 だから今日は、一番素敵な、幸せな夜になるに決まっていた。これほどまでに条件が整っているのに他にどんな障害があるだろう。ふたりともそう信じて疑わなかった。
 しかし、自分が彼女に触れる度、どうしていいか分からなくなった。どこに触れれば、どんな風に触れればいいのだろう。口に出して聞いてみるものの、思ったよりも自分自身の身体のことに無知で、だからどうされるのがいいかもよく分かっていなかった。中途半端に火照った身体がその先を求めて疼くのに、決定的な快楽を与え合うことが出来ずに、ただ時間だけが過ぎていく。
 大丈夫ですよと困ったように笑うその顔を直視できなくなって、美月は手を止めた。そうしてしまうと、そこからもうどうしていいのか分からなくなって頭のなかはぐるぐるとこんがらがった。
それで結局、喉渇いちゃいましたねと言ういちごの言葉に頷いて、その行為をおしまいにしてしまったのだ。
 コップ一杯の水を一瞬で飲み干す。冷たい水は渇いた身体にすぐに吸収されていく。お陰でこんがらがった心が少しだけ落ち着いた。
 傍らの彼女に視線を向けると、彼女もちょうど水を飲み終わったところで、ふぅと息をついて、サイドテーブルにコップを置いた。そうして彼女は美月の方を見た。その唇が何か言葉を発する風に小さく息を吸い込むのを見て、美月は急に怖くなった。
 いちごは、自分に何を告げるのだろう?
 一度そんな思考が頭を過れば、どんどん悪い想像ばかり脳内に溢れてくる。やっぱり経験のない私ではダメだったのか。もうこうして肌を重ねるのが嫌だと言われでもしたら。いや、それだけならまだしも、こんな自分と一緒にいることさえ無理だと言われたら。
 堪らなくなって、美月は彼女から逃げるように背中を向けて一人でベッドに横たわる。
 しかしいちごはそんな美月のことをちゃんと追いかけてきた。美月の正面に回り込んで一緒にベッドに寝転ぶという方法で。
「美月さん」
「……」
 名前を呼ばれて、けれど何と言ったらいいのか分からなくて、美月はただ目を伏せた。こんなにも心のコントロールが聞かない自分は初めてで、情けなくて恥ずかしい。アイカツが上手くいかないときでさえ、こんなにも自分のことが嫌になって、沈みこむような気持ちになったことはなかったはずだ。
 それで美月は、ああそうか、自分は落ち込んでいるんだなと思った。恋人をきちんと悦ばせることが出来なかったという事実は、想像以上に美月自身を落ち込ませていた。自分がこんな風になってしまうなんて知らなかった。
「ごめんなさい……」
 無意識に自分の口からまた謝罪の言葉がこぼれ落ちていた。それはすぐに夜の空気の中に溶けていき、沈黙がふたりを包む。
 だんだんと身体から熱が引いていく。先程まで彼女の白い肌の上を右往左往していた自分の手も、ひんやりとした夜風でその温度を攫われる。
 その指先が、ふいに温かいものに包まれた。彼女の手のひらだった。
「美月さん、謝らないでください」
 いちごはひどく優しい声でそう言った。ルビー色の瞳がこちらを慈しむように見つめている。でも今は、その視線に申し訳なくなってしまう。
「だって、私は……」
 言いかけてまた口をつぐんでしまった美月のおでこに、いちごは自身のそれをくっつけた。互いの吐息が互いの鼻先にかかる、そんな距離。
「私、美月さんとこうやって一緒にいられて、一緒に色んなことが出来るのが、すっごく嬉しいんです。美月さんはどうですか?」
「もちろん私もそうだけど、でも」
「それならいいじゃないですか」
 いちごはあっけらかんと笑う。そんな風に言ってくれるのはどうしてなのだろう。美月に気を遣っているでもなく、本当に本心から言っているのだろうか。納得がいかなくて、美月は眉間に作った皺をまた深くした。
「でも、私がもっと上手に出来ていたら、いちごはもっともっと嬉しかったはずでしょう?」
「それは……そうかもしれませんけど」
 いちごは視線を上にやりながら、うーんと考える。そうしてから、ふふっ、と笑い声をあげた。それでそのままくすくす笑い続けるので、美月は怪訝な顔で何かおかしい?と聞いた。だって、といちごはからかうように笑う。
「美月さんって、やっぱりすっごく完璧主義なんだなぁって」
「そう?」
「そうですよ。だって初めてのことなのに、最初から上手くいく方がびっくりしますよ」
「ええ、もちろん自分でもそうは思っているけれど……」
 やはり目を伏せる美月の手をいちごは改めてぎゅっと握り直した。
「上手く出来ないなら、これからもいっぱいしましょう!いっぱい練習して、ふたりでいっぱい気持ちよくなりましょう?」
「いちご……」
「私、明日はまた夜にお仕事があるんですけど、明後日ならあいてます。週末の午後も。美月さんはどうですか?いつなら大丈夫ですか?」
「明後日の夜なら、あいているわ」
「じゃあ決まり、ですね。ふふっ」
 そうして美月の頬に、額に、瞼に、優しいキスの雨を降らしていく。彼女の唇の暖かさに、美月は瞳を閉じてその身を委ねた。
 ――いつでも私を、奪って、攫って、どこまでも連れて行ってくれる女の子。
 彼女だから自分は恋をしたのだ。こんなにも夢中になるのだ。
 確かに自分は完璧主義なところはあるけれど、それでもこういう失敗で思った以上に落ち込んでしまうのは、それだけが理由じゃないはずだった。彼女を、星宮いちごのことを大好きだから、大切だから、一つ一つのことを気にしてしまうのだ。
 けれど、美月の抱く不安も、怖さも、がっかりする気持ちも、全部振り払ってくれるのもまた、星宮いちごに他ならない。
 夜風がカーテンをひらひらと揺らす。月明りは相変わらずふたりを照らし続けている。
 美月はいちごの方に自分から顔を寄せて目を閉じて、それから彼女が握ってくれていた手を、同じだけの力でぎゅっと握り返した。
 どんなことがあったって離しはしない。月の光にそれを誓いながら、彼女の唇に自身のそれをゆっくりと重ねた。

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