甘くほどけて - サオネイ
「え、キスしたことない?」
話の流れでこぼれた一言に、サオネルが素っ頓狂な声を上げる。こたつでぬくまる足先をすり合わせながら、安易に告げるべきではなかったか、とネイルは小さく後悔した。一瞬前にはさしたる秘密でもないものと判断したが、みかんを食べる手を止めて瞬くふたつの目に、今は言い知れぬ不安が胸に去来する。
ネイルと話しながら熱心に手を動かし続けていたサオネルの前には、ものの数分でみかんの皮が不作で荒れた土地のように広がっていた。常ならサオネルが広げるそれを片端から片付けていく相方のピリナは、今ここにはない。家主であるピッコロと共に酒の買い出しに連れ出されていて、ネイルはサオネルと共に留守を預かっているところだった。
出かけ間際、ピッコロに「余計なことをするなよ」と釘を刺されたサオネルはその釘にかえって好奇心を疼かされたらしい。玄関ドアが冬の夜気を押しやって閉じられるや否や、ネイルに季節を一巡りさせたパートナーとの付き合いの話を持ちかけてきた。
こくりと頷いたネイルに、へぇ、と気のない返事をしながら最後の一粒がサオネルの口に収まる。それでようやく満足したのか、話に食べる気をそがれたのか、みかんの急激な在庫減少は留められた。
「なんというか、珍しいよな。世に一般、スキンシップじゃわりと軽い方だと思うけど」
「そうか……あまり疑問に思っていなかった」
元々、ピリナとサオネル同様にピッコロとネイルの付き合いは長い。だがサオネルたちがお互いを唯一無二と定めて暮らしてきた日数に比べれば、ネイルたちのそれはひよこ同然に幼いものであった。魚心あれば水心、心根の明らかなもの同士でサオネルたちは調子良くお互いを打ち明けたようだが、ネイルとピッコロではそうはいかなかった。長すぎた家族同然の付き合いがかえって恥じらいになって口を重くしていたこともあり、お互いの体温も、熱を上げた声色も、知ったのはつい最近のこと。
「嫌がったことがあるわけでもないなら、ピッコロが苦手なのかね」
「苦手……」
「というかネイルは? キスに抵抗あるのか?」
「したことがないから、わからない………が、嫌なものではない気がする」
唇と唇の触れ合い。これまでさして強く心惹かれることもなかったが、想像のうちだけでも嫌気の募るものはない。手と手であれば幼い頃から結び続けてきたし、己の片手が塞がっていれば彼の片手が自分の手の代わりだった。目も、鼻も、耳も、一人が何かに気づくともう一人に分け合ってきた。ネイルにとっては、口づけというのはそれらと大きな違いはないような気がした。
たとえば。そうたとえば、思惑を持って肌をなぞる手だとか、高ぶる性感に立てられる爪の痛みだとか、あの苛烈に身を打ち据えるような肌の交わりとは異なるのだろう。身も心もひとつであったはずの互いを、別のものとして捉える、引きつり震えあがるほどの……──
首のうらによみがえりそうになる欲熱を頭をふって払い、ネイルはひとつ頷く。サオネルはそんなネイルを見、そうかと相槌を打っておもむろに立ち上がった。
またみかんを取りに行くのかと思えば、向かい合っていたこたつの一辺からネイルの隣へと場所を移して腰をおろす。そうして続いた言葉も、またおもむろだった。
「俺としてみる?」
「うん?」
要領を得ない一言に返した応答は、肯定と捉えられてしまったらしい。ちゅんと口先に触れるぬくもりでネイルはミスコミュニケーションを悟った。
「いや、そういう意味ではなくて」
「嫌?」
「嫌ということではなく、」
サオネルの肩に手を置き、絡まった言葉の綾を解こうとしてネイルははっと口をつぐむ。愉快そうに浮いた口端に、同じく弾む好奇心を抑えない小さな黒目。からかわれた。ネイルが察したのと同時に、サオネルもお小言の気配を察したのか、重ねてネイルの口が開くのを阻んで鳥のように啄みはじめる。
「サオネル、くすぐったい」
「ん〜くすぐってる」
ちゅっちゅ、と軽やかな触れ合いがネイルの顔中に降り注ぐ。はじめは話を遮るそれにこら、やめなさいと顔を背けたネイルもそのうちに諫言を奪われ、込み上げる笑いに身を捩るふりをするだけになっていた。
額に、瞼に、頬に顎に鼻先に。そうして一巡りしたサオネルのキスはまたネイルの唇をとらえて、ぱっくりとそこを食んだ。にわかに湿り気を帯びた薄い肌は、離れる束の間に引力を持って弾ける。甘い柑橘の香りが鼻先をただよって、じん、とした熱がネイルの首筋に走った。「これがキスか」と、本能の理解の声が鼓膜を震わす。
「ん、ン………」
二度、三度と続く濡れた口づけに、全身の触覚がぐんぐんと音を立てて集中していくのがわかった。新しく覚える快美に首を竦めるネイルを諭すかのように、サオネルの指がネイルの色づきはじめた耳殻をなぞる。
「ちょっと、口開けて」
詰めたままの距離で囁く声は日頃の明朗さを潜めて、ネイルをたやすく操る。角度をつけて探られた呼気を、ネイルは吸うべきか吐くべきか逡巡して、飲み込んだ。存外大きく鳴ってしまった喉に、かっと熱が湧き出すようだ。天板の上で彷徨わせていた手に手がぶつかり、自然、互いの指を跨いでもつれ合う。
「っぁ、は………くるし、サオネル、」
「鼻で息するんだよ。それからほら、舌出してみて」
足元からだけではない熱がネイルを浮つかせ、くらくらと芯を溶かしていく。
サオネルは緩急をつけながらネイルの呼吸を留め、解放し、また食らう。水音が混じると途端にぞくぞくと背中を這うものがあって、ネイルは深まる愛撫に追いつこうと懸命に鼻でうめいた。
──苦手。最前サオネルが放った言葉に、ネイルは一つ心当たりがあった。
それは幼少の時代、ネイルとピッコロが双子のようにほとんどの時間を共有していた頃、ピッコロが毛嫌いしていたもの。年一回連れ立って訪れた、歯医者の健診だった。記憶に残る限りの幼いピッコロは歯医者の度にこの世の終わりと言わんばかりに泣き、ほとほと主治医を弱らせていた。上背が高くなってきて椅子から転げ落ちるほど喚くことはなくなったが、極端に嫌な顔はし続けていたし、今でも必要に駆られない限り歯医者には近寄らない。
もしかしたら、ピッコロは本当に苦手なのかもしれない。陶然と、柔く芯を抜かれて溶け合うようなこの触れ合いを、嫌悪する類のものとしてネイルとの間に持ち込まずにいたのかもしれない。そう思うと肺に穴が開いたような心地がして、ネイルの喉がきゅうと苦し気に鳴いた。
ふ、と交わる息の中でサオネルが笑う。意識を引き戻されたネイルが目だけで伺えば、サオネルはぱっと開いた口で、菖蒲色の舌をぬらりとネイルに絡ませた。
「ン、ぁ、!」
じゅく、とそれまでとは違う音が咥内に湧き立つ。ざらりとした粘膜が直接纏わされ、ネイルのそれを舌根から舌先まで絡み合わせていく。びりびりと電流が脊髄を駆け、聡い耳がどろりと思考の蕩ける音を聞いた。
「っあ、ぁ、さおへ、ん、ッ」
「は、ぁ……ネイル、顔とろとろ」
指摘されて、強張りかけた眉目も力が入りきらず、天板にしなだれかかった半身はほとんど腑抜けてしまっている。狭くぬめる口腔で逃げては捕らえられ、ちゅるちゅると溢れる唾液にネイルは本当に溺れてしまいそうだと握ったサオネルの手に爪を立てた。しかしサオネルはそれにも構うことなくむしろ「さあもっとだ」といわんばかりに片膝をこたつから出して床につける。
「気持ちいいだろ? ちゃんと覚えておけよ……」
言われずとも、忘れ方を知らない。組んだ第一指で付け根を撫でられる心地よさも、息苦しさを抱えて悦に溺れる背徳も。サオネルが与うる交わりのひとつひとつがネイルに刻まれて、瞼の裏では片割れの堅物の背中を思い描いている。輪郭を失っていく思考で、ネイルは後ろ頭に添えられた手が、ピッコロのものよりひと回り小さいことを感じていた。
「俺は口小さいけど、ピリナなんか口ん中全部吸っちまうみたいに食ってくんの。気持ちいいんだぜ」
「優しいやつだけど、キスは激しんだ」うっとりと熱い息を漏らすサオネルは、ネイルと同じくその脳裏に今語ってみせた法悦をよみがえらせている。すり合わせた額から、サオネルの想起する官能が伝播してくるようだ。
もし、ピッコロがしてくれたらどんなキスができるだろう。あいつも優しいけれど、俺がつい求めてしまって、強く激しく揺さぶるような情交を与えてくれる。これも、口づけも──求めたら、くれるだろうか。
嚥下しきれなかった唾液が顎を伝い、首筋に流れた。口元を辿ったサオネルの指が銀糸を掬い、顎下に手を伸ばす。その手の行先を辿っていた焦点が急速に引き絞られるのに、ネイル自身が驚き後ずさった。波間に漂う船のように委ねきっていた全身にすっかり意識が巡り、サオネルに初めて抵抗を示した。誰より驚いたであろうサオネルは、伸ばしかけた手をそのままに呆けてしまっている。
「す、すまん。それ以上は、」
「……ピッコロだけ?」
「……あぁ、そうだな。あいつだけ…」
「ネイルのそういうところ、貞淑っつーの? いいよな。たまんない」
何秒、何分の出来事であっただろう。サオネルの顔を目に収めて像を結ぶのがしばらくぶりに感じられるほど、ネイルは自分がどれほど夢中でいさせられたのかを思い知った。一方で、口端を舐めるサオネルの瞳には、まだ愉快の色が滲んで見える。
実際、既に力を抜いたネイルの手にサオネルの指は絡んだままだ。悪戯っぽく笑った声が、ネイルにそっと投げかけられる。
「ほかに、俺がゆるしてもらえることはある?」
「────残念ながら、ひとつもないな」
頬に唇を寄せたサオネルの問いに、ネイルが答えを考えるより早く答えが返ってきた。ハッと仰ぎ見ると、サオネルの背後に魔王の如き居住まいでピッコロが立っている。肩から飛び上がったサオネルは一瞬で事態を把握したのか、素早くネイルの背後へとまわり力強く「おかえり!!」と叫んだ。
「ピッコロ……」
「連絡に出ないと思えば……余計なことをするなと言ったはずだぞ!」
逃げの姿勢は早かったくせ、ピッコロの喝に怯むことなくムッとしてサオネルは言い返す。
「余計なことじゃねえぞ、むしろピッコロは俺に感謝」
「するか!! さっさと帰れ、ピリナが待ってるぞ!」
見れば、いると思ったピリナはそばになく、代わりにピッコロの両手が近くのドラッグストアの袋で塞がっていた。
「えっなんで? これから飲むんじゃん」
「お前たちの路線が運休だそうだ。始発も危うそうだからとピリナはタクシーを捕まえにいった」
「おい嘘だろ! 面白くなりそうだったのに……」
勢いをつけて口を開いたものの、ピッコロの眼光に尻すぼみになったサオネルの語尾は手早く巻かれたマフラーに埋もれて消えた。手近に残っていた二人分の鞄をかき集め、仁王立ちのピッコロを迂回しサオネルは玄関へと駆けていく。せわしく揺れるマフラーの端が、サオネルの代わりとばかりにネイルに向かって手を振った。
「じゃあな、ネイル! ピッコロとキスできるといいな!!」
「やかましい!!」
──ピシャン! と音を立てて閉じられた戸を最後に、客間に静寂が落ちる。
何故か突っ立ったままのピッコロの背を見上げネイルは次の言葉を考えていた。できればピッコロとキスをしたいが、嫌がることを無理に求めるようなことはしたくない。サオネルとしていたことは知られてしまっているようだし、それとなくほのめかして雰囲気を作るということをしてみようか。
「ピッコロは、歯医者が嫌いだったな」
言ってから、ネイルは頭を抱えたくなった。これではほのめかすどころではない、ここから口づけに向けた雰囲気作りなどできるはずもないだろうに。
「……音だ」
「うん?」
「苦手なのは、あの超音波みたいな音だ」
ゴミ箱を片手に、ピッコロは干からびかけたみかんの皮を寄せて集め天版の上を片づけていく。いくつか床に落ちてしまっていたものをネイルも拾い上げ、籐のかごへと放り込む。
「…お前は虫歯知らずじゃないか」
「自分が処置されるんじゃなくても、大抵あの音はしてるだろ」
「私も苦手ではあったが……あんなに泣くほどのことか?」
「もう忘れろ……」
ひどい会話だ。苦虫を噛んだような顔をするピッコロに、ネイルは湧き上がる笑いを堪えきれなかった。天板に額を擦りつけ、肩を震わせていると上から「クソ」と悪態づいた声が降ってくる。
「なあ、ピッコロ」
ネイルは顔を上げて、己に覆いかぶさる影を見た。間近に迫ったピッコロの顔が、笑われたことへの恥か、悔しさか、とにかく耐えがたい屈辱を噛んで堪えたように歪んでいる。強張ったその頬に手を伸ばし、ネイルはその唇のぬくもりを得た。
「……どうして、いままでくれなかったんだ」
「……いまさらだろう」
口先が触れたままの会話は、小さくくぐもって、まるで幼い頃の内緒話のようだ。触れて、離れて、ネイルは「やはり」と得心した。はじめて知る、お互いの薄い皮膚の柔さはネイルにこのうえなく馴染んで、口端からほどけていく。
「お前は、ずっと俺のものなのに」
口づけも、それ以上も。手を握り握り返す、足らない片方を片方で埋めて補い合う、そういう私たちの延長なのだと。
@__graydawn
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