利13歳土14歳で出会う豪族IFその2
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梅の匂いがしていた。
冬の名残を含んだ風が、屋敷の板張りの回廊を撫でていく。冷えた板の感触と、障子紙の薄さの向こうで揺れる日差し。庭の土はまだ黒く湿っていて、雪解けの水が石の縁を舐める音がする。
梅はまだ疎らだった。けれども一輪、二輪とほころぶたびに、空気がわずかに甘くなる。甘いのにどこか青い。鼻の奥に残る、早咲きの想いにも似た匂い。
土井の屋敷は立派だった。廊下は長く、柱は太く、畳はきっちりと目を揃えて敷かれている。香の匂いはいつも一定で、夜は灯りの数まで決まっている。整いすぎていて、息を潜める必要すらない。息を潜めるのが仕事の利吉にはそれがひどく奇妙だった。
利吉が屋敷に入って、最初に覚えたものは「音」だった。
誰の足音が重いか。誰が歩くときに踵を擦るか。夜番の歩幅は何間で一度息を吐くか。雨の日に軒から落ちる滴が、どの場所で強く鳴るか。音を覚えたのは、安心するためではない。生き残るためだ。
春の気配が空気に混じり始めた頃、それは来た。
犬が垣根の向こうで低く唸っていた。唸り声が喉の奥で途切れる。その刹那、瓦の上で砂が擦れた。乾いた、小さな音。鼓膜がそれを拾った瞬間には、もう身体が動いていた。
考えるより先に足が出る。影の薄い場所を選び、軋まない板を踏む。夜気が頬を切る。梅の匂いが鼻先を掠めた。屋敷の端、物置の陰に、小さな影がうずくまっている。
背後から口を塞ぎ、首筋に短刀の峰を押し当てた。
「動くな」
影が硬直する。掌に心の臓の跳ねが伝わってくる。速い。乱れている。それだけで分かる。手練れではない。
「誰に雇われた」
返事はない。利吉は耳元に唇を寄せ、囁いた。
「次は指を落とす」
男の喉が引き攣った。震えながら頷く。泣きそうな息が指の隙間から漏れた。縄で縛り、門前の土に転がす。血は出さなかった。血の匂いは、余計なものを呼ぶ。
朝になって騒ぎが起きた。家臣たちが声を荒げ、屋敷中がざわついた。その中心で、半助だけが静かだった。利吉を見る目が濡れている。驚きと、興奮と、それから何か、名前のつかないもので。
「利吉がやったのか」
「はい」
「怪我は」
「ございません」
「すごいな」
その声は、戦を知る者のものではなかった。籠の中の虫が初めて羽を広げるのを見た、童のそれに近い。利吉は何も言わず、頭を下げた。
それから、半助は利吉を側に置きたがった。
稽古場でも、書院でも、食事の席でも。人がいるときは「控えよ」と距離を置くくせに、いなくなると呼ぶ。
「利吉」
「はい」
「そこにいろ」
「承知しました」
理由は言わない。言えないのではなく、言う必要を知らない顔だった。頭はいい。覚えも早い。なのに時折、妙に危うい。その危うさが、利吉の腹の底で何かを引っ掻く。
梅が咲き揃い始めた昼のことだった。半助は縁側に座り、庭をぼんやりと眺めていた。陽は薄く、風はまだ冷たい。枝先に白い花が揺れている。
ぽつりと若君の声が落ちた。
「春は、こうして来るのだな」
利吉は返す言葉を探した。春は来る。確かに来る。けれども利吉の記憶にある春は、梅ではなかった。火の臭い。焦げた藁。湿った土に染みる血の匂い。叫び声の残り香。それらが鼻の奥に蘇り、一瞬、息が詰まる。
十にも満たぬ頃、村が焼かれた。夜空が赤く染まり、屋根が崩れ、誰かの泣き声と怒号が絡まり合った。利吉は人買いに攫われ、縄が腕に食い込み、口の中が砂で軋んだ。その人買いも、半ば山賊のような忍び衆に襲われた。刃が閃き、血が跳ね、命が紙のように散った。利吉は拾われたのではない。選り分けられたのだ。使えるか、使えないか。それだけで。
両親が生きているかは分からない。分からないまま、年月が過ぎた。分からないものは祈りにならない。祈りにならないものは、胸に穴を開けたまま塞がらない。それでも利吉が手を汚しながら道を外れずにいたのは、父の言葉があったからだ。
父は腕の良い戦忍びだった。
『お前もいつか、主を得ることがあるかもしれんな』
その一言だけが、利吉の中で燃え残った。煤を被ったまま、消えずに鈍く光っている。
忍び衆から逃げたのは十一の時だ。逃げると決めた瞬間の、足の軽さだけを覚えている。土を蹴る感触、肺を刺す冷気、背中を追う怒号。それから先は覚えていない。覚えていると、身体のどこかが軋むから忘れたのだ。
だから利吉には、半助の寂しさが分からなかった。
こんなに立派な屋敷がある。両親もいる。名も、未来もある。なのに時折、半助は何もない場所を見る。その目の奥にあるものが、利吉には見えない。
縁側で、半助が呼んだ。
「利吉」
「はい」
「……お前は、寂しくないのか」
利吉は一瞬、息を止めた。
寂しい──そんな言葉で片づくものなのか。
利吉は慎重に答えた。
「……存じません」
「存じません?」
「寂しい、というものが、どの程度の痛みか」
半助は目を瞬かせた。何か言いかけて、やめた。代わりにぽつりと声を落とす。
「私は、寂しい」
その声は静かだった。静かすぎて、耳の奥に残った。半助は頭が良い。物覚えも早い。けれども時々、童のように無防備だ。自分の寂しさをそのまま口に出す。言えば弱みになることも知らない顔をする。
利吉は思う。──守って差し上げないと。
その時、半助がふっと笑った。梅の匂いの中で、少しだけ照れたように。
「利吉、と呼ぶと安心する」
胸の奥で、何かが動いた。小さく──微かに。名前をつけるには早すぎる何かが。
父の言葉が、不意に蘇った。
『主を得ることがあるかもしれんな』
利吉は目を伏せた。
「……恐れ入ります」
「恐れ入るな」
半助が、子供のように言った。
「そこにいろ」
利吉は頷いた。
梅がまた一輪、ほころんでいた。白い花弁が風に揺れ、甘い匂いが濃くなる。利吉はその匂いを吸い込みながら、そこに焦げた記憶が混じっていないことを確かめた。
春は静かに来る。静かなものは、いつ奪われるか分からない。
だから利吉は、そこにいた。笑う半助の隣で、影のように。
***
春が深くなっていた。
庭の梅は盛りを過ぎ、若葉の匂いが空気を満たし始めている。土が温み、廊下の板も冷たさを失った。裸足で踏むと、木がわずかに熱を返してくる。
半助は、その変化に気づくのが遅い。利吉の方が先に気づく。陽の角度、風の湿り、虫の声。季節が動く気配を、利吉の身体は勝手に拾ってしまう。何も言わずにいても梅がほころぶ前に庭へ目をやり、夜番の交代がずれれば立ち位置を変えている。
それが、半助には不思議だった。
不思議で、少しだけ嬉しかった。
自分が何か言う前に、周りが整っていく。誰かが当たり前のように、背中を覆ってくれている。そういうことが、今までなかった。
屋敷には人がいる。父も母もいる。家臣も小者も女中もいる。声はいつも聞こえていた。笑い声だってあった。土井の家には子が他におらず、半助は大切に大切に守られて育った。それなのに半助の胸の奥はいつもどこか、空き家のように空いていた。
利吉が来てから、その空き家に火が入った。
火は暖かい。暖かいのにそれはどこまでも火で、触れ方を間違えるときっと痛い目に遭う。分かっていて、手を伸ばしたくなる。
半助は利吉を呼ぶ。理由もないのに幾度も呼んだ。半助自身の理由を探すように、幾度も。
「利吉」
「はい」
呼ぶと、同じ高さで声が返ってくる。それだけのことが、いくつも胸を満たす。
ある日、父の前で武芸の稽古をした。半助の相手は父の家臣で、半助は形を崩さぬように必死だった。利吉は少し離れて立っていた。控えの位置で視線は動かさず、けれども半助の動きの癖をすべて見ている目だった。
半助が一歩踏み込む。家臣の木刀が半助の肩を狙う。避けるには遅い。そう思った瞬間──利吉の足が一寸前に出た。
それだけ。
ただ「前に出た」だけで、それでも空気は変わった。家臣の木刀の軌道が僅かに鈍る。手元が迷い、半助はその迷いで救われた。
稽古が終わって、父は何も言わずに去った。家臣たちも散った。残ったのは春の匂いと、利吉の影と、半助の鼓動だけだった。
半助は息を整えながら言った。
「……今、出たな」
利吉は首を傾げるほどの動きで答えた。
「出ておりません」
「嘘だ」
「嘘ではございません」
利吉の言い方は丁寧で、丁寧すぎて、半助の胸をくすぐる。狩小屋で聞いた彼の地の声が、ふっと思い出される。あの容赦のない言い切り。
半助は利吉の顔を見た。十三だというのに、利吉の目は幼くない。黒々として深い目だ。頬の線は細く、唇は薄い。けれど睫毛が長くて、光が当たると影が揺れる。
胸が跳ねた。
理由は分からなかった。戦の話を聞いた時とも違う。父に叱られた時とも違う。もっと別の、名前のない跳ね方だった。
「若君?」
半助は目を逸らした。逸らした先に、利吉の手があった。刀を握る手。指の節が白い。傷がある。古いものと新しいものが重なって、皮膚がごわついている。
──触れたら、どんな感触がするのだろう。
そう思って、慌てて打ち消した。
「若君。息が乱れております」
「乱れていない」
「乱れております」
利吉が一歩、近づいた。距離が詰まる。ふわりと匂いがした。薬草と、火薬と、汗の乾いた匂い。その奥にかすかな鉄の気配。利吉の匂いだ。
半助の胸がまた鳴った。誤魔化すように、笑った。
「利吉は……何でも分かるんだな」
「何でもは分かりません」
「嘘だ」
利吉の眉がわずかに動いた。困っているのか、呆れているのか。その小さな揺らぎが、半助には嬉しかった。
友がいる。初めてできた友が、目の前にいる。その友は影のように静かで、刃のように鋭い。そして時折、こうして揺らぐ。それを見たくて、ついわがままを言う自分がいる。
胸の奥で、何かが芽吹いている気がした。それが何なのかは、まだ分からない。
「若君。次の稽古では足運びを直しましょう」
「……利吉」
「はい」
半助は言葉を探した。見つからなかった。結局、いつもの言葉を選んだ。
「そこにいろ」
提案に答える声がないことを気にしたふうもなく、利吉は頷いた。
「承知しました」
春の光が廊下を白く照らしている。半助の胸の奥で、名もないものが静かに息をしはじめていた。
***
晩春になっていた。
藤の花房が廊下にまで香りを漂わせ、障子紙を透かす光が強くなっている。もうすぐ夏が来る。
利吉は屋敷の季節の移り変わりを音で知る。夜番の足が軽くなった。犬の吠え方が短くなった。雨が降れば、滴の音が丸くなる。冬とは違う。湿り気を含んだ木が、音を吸うからだ。
それでも息は殺す。身体に染みついたものは抜けない。抜けないから、今日まで生きてこられた。
けれどこのところ、その静けさが保てない。静寂はいつも、若君の呼ぶ声で破られる。
「利吉」
用がある時と、ない時がある。ない時の声は少し丸くて、甘えを含んでいる。利吉の耳はその差を聞き分けてしまう。聞き分けたくなくても、聞こえてしまう。
「はい」
「こっちへ来い」
呼ばれて近づくと、若君は書を広げたまま黙っている。黙っているのに、時折顔を上げる。利吉がそこにいることを確かめるように。その目が利吉には落ち着かない。
若君の目は大きい。光を溜めて、瞬くたびに揺れる。笑うと浅くなり、黙ると深くなる。頬はやわらかく、武家の嫡男にしてはどこか幼い。
見ていると、妙な心地になる。
目を逸らす。逸らさなければならない気がする。主君に向ける目ではない。分かっている。分かっているのに──視線が戻る。彼のやわらかさを拾ってしまう。拾ったものを、捨てられない。
他の家臣の前では、若君はしっかりして見える。声も、仕草も、父君に似てきたと皆が言う。利吉もそう思う。だから二人きりになると、その落差が胸に刺さる。
「利吉」
「はい」
「今日は……」
言いかけて、やめる。唇をわずかに尖らせる。「なりません」と、利吉が止めることを分かっている顔だった。窘められることへの不満を隠そうともしていない。それが危うい。自分にだけ甘えを見せる若君が、どうしても危うく見える。
守らなければ、と思う。それは仕事だ。忍としての務めだ。そういうことにしておく。そうしないと、胸の奥のざわつきが別のものになってしまう気がした。
ある昼下がり、縁側で若君が書を開いていた。風が頁をめくろうとするのを、片手で押さえている。もう片方の手で、彼は利吉を招いた。
「利吉、ここだ」
「何でしょうか」
「これを読んでくれ」
「……どこを」
「ここだ」
代わりに読め、と指が頁を叩く。柔らかそうで、傷のない指だった。利吉の指とは違う。利吉の指には古い傷が重なっていて、爪の際がいつも硬い。
若君が顔を上げた。目が合った。近い。大きな黒い目が、すぐそこにある。
胸が鳴った。
利吉は視線を落とした。頁へ。文字へ。落とした先の文字を口に出す。読めと言われたから読むのだ。読むべきだから読むのだ。そうやって自分を仕事に戻す。戻さないと、何かが狂う気がした。
「……どうしたんだ?」
若君が不思議そうに言う。視線が利吉の眉間の皺を見ている。
「何でもありません」
「嘘だ」
嘘だ、と言われると利吉は言葉を失う。若君は時々、こちらの嘘だけを嗅ぎ当てる。音でも匂いでもないところで。利吉は短く息を吐いた。
「……目が近いだけです」
言ってしまってから、舌の根が苦くなる。何を言っているんだ。主君に向かって。
若君は一瞬きょとんとし、それから笑った。
「近いか?」
その笑い方が無邪気だった。胸の奥で何かが軋む。
「お控えください」
「なぜだ」
「……示しが」
示し、という言葉が盾になる。盾にしている自分がよく分からない。二人きりの縁側に示しも何もない。分かっているのに、口が勝手にそれを出す。
若君が少しだけ頬を膨らませた。
「利吉は、すぐに示しと言うな」
拗ねた声。甘える声だ。利吉の掌が勝手に動きそうになる。伸ばして、頬に触れてしまいそうになる。
──触れてはいけない。
利吉は掌を握った。爪が食い込む。痛みがあると、息が戻る。痛みは自分を仕事へ戻す。
「若君」
「何だ」
「……読んで差し上げます。ですから」
「ですから?」
「あまり、近づきすぎないでください」
若君は頷いた。頷いたのに、離れなかった。利吉が書を読む間も、すぐ後ろに気配がある。
温かい。春の温かさとは違う。人の熱だった。利吉の胸の奥で、煤をかぶった言葉が息をする。
『お前もいつか、主を得るときがあるかもしれんな』
主とは、こういうものだろうか。利吉には分からない。分からないまま、書を読み続けた。若君は黙ってそれを聞いていた。彼の沈黙は怖くない。代わりにあるのはぬくみと甘さで、それが一番、利吉には怖かった。
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