妖言体面物語

妖。それは人間に恐怖を与える象徴。
そして、心に秘める野望を抱くもの。
「ねえ知ってる? あの噂」
「通り魔?」
「あれに出会うと、見るも無惨な姿にされてしまうんだって」



妖言体面物語



「ギャッ!」
街で一人の妖が死んだ。ここ半年、同じ様な事件が続いている。
あたりに散らばる肉片と砕かれた骨。血だまりに倒れる死体の、特に残酷なのは顔だ。まるでぽっかりと穴が空くかのように失われた顔によって、その妖が一体どこの誰なのか、もうすっかり分からなくなっていた。
人間がこの現場を目撃すれば惨劇のあまり絶句するだろう。だが行き交う群衆は平然と死体の隣を通り過ぎる。誰も足を止めることなく、死者への憐みすらも持ちえない。
「また通り魔?」
妖から出るのは精々、死体が転がっていることへの嫌悪だけであった。

──通り魔。
それは近頃この街で話題になっている、神出鬼没の存在。隠された顔を見たものはおらず、今も犯人の特定には至っていない。
妖のみを狙う残忍な犯行により、妖から恐れられている。真っ黒の外套を被り上手く姿を隠していることだけが周知の情報だ。
「今回の訪問、何事もなければいいけどね」
「縁のお偉いさん……八俣、だっけ?」
「そうそう。久遠様が政策の参考にしてるところの長だよ」
死体から少し離れた先の店先では数人の妖が雑談に花を咲かせていた。
この街は今、大きな変化を迎えている。それは若い存在によってもたらされた時代の分岐点だった。思想や構成を時代と呼び、文明や意識を伝統という。三代目当主、久遠は一部からあがる反対も押し切って大々的に舵を切った。
閉鎖的な天干に新たな風を吹かせる。故にこの街は次なる発展として、決して交わることのなかった別の街との外交を開始した。その最初の地として選ばれたのが、縁と呼ばれる街だ。
妖世界というのは、所詮人間が作り出した象徴の単語にすぎない。実際は様々なところに妖が住んでおり、一概に世界と括るには一つの街で到底足りることはない。どれだけ顔の広い妖であっても未だ全ての妖を知り得る術はないし、こうしている間にもどこかで新たな妖が生まれている。
人間社会と隔てられた世界の裏側で、同じだけの土地に妖が根付いている。その中でも規模の大きい街が天干であり、縁だった。
縁。二代目長、八俣が統治する横丁を主体とした街の名。
人間と妖が共存する環境は類を見ないもので、特異性から注目を集めている。天干が見本としている街だ。縁に住む妖は比較的温厚なものが多く、古めかしくも先進的な街として文化が入り混じっている。
そして、会合の舞台となる天干。三代目当主、久遠が統治する街の名。
食を中心に発展した街に住まう妖はみな傲慢だが、横暴な妖は多くない。特筆すべきはやはり人食文化だろうが、久遠の“よりよい街にするため”の政策によって、かつて盛んだった人食文化は息を潜めようとしている。
どうしても久遠には人間と仲良くしたい理由があるようだが、多くの妖はその意図を図りかねているのが現状だ。
そして今日。天干は外交の一環として、縁より長である八俣を街へ招待した。この訪問は両者にとって大きな意味を持っていた。当主屋敷の前で二人はにこやかに握手する。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「ようこそ、天干へ。あなたを歓迎します」

部屋に差し込む夕日は徐々に薄くなっていき、いつまでも修理されず点滅を繰り返す街灯が窓の端に映る。まるで人を挑発しているようだった。
「君に面をあげよう。これで君の正体は誰にも暴かれないし、君は自由に振舞える」
かねてよりこの地には、善人と悪人が存在する。
随分と長々と語られたそれらを思い出しながら、白は一人、狭い部屋の一角で静かに息をしていた。
薄桃色の着物は生地が薄く、決して豪華なものとはいえない。白は細い指でまくりあげた袖を下ろす。掴まれた時にできた鬱血は当分治りそうにない。なんとか隠さねばと巻いた包帯はぐちゃぐちゃで、まるで自分が底辺にいるように錯覚させた。
「私は」
底辺ではない。彼の言葉を借りるならば、私は善人だ。だってそうだろう。白は自身に言い聞かせ、ふらふらと洗面台の前に立つ。
薄暗い部屋の中でも自分の顔はよく見える。ずっと気になっている額の吹き出物が、また少し大きくなっていた。

「天干は以前、人間を食べていたんですよね」
「当時はもてなしの最上級でしたし、人食文化はこの街の土壌でした。ですが我々は停滞するわけにはいきません。次の時代に向けて、私達も歩み寄らねばなりませんから」
「素晴らしい心意気ですね。物事を変えるのは本当に難しいですから」
ここ天干で一番といえる料理店で、久遠と八俣は食を介していた。目の前に並べられた数々の料理はどれも一般的な食材で、そこに人間の香りはない。
この料理店はかつて人食文化に乗じる形で生まれ、高級料理店として名声を欲しいままにした。当主である久遠家も初代から贔屓にしている店だ。人間の供給手段をいち早く確保し繁栄した料理店は、人食文化が沈黙を始めた今もその地位の唯一性を保っている。
八俣はにこりと笑い、並べられた料理に口を付けた。
「会食の後、少し街を見て回っても?」
「勿論です。私はこの後別の会合がありますので、お見送りしかできないのが心苦しいのですが」
時代が変わろうとしている。大事な転換点は、音もなく歩みを進めている。
「近頃通り魔が出没しているのは、八俣さんもご存じかと思います。あなたは襲われることはないでしょうが、どうぞお気を付けて」

天干はまだ人間と妖が共存する街ではない。だからこそ人前に出る為には、この面を外すわけにはいかない。今この時を心底憎い妖として生きることで自分という人間を保っているからだ。
白は慣れた手つきで面を被り、姿見で一度自分の姿を確認する。誰の目で見ても立派な妖の姿だ。面が外れない限り白を人間と判別できる妖はいないだろう。
近所の妖に受け身の挨拶をして、白は街へ繰り出した。長い髪が心底鬱陶しくてたまらなかった。
「……」
妖は人間ではない。五感が優れるものや、空を飛ぶもの、闇に潜むものなど様々にわたり、中には当然血の匂いに敏感なものもいる。その性質が傍から分からないことが、白にとって非常に厄介だった。
だが幸いまだ、正体には気付かれていない。瓦版で流れる情報にも、獲物の対象が何なのかは触れられていない。
人気のない路地。白は隠し持っていた外套を被り、足早に駆け出した。

・・・ ・・・ ・・・

「人間と歩み寄るなんて、おかしな話。彼らは私達の血肉の一部でしかないのに、どうして弱者に寄り添わねばならないの?」
「全くその通りですな」
つい先程まで八俣と会食していた料理店。その一際大きな部屋に、十一人の妖が揃っている。その正体は区画分けされた天干を取り纏める十干と呼ばれる元老院と、最上位である当主久遠だった。
部屋には酒と血の匂いが迸っている。
「人肉を頂戴。それと、一番新鮮な心臓も」

寂れた人気のない路地に足音が響いて、白は体を強張らせた。
「あなたは襲われることはない、なんて。まるで通り魔が誰を狙っているのか知っている口ぶりだったよ」
通り魔。その正体を八俣は知っている。
「ねえ、白」
聞き馴染みのある声だ。半年前まで再三聞き続けた少年の声。
湿っぽく光の届かない路地裏で、白は驚きを隠せずにいた。何と言っても、白にとって八俣は恩人ともいえる存在なのだ。
かつて料理店から逃げ出した自身の身柄を引き受け、無知だった自分に天干の政策を教えてくれた。何も変わっていない天干へ募る復讐心を理解し、面を渡し天干へ帰してくれた相手。
初対面からずっと気遣ってくれていたことに気付かないはずはない。妖でなければ、白は確実に心を許していただろう。
「その面、よく似合ってる。まだ君の正体は気付かれていないのかな。作り手は流石、口を渡り歩いた妖なだけあるってところだね」
妖でなければ。
彼はその出自に関わらず、今は妖なのだ。だから白はどれだけ優しく手を差し伸べてくれようとも、心から八俣を信用することはできなかった。
そもそもなぜ今彼がここにいるのか、白は分からず一瞬戸惑った。縁と天干が外交関係にあることは知っていたし、訪問があることも聞いていたが、詳しい日時までに興味はなかった。それに白が今どこにいるかなんて、八俣は知らないはずだった。
「さっき久遠と会って確信したよ。君が狙う妖がどういう存在か、久遠はそれを知ったうえで見過ごしている。その理由はね、通り魔を利用しているからだよ」
「……殺害が妖の利になると言いたいの?」
「だって今彼女が掲げる理想像は、人間と妖が仲良くする街だ。なら人間を傷つける妖は必要ないよね」
八俣が白に近付く。蛇のように鋭い眼光が、白を面越しに貫いてくる。
「白、君は半年間ずっと頑張ってる。でも天干は政策が掲げられて五年、今も人間が人間のまま闊歩することは出来ない。この街は何も変わってないんだ」
「……」
「妖へ復讐を果たすなら、人間を助け出すなら、今のままじゃ駄目だ。もっと直接的に手を下さなくちゃ」
八俣がゆっくりと、白の肩に手をかけた。思惑が八俣の心中で渦巻いている。

──痩せっぽちで、生まれながらに鱗のような肌を持つ孤児。
誰からも愛を受けず、化け物と酷く罵られた少年は、その口を渡り歩いたことで妖となった。
「妖とは体表的な概念にすぎない。我々は個体として確かに存在するが、その多くは虚空に漂う無意識が形を得たもの。蛇みたい、化け物、妖のようだ。そんな言葉が付き纏って、お主は遂に人間ではなくなってしまった」
かつて縁で八俣を迎え入れた妖はそう言って、八俣へ生活を与えた。それは美しい黄金色の毛並みを持つ妖狐だった。彼は必要なものを揃え、八俣を縁の二代目として育て上げたのだ。
「八俣。本当に行くつもり?」
「君だって昔潜入してたでしょ、青鷺」
縁横丁運営本部。最終的な決断は当主の意向次第な天干とは違い、この街は決して八俣一人で舵を取っているわけではなく、運営陣と呼ばれる組織が統治を担っている。その運営陣の一人である青鷺火は茶を淹れながら、八俣に尋ねた。
人食文化で発展した街、天干。青鷺火はかつて友だった人間と共に、二代目当主である久遠に接触した。その時見た街並みや当主の思慮、その影に潜む力を鮮明に覚えている。表象だけなら煌びやかで美しく豊かな街。だがその実、あれは相手を丸呑みにする、狂気を孕んだ場所だ。
妖はともかく、決して人間が来てはならない世界。
「それに当主が代わってもう七年だよ。三代目久遠が指揮する、時代を変える政策はずっと前に始まってる」
八俣が書類を整理しながら答える。肝が据わっているというべきか、怖いもの知らずか、八俣は時々大胆な動きをとることがある。
青鷺火は縁に外交の伺いを立てられた時、誰よりも真っ先に反対した。関わっても碌なことがないとまで言い切った。天干が人食文化で成り立った街という事実は誰もが知るところだったし、人間と共存する街として繁栄した縁に危害が及ぶ可能性も少なからず存在する。
平穏が崩れることを嫌うのは青鷺火だけではなかったが、最終的に関係を締結させたのは八俣の強い希望だった。
情熱。救済と善悪。青鷺火はその性格をよく理解していた。運営陣もそれを分かっていたから、強く止めることは出来なかった。
「……まあ、外交の一環となればしょうがないか。あの街は今通り魔のこともあるし、気を付けて」
「ありがとう」
青鷺火の心配は尤もである。八俣は笑みを浮かべて礼を言った。
八俣は確かに天干を深く知らないが、青鷺火をはじめとした運営陣は八俣の人間関係を深く知らない。白に面を与えたのも、天干に帰したことも、全て八俣と白個人の関係であり水面下の出来事だ。
彼女らは白がそこにいることを知らない。何を抱えて、何に怒りを覚えているのかを知る由もない。
「兼ねてよりこの地には、善人と悪人が存在する。それは性善説と性悪説として古来より語り継がれており、ある程度の自我をもつものには必ず与えられているものだ。故に、儂ら妖も違うことはない」
あの妖の言葉は、今も八俣の心に刻まれている。
「僕らは善と悪、両方の心を持っているのだと思うよ。だからこの世に悪人が生まれることはしょうがない。でも、それは善人にとって不幸になるものだ」
そして、それが八俣を形成する核だった。
「僕は何とかして、その善人を救ってあげたいんだよ」
だから八俣は白に手を貸している。白の体を通して、先の未来を見ている。
また白も同じように未来を生み出すべく歩んでいる。隣で囁く白蛇は、たまたま現れた協力者だ。
「一匹逃げたぞ!」
当時白が逃げ出せたのは純粋な運ともいえた。捕らえられなかったのは、それこそ奇跡のようなものだった。
人間は何かで隠さねば人間のままで、人食文化の蔓延る街の中、その存在を狙うものは多くいる。視覚、嗅覚、聴覚、それらから逃げるのは容易ではない。恐ろしい思いも沢山した。悔しくてたまらない屈辱を味わったこともある。それでも白は下水を伝い、どこへ続くかも分からない道を走り、ようやく縁へ辿り着いた。
人間と妖が共存する環境は希少だ。八俣に助けられた白は、とある妖から買い取ったという面を受け取った。
「その面を被れば、人間だと気付かれることはない。君が天干へ戻るなら、それが必要でしょう?」
常に怒りを忘れないために、白は今までの人生を鮮烈に覚えている。料理店で生まれ、檻の中で育った。そして地獄から逃げ出し、優しくされ、自身の目的を果たしている。
生まれこそ最悪だ。だがそれ以降の白は、あまりにも恵まれていた。まるで導かれているように。
肩にかけられた手の重みを感じる。白の心も、ずしりと重荷を載せられたようだった。
「久遠はまだ料理店に残っている」
人間を助けたい。今も料理店に囚われ、食卓に並ぶ順番待ちをしている人間達を。
「別の会合があるんだって。料理店での会合なんて、どうせろくでもないよ」
きゅっと八俣の眼光が鋭くなる。白はただ真っ直ぐ前を見つめていた。想像するのは最悪な世界だ。血が流れ悲鳴が劈き、一縷の希望すらも存在しない場所。その光景に覚えがある。
八俣が言いたいことは白にも理解できた。通り魔として、白がやるべきことを八俣は耳元で囁き続けている。震える声で白は蛇の名を呼んだ。
「……八俣」
「通り魔は人間にとってあまりにも善人だ。だから僕は、君を救いたい」
額が痒い。あの吹き出物が面に圧迫されているのだ。今すぐ面を剥がして掻き毟ってしまいたいが、その前に事を終わらせねばならない。深く息を吸って、白は覚悟を決めた。
「まだ料理店にいるのね」
初めから人間と歩み寄る気がない。そんな妖が頂点にいる限り、この街は変わらない。
含みのある八俣の言い方から、恐らくあの女は今も人間を喰らっているのだ。どちらも妖だから信用は出来ないが、少なくとも八俣は久遠より何倍かまともだった。
固く拳を握りしめる。自分が、やらなければならない。
「ご武運を」
白は闇に駆け出した。目指す場所は、この街で一番の高級料理店だ。

「近頃話題になっている通り魔について、貴方はなにかご存じですか?」
「私の面が悪事を働いていると、お疑いになられているのでしょうか」
大通りから外れ、更に人気の少なくなった場所。珍しく来訪に構えていたように身なりの整った男が、女に連れられて行く。
「まさか。それなら私は貴方を屋敷へ連行していますよ」
「……面は妖に化けられますが、その能力までは再現できません。あれは所詮、妖力の塊にすぎないのです」
「なら、私と同じ見解といったところでしょうか。卯木さん」
卯木。化面屋として人間に妖になれる面を売り天干の繁栄を支えた、人々の口を渡り歩いた妖。
今では同じ種族の妖も増えたが、卯木のその能力により生み出された面は今も唯一性を持ち、求めるものは多い。天干の外交先である縁、長の八俣が面を買ってからというもの、その知名度は更に広がっていた。
「私達はほぼ必ず力を持って生まれてくる。能力の源となる妖力と、それを具現化する能力。これらの総称である力は、誰かへの影響力を持つほど強くなっていく」
「力が増せば、存在が増す。概念はやがて実体を得て、自我を確立する。それが妖の出生方法の一つ、無からの誕生です」
「あれは紛れもない本物ですよ。二代目当主、久遠様」
三代目と同じ名を持つ彼女──久遠はにこりと笑い、卯木へ振り向く。屈託のない笑みであった。
「ですから、その力の程は確かめておかないと」
街灯りに揺れる二代目当主の影がずるりと動き、卯木は目を瞑った。
その二代目が飼い馴らす影は容易く人間を飲み込む。人間に限らず、どんな妖もあの影に捕まれば成す術がないだろう。ここに逃げ場がないことも、通り魔が影には勝てないことも、卯木には分かっていた。
「……それで、私に何をさせるおつもりで?」
「特別なことはありません。ただ、野次馬の供を」
「成程」
なにが野次馬だ、などと心の中で悪態をつきながら、卯木は諦めたように一歩後ろをついて歩く。
二代目当主、久遠。全てを掌握せんとする先見性により、彼女の支持率は世代交代した今も高い数値を保っている。優しさを与え、簡単に手綱を握る様は、卯木にとって恐ろしい姿だった。
「それに、あの子が粗相をしていないとも限りませんし」
「他でもない貴方の娘でしょう」
「まだ若いですから。あのくらいの年齢が一番血気盛んで、頭蓋骨の蓋が開くみたいに自由なんです」
若さとは一種の武器だ。だが誰しもが若さの中に聡明さを孕んでいるわけではない。まだ持ちうる選択肢の少なさが刀身のように一途な武器となることもあれば、奈落へ転落する車輪のように愚直さを象徴することだってある。
人生は常に紙一重だ。二代目は、現当主がどう天干を発展させようと異論を唱えるつもりはない。だが先に生きるものとして、母として、その手を引いてやらねばならなかった。

この街どこからでも望めるほどの巨大建築。
窓に映る人影は多く、今日も変わらず繁盛しているのだろう。経営者の顔を思い出して腹立たしくなる。あの澄ました顔を早く剥ぎ取ってやらないと気が済まないが、今日はそれより先に手を下したい相手がいる。白は気配を殺しながら、獲物が出てくるのを待っていた。
繁盛する店に単身で乗り込むのは無謀だ。どれだけの妖が戦闘向きの能力を持っているのか未知数だし、久遠の一族は力が強いという噂も耳にしたことがある。今まで多くの妖の肉を裂き、骨を砕いてきたが、白は所詮人間なのだ。面が剥がれてしまえば、ただの無力な女である。
「それでは失礼致します」
「ええ。有意義な会合でした」
白の眼光が鋭くなる。出入口でたむろしているのは記憶に濃い顔ぶれだった。当主と元老院、今まさに白が狙わんとする獲物だ。
何度か言葉を交わした後、下賤な笑みを浮かべたまま元老院は散り散りになっていく。店先に久遠一人が残された、その隙を見計らい白は走り出した。
「っ、通り魔!」
白の握られた拳が、咄嗟に受け身をとった久遠の肩へ直撃する。他の妖とは違う骨の硬さに白は驚き、今度は顔を狙って拳を振り上げた。
「今まで見過ごしてあげてたこと、そんなに不満だったのかしら!」
八俣の言う通りだ。久遠は通り魔の正体も、対象も、全てを知った上で黙認していた。
結局全部利用されていたのだ。白は無性に腹が立って、力いっぱいに久遠を殴りつけた。

八俣の鼻腔に、風を伝って微かな血の匂いが流れ込む。
「……彼女を統率できなかった僕の責任、とは仰らないんですね」
現場から一つ小道を挟んだ通りの一角。八俣は二代目当主一行と相まみえていた。
薄水色の髪を持つ彼女は三代目当主とよく似た女性だ。だが血の匂いはしない。するとすれば、灯りと共に揺れ動く影からだろうか。
この影は随分濃い香りを纏っている。強い感情や穢れではなく、そこに何もない、完全に殺された気配の香りだ。香りの元が何であるかを紐解き辿らねば気付けないほど繊細な、だからこそ同化した濃い気配。非力な八俣では到底敵わないだろう。
二代目は薄い笑みを崩さず、腹の底に抱えるものは読み取れない。一筋縄ではいかない相手なのだろうと、八俣は考えていた。
「貴方は彼女に面を渡した。それは彼女が天干に戻りたがっていることと、天干の事情に考慮した結果にすぎません。使い方を決めたのは彼女です。物を与えた方の責任となれば、天干はとうに破綻していますよ」
「そもそも初めから面に能力はありません。故に、あれで事を起こすことなど本来は不可能に近いのです」
「八俣さん、ご一緒しませんか?」
これがただの街行く妖なら断れただろうが、仮にもこの女は先代の当主なのだ。縁の長として、外交上の訪問として、迂闊な真似は出来ない。
天干に訪れた以上面倒ごとに巻き込まれるのは仕方がないか。後ろの男がそうしたように、八俣もまた選択しなければならなかった。
「喜んで」
二代目は白のことをどうやらよく知っているようだ。独自の情報網でも持っているのだろう。面の作者である卯木が背後についているあたり、彼から情報が漏れた可能性もある。
ともあれ辻褄を合わせていけばいくらでも特定できそうなことだ。もしかすれば八俣の狙いすらも二代目は見抜いているかもしれないが、現状咎めるつもりがないのなら八俣も沈黙を選ぶのは必然といえる。
八俣の手段は決してこれだけではない。だが|白《これ》も手段の一つだ。
「通り魔!」「こんなところに出没するなんて」「しかも久遠様を襲っているの?」
骨の砕ける音がした。切れた白の拳から血が流れていく。深く被っていた外套はとうに脱ぎ捨てられていた。
辺りには何事かと、妖が群がり始めている。
当主と通り魔がやりあっている、その事態をどこへ報告すればいいのか街の妖には分からずにいた。料理店の店員も店先でおろおろするばかりで、大した役に立ちそうもない。
白のもう片方の拳が久遠を殴りつける。初めて、久遠の体から鈍い音がした。
「この、化け物!」
「黙れ!」
若い女が互いを殴り合い、殺意を向け合っている。人目など一切気にしない形相は修羅の如く、乱れる頭髪も汚れる着物も眼中にない。それは滑稽で、あまりにも愚かだった。
「ひどい有様ですね。──全部寝かせてしまいましょう」
「御意」
影が騒めく。それは一瞬の出来事だった。二代目の足元から影が消え去っていることは、民衆の誰もが呆気にとられ気付けずにいた。
「……あれは一体」
「妖力と能力。先代久遠様は、生まれながら高い妖力を持っているにも関わらず、能力が欠如していたそうです。そしてそれを補う存在が影なのだと、以前仰っていましたよ」
ぱたりと音を立て、二人の女が地に伏す。意識は飛んでいない。ただ見えない何かに拘束されるように、白も久遠も、その体一つ動かせずにいた。
「畏怖の念は、妖という概念を築く上で最も手に入れやすいものです。恐れの類は口を渡り歩きやすいですから」
「お母様……!」
「せっかく八俣さんが来訪してくださったにも関わらず、十干と会合だなんて。無礼だと思いませんか?」
二代目が笑い、続いて白へと手を伸ばす。外れかけた面、白の顔を、二代目がゆっくりと剥がしていった。
「化け物。通り魔。そうして恐れられることで、妖は力をつけていく」
視界が開ける。元の姿に戻った白の血走った目と、吹き出物の位置に生える額の角が、二代目の瞳に映っていた。
それは紛れもない人外の姿だった。
「妖の骨を砕く狂人的な拳の強さ。それに角からして、貴方は鬼でしょうか」
「ちが、違う……私は人間よ!」
天干における人間がどのような扱いか白は忘れたことがない。それでも今、白は自身を証明するために、大勢がいる中で高らかに種族の名を叫んだ。
勿論それがまやかしであることは大衆が証言するだろう。低俗な人間の名を借りるほど気が狂った妖ともなれば、妖は驚くべき速度で新鮮な通り魔事件を消費していく。既に場が鎮圧され事が落ち着いたと解釈し、その場を去っていく妖も現れていた。
二人を縫い付ける影はより一層濃くなり、白が藻掻くほど、体の自由が利かなくなっていく。胴体を鷲掴みにされているような感覚だ。砕かれた骨の痛みも忘れて、白は身を捩った。
「しかし三代目当主様より短期間で口を渡り歩くなんて、相当素質がありますね」
「それ、どういう意味かしら」
「ハハ、これは失礼」
誰かへの影響力。それを短期間で爆発的に集めてしまった通り魔は、己が知らぬうちに力を手に入れた。それも、人間を妖へ変化させてしまうほどの強い力だ。
現実を受け入れずにいる白を、八俣はひどく冷めきった目で見下ろしていた。

一夜が明け、八俣と久遠は再び当主屋敷の前で顔を合わせていた。
「改めて八俣さん。今回あなたへ無礼を働いたこと、謝罪します」
「通り魔の一件は解決しました。天干が今後どのような発展を遂げるかは分かりませんが、人間との共存を図るのであれば、縁は今後も仲を築きたいところです」
「寛大なお心に感謝します」
縁との関係をこちらから切るわけにはいかない。いかんせん、こちらは投げかけた側だ。ここで絶ってくれれば好都合などと思いながら、久遠は体裁を保っていた。八俣は今後天干の動向を注視し、今回の件を盾にする日が訪れないとも限らない。
人間との共存。それは天干に与えられた、強制的な進化である。久遠の下心に塗れた政策は、己の首を絞めることとなった。
「お見送りはここまでで構いません。どうも、ありがとうございました」
道の向こうに縁からの迎えが待っている。八俣と久遠は頭を下げあい、その訪問に幕を下ろした。
人間が妖に受け入れられ、その文化が潰えれば、人はもっと自由になれる。姿形が違うものに溢れれば、誰の口を伝うこともないだろう。
八俣がその地位を離れない限り、天干は縁へ借りを作ったことになる。となればこの先、本当の意味で天干の共存環境が現実となることは容易く確信出来た。
「お疲れ、八俣」
「わざわざ迎えにきてくれてありがとう、青鷺」
白は当主屋敷の牢獄で、長い時間を過ごすことになるという。これは二代目が去り際に教えてくれたことだ。
妖となった今、白の肉体に付加価値はない。妖が妖を襲った事件として世間に公表され、数日経てば忘れられることだろう。処分が決まるまで白は自身と向き合い続ける。
それはさぞ辛く、過去の比にならないほど白を苦しめるが、八俣にはそれを救済してやることは出来そうにない。彼女は妖を殺した残虐な妖として、期待を裏切った罪人として、既に悪の道に堕ちたのだ。
「大概、皆誰かを利用してる。残念だったなあ」
一つの失敗と、思わぬ幸。八俣は無事、この街で成功を収めたのだ。

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