林檎


風邪を引いた。
咳が止まらない。喉の奥が痛む。悪寒がする。どれも風邪の症状に思える。
自分の問診を終えた譲介は、布団を被っているのにも飽きて目を開け、見慣れたはずの天井を眺めた。
咳の合間に目を瞑り、また目を開ける。このマンションの近くの内科医に行くか、行かないか。譲介の保険証のある場所は知っているが、タクシーを呼ぶ必要があるな、と考えて、医者へ行くことは止めておこうと思う。筆談で伝えることも出来なくはないが、声を出すことがこれほど辛いのであれば、動かない方がいいような気がした。
自分の咳だけが聴こえる。そのうち、半年暮らしたこの部屋が、自分には知らない部屋のように思えて来る。
ぼんやりと、あさひ学園に居た頃のことを思い出す。
施設では、こうした風邪の症状が出た児童は、普段空き部屋にしている床の間のある畳部屋に隔離されることになっていた。布団は、いつもの部屋に置いておく予備の布団を出すわけではなく、必ず別の場所から借りて来ていたので、園に預けられたばかりの譲介もまた、身の丈に合わない一回り大きな布団で寝かせられた。綿の詰まった掛け布団は重く、冷たく。けれど、暖まった部屋の中で布団の中に入ると、子どもの高い体温のせいか、三十分もすれば快適になる。
二十四時間、いつだって、職員や子どもがどこかにいる気配がしていた。
その中には自分がいない、という、一抹の寂しさはあっても、風邪を引いているときはやけに有難かった。丸ごとの梅干しが入ったお粥。枕元に置かれるほうじ茶用のポットと湯呑。形で見える周囲の気遣いがもたらしていたのは、確かに安心感だった、と譲介は今になって思う。食事が三食お粥になる代わり、他の子供がいない間、プリンやゼリーと言った喉ごしのいい食べ物を食べてもいいことになっており、そうした特別扱いも、普段とは違っていた。
今日は、といえば、譲介の身元引受人は患者からの呼び出しを受け、県外に出張している。
頼れる人間が、今はどこにもいないのだという事実。そのことが、自分を不安にさせている理由だと譲介には分かっている。でも、この先、最低高校を卒業するまでは彼の下で暮らすのならば、譲介はこの状況での身の処し方を身につけなければならない。額に手を当てると、確かに、いつもより熱がある。
どこかで風邪のウイルスを移されてきたに違いない。
今日があの人の患者の予約がない日で良かった。テスト期間とその直後は、基本的に往診中心にして、家を空けるようにスケジュールを組んでくれていることは分かっている。彼の手技を間近で見、経験を積む機会が減ってしまうのだから、これまではこうした彼の気遣いを有難く思うことは出来なかったけれど、こうして体調を崩してみると、今日のようなことを見越していたのだろうかと思う。
熱っぽくふらふらとする頭で彼と自分を繋ぐ生命線でもあるスマートフォンを手に取り、中を見る。
週末には戻る、と書かれた短いメッセージが見えた。
電話を掛けようかと思ったが、声を出すのが辛い。仕方がないので、風邪を引いたので担任に連絡をお願いします、とメッセージを返す。彼は、譲介のSOSに、いつ気付くだろうか。こうしている間にも、メッセージを送ったスマートフォンは沈黙したままだ。運転途中なら恐らく一時間しないうちに連絡が入る可能性があるが、一度手術室に入ってしまえば、次の連絡が来るのは五時間後か、あるいは十二時間後か。
担任が学校にいる間に連絡が付かないのは拙いかもしれない、と思い、譲介は、落ち着け、と自分に言い聞かせて息を吐く。外で殴り殴られの喧嘩をしていることを上手く隠すことも出来ず、痛めた手の甲の傷を職員を心配されるような体たらくだった自分が、こんなことを考える日が来るとは。
待っていても仕方がないので、ベッドに手を付いて起き上がろうとし、ふらついてベッドの端に腰を下ろす羽目になった。くそ。
頭の中で思考を巡らせる。リビングの救急箱の中には、何かあったときに使え、と彼が準備した市販の風邪薬があったはずだ。内服薬の服用前に、何か胃に入れておく必要がある。
腹膜播種のようなものを患っているというのに、体調が多少悪かろうが飯食って寝ればどうにかなる、というのが持論の保護者は、風邪気味でも譲介と一緒にカレーを食べるような悪食なので、こうした非常時のための買い置きが、水以外には何もない。気が付いた時にパウチの粥などを買っておけば良かったと思うが、後の祭りだ。
いや、確か、棚の中に、あの人が時々非常食にしているキャンベルのトマトスープとミネストローネがあった。あれを暖めて食べて、薬を飲んでまた寝よう。

――オレに縋ってでも生きようとするやつの生き汚さには、まだ芽がある。死に様を選ぶより生きて足掻けってことよ。

自嘲するように言ったいつかの彼の横顔を思い出して、譲介はパジャマのまま、ふらついた足取りで部屋を出た。

寒気に負けてパジャマの上に毛布を引きずってリビングに行くと、救急箱を入れておく、と彼が言った引き出しを開ける。プラスチックの箱には、あさひ学園の救急箱と同じ製薬会社のシールが貼ってある。箱の蓋を開けると小さな電子体温計が見えた。身体が辛いのでソファに寝転び、持ち手に付いたスイッチを押して腋に挟む。
マンションの二十七階。
所謂ペントハウスとも言える部屋には今日も燦燦と日が差し込んでいて、眩しかった。目を刺す光に腕で目隠ししながら、体温を測る時間というのは、なぜこんなにも長く感じるのだろう、と譲介は思う。
電子音が聞こえて来て腋から引き出すと、やはり、というか38度を超えていた。ため息を吐いて体温計をローテーブルの上に置くと、食事は少し休んでからにしよう、と目を瞑った。家主がいない今日は、コーヒーメーカーも空っぽだ。時計の針の音もしない場所で、譲介はひとりだった。
静謐の中、ここにはいない人の不在が、やけに大きく感じられる。
あの人はずっと、こんな生活をしていたのだろうか。今でも、寝るために寝室に引っ込むこともせずに、譲介が枕の代わりに使っているクッションを腰に当てたまま、ここで寝ていることもある。
税理士からの書類を机の上に置きっぱなしにして彼が急患の呼び出しに出かけていったいつかの夜。譲介は、『真田徹郎』が所有しているいくつかの土地の地名と地番を検索して、グーグルマップで眺めたことがあった。その中のひとつは、彼が数年前に、腹腔内化学療法のためのポートを入れる手術をした場所で、今では「廃病院スポット」になっている建物だった。かつて彼が寝起きしていた場所は、話に聞いたときに想像していたよりはずっと荒れ果てていて、とても人が住めるような場所とは思えなかった。
転げ落ちないよう、ソファから起き上がり、キッチンでお湯を沸かしながら、棚からミネストローネ缶を出した。一番手前の缶には付箋が張り付けてあり、食ったら補充しろ、と彼の字で書いてある。今はこの部屋のどこにもいない彼の文字が、譲介の心を揺らす。
ぼんやりと頭が重い。譲介は、今日は具合が悪いせいだ、と泣きそうになっている自分のことを、許すことにした。


サリサリという音が聞こえて来て、譲介は覚醒した。
何の音かは分からない。
いつの間に寝てしまったのだろう。瞼の裏に明るさが感じられないので、今はもうとっぷり日が暮れているようだった。誰かいる、と思ったけれど、譲介は目を開けられなかった。
「おい。起き上がる必要はねぇが、起きてンなら、何か言え。」
「………あ、お帰りなさい。」掠れた声だが、出ることは出る。譲介の言葉に、「おう。」とTETSUが返事をする。起き上がろうとすると、身体がぐらつく。
「まだ寝てろ。」というTETSUの声。
薬の服用後、ソファで仮眠を取ろうとしてしまって、そのまま寝入ってしまったのか。この人が入ってきたことにすら気付かなかった。身じろぎすると、いつの間にか毛布の上から身体を覆っていた布団が、カーペットを敷いた床に落ちそうになる。シュンシュンと薬缶が湧く音も聞こえて来た。
「あの、仕事は……。」
「終わらせて来た。夜には懐石食ってそのままホテルにでも泊まるつもりだったが、おめぇのせいでパアだ。」
さして残念でもなさそうな風にTETSUが言った。
「電話には出ろ。」と強い口調で言われ、スマートフォンを部屋に置きっぱなしにしてここで寝ていたことに気付く。
「すいません。」
どれだけ熟睡していたのだろう、外はとっぷりと暗くなっており、キッチンからの薄明かりが唯一の明かりだった。体調は、朝ほどは悪くない。喉の痛みが消えているのは、風邪薬のせいか復調のせいかはまだ判然としない。起き上がれないほどではないとも思うが、ふらついて立つのもやっとだった朝のことを思うと、無理は禁物だった。
沈黙を縫う様にして「謝るな。別に叱った訳じゃねえ。」学校に電話もしておいた、とTETSUが言った。
仕事中に面倒を掛けてすいません、と謝罪すべきだろうと思ったけれど、重ねての言葉は、彼が舌打ちするだけだろうという気もして、譲介は口に出来なかった。その間も、さりさりという音が続いている。何の音だろう、と気になって薄目を開けると、暗がりに慣れた目が、床に敷いたカーペットに直に座っている彼を捉える。
ソファの横で、TETSUは林檎を剝いていた。台所にあるペティナイフが、彼の手の中ではより一層小さく見える。
譲介は、目の前に現れた光景がまるで合成写真のように思えて、ぱちぱちと瞬きをした。
「……もしかして、夢、ですか?」と問い掛けると「てめぇに付いてる目玉が信じられないならそう言え。」とTETSUは譲介の鼻先にナイフを向けた。
ナイフから滴る果汁。暗い中、林檎の香りが、譲介の鼻先に漂って来る。
譲介の怯んだ顔を見てやり過ぎたと思ったのか、TETSUはチッと舌打ちしてナイフを引っ込めて、小さなカッティングボードの上で、皮を剥いた林檎を八等分にして切っている。
食べさせてください、と言ってこのまま鼻を切られたら夢じゃない、と思ったけれど、それを試す勇気はなかった。
よく見れば、テーブルの上には既にフォークと皿が準備してあって、TETSUは切り分けた林檎を白い器に盛った。
塩水に浸けてねぇからさっさと食っちまえ、と言われて林檎の載った皿をフォークと共に差し出され、譲介はのそのそとソファから起き上がる。意外なことに、彼が等分に切った林檎は、ちゃんと元の形の弧を描いている。そして、美しい旬を過ぎているはずの果実は、それでも歯ごたえがあって、瑞々しく美味しかった。
シャクシャクという音とともに、口の中で久しぶりの林檎の味を噛み締める。覚えているよりも少し酸っぱい。
「あの、帰って来てくれて、ありがとうございます。」
「部屋に暖房を付けたのは正解だ。テストが終わるまで倒れねえのはいいが、もう少し体力を付けろ。」とTETSUは言った。
今、彼はどんな顔をしているのだろう。自分のことを心配して戻って来てくれたのだろうか、という淡い期待が霧散してしまうのが怖くて、譲介は林檎の載った皿から顔を上げられずに「分かりました。」と小さく答える。
「ここで寝るか? それとも部屋に戻るか?」
よいせ、とテーブル横から立ち上がって窓のカーテンを締めながら、譲介の保護者は「十年も前なら、おめぇくらいは軽く持ち上げられたんだがな。」などと言っている。
それは十年前でも遠慮したい、と思ったが、自分を顧みれば、この先彼がどこかで倒れた時、担いでベッドに戻ることが出来るくらいの筋肉は確かに必要だった。それは、この体調の悪さが治ってからのことだ。譲介が林檎を丸ごと食べている間に、彼は譲介のために白湯を注いだマグカップを持って来た。
「起き上がれねぇなら、このまま薬を飲んで寝てろ。」とTETSUは言って、暗がりの中に戻っていった。
程なく、風呂場の方からは、シャワーの水流の音が聞こえて来る。
譲介は、昼間と同じ薬を飲み、またソファに横になった。TETSUが部屋から持って来た布団を、頭まで被っても、シャワーの音は届く。
その音を聞きながら、明日の朝には、きっと良くなるだろう、という確信にも満ちた気持ちが心の中に広がる。
そんな小さな安心を得て、譲介はゆっくりと眠りに落ちて行った。


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