雪解けに

この世に神などいない、とこの仕事を始めてから暫くして分かった。殺し殺される世界。奪い奪われる世界。強い者が弱い者を食う。それがこの世界の掟だ。
救いなんて、何も無い。
僕は弱い。弱かったから、これから殺される。仕方ないことなんだ。これは自分の行いが招いた結果だ。だから何も後悔などしていないはずなのに。
それでも情けなく涙は出るし、鼻水も出てくる。何度も命乞いをして、何度も謝罪を口にする。それでも誰も助けてはくれない。
牢屋に捕えられて何日経っただろう。喉が渇いて仕方がないのに、涙はまだ溢れてくる。
「ごめんなさい…許してください…お願いだ…お願い…殺さないでください…」
うなされているかのように、何度も呟く。謝るべき相手はここにはいない。誰が聞いているわけでもないのに、ずっと同じことを繰り返している。
熊に襲われ、瀕死の重傷を負ったグラス。先住民が襲ってくると仲間のフィッツジェラルドに言われ、彼を置いて僕は逃げ出した。だが彼は生きていた。そしてこの砦に現れ、彼の息子の仇であるフィッツジェラルドを探しに隊長と共に山へ向かった。
僕は彼を置いて逃げたこと、彼が「死んだ」と嘘の報告をしたことで、反逆罪によって捕えられた。そしてもうすぐ、絞首刑になる。
「ごめんなさい…隊長…許してください…ごめんなさい…グラスさん」
僕は騙されていたのだ。先住民が襲ってくるというのはフィッツジェラルドの嘘だった。あの男は瀕死のグラスさんが邪魔だったのだ。だから嘘をついて、彼を置き去りにした。死ぬと思っていたのだ。いや普通の人間なら、雪山に置き去りにされれば死ぬのだ。ましてや、グラスさんは重傷を負っていたのだから、普通であれば死んでいる。
そう、僕は分かっていた。彼が死んでしまうと分かっていたのに、置き去りにした。自分の命惜しさに。
僕はなんて、卑劣で情けなくて、弱い人間なんだろう。
それにグラスさんだけじゃない。僕が置き去りにしたのは……もう一人。
「ごめんなさい…ごめん……ホーク…」
そう呟いた瞬間、部屋のドアが開き誰かが入ってきた。部屋に入ってきた人物は牢屋の鉄格子も開き、僕の元へ歩み寄ってきた。
「ジム」
僕の名前を呼ぶ。聞き覚えのある声だ。懐かしささえ感じる。
牢屋の片隅でしゃがみ込み、項垂れて泣きべそをかいている僕は顔を上げて、その人物を見る。そして僕は驚きのあまり声を失い、目を見開く。それから飛び上がり、目の前に立つ男を強く抱きしめた。
「ホークッ!!生きてたんだな!無事だったんだ、良かった…!!」
涙と鼻水にまみれて僕は声を上げる。泣きじゃくりながら目の前に現れたホークの体を両腕で抱きしめる。
「大丈夫?怪我してない?」
ホークの腕をとり、怪我をしてないか確認しようとした。けれど彼の体に違和感を覚え、思わず手を離す。
「どうしたんだ…すごく体が冷たいぞ…?」
まるで氷のような肌の冷たさに驚く。それから腕を触った時の違和感。彼の脈が無かった。肌の温度も脈も感じることができなかった。
ホークの顔を見る。血の気のない頬。色の悪い唇。恐怖に震える僕の顔を、彼はじっと見つめていた。
「俺はフィッツジェラルドに殺された」
ホークは僕の目を見て、はっきりとそう言った。彼は血の気を失いどす黒くなった唇を動かし、言葉を続ける。
「あいつは父さんを殺そうとした。俺はそれを止めようとしたんだ。そして……あいつに刺された」
ホークは自分の体を見る。僕もつられて彼の目線の先を見つめる。彼の服の右胸辺りが黒く変色している。べっとりと乾いた血がこびりついていた。
僕は気を失いそうになる。ふらりと倒れてしまいそうになるのを、なんとか堪える。落ち着け、落ち着け、と心の中で何度も唱える。
「そ、それじゃあ、今の君は…死人?」
震える唇を必死に動かして僕は何とか声を絞り出す。けれどホークは僕の問いには答えず、真面目な顔で僕に言う。
「時間が無いんだ。君にしか頼めない。お願いだ、ジム。父さんを助けてくれ」
ホークの黒く大きな瞳が僕を見つめる。彼の瞳の中に自分の顔が見える。泣き腫らした赤い目、涙の跡がはっきりと残る頬、鼻水とよだれが垂れている鼻と口。ひどく情けない顔の男が、そこにいた。
「ぐ…グラスさんを…助ける…?」
「父さんは隊長と一緒にフィッツジェラルドを追って山に入った。でも隊長は奴に殺されてしまった。それから父さんは奴を見つけて…なんとか倒したけれど、傷を負った。死にかけている。助けに行ってくれ」
ホークが地図を取り出し、山中の川辺を指さす。そこにグラスさんがいる、らしい。僕は混乱する。隊長が殺された?グラスさんも死にかけてる?しかもそれを告げに来たのが、フィッツジェラルドに殺されたホーク?
突然の話に頭がついていかず、くらくらとしてくる。
それに…それにどうして…
「どうして、僕なんだ?どうして僕なんかに頼むんだ」
「君しかいない」
僕の戸惑いに満ちた問いを打ち消すかのように、ホークは強く言う。けれど僕は、まだ震えが止まらないでいる。どうして…どうして僕なんだ。
「僕なんかじゃなくて他の奴に頼むべきだ。もっと皆を率いることができて、もっと頭が良くて力もあって、もっと…強い奴に頼むべきだ。どうして僕なんかに」
「君にしか頼めないんだ。ジム」
「無理だ!だって僕は!」
思わず声を張り上げる。僕は拳を握り締めて、俯く。ホークの顔を見ることができない。そして震える声で、呟く。
「僕は………弱いから」 
「ジム」
ホークが僕の手をとる。僕の震える拳を優しく両手で包み込む。彼の肌は相変わらず冷たくひやりとするが、何故かほんの少しだけ、あたたかく感じる。
「君は弱くない。君は優しさを持ってる。人を思いやる事ができる。だから頼むんだ」
「何を言ってるんだ」
「全部、見ていたよ。焼かれた先住民の村で生き残った女性を見つけた時、君は撃たなかった。それに彼女にそっと、食べ物を渡したのも。全部見ていたよ。俺はずっと、君を見てた」
「見ていたって…」
僕は顔を上げてホークを見る。ホークは僕を見つめて、話を続ける。
「その時だけじゃない。君はずっと父さんを気遣ってくれていた。案じていた。それに後悔していた。父さんを置いて逃げてしまったことも。俺を置いて逃げたことも…悔やんでいた。君は、やっぱり優しい人だ」
その時、初めてホークの口元がわずかに綻んだように見えた。ほんの少し、笑ったように思えた。
その瞬間、僕の目から涙が溢れる。
僕は片手で涙を拭ってホークに言う。
「やめてくれ。そんな、そんなんじゃない。僕は優しくなんてない。僕は情けない男だ。僕は臆病者だ。あの時、何も出来なかった。グラスさんのことも君のことも置いて逃げ出した。自分が助かりたかったから。最低だ。クズ野郎だ。僕は……」
拭っても拭っても、涙が出てくる。とめどなく溢れていく。頬を伝い、顎先からどんどんと垂れていく。
「僕は君を守れなかった…!」
ホークの手を握る。彼の手はとても冷たく、もう生きていないのだと実感させられる。冷たいホークの手を僕は握り締める。ホークは痛いとも言わない。
「ごめん、ホーク!ごめんなさい!僕が弱いから、僕が弱かったから、君を守れなかった…!君を死なせてしまった。ごめん。ごめんホーク。ごめんね。僕が…僕がもっと強くて、大人だったら。そうだったら……」
フィッツジェラルドに言われた言葉が頭の中で響き渡る。 ”お前が半人前だったから”
悔しいが、あいつの言う通りだった。僕が半人前で、まだ子供だったから。だからあの時二人を守れなかった。フィッツジェラルドに従ってしまった。
「ジム。君だけだった」
ホークは僕に言う。その声は淡々としているようで、穏やかな声だった。懐かしむような声で、彼は囁く。
「父さんを除いて、ジムだけが俺の話を聞いてくれた。肌の色じゃなく…姿形じゃなく、俺自身を見てくれた。それがどんなに嬉しかったか。どんなに、救われたか」
そう言って彼は片手で僕の頬に触れる。僕の口元の傷を愛おしそうに、親指で撫でる。その懐かしさに僕も思わず微笑む。けれどすぐに泣き笑いの顔になってしまう。
「弱さや強さじゃない。君は優しい。だからこそ気高い。この過酷な世界で唯一、救いがあるとしたら。君が持つ、その優しさであって欲しいと、俺は願うよ」
ホークは目を細めて笑う。彼の顔半分にある火傷の跡が歪む。跡が引きつり、彼は上手く笑う事ができない。
その笑顔を見て、胸がギュッと締め付けられた。彼の傷跡。傷つけられ、踏み躙られた跡。
僕はホークを抱き締める。両腕でめいいっぱい。強く、強く。離さないように。離れないように。
「ジム……」
ホークが僕の背中に手を回して抱き締め返す。僕はホークの肩口に顔を埋める。
抱き締めたホークの体は、やはりとても冷たかった。長いこと雪の中にいたみたいだ。そうだ、あの山でホークの遺体は雪に埋もれているのだ。今も。ずっと。一人残されたまま。
僕はぶるぶると体を震わせる。ホークの体に顔を埋めて、嗚咽する。
そんな僕の背中をホークが優しく撫でてくれる。ほんの数秒の触れ合いが、永遠のように感じた。
「ごめん、ホーク。ごめんよ。守れなくてごめん。助けられなくてごめん。君の声に気付いてあげられなくて…本当に…ごめんなさい」
顔を埋めたまま、くぐもった声で僕は謝る。ホークはそんな情けない僕の頭を撫でる。癖ってうねる髪の毛に、彼の指が絡まるのを感じる。
「ジム。もういいんだ。謝らなくていい。何も怒ってないよ。謝るのなら…早く父さんを助けてくれ」
僕は顔を上げる。ぐしゃぐしゃに泣きじゃくった顔で、ホークを見つめる。鼻を啜り、涙を拭う。
「分かった。約束する。グラスさんを助けに行く。必ず連れて帰る」
僕がそう言うと、ホークはようやく安心した表情を見せた。ありがとう、と彼は僕に囁く。
僕はホークを抱きしめていた腕を緩める。ホークはするりと腕の中から身を出す。そして僕に背を向けて歩き出す。
「待って。どこへ行くんだ」
立ち去ろうとする彼を前に、思わず手を掴もうとする。だが僕の手は彼の手を握ることなく、するりと空を切る。僕の手が彼の手をすり抜けた。ギョッとして身を引いた僕を、振り向いたホークが見つめる。
わずかに声を振るわせて、僕はホークに言う。
「行かないでくれ、ホーク。行かないで」
まるで縋りつく子供のような声で。
ホークは暫くじっと僕を見つめていたが、僕の目を見てこう言った。
「どこにも行かない。ずっと君のそばにいる。君を見てる。今までも、これからも」
「そばに?いったいどこにいるんだ」
「俺は大地で、俺は川。俺は木々で、俺は空」
歌うようにホークは口ずさむ。軽やかな言葉とは反対に、その目はしっかりと力強く、僕の目を見つめている。
「俺は風の中にもいる。だからいつも、そばにいる」
それから優しく微笑む。
「父さんを頼んだよ、ジム」

「ホーク!」
叫んだ直後、びくり、と僕は体を震わせる。荒く息をして辺りを見渡す。そこにホークの姿は無かった。
代わりに鉄格子の扉を開いて、中へ入ってきたのは3人の男たちだ。みんなこの砦の仲間たちである。
「ホーク…?何言ってるんだお前」
1人が怪訝そうな顔で僕を見る。もう1人が僕の腕を掴み、立たせようとする。僕はふらふらと立ち上がる。そしてハッと男たちの顔を見て叫ぶ。
「馬を用意してくれ!グラスさんを助けに行かないと!早くしないと!」
その声にギョッとする男たち。僕の切羽詰まった表情に驚きつつ、訝しむ。
「いきなりどうした。何言ってやがる。自分が処刑されそうになって気が変になったか?」
処刑。その言葉に僕は身を縮める。そうだ、僕はこれから絞首刑になって…死ぬのだ。じわりと目に涙が浮かぶ。
「いや、処刑は無しだ。お前は釈放されるんだ。ブリッジャー」
「え?」
「グラスが帰ってきた時、お前の話は本当だと隊長に告げた。それでお前をどうするか、仲間達で話し合った結果……お前は無実だとさ。運が良かったな」
ギギィッと重い音をたてて鉄格子が開く。釈放、無実。その言葉に僕は安堵するがすぐに男達に向き合い懇願する。
「フィッツジェラルドを追いに行ったグラスさんが怪我をしてるはずだ。今すぐ助けに行かないと!早くして!頼むよ!」
「いきなり何を言って…」
「誰も行かないなら、僕ひとりで行く!行かなきゃいけない!約束なんだ!!」
「ブリッジャー、落ち着け。馬なら用意してある。隊長が、戻らなければ捜索隊を出せ、と指示していったんだ。だから馬の用意はしてある。いつでも出れるように準備してる隊員もいる……お前も行くか?」
仲間のひとりが言った言葉に、僕は何度も頷く。彼はため息をついたが、再び言う。
「なら早く準備しろ。今すぐ出るぞ」
僕は牢屋から急いで飛び出す。もつれそうになる足をなんとか動かし、荷物をまとめて、馬に飛び乗った。

「………ブリッジャー」
「グラスさん。もう大丈夫です。助けに来ました。もうすぐ砦に着きます。大丈夫ですよ」
ソリに乗せられたグラスさんは朦朧とした顔で、僕に呼びかける。僕は毛布に包まれたグラスさんの体にそっと手を置く。
ホークが指し示した地図の場所へ向かうと、血だらけのグラスさんが倒れていた。意識はあったがひどい凍傷を負っていた。流れた血は凍り、つららが出来ていた。
そばを流れる川には、フィッツジェラルドの死体が沈んでいた。何故か頭の皮が全て剥がされていた。先住民にやられたのだ、と僕は気付いたがそれよりグラスさんを助けるのが先だった。
「貴方は本当にすごい人だ。何度も生き延びるなんて」
僕はグラスさんを見つめる。生きていたグラスさんと再会できた喜びに、目頭が熱くなる。グラスさんは仰向けのまま空を見つめている。
雲ひとつない、晴れ渡った空だ。恐ろしいほどに美しかった。
「ブリッジャー…俺は生きているか。息をしているのか」
グラスさんは空を見上げながら、僕に言う。
「ええ、生きてますよ!貴方は生きてる」
僕は強く頷き、彼の目を覗くようにして答える。僕の言葉を聞いて彼は目を細める。
「復讐を遂げたんですね」
僕の言葉にグラスさんが顔を動かして、こちらを見る。そして目を閉じて、彼は小さく首を振る。
「でもフィッツジェラルドの死体が」
「天に任した」
乾いた声でグラスさんは答える。俺の復讐は、天に任したんだ。グラスさんは呟く。やはりあの死体は…アリカラ族が…、僕は身震いする。
「どうして俺の場所が分かった?」
グラスさんは僕を見る。その目は疑いを持った目だった。僕は慌てて手を振る。
「いや、それは……」
思わず口籠もる。なんと言えばいいのか。どう言うべきか悩んだ。だが口籠もり、沈黙すればするほど僕の疑いは深くなる。
正直に…話すことを決めた。
「囚われていた時に、ホークが僕の前に現れたんです」
「ホークが…!?」
グラスさんは思わず体を持ち上げようとする。僕は慌ててそれを抑える。グラスさんは痛みと体の重さに耐えられず、また仰向けになる。
「それで、貴方の場所を教えてくれました。だから助けに来れたんです。…信じられないでしょうが」
僕は目を伏せて言う。最後の言葉は弱く、囁くような声になった。
「…いや、信じる」
グラスさんは僕を見つめて答えた。グラスさんの目は光を帯びていて、彼の言葉が嘘ではないと感じた。僕は安堵する。
「ホークは…あの子は、他に何と言っていた?」
グラスさんの声色がほんの僅か、優しくなる。僕は小さく頷き、ホークの言葉を彼に返す。
「貴方を助けてくれと何度も。そして、貴方をよろしく頼む、と」
告げた瞬間、グラスさんの青い瞳が揺れた。それから大粒の涙がその瞳から溢れ出た。涙は止まらず、傷だらけの彼の頬をつたって流れていく。
グラスさんは横向きになり顔を背ける。泣き顔を見られないようにしているだろうが、子供のように肩を震わし何度もしゃくり上げる。嗚咽が漏れ出て、静かな山の中に響いていく。
僕は彼の背中をそっと撫でる。彼の深い悲しみが僅かでも癒えるよう、願いながら。
晴れ渡った青空の元、僕たちは進んで行く。傷ついた僕らを慰めるように、風が優しく頬を撫でた。

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