半分を注ぐ【楓応】

こじふおweek!めでたい!めでたい!
お借りしたお題:震える指先
CP:楓応









「あ」

 声にだした刹那には、それはもうなかった。どこにって、手にだ。
 完全にやらかした。完全にすっぽ抜けてしまった。間もなく背後からガン、だとかゴン、だとかの鈍い音がして、それが聴覚を刺激することでよりやってしまった感を助長させるのである。
 とりわけ取り乱す必要もないが、ままならない感覚がある。
 掲げた右手は振り下ろすにもそうすることができず、自分の意志で天を仰いだというのに、ひどく宙ぶらりんのようにも思えた。

『ちょっと。すごい音しましたけど、大丈夫ですか?』
「あー……」

 通信用の玉兆から案じる声色が響き、応星はなんとも言えぬ顔でぽりぽりと片頬を掻いた。
 相手は友人であり恩人でもある白珠で、納期に追われて酒の場にも顔をださない彼を甚く気にしている様子であった。ので、あまり心配をかけさせるわけにもいくまいと玉兆で連絡をとり、情報を共有でき得る範囲での進捗状況を伝えつつ、彼女が各星から持ち帰った土産話に耳を傾けていた最中のことだった。

『応星。時間はきちんと確認していますか? いい子もいい大人もとっくに眠る時間だってこと、自覚してます?』
「悪い悪い。だがあまり手放せない状況でな。せめて区切りがつくまでは終わらせたいというか……」
『もう。言いたいことはわからなくもありませんが、仕事をやるにしても身体が資本でしょう。……よもや、ご飯を抜いてたりなんてしてませんよね?』
「ん。ちゃんと食ったぞ」
『よろしい、えらい! 応星はやっぱりできる子ですね』

 相変わらずの子供扱いについ「はは」と乾いた笑みがこぼれるが、なにも彼女に悪気があるわけではない。当然のことだ。
 こうして気にかけてくれるだけありがたいうえ、彼女の優しさに触れていなければ、自分はこうして槌を振るい続けていたかもわからない。師であり父のように慕っている懐炎の元で修行を積み重ねていたにしろ、忌み物に対する憎悪のみではおそらく、身を滅ぼしていただろう。
 仲間と、友人と、かけがえのない人たちに出会えていなければ、自分は応星という存在にはなり得なかったのやもしれない。近頃はそんなことを考えるようにもなっていた。

 ——応星は我が身だ。
 ——応星はここにいる。

 反して、ほの暗い感情が胸を巣食っていることも確かだ。

 ——応星ならば、なぜこのような失態を犯す。
 ——応星が槌を握れないなどありえない。

 握れ。
 はやく。

「——……」

 『それ』を拾うと、ゴト、と鈍い重しが片腕にのしかかった。
 まるで人の生首でも手にしたかのごとく、形容しがたくも苦しい気持ちになる。
 実際大した重さでもないのに、錯覚すら覚えるとは。

「疲れているんだろうか……」
『そうですよ。今日はもう休みましょう?』

 ぼそりとしたぼやきも逃さず、彼女は薄紫色の狐耳をぴるぴると動かしては提案したに違いない。通信の向こう側から「ぷは」と酒を楽しむ息遣いが聞こえ、酒壺の中身がとぷん、と揺れる音まで届き、思わず足元に視線を移した。

『どうしても譲れないなら、気分転換がおすすめです。外の空気を吸って、吐いて、洞天の空高くに浮かぶ月を眺めて癒されるんです。あたしたちはおなじ月を見上げているんだって』

 彼女の声がそよ風のように頬を撫で、熱のこもった工房と暗がりの心を覚ます、涼風が駆け抜けていったようにも感じられた。
 応星は薄く苦笑する。

「曜青の月と羅浮の月とじゃ、さすがにおなじとは言わんだろう」
『あ、雰囲気台無し! こういうのはどれだけ浪漫を語れるかなんですから、そういうことを言うのはご法度ですよ』
「おー、そうか。そりゃ悪かったよ」
『まったく、次はないですからね? なあんちゃって』

 冗談めかして言うと、白珠は今に目の前で微笑むほど、穏やかな口調で告げたのだった。

『応星。才や身を粉にするなとは言いません。でも、ほどほども大事ですよ』
「……ん。わかってるさ。ありがとうな」
『ふふ、素直に感謝されるとこそばゆいですね。戦況にもよるかと思いますが、次はきっと、我々皆との酒の席で』
「ああ」

 簡単な挨拶を交わし、玉兆の通信が切れる。
 顔も見えずに声のみの会話だったが、充分に心身が満たされたと思えるほど、友人の存在は偉大なものだ。まさか自分が錚々たる戦士たちに紛れ、雲上の五騎士と呼ばれることになろうとは彼自身思いもしないことであったが、今となっては己の天賦の才が結んだ貴重な縁だったのやもしれないと、そう考えられる。寿命がなんだのとくよくよとしていた幼少期を跳ねのけるほど、現在に至っては逞しく成長しているのだ。
 だから——だからこそ、握った槌を放りだすなんてことは、本来あってはならない。

「気分転換、か」

 呟いた声も、今度は拾ってくれる者など誰もいなかった。あるのはごうごうと燃える炎くらいで、波のように揺れる明かりの下、応星は自らの右手をしばらく眺めている。

「外、寒そうだなあ……」


 □


 仙舟の天候操作は簡単なものだった。ゆえに寒すぎることも、暑すぎることもなく、適温で人々の暮らしを支えており、長楽天の欄干に身体を委ねたところで過剰な反応は見せないはずだったのである。
 しかし応星は熱のこもった工房から離れたことで、星槎に乗るや否や「へっくしょん!」と盛大なくしゃみを披露してしまった。運転を務める飛行士に「大丈夫ですか?」と心配され、「あーいや、ははは……」と笑って誤魔化したのだが、微妙に鼻水まで垂れてしまったので啜る音が恥ずかしくて仕様もなかった。

「月がよく見える場所ってどこだと思う」
「えっと、そうですね……壮観な景色といえば、やはり長楽天ではないでしょうか」
「じゃ、|長楽天《そこ》で」

 このような経緯で長楽天にたどり着いた応星であったが、寄りかかった欄干が思ったよりも冷たく、触れたり離したりと繰り返して、自分の体温が伝わるまで暫し待っていたのであった。
 深夜のため人の気配もなく、所謂夜勤の飛行士が星槎を数台動かしているだけで、辺りは静寂に包まれている。卓を囲んで遊戯をする者もおらず、観光客も、何者もいない。警備担当の雲騎兵は見回りでもしているのだろう。とかくほんとうに静かで、風の音だけが応星の鼓膜を撫でていた。
 月はというと、生憎にも雲に隠れて見えることはない。飛行士がううんと悩み、景色が壮観だとして選んだ理由に合点がいった。
 どこを飛んでも今は雲に隠れて見えないから、ならば建木を見てはどうだという提案だったのだろう。あれは豊穣の賜物であり、長生によって苦難を強いられている仙舟人にとっては快くないものではあるが、外観のみでいえば、確かに壮観と称するに値するだろう。
 豊穣。忌み物。
 故郷は歩離人によって滅ぼされた。誰も彼もが殺され、ただの肉片にされ、獣器の養分と相成ったのだ。
 あの慟哭を、忘れはしない。
 あの激情を、忘れはしない。
 そしてあの恐怖を忘れることも、終ぞとしてないだろう。
 奴らを滅ぼさないかぎりはこの暗がりからは抜けられない。応星にはその自覚がある。そのために朱明へと渡り、剣造を習い、霊力を込めた奇物を創造しているのだ。すべては豊穣の軍勢を根絶やしにするために。
 けれどそれがなければ、この心を突き動かす憎悪がなかったのなら、応星という存在にははたして、意義はあったのだろうか。

「……」

 手を、見つめる。
 槌を取りこぼしたのはなにも今回が初めてではない。ここ最近、頻繁にあのようなことが起こっている。
 体力の衰え、集中力の衰え、握力や腕力の衰え。挙げればきりがない。
 刹那にも似た短すぎる人生のなか、あとどのくらい武器を創造できるだろうか。あとどれくらい、余力が残されているのだろうか。
 ぐ、と力強く閉じては、力なく開く。

「——こんな夜半にどうした」

 そのとき、あるはずのない友人の声が聞こえ、半ば勢いづいて振り返った。

「丹楓……」
「久しいな、応星。其方の顔を見たのはいつぶりだ?」

 言われて応星は考える。考えて、ん? と片眉を顰めたのだった。

「いつぶりって……一ヶ月とかそこらだろう。お前たちの感覚では三日前とかなんじゃないのか?」
「ふ、なんだ。辛気臭い顔をしているから案じてやったものだが、いらぬ心配をしたな。元気そうでなによりだ」

 丹楓は翡翠の視線を一度落とし、応星の腕になにもないことがわかってから、もう一度瞳を戻す。

「其方がここにいるとは知らなかった。知っていれば酒でも持ってきたものだが」
「いいって。こんな時間から飲み始めちまったら、それこそ手元が狂う」
「手元?」
「あー……いや、」

 応星は首裏を撫でさすり、これ以上失言をしないよう自らを戒めた。
 想定していなかったことだが、せっかくの友人との邂逅を台無しするのは本意ではない。戦場や酒の席ではないこうした状況は、最後に顔を合わせた時分よりも貴重なもののように感じた。

「ん。……、……、ちょっと待ってくれ……」
「よかろう」
「ふぇっくしょい!」
「……、応星……」

 待てとはくしゃみのことか、という視線が横から突き刺さり、丹楓の戦士ではない医者としての側面がじろじろと応星の観察を始めたのだった。不躾というか、この場合は容赦がないといったほうがいい。

「風邪でも引いたか。こんな夜更けに、そんな薄着で、なにを考えている……」
「いやちょっと、これはだな、仕事中だったんだが気分転換でもしようと抜けだしただけで……思わぬ寒暖差にやれているだけで、」
「愚か者め。内外の温度差も考慮せずに散策するとは、すなわち職務には向かない注意散漫状態だということだ」
「ぐ、ぐうの音も出ん……」

 表情筋の動かない能面めいた顔をしているが、吐きだされた嘆息にはわかりやすく感情が乗っている、ように思われた。
 この男との付き合いも短いわけではなく、なんなら長いほうに差し掛っているわけで、あ、これは強制送還されそうだなと。これは否が応でも工造司に突き返されるなと。星槎も使わず、雲吟で。などと、彼がこれから取るであろう行動の可能性を最大限に引きだし、しかし今はまだそのときではないと抗った応星が選んだ選択というのは、欄干から身を離して丹楓にくっつくことであった。
 これにはさしもの龍尊であれ、いくらか面食らった顔をする。
 想定していたいくつもの可能性が彼の口から発されないのを確認しながら、よし。よしよし、いいぞ、などと得意げになっていた応星だが、いい大人の男がふたり寄り添っている現状に、なんだかとんでもないことをしでかしてしまった気もする、という焦燥に顔が火照った感じがしていた。

「……」
「……応星」
「……」
「此の状況は?」
「ひ、人肌はあたたまるって言うだろう?」

 言い訳が苦しい。弁解しようもないほどに苦しい。だがこの戦法を選んだのはほかでもないこの応星、自分自身なのである。要するに彼は、後に引けなかった。
 ちらりとできうる限りに視線を動かせば、丹楓はなんというか、ものすごい剣幕をしていた。え、そんなに嫌だったか? と不安になって離そうとすれば言葉で待ったをかけられ、

「其方、誰彼構わずこのようなことをしているのではあるまいな」
「え? 普通にお前だけだが」
「そうか。ならいい」
「えっ、……いいのか?」
「ん?」
「おぁ……?」

 丹楓の意図はよくわからないが、良いと了承されてしまえばそれ以上焦燥を抱く必要もないと思える。実際まだやや寒かったし、情けなく鼻水を啜るよりかはこうしてくっついていたほうがあたたかいし、安心するので、応星は余計なことに思考を費やすのをやめたのだ。
 しかしぬくもりと安堵は得られるものの、あまりよくないなとは隅で思う。あまりに心地がよく、このままでは眠ってしまいそうだ。
 すると、欄干に置いていた右手に、丹楓の左手がかさなる。

「……ん?」
「寒いんだろう。こうして触れるとあたたかい。……違うか?」

 応星はぼんやりと考える。その訊き方は答えを問うているようで、そうではない。
 なにしろ、彼はあたたかいと先に答えを言ってしまっているわけだ。応星は今しがた人肌はあたたかいと口にしたばかりだし、素肌ではなくともふたつの体温がかさなれば自ずとぬくもりは倍増する。否定の選択肢など、最初から存在しない。
 思わず、吹きだして笑ってしまいたくなるものだった。

「まさか龍尊様が、そんな気障ったらしいことを言うとはなぁ」

 いやはやあんまりに驚いて、震えも忘れてしまったよと。
 応星は口には出さず、目元を綻ばせてこの時を甘受したのであった。

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