神は死んだとニーチェは言うが



テレビカードに、菓子パンや菓子と言った食い物に、甘い飲み物を一通り。
それから、病院から一番近い本屋で、書棚の隅に追いやられていた数冊の入門書をベッドの上のテーブルに置くと、身体を起こした子どもは、その一通りに目をやってから、ありがとうございます、と言った。
「入院中に目を通しておけ。」と言うと、子どもは真新しい本の表紙を開いて中を確認した。
どうだ、と確認する必要もない。
舌打ちをしそうな顔をした一瞬を経て顔を上げ、柔和な微笑みを浮かべて言った。「後で読みます。」
悪態も付かず、舌打ちもせず、こちらを睨みつけるでもない。
和久井譲介という名の子どもは、あさひ学園で見せていたお利口さんの顔をこちらに向けて、本の表紙を閉じた。
「理解はしなくとも、寝る前にただ眺めるだけでいい。……まあ、今のおめぇの年なら、じっくり読めば確実に寝られるだろうよ。」
口角を上げてそう言うと、今度こそこちらに分かるほどにはっきりと眉を寄せ、あなたも読んでいたんですか、と子どもは言った。
柔和な顔つきとは裏腹の、底冷えのする目付きともの静かな声。
馬鹿にされたと思ったら、こいつはこういう風になる訳か。
そっちの想像にお任せする、と言うと、敏い子どもは誤魔化されてあげますという顔を作り、これが課題図書と言うなら従います、と言った。
そこいらにたむろする拗ねた甘ちゃんとこいつではモノが違う、とは言っても、そうしたガキ共が好むひねこびた物言いを全くしないわけでもないらしい。
たとえそうだとしても、目の前にいる十五のガキは、オヤジが死んだ悔しさを兄貴にぶつけるような甘ったれの十七歳よりはずっと強い。
フン、と鼻を鳴らして、今のうちにせいぜい羽を伸ばしておけ、と言うと、和久井譲介という名の子どもは、酷く嫌そうな顔をした。



事の起こりは、宿題の話だ。
昨日の夕方も、あさひ学園での相談や打ち合わせ、諸々の役所の手続きと言った一通りを終えてから、回復の度合いと、担当の医者から予後の様子を聞くために病院へ行き、そのついでに顔を見に、この病室へ寄った。
ベッドから出るのはまだ辛いようだが、すっかり目覚めていたので、数分だけのつもりで話をした。
学校から出された課題があるのかと問うと、どうせ転校するのでと言ったら相手が引っ込めた、と譲介が言うので舌打ちした。
学生の本分は勉強だろうが。そう口で言ったところで、このガキに通用しないことくらいは分かる。そうでなくとも、大人の理屈は全て屁理屈と思うような年だ。
思った通り「僕の手元に新しい教科書とテキストが準備されるのなら今頑張る必要はないでしょう。」無駄な努力は嫌いです、と譲介は静かな声で言って、顔を伏せ、本の表紙を愛おし気に指先で撫でている。
さしづめ、大人に対して時折見せるしおらしい顔つきは、効果の出た努力ってことか。
あさひ学園で確認した譲介の今の成績は、中の下。
偏差値で言えば、国家資格である医師免許を狙えるランクまで行くのは夢のまた夢だ。
「転校させることになるだろうとは言ったが、勉強するなとは言ってねえ。」と言うと「僕にとっては同じことです。」と返事をする。
胸を刺した瞬間ほどキレのある視線ではないが、オレを睨むその眼には、力があった。
大抵の不良は、体格と上背で勝る男に一対一で喧嘩を吹っ掛けるような馬鹿はしないもんだ。根性だけで大学受験にパスすることが出来るのなら、コイツは医学部の最高峰である帝都の理Ⅲにだって入れるだろう。
四の五の言うなと言って目の前にテキストを山と積んでベッドに縛り付けるのは簡単だが、愚直な反抗心を叩いて矯めるようなことをしたところで、今は逆効果だ。
第一、それが理由で行く先々で問題を起こして、転校するたびにそんなことを言うようなガキは、医大に入るのすら難しい。私大の医学部に裏口からねじ込んで合格させたところで、――いや、まずは金を積んで私大にねじ込む伝手か……まあ今からなら半年か一年そこらの時間がありゃ作れないでもねぇだろうが――実力以外の手段で入学したことが分かれば、見くびるなと派手に反発して、二浪くらいはするだろう。
オレの目に狂いがなければ、恐らく和久井譲介はそういうガキだ。
それなら、なるべく早くスタートダッシュを切らせ、こっちの思惑通りのゴールテープを切らせるにはどうしたらいいか。
「宿題をしたくねえなら、本を買って来てやる。おめぇはどんな本が読みたい。」
そんなものはいいから、暇つぶしにゲームを買ってくれと言われりゃ、そうするつもりで「好きなのを買ってやる。」というと、譲介は途方に暮れたような顔をした。
「……分かりません。」
その口調に、譲介というガキの、本来のガラスのような脆さが透けて見える。
「今は必要ないってんならそう言え。」
視線で回答を促すと、「いえ、」と言って、譲介はそれきり口を噤んでしまった。
譲介。
若さを、脆さを、他人に悟らせるな。
おめぇは、オレを信用するにはまだ早い。
もっと厚顔になれ、と口には出せず、徹郎は、心の中でため息を吐いた。
「……おめぇみたいなヤツには慣らし運転が必要だ。」
「慣らし運転?」
「大学に入りゃ、嫌でも本を読む必要があるからな。今から慣れておくのがいいだろうと思っただけだ。図鑑だろうが語学だろうが、どんな本でもいい。」
術着のような上着を着ている子どもはそこでぴくりと反応したが「あの、……。」と一言言ったきり、たっぷり一分ほど口を噤み、それから「あなたが僕に必要だと思ったものを。」と付け加えた。……今の間は何だ?
明日又来る、と言い残して、徹郎は病室を後にした。
読みたい本のタイトルを知っていて、なおかつこちらには言えないと思っているその本が、どんなタイトルで、どんな種類のものか。
あの様子じゃ、エロ本って訳でもねえだろう。
いつか、さっきの話をあいつから聞き出してもいいだろう、と思う日が来るのだろうか。



譲介のいる個室の外から、まだ帰らないでと泣くガキの声が聴こえてきて、物思いに沈んでいた意識が浮上する。
子育てのマニュアルをついでに買いに行くつもりで書店に行って、結局、医学書の棚を眺めて、目についた本を買ってみた。
「好きにマーカーを引いて、書き込みをしろ、質問がありゃ教えてやる。」
本と一緒に買って来たマーカーとペン、メモ帳を渡すと、譲介は、そうします、と真剣な顔で言った。
「分からない単語がありゃ、コイツを使え。」
コートのポケットから電子辞書を出すと、なぜこんな場所からという顔をしてから「僕は退院までにこの課題を終わらせればいいですか?」と譲介は言った。
こんな分厚い本、読み終えられるはずがねえだろう。
馬鹿か、と口が滑ってしまう前に、頭に閃いたことがあった。
四十男のオレと違って、コイツにとっての三年は、ただ努力するには猶予が長すぎる。
三年になった時点の偏差値で受験可能な大学の足切がなされることはないと言っても、ゴールの見えない長距離レースじゃ、どんな優秀な競走馬でもダレるってもんだ。
それから、パッと一也の顔がちらついた。
Kのヤツの血を引くあいつなら、勉強をせずとも帝都に入る頭がある。
期限と、ライバルか。
決まったな。
「そいつは、出来るとこまででいい。身体が復調するまでは、しっかり羽を休めておけ。」
そう言って話を切り上げようとすると、さっきから何なんですか、と譲介がイラついたような声を上げた。
「言いたいことがあるなら、言ってみろよ。」と挑発すると、譲介は顔を上げて徹郎を見つめ「僕は鳥じゃありません。医学を勉強しろというのであれば、休んでる暇がないことくらい分かります。それなら……あなたも真剣に教えてください。」と言って、口を引き結んだ。
思った通り、コイツはそれなりに見どころがあるガキだ。
真面目なツラで反駁する譲介に「おめぇは雛鳥だ。その本で勉強すりゃあ、そのうちに金の卵を産むようになる。」と反射で口にして、口の端で笑って見せる。
譲介は、ガキっぽいことを口走ったと思ったのか、顔をふいと逸らして「今日はもう帰ってください。」と言った。
言い過ぎたか、とは思ったが、謝罪をすればプライドを傷つけるだけだろう。
また来る、と言って病室を後にした。


子どもの前を離れてしまうと、突然下腹の辺りに痛みが走った。
思わず立ち止まり、痛みのある辺りに手を当て、壁に背を凭せ掛けると、病院の廊下の窓からは、日暮れの夕焼けが良く見えた。
その茜色は、譲介のテーブルに残したジュースのパックの色に似ていた。

――僕は鳥じゃありません。

今はそう思っているかもしれねぇが、おめぇにだって、翼はある。
オレはまあ親鳥としちゃヒヨッコだが、おめぇがすっかり畳んじまった翼を、広げられるくらいにはしてみせてやる。

徹郎は、子どもの硬い横顔を思い出して微かなため息を吐くと、行くか、と呟き、駐車場で待つ愛車に向かって、ゆっくりと歩き始めた。

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