パス
「四草~、オレの背中にパス貼ってくれ、パス。」
「はい?」
朝の九時。
年下の兄弟子は、子どもが食事を済ませて学校に行ってしまった後を見計らって、「おはようさん。」と、昔と変わらない趣味の悪いオレンジのノースリーブの肌着を着たまま、春のモグラのようにのそのそと隣の部屋から這い出て来た。
それはつまり、昨日のセックスが三十路の身体に響いているという無言のサインでもあった。
腰が痛いだの、尻が痛いだの、はっきりとは口にはしない代わりに、オムレツはマーガリンやのうてバターにせえとか、冷蔵庫にケチャップが切れてるのが分かっていてオムライスが食いたいとか、度重なる地味な無理難題をなんとかこなしてきた。
「だからその、パスって何ですか?」と言って振り向くと、答えがちゃぶ台の上に乗っていた。
いつ買って来たかも忘れてしまった冷湿布の箱には、商品名称がでかでかと書かれている。師匠がよく使っていた銘柄だ。
そもそもデスクワークでもない落語家が首やら腰を痛めることなんかあるものか、と思うが、この弟子にしてあの師匠あり。弟子の稽古を見るときにも寝っ転がった姿勢のままとか、そういう悪癖が非常に多かったので、時折「首を寝違えてしもた~。志保、パス貼ってくれ。痛い。」とおかみさんを頼り、サロンパスを貼って貰っているときの声を、何度か聞いたことがある。
稽古場の障子の奥の、師匠のプライベートでの話でもあり、僕はその光景を見たことがなかった。
先に弟子入りした他の三人は、母屋の風呂で稽古を付けてもらったり、師匠が地方の公演に行くようなタイミングで一緒に大浴場に入ったことがあるらしいけど、僕が入門する頃には、草若と言えばもう上方落語の大看板。泊まりが必要なほどの地方回りをすることも少なくなって、付き添って行くのも、玄人はだしのお囃子さんが出来る草原兄さんに限られていた。
入門が遅かったせいかは分からないが、師匠の着替えの手伝いも、大方は、おかみさんが済ませることになっていて、僕は箪笥から必要なものを取り出すだけで、肌着やステテコの上から着せるようなこともほとんどなかった。つまり、僕だけは師匠の肌を見たことがないままに、あの人はこの世を去ってしまったのだった。
頼むわ、と言いながら兄弟子は何でもないことのように肌着を捲る。
オレンジの原色の下、昨夜散々に触れた肌があらわになった。
「この辺ですか?」と尋ねて指で触れると、男は無言で身体を小さく震わせ、夜のことを思い出させるような掠れ声で「そこでええ。」と言った。
顔が見えないのが嫌だというので、基本的にはセックスをするにも後背位を取ることがない。互いに裸になっていても、この辺りは、ほとんど目に入れることがなかった。
もしこの人がこの先弟子を取ることがないなら、他の形でも、四代目草若の肌を一番多く目にするのは僕ということになるだろう。
この光景は、他の誰でもない僕のものだ。
そう思うと、奇妙な感慨が胸を満たした。
「……おい、しぃ、お前いつまで触っとるんじゃい。」
「あきませんか?」
このまま触っていたい、とは言えない。
腹が減ったままでセックスをすると、機嫌が悪くなる人だった。
「……こそばいやろが。」
そんな風には見えませんけど、と口にするのは面倒で、シップを手に取って上の透明なフィルムを剥がす。
鼻先に、いつかに嗅いだ覚えのある、独特のスッとする匂いが漂って来た。
フィルムを剥がし終えてやっと、肩ならば起き上がっていてもいいが、場所が腰では相手が寝ていないと、湿布が貼りづらいということに気付いた。
朝飯時とはいえ、下心がある以上は、畳んだ布団の上に寝てくださいというのも憚られた。僕は、重力に逆わずに曲がろうとするシップを障子紙のように広げて、そっと薄い背中に貼り付けた。
「兄さん、この先も弟子取らんといてくださいね。」
「はあ?」
返事をせずに、次の湿布を取って二枚目を貼り終える。
「さっさとメシ食ってください。」と言うと、無言で「ん、」と飯碗を差し出した兄弟子の頬は、奇妙に赤らんでいた。
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