竜の寝床
「かぜ」
神妙な顔で復唱した俺に、啣薬の龍女は腰に手を当て叱りつけるように言った。
「の、ようなもの、じゃ! これが風邪なわけがあるか、とでも思っておるじゃろ」
「そりゃあ……」
そうだろ、と続けはしなかったが、白露は尻尾でぺちんと俺の向こう脛をはたいた。隣に立つヴェルトが嗜めるように俺の名を呼ぶ。
「白露さん。風邪、ということは……特効薬のようなものでただちにどうにかできる問題ではない、と認識していいんだろうか?」
「そのとおりじゃ。強いて言えば、うまいものを食べてよく寝るのが特効薬……なのじゃが」
このありさまではの、と白露は片眉を上げて傍らを見上げた。俺たちがいるのは列車の客室前の廊下で、もっと言うなら丹恒の部屋の真ん前だ。扉を開け放ったまま、入り口を塞ぐように三人で立ち尽くしている。
そんな邪魔なところにどうして、と問われれば答えはひとつだ。室内に、俺たちなんか物ともしないほどどでかいものが浮いているから。
「……水の中ではうまいものも食えんじゃろう」
一言でいえば、水の球だった。床や天井、壁につきそうなほど大きなまあるい水のかたまりが部屋の真ん中に浮いている。その中心にいるのは当然というかなんというか――丹恒である。
半透明の角と尻尾は、彼が普段隠している龍の力が顕現していることを示していた。きゅっと身体を丸めて目を閉じて、水の中でぷかぷか浮いている姿はどこか胎児を思わせる。
実際、古海の持明の卵の中で転生を待つ彼らはそんな感じなのだと聞いたことがあったっけ。ならこの水の塊は卵で、丹恒は生まれ変わりを待っているのだろうか。
「なに、満足するまで眠れば元通りじゃ。そう不安げな顔をするでない」
器用な尻尾が今度は宥めるように俺の足を叩く。数多の患者を診てきた龍女には俺の気持ちなど筒抜けらしい。
「風邪のようなものと言ったじゃろ。疲れが溜まった心と身体の防衛装置が働いたんじゃ。……この水は古海の水に近い」
手を伸ばし、白露は球体の水面にそっと触れた。ちゃぷんと音がして、広がった波紋は徐々に落ち着いていく。中の丹恒は瞼ひとつ動かさなかった。
「あれ以降、いろいろとあったようじゃからな。落ち着く場所で眠りたいと思ったのやもしれぬ。丹恒のことじゃ、数日もすれば気が済むじゃろうて」
啣薬の龍女の診断は、具体的ではないのに不思議と説得力があった。たしかに、丹恒は早起きだから、だらだらと昼まで寝てしまう俺と違ってきっとすぐに目を覚ますだろう。……そのはずだ。
ヴェルトが俺の頭をぽんぽんと撫で、「それではしばらく様子を見よう。わざわざ来てくれて助かった」と白露に一礼した。俺も倣ってぺこりと頭を下げる。白露は満面の笑みを浮かべて「わしとお主らの仲じゃろう」と踵を弾ませた。
「三日以上目覚めなければ一度連絡をよこすように。何事もなく目覚めればたらふくうまいものを食え、金人巷で食い倒れでもするのがおすすめじゃ。そのときも必ずわしに連絡するように!」
かならず、を強調して、小さな龍尊は列車をあとにした。
ヴェルトとふたり残されて、傍らには大きな水のかたまり。その中で眠りこけている丹恒。なんとも頬をつねりたくなる光景だ。夢を見ているのは俺じゃないのに。
「……そんな顔をするな」
「白露も言ってた。……そんなにひどい顔してる?」
ヴェルトは答えなかった。また俺の頭を撫でて、「パムたちに報告してくる」と言ってラウンジのほうへ踵を返してしまう。
「俺ここにいていい?」
「構わないが、静かに寝かせておいてやりなさい。ちょっかいを出さないこと」
出さないって、と膨れ面でこぼした声はヴェルトには聞こえただろうか。横顔だけでふっと笑ってヴェルトは扉の向こうへ消えていった。
見下ろした俺の足はちょうど客室の扉の境を踏んでいる。出るか、入るか、刹那迷い――俺は一歩分足を動かした。
背後で扉が閉まる音がする。目の前には、静寂を包んだまあるい水面。
丹恒の部屋――アーカイブ室はいつ来てもどこか寒々としているが、今は特にひんやりと冷え込んでいる気がした。この水は冷たいのだろうか。水の球を回り込むように歩みを進め、壁を背もたれにして座り込む。
視点が下がればさらに大きく見えるものの、大事なアーカイブが保管してある棚やコンソールには決して触れていないようだった。綺麗に宙に浮いている。
意識がなくてもその辺りは大丈夫なのだろうという妙な確信があった。……いつからこうなっていたのかすら、俺は知らないのに。
そうだ。俺は何も知らなかった。昨日はいつもどおりに起きて、いつもどおりに過ごして、いつもどおりにおやすみの挨拶をした。起きたらこれだ。なんなら、普段起こしにくる丹恒がこうなっていたせいで昼まで寝るところだった。俺に事態を知らせたのは、血相を変えて飛び込んできたなのかだ。
白露を呼んでくる、となのは慌ただしく飛び出していって、俺はといえば呆然としたまま立ち尽くしていただけだった。すぐにやってきた白露の診断は聞いてのとおり。俺は何も知らなかった。
疲れが溜まった心と身体の防衛装置が働いた、なんて。
「そんなの初耳だ……」
立てた両膝の間に顔を埋める。いつもどおりに見えたのだ。だからいつもどおりに過ごしていた。いろいろあったけど、丹恒には俺たちがついているから大丈夫だと。そんなことを思っていた自分が馬鹿みたいだ。
口をへの字に曲げたちょうどそのとき、ポケットの中のスマホが震えた。一回、立て続けに二回、三回。きっとなのからだろうと思いながらスマホを取り出せばやはりそうだった。大丈夫? というメッセージと共に不安そうなパムのスタンプが数個並んでいる。
大丈夫、苦しそうにもしてないし、と返しながら水球の中の丹恒を見上げた。半透明の角と尻尾は水の中ではいっそう神秘的に輝いている。その表情は、うん、まるきりいつもの丹恒だ。悪い夢を見ている気配もない。
おまえが静かに眠れてるならいいけどさ。なんとなく恨みがましい気持ちでその寝顔を眺めていると、もう一度スマホが鳴った。
“丹恒じゃなくて、アンタが!”
怒ったなのの顔のスタンプにぱちくりと目を瞬かせる。俺? と打てば返答はすぐに来た。気にしてるみたいだって、ヨウおじちゃんが。
“丹恒が自分のこと話したがらないのはいつものことじゃん。それに、秘密にしてたわけじゃないと思う”
“珍しく寝坊してるだけ! ちょっと変わった寝かただけど……”
思わず噴き出して笑ってしまった。たしかにちょっと変わった寝かただが、そういうこともあるだろう。なにせようやく、丹恒は自分を隠さなくてよくなったのだ。
“そうだよな。ありがとう、なの”
スタンプで山盛り花を飛ばしてそう伝えると、“ラウンジに来る?”と返ってくる。“まだもう少しいる”と打ち込んで感謝のスタンプを二、三個追加した。
親指を上げたいいねのスタンプを確認してからスマホをしまい、立ち上がる。目線の近づいた丹恒は、それでもまだ少し遠い。角と尻尾は見慣れない姿で、いつものように冷静にツッコミを入れてくれる様子もない。
でも、丹恒だ。姿が変わろうが、ちょっと変わった寝かただろうが、丹恒なのだ。だったら何も気にする必要はない。丹恒にだって、たまには寝坊したくなるときもあるだろう。
「早く起きろよ、丹恒」
とはいえ、このくらいの恨み言は許してもらいたいものだ。伸ばした右手をたわむれに水面へと触れさせる。
ぽちゃん、と。
音がした――そう思った瞬間、猛烈な力で全身を引っ張られる感覚に襲われた。手のひらに触れたはずの水を顔で浴び、身体で浴び、ごぼりと口から空気が溢れ出す。水中だ。
もがいても動けない、当然だ、腹に丹恒の竜の尻尾が巻きついている。そりゃもうがっちりと、絶対に逃がさないとでも言うように。
「たん、こっ」
まずい。溺れる。尻尾に引き寄せられ丹恒の顔が近づくが目覚める気配はない。水面は遠ざかって手も届かない。まずい。どうしよう。丹恒が起きて最初に目にするのが俺の死に顔だったりしたら。最悪だ。
「――丹恒――!」
水中の叫びはほとんど音にはなっていなかったはずだ。
ごぼりと最後の空気の泡が出ていった、その向こう側で静かに瞼が持ち上がる。
朱を引かれたまなじりが緩んで、俺を見て、微かに笑って。
それから丹恒は、酸素を求めてはくはく喘ぐ俺の口を、自分のそれで覆った。
「そんな顔をするな、」
ふーっ、と。長くゆるやかに息が吹き込まれ、じわりと指先に温度がともる。冷たい怪物の腹の底のようだった水中が、途端に干したての布団のごとき温もりに変わった。ああ、こんなに居心地がいいのか、ここは。なら丹恒が寝坊したくなってもしょうがない。
「言っただろう……おまえは俺が守ると」
そう言ったきり、丹恒は再び瞳を閉ざしてしまった。
「……そんな顔って、どんな顔だよ」
口は離れたが、どうしてだか呼吸ができる。目の前で眠る丹恒は健やかに寝息を立てていた。水の外にいたときは気づかなかったことだ。
しばらく呆然としつつ、俺は自分の状態を確認した。腹に巻きつく尻尾はどう頑張っても離してくれそうにない。溺れる心配もなくなって、ここはこんなにも温かくて居心地がいい。そして何より、丹恒がいる。
――なら。無理に抜け出す必要もない、か。
「死にかけたの、おまえのせいなんだけど。……まあいいや」
竜の尾に身を委ねて脱力し、目を閉じた。水の中を伝うように静かに響く拍動の音を聞く――丹恒の心音だろうか。
自分で作った落ち着く寝床に、俺という抱き枕。さぞかしいい夢を見られることだろう。俺も、たぶん。古海の底で丹恒と泳ぐ夢でも見るはずだ。
寝坊したら、今回は丹恒も一緒に怒られろよな。かろうじて残った意識でそんなことを思いながら、俺は深い深い海へと呑まれていった。
了
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