ポラリスが見えなくても_批評

 批評を加える前に、「批評なんて気楽なものだ」ということは宣言しておくべきだと思っています。自分自身よく使うたとえなのですが、ドラゴンボールみたいなストーリーを作ることができない読者ですらも「天津飯は大小問わずかめはめ波が効かないはずなのに、セル戦でそれを使わなかったのはおかしい」という具合に矛盾や改善点を指摘すること自体はできてしまいますから。批評なんてその程度のものですし、私がどう言おうとも作者の方がずっとずっと凄いことをしているんだ、という事実は揺らがない。そもそも完璧な作品などこの世に存在しないのだし、多少の改善の余地があるからと言ってこの作品の良さが損なわれることもない。欠点は必ず存在するものであり、ドラゴンボールのように欠点があるにもかかわらず読み進めてしまう物語こそが「良い物語」なのだと思います。

 これ、私の批評スタンスとして重要な点なので、他のところで私の批評を読んでくださった方は見覚えがあるかもしれませんね。でも何度だって繰り返しますよ。重要なので。

 読み進めてしまう物語こそが「良い物語」という立場からすれば、事実として私は「ポラリスが見えなくても」を最後まで読んでしまった。その時点で南の柳さんの勝ち!私の負け!
 なんなら私はクソ長批評を書くくらいにモチベーションを植え付けられてるんですから、そういうエネルギーを与えてくれる作品を書いた時点で勝利どころか大勝利だと確信しています。

 さて、本作品「ポラリスが見えなくても」に関してこれから批評を加えていくわけですが、大枠として物語の「構造」に注目し、分析した後、細部の文章表現を見ていくという流れを取ろうと思います。その際「構造」の分析では物語論(ナラトロジー)の枠組みを利用した批評を行います。物語論がどういう文学理論か知らない場合は、末尾に参考として概要の説明を掲載しておくのでそちらを参照してください。でも前提知識が無い人を想定して書くよう留意するので肩ひじ張らずに読み進めてくださって大丈夫です。もし知識がある場合は、知っていることをくどくど説明されて逆に面倒くさいかもしれませんが、そこは適宜読み飛ばして対応してほしいと思います。

 あと批評に対する批評、反論は誰からでも大歓迎です!妥当な読みというのは複数存在してもおかしくないですが、「明らかに間違った読み」というのは絶対存在するはずだと思うので。そこは「解釈って色々あるよね」で済ませてはいけないと思います。なので私がそれに陥っていたら、本当に気兼ねなく教えてください。

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・物語の構造分析
 「批評」とか「解釈」という言い方をせず、構造「分析」という言い方を使っていることが実は重要なポイントです。登場人物の内面など、読みが分かれてしまいそうな部分は大胆に批評の対象から外し、①話の筋(どういうイベントがどの順番で発生し、どう物語を進めるのか)、②キャラの役割(その物語において対象のキャラはどういった役割を果たし、話を進め方にどう関わってくるのか)などを考えます。たとえるなら各イベントやキャラを、「物語」という一つのマシン=工学的構造物を構成する歯車とみなし、その歯車が他の歯車とどうかみ合って動いているのか、どういう役割を担った歯車なのか、そして全体としてはどういうマシンになっているのか、似たマシンはあるのか、といったことを考えていくわけです。物語=マシンの設計図を得ようとしている、とも言い換えられるかもしれません。
 さて、分析のために早速ストーリーのプロットを抜き出すと以下のようになります。

①アドマイヤベガが風邪をひく前の日常。
②アドマイヤベガが風邪をひいたことがトレーナーに知らされる。
③トレーナーは彼女の体調を気にかけつつも直接的な介入はしない。
④他のウマ娘たちがアドマイヤベガのサポートを申し出る。
⑤アドマイヤベガが体調不良を乗り越え、部屋で休むことに専念。
⑥夢の中でのレースシーン。自身との葛藤と向き合う。
⑦レースで体調不良を感じながらも走り続ける。
⑧夢の中で双子の妹(自分の分身)と向き合う。
⑨夢の中で過去の自分を抱きしめ、受け入れる。
⑩風邪が治り、トレーニングに戻る準備をする。
⑪トレーナーとの会話で今後のトレーニングプランを確認し、前向きな姿勢を見せる。
⑫アドマイヤベガが成長し、自己受容と周囲への感謝を感じる。

 ばっさりカットしたところも多い(看病のシーンとか)のですが、意図があってのものです。実は、ボグラーの「ヒーローズ・ジャーニー」論に当てはめる形でプロットを抜き出しました。(実はこの言い方は語弊があります。「ヒーローズ・ジャーニー」そのものはジョーゼフ・キャンベルが自身の著書で述べた事なのですが、それをマニュアル化したのがボグラー、という関係です。この先、私はボグラーによってマニュアル化された「ヒーローズ・ジャーニー」の方を参照していきます)

 これはハリウッド映画のシナリオマニュアルとして普及している理論で、いわば現代的な物語の設計図ともいえる内容になっています。よほど意図的に「物語」を崩すことでもしない限り、現代の作品は、良い意味でも悪い意味でもこのマニュアルにある程度当てはめてしまえるケースが多いのです。これから私が何をしようとしているのかというと、マニュアルを見せながら機械の動き方を説明するのと同じノリで、ストーリーの動き方を説明してしまおうとしているわけです。

 さて、「ヒーローズ・ジャーニー」で説明してしまえるストーリーの多さについて述べましたが、一つにはマニュアルを通し作品を制作する、そしてその作品を鑑賞する機会が増えたことにより、全世界の人の脳みそに同じマニュアルがインストールされてしまったことによるものでしょう。それこそハリウッド映画はそのほとんどがびっくりするくらいピタリとこのヒーローズ・ジャーニーに当てはまってしまいます。

 しかしそもそも物語というのは一種の論理構成、因果律としての側面を持ち(側面というか本質と言って差し支えないと個人的には思うのですが)、物語が物語たるゆえのルールがあります。おばあさんが川に行った次のシーンで、いきなり桃太郎が金銀財宝を持ってくることがあり得ないように、ある程度論理構成として破綻しない範囲内でしかストーリーを書くことはできません。つまり物語を破綻させないルールがあるのです。この最低限のルールはヒーローズ・ジャーニー形式の物語だろうと、それとは違う形式の物語であろうと共通して持っているものです。そのため物語でさえあれば、多かれ少なかれヒーローズ・ジャーニーとの共通点を抜き出すことが可能です。

 「ポラリスが見えなくても」の場合、ヒーローズ・ジャーニー論でしっくりこないところもあるのですが、基準となる設計図としてヒーローズ・ジャーニーを利用する価値はあるでしょう。流行りの形式と一致する部分と、そこからはみ出してしまう部分、いわば個性が見えやすくなりますから。

 ネタバレというか予告的に分析結果を先に言ってしまうと、「ポラリスが見えなくても」は物語の原始的な形、つまり「神話」に構造の上では近い作品と私は考えます。特に日本神話のイザナギ・イザナミのストーリーに対応させるとしっくりくる気がします。「ポラリスが見えなくても」は生と死の境界を策定し、自分の生きている世界の足場の意味を確認するストーリーだと思うのです。あとで説明するのでお楽しみに。

 長くなり過ぎました。「ヒーローズ・ジャーニー」の説明に入ります。「ヒーローズ・ジャーニー」ですが、その中では、物語を以下の12段階に分けます。

① 日常の世界
② 冒険への誘い
③ 冒険への拒絶
④ 賢者との出会い
⑤ 第一関門突破
⑥ 仲間、敵対者、試練(+挫折)
⑦ 最も危険な場所への接近
⑧ 最大の試練
⑨ 報酬
⑩ 帰路
⑪ 再生
⑫ 帰還

 ……どうですか?なんだか項目名を見るだけでよくあるハリウッド映画が思い浮かんできませんか?スターウォーズのエピソードⅣとかピッタリじゃないですか?ではこれに「ポラリスが見えなくても」のプロットをヒーローズ・ジャーニーの各項目と対応させてみます。

① 日常の世界:アドマイヤベガが風邪をひく前の日常。
② 冒険への誘い:アドマイヤベガが風邪をひいたことがトレーナーに知らされる。
③ 冒険への拒絶:トレーナーは彼女の体調を気にかけつつも直接的な介入はしない。
④ 賢者との出会い:他のウマ娘たちがアドマイヤベガのサポートを申し出る。
⑤ 第一関門突破:アドマイヤベガが体調不良を乗り越え、部屋で休むことに専念。
⑥ 仲間、敵対者、試練(+挫折):夢の中でのレースシーン。自身との葛藤と向き合う。
⑦ 最も危険な場所への接近:レースで体調不良を感じながらも走り続ける。
⑧ 最大の試練:夢の中で双子の妹(自分の分身)と向き合う。
⑨ 報酬:夢の中で過去の自分を抱きしめ、受け入れる。
⑩ 帰路:風邪が治り、トレーニングに戻る準備をする。
⑪ 再生:トレーナーとの会話で今後のトレーニングプランを確認し、前向きな姿勢を見せる。
⑫ 帰還:アドマイヤベガが成長し、自己受容と周囲への感謝を感じる。

 いい感じに当てはめられた……と言えれば楽なのですが、お気づきの通り、当てはめが強引な項目と、そもそもここに示せていないシーンも多く存在します。この部分が「ポラリスが見えなくても」の特徴だと思うので、検討してみましょう。

 まず「③冒険への拒絶」が強引に当てはめてしまっているように思えます。ボグラーはこの「冒険への拒絶」の段階を重視しているのですが、それは「誰だって最初の一歩を踏み出すのは怖い。でもそれを乗り越えてこそ成長が始まるのだ」という実にアメリカンな成長論が根底にあるからです。主人公本人が冒険に対してノリノリな場合(先ほど例に挙げたスターウォーズエピソードⅣのルークはその典型です)は、主人公の周辺人物(ルークのおじさん、おばさんに対応します)が主人公を引き留めます。主人公はそれでもなお旅立つことで成長を始めるわけです。
 しかし「ポラリスが見えなくても」にこの段階を見出すのは少し難しいでしょう。「トレーナーは彼女の体調を気にかけつつも直接的な介入はしない」を「冒険への拒絶」要素として挙げましたが、流石に無理があります。もしかしたらテイエムオペラオーが部屋に乗り込んでくる部分がより適切なのかもしれません。夢の世界に旅立つというアヤベのささやかな冒険を、オペラオーは自身のやかましさで妨害しているわけなので。しかしオペラオーのイベントは④と⑤の間に起こっていることなので、③のイベントが起こる場所としては定石から外れています。

 形式に当てはめることが正解とは言いませんが、私はここに対応するエピソード、アヤベさんの成長のきっかけとなる「夢」世界への旅立ちを妨害するか、アヤベさん自身がためらったり自分の現状を見てみぬふりをするくだりを定石通りの位置に用意した方がより良くなると思います。例えばアヤベさんが無理して休まずにトレーニングしちゃおうとするとか。その後に周囲が説得し、思い直して(内心釈然としていないかもしれませんが)ベッドにつく、という流れです。他にもやり方はあると思います。
 現状なんというか、一歩を踏み出すシーンがないままアヤベさんが旅立ち、そして成長してしまっているので、成長の特別感が薄れてしまっている気がします。安易かもしれませんが、葛藤とか苦労を持たせ、それを乗り越えたほうが成長の説得力は出ます。あんまり大げさな葛藤だと世界観の大きさ的に不和を起こすので、ささやかなためらいを用意する感じでちょうどよさそうかな、と思います。

 あとは「夢以前」「夢以後」のアヤベさんを対比しやすくなる効果もあります。現状オペラオー、ドトウ、トプロ、フジ、ヒシアマ、カレン、トレーナーが「夢以後」の成長した状態のアヤベとコミュニケーションをとっていますが、成長前の状態での彼らとの関わり方を見せておいた方が、対比効果でアヤベの変化と成長を演出できます。「冒険への拒絶」のエピソードして彼らとの会話シーンを設けておくと、後々どう変わったかわかりやすくなると思います。(「説得力」とか「わかりやすく」みたいな「伝わりやすく」する方向性でばっかり考えていますが、そういう方向を目指さない書き方もあると思います。「そんなの目指してねえよ」って場合は無視してください……)

 まとめてしまいますと、歯車のたとえで言えば、「③冒険への拒絶」の歯車が存在しないもしくは不適切な位置に配置されているがゆえに全体の働きが鈍くなっている、といった印象があります。

 話を次の段階に進めます。旅立った次に来るのはアヤベが夢を見るシーンで、ここが個人的なここすきポイントでもあります。ヒーローズジャーニーの「⑤第一関門突破」から「⑨報酬」までに相当するエピソードですが、象徴的な死と黄泉がえりを描くことに成功していると思うからです。その理由を以下説明します。

 さて、往々にして物語を通じ主人公は多かれ少なかれ成長を果たすものですが、それは言い方を変えると「成長前の自分」を殺す作業と言えます。不穏当ないい方にはなりますが、成長前の主人公は一旦象徴的に死に、「⑧最大の試練」を乗り越えることで成長し、新たな自分となって象徴的に生き返ります。神話とか昔話なんかだと「象徴的」どころか本当に死んで死後の世界に行くケースも結構ありますよね。いわば「⑤第一関門突破」から「⑨報酬」までは神話的死後世界の現代バージョンであり、成長した主人公は文字通り「黄泉がえり」を果たします。これが「⑩帰路」に相当します。

 主人公があらゆる意味でアイデンティティの危機にさらされる場所ですが、ここでよく登場するのが「敵対者」です。敵対者は大抵⑦、⑧の「最も危険な場所」で主人公を待ち構えます。スターウォーズでいうダース・ベイダーですね。主人公はこの敵対者を打ち倒して成長することが多いのですが、なぜ倒すことで成長できるかというと、敵対者は「自分自身のシャドウ」的な存在だからです。単に敵対するだけの存在ではなくて、負の方向に成長してしまった主人公自身というもう一つの可能性であり、「黄泉がえり」を果たせず象徴的な意味で死んだままの主人公でもあり、主人公と鏡合わせの存在なのです。

 私が言おうとしていることはこれまたダース・ベイダーを想像すると分かりやすいかと思います。ダース・ベイダーもルークも同じフォースの使い手ですが、フォースの使い方を間違えて負の方向に自己実現してしまったのがダース・ベイダーです。ルークだって一歩間違えていればああなっていた可能性を見せてくれる存在です。「負の自分」を象徴する存在だからこそ、それを殺すことで新たな自分を手に入れて成長することが表現できます。

 では「ポラリスが見えなくても」でいう敵対者とは誰か?それは「妹」です。妹自身に敵対の意識はないでしょうが、妹を見ることでアヤベは致命的なアイデンティティの危機にさらされます。この段階では妹はアヤベを脅かす存在です。また作中で「もう一人の自分」という言い方がされているように、妹は「黄泉がえり」を果たせず、象徴的な意味で死んだままの主人公アヤベを象徴する存在でもあります。まさしく妹はアヤベ自身のシャドウであり、敵対者としての役割をもったキャラです。重要なのはキャラの内面(敵対しようとする意志があるかどうか)ではなく「役割」です。キャラやイベントを歯車的な存在として見ているわけなので、この歯車がどういう役割をしているか?ということが私の興味の焦点だからです。

 さて、これでようやくここすきポイントを説明できます。(長かった……)

 スターウォーズのようなハリウッド的世界ないしウマ娘世界では、敵対者を「打ち倒して」成長するケースがほとんどだと思います。ウマ娘第一期アニメでは、スぺはブロワイエを打ち倒すことで日本総大将としての自己実現を果たします。ブロワイエの場合「負のスペ」とまで言ってしまうと大げさですが、彼女は日本の代表のスペに対する欧州の代表としての存在であり、主人公に対する、ある意味鏡合わせの存在であることは間違いありません。

 では「ポラリスが見えなくても」で、アヤベは敵対者(妹)を打ち倒したのでしょうか?

 答えはもちろん「打ち倒していません」。これが「ポラリスが見えなくても」の第二の特徴でしょう。私はこれが好きです。

 「うずくまって泣く私を抱きしめる」という言葉が象徴するように、アヤベは自分のシャドウを打ち倒すのではなく「受け入れる」形で成長します。大げさに騒いだりしない、実にスマートな形での決着。南の柳さんの性別は知りませんが、こういう大げさにしないやり方を描ける男性は実に少ない。こういうのを書くのは大抵少女漫画家です。ここ以外からは逆に男性的な印象を受けるんですがね。だからもし男性なら作家としての希少性は高いな……なんて思っています。

 実際の成長の仕方って多種多様ですし、何かを倒すモチーフは必ずしも必要ないのでしょう。シャドウも含めて自分自身と受け入れる――さながらゲド戦記で自分の影を受け入れる展開を彷彿とさせます。めっちゃすき。そうして「誕生日おめでとう、アドマイヤベガ」という言葉に象徴されるように、アヤベは新たな自分としての誕生を迎えます。ここもめっちゃすき。

 旅の果てが倒すという結末ではなく、死者を慰めるとでもいうべき結末に落ち着いている点で、イザナギ・イザナミのストーリーを思い浮かべました。イザナギって死者のイザナミを倒さないんですよね。あくまで死者の世界に行って、戻ってくるだけ。でも死者の世界に触れたから、生きている自分の世界の足場を確かめられた。死と生の間に境界線が引かれ、もうふらっと「死」の世界に迷い込むことはない。アヤベも死者の世界に行って戻ってきただけです。でも戻ってきた場所の確かさは変わっているんですよね。

 物語の原型が存在している。そういう印象を持ちました。このシーンは、人の魂の原初に触れられるほどの広がりがあります。

 「打ち倒す」という形式を採用すると、かなり大げさな成長をキャラに強いることになります。そういう形式を採用した神話は、主人公が往々にして英雄化してしまいます。神話じゃなくてアニメの場合でも、例えばスぺは日本の代表にまで上り詰めてしまっています。これ自体が悪いってことはありませんが、「ポラリスが見えなくても」のミニマルな世界観にはそぐわない。本作はいい意味で「行って帰ってくるだけ」なので、作品の規模感と調和しています。簡単に大きなものを背負わせないのはむしろ誠実さを感じます。焦って大きな成長をする必要なんて必ずしもないですもんね。物語という形式や何かを倒すモチーフ程度で簡単に大きな成長を担保してしまわないのはすごく慎重です。

 総じて言うと、死後世界的なモチーフとそこでのエピソードを書くのがすごく上手い。勝手な想像ですが、作者の南の柳さん自身苦しんだ経験、アヤベと同様、象徴的に死ぬことを余儀なくされた(アイデンティティの危機に瀕した?)時期があったのでは……?と想像してしまいます。違っていたらすみません。しかしここのプロセスを描く能力が、他の段階のエピソードを作る能力よりずば抜けているような気がします。

 私はもっともっと文字数を使ってここのエピソードを書いてもいいと思います。アヤベの成長過程のコアを占める部分であり、なおかつこのエピソード周りを書く能力が高いのだからもっとたっぷり表現するくらいでちょうどいいと思うのです。一ページしかないのはもったいない!

 さて話を次の段階に進めます。「⑩帰路」、「⑪再生」、「⑫帰還」のエピソードです。ここは一転バランス感覚がやや悪い印象を受けました。pixivだと全体6ページの中、3ページを割いています。でもアヤベのささやかな成長って「夢」のシーンが本体であって、ここはストーリーの主要部分ではないと思います。ここはスターウォーズでいうとダース・ベイダーを倒しデススターから抜け出した後に相当する部分で、物語が終わりに向かって加速していくシーンです。主人公がどう変わったかをさらりと見せる程度の分量にしないと間延びした感じの元になります。

 しかも文量が多いのに、それ以上にこの段階になって登場する人物が滅茶苦茶多いので、一人一人との関係性を描き切れていない印象がぬぐえません。風邪が治った後○○さんは~した、の羅列が続いてしまっていると言いますか。特にトレーナーとか夢のシーンでアヤベを助けてくれる滅茶苦茶おいしい役割をしているのに、大量に他のウマ娘が登場してくるので存在感が薄れています。目が覚めた後、夢のシーンで成長を助けたわけでもないトプロがいきなり存在感を出してくるのも奇妙な感じがします。もしかしたら描かれていないところでのトプロとの経験が力を与えてくれていたのかもしれないんですが、あるならそれは明示した方が分かりやすいです。どうしてもトプロが必要なら、終わりの段階で新たにネームドを登場させるのは混乱の元なので、もっと早い段階で登場させ、そして何らかの形でアヤベの成長のきっかけに絡ませる役割をきっちり用意した方がいい気がします。他のキャラも同様です。でもそうすると分量が増えすぎてしまうので、バランス的にもっと登場人物を減らして対処する感じがいいのかな、と思いました。本当に重要な人物のエピソードを厳選して、そこをきっちり掘り下げる感じです。

 最初の方でプロットを抜き出すとき、「ばっさりカットしたところも多い」ということを述べましたが、これが問題の本質だと思います。あらすじを説明するときにカットされてしまうような、ストーリーの枝葉の部分が物語後半で肥大化してしまっている。夢のシーンが1ページできっちりコンパクトにまとまっていただけに、まとまり切れていない感が対比で目立ってしまっている面もあるように感じられます。


・文章表現について
 大枠を鑑賞してきたので、次に細部の文章表現を見ていきます。ここは解釈や評価が分かれやすくなるでしょうが、開き直って「私はどう感じたか」を中心に書き連ねていきます。

 まず純粋に疑問なのは、アヤベの一人称視点で書かれた部分に関して、「ナリタトップロード」と呼び捨てにしているところがあることです。地の文がアヤベさんからどれくらい離れた位置にいるのか定まっていない印象を受けました。5ページ目の最初のところです。

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 声の方を見ると、ナリタトップロードがいた。律儀にも持ってきたのだろう、折り畳み式の椅子をベッド横に置き、そこに座っている。膝の上にはトレーニング理論に関する雑誌のバックナンバーが乗っていた。
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 なんだかここだけ三人称一元視点みたいになっていません?

 逆にここ以外は、説明のし過ぎと評価されてしまうこともいとわないレベルで一人称視点から直接内面が語られています。よくある手法として、情景描写を通して主人公の心情を描くというものがあると思うのですが、これは本作においてあまり使われていない。しっかり使っているのは虹が出てくるところとラストシーンくらいでしょうか?

 文章表現は究極的には好みの問題に還元されてしまう部分もあるので良い・悪いという評価を下すのは慎重になりたいと思いますが、あくまで「私からすると」露骨な説明らしさを感じる部分が拭えないです。「説明」じゃなくて「描写」するべきだと思います。絵で見せる感じの文章とでもいいましょうか。説明的な文章で事足りる作品もあるんですが、この作品の繊細さ・広がり・可能性を思うと、ありあわせの形容詞や動詞で直接表現してしまうのがもったいなくてたまらないです。私達が使う日本語は過去の歴史の集積にすぎないのであって、南の柳さんやここのアヤベの切実な、特別な、その人、その時にしかない思いを表現するために開発されたものじゃありません。一口に「好き」と言い切ってしまっては、包括できない「好き」が、「悲しい」という言葉ではとらえきれない「悲しい」という思いがきっとあるはずだと思うのです。

 じゃあ「絵で見せる」ってどういう感じなんや、と言われてしまいそうなので、手前みそにはなりますが私が過去に書いた、怪我や病気のシーンを掲載しておきます。風邪を引いた状態のアヤベさんと共通点がありそうですし。(でも短歌とか俳句にも「絵で見せる」的なアドバイスってちょくちょくあったような気もするので、知っていたら読み飛ばしてください)

 「説明」じゃなくて「描写」というのは、主人公にとって世界がどう見えているのか?ということを通して心情を描こうとする感じです。私の表現が成功しているかどうかは読み手にゆだねたいと思いますが、「ポラリスが見えなくても」は「説明」じゃなくて「描写」向きの作品だと思うので、同じように「描写」を重視したシーンが万一、ひとつでも参考になってくれるところがあったら、と思ってのものです。参考にならなかったら中指でも立てといてください。甘んじて受け入れます。あと私の文章はウマ娘界隈でウケるタイプのものではないので、その点は差し引いて読んでいただきたい。

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・病気をして病室にいるシーン
 「白って200色あるねん」とは誰かが冗談交じりに言ったものだが、こうも白ばかりに囲まれていると、だんだん違いが本当に分かるようになってきている気がする。
 壁、天井、服、ベッド……厳密には白だけではないが、それでも膨張色の白が一番強く主張してくるせいか、部屋全体から押しすくめられて、自分の背が幾分低くなってしまっているかのような錯覚さえ覚える。こんなところに進んで長居をしたいような人はいないだろう。
 多少マシなことには、見舞いのリンゴやらメロンやらが、ものうげなモノトーンの世界を精一杯吸収してくれるおかげで、その周りの空間だけは、かろうじて色彩の層が保たれている。梶井基次郎ならばレモンの一つでもあれば救われたのだろうが、私にとっては、そんな健気な色彩の手助けをもってしても、この病室の印象をプラス方向に転じさせるにはいささか力不足で、依然として殺風景で冷たい雰囲気しか感じ取れなかった。


・ケガをしたシーン
 しかし、骨折の程度は深刻だった。緑のターフをベースに、自分の血の赤と、すっ飛んでいったリボン付きの靴が装飾として乗っかって、さながらクリスマスツリーを思わせる光景が広がっていたのである。
 脚の開放性骨折は、治療がうまくいっても元のように走ることはほとんど不可能で、予後も悪く、サンタからの贈り物としては、あまりにも時期外れかつ悪質な部類だった。
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 ケガのシーンなんかは「現実味がなかった」みたいな直接的な言い方をせずに、とんでもないケガをあろうことか「クリスマスツリー」というお祝いの象徴に見立ててしまうことを通して、主人公が現実を受け入れ切れていない様子を描写しようとしています。どういう風に「現実味がなかった」のか、そこまで含めて表現しようとした結果がこれでした。「現実味がない」というありあわせの言葉では拾いきれないニュアンスを拾いたかったからです。病室のシーンも、「窮屈」という言葉で間に合わせずに、「どう窮屈なのか」を考えた結果が「部屋全体から押しすくめられて、自分の背が幾分低くなってしまっているかのような錯覚」という表現でした。

 私の文章そのものは好みが分かれてしまいそうですが、南の柳さんの作品の繊細さを思えば、「説明」では説明しきれないところを拾い上げてくれると滅茶苦茶よくなりそうじゃないか?と私は思います。それを可能にする方法は「説明」ではなく「描写」だと考えます。
 しかし大事なので繰り返しますが、結局文体は好みの部分が大きいところでもあるので、私の意見と感じ方が正しい、なんてこの件に関しては言う気はありません!お任せします!


 さて、文章表現に関して好きなところももちろんあります。ここはしっかり語りたい。

 結論から言って、「象徴」を使う能力が高い。南の柳のここが凄い!ポイントだと思います。あとレースのシーンで意図的に文体が大きく変わっているのもイイ!ラストシーンもすき。順番に説明します。

 まず象徴について。「夢」の世界そのものがもはや象徴上の世界なのですが、前述したとおり、ここに関しての表現はやはり上手い。感情表現が説明的・直接的すぎる、とは言いましたがこのシーンは例外だと思います。マジで好き。またもや勝手な想像ですが、頭の中のイメージが直接出力されてしまっているのではないかと思いました。直接出力してしまうからこそ具体的な日常世界の表現が直接的になってしまうけれど、そもそもの抽象度が高い象徴世界の描写は、そのままの出力でいい塩梅に落ち着いている、みたいな。生まれ変わる瞬間をゴール板という象徴で可視化しているし、やっぱり抽象度が高いものを掴む力があるように思われます。

 話は変わりますが、夢の前では雨が降っていて、夢の後では虹がかかる、という対比があるのも好みです。まさしくアヤベの状態を反映した描写。ベタっちゃベタかもしれませんが、きっちり意図して配置したのを感じ取れます。「ベタすぎるだろ」って思った奴がいたら、「これくらい素直でいいんだよ!」って反論したい。ひねくれたこと考えているであろう作品じゃないんだから。

 他にも目が覚めた後にトプロを見つけるシーンで「膝の上にはトレーニング理論に関する雑誌のバックナンバーが乗っていた。」という描写があるのが好み。これだけで雑誌を読む時間があるくらい待っていてくれたのが分かります。他のところでは「~のようだ」とか「~らしい」という表現が頻出するので、ここも「随分と長い時間待ってくれていたようだ」と直接説明してしまいかねなかったところ、ぐっと情報を限られたものに抑え、こちらに想像の余地をパスしてくれています。すき。

 二つ目のポイント、レースシーンの文体の変化について話を進めます。夢の世界でのレースシーンなのですが、明らかに他のところに比べて一文の長さが短くなっており、短文を積み重ねる形で書かれています。また「~した」のような過去形でなく、現在形の文章が連続しています。これによってレースのスピード感を演出しているのでしょう。そしてその試みは成功していると思います。読点の多さも息遣いの粗さが伝わってきます。これらはスポーツの描写をするときの常とう手段ではありますが、自分でも書いたことがあるからわかります。これ案外難しいんです。自分もアヤベさんのレースシーン書いたことがありますが(まだ発表していません)、わざとらしくなっちゃうのなんので苦労しました……。気が付いたらエクスクラメーションマークだらけの短文が画面いっぱいに……ウッ!

 自分が下手くそすぎるだけかもしれないとも思いますが、素直に称賛したいポイントたるゆえんです。

 またレースシーンで個人的に気になっているのは「地面についた左脚に力を入れ、思い切り蹴り出す」という記述です。これに関しては深読みしている可能性も大いにありますが、わざわざ「左」と指定したところに理由があったりしないか?って思うんですよね。左右を指定せず、「脚に力を入れ」と描写しても何も違和感がないはずです。他のところには脚に関して(それどころか他のものにも)左右の描写をしているところはなくて、レースでの覚醒シーンだけ「左」脚と書いている。
 実は私自身アヤベの脚の片側がキーポイントになるストーリーを構想したことがあって、そのとき左右どちらの脚をポイントにするか?と悩んだ結果、左脚をキーポイントにしたことがあります。なので同じような感じで象徴的な意味合いをもしかして持たせていないか?と深読みしてみたい。はっきりとはわかりませんが、左は心臓に近いし、日本は古来左優位の考えだし(右大臣より左大臣の方が偉いとか、白米は左側に置くのがマナーとか)、そういう何かしらの背景があったりしないかな~と山を張ります。しかしここは深読みし過ぎている可能性の方が高いです……。この解釈に自信はない、と自信を持って言えます。(矛盾)

 そして最後のお気に入りポイントはラストシーンの描写です。該当箇所を引用します。

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 4人のウマ娘が駆けてゆく。トレーニングコースを、トゥインクル・シリーズを、彼女達自身の人生を、星のように煌めきながら駆けてゆく。挫折、後悔、失敗の前に何度も膝をつき、そのたびに立ち上がってきた。自分の脚で、あるいは差し伸べられた手を取って、前に進み続けた。
 願う。この4つの輝きが、星座のように人々の記憶に残ることを。遥か彼方、1万2,000光年よりも、25光年よりも遥か遠くまで届くことを。
 星は依然、輝き続ける。目にはみえないかもしれない。それでも確かに、その身に光を受け、その脚で輝きを増し続ける。
 競い合う4人を夕陽が照らしている。ああ、なんて楽しそうに走るのだろう。太陽は、まだ沈みそうにない。
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 「競い合う4人を夕陽が照らしている」とありますが、もうね、太陽が4人を照らしているんじゃない。むしろ4人が太陽を照らしているんだ、そう思えるくらい光っています。「星」とか「光」とか「輝き」ってベタ過ぎるモチーフで、むしろ扱うのに苦労させられる厄介な奴らなんですが、ここぞで使ってくれているので引き締まった印象を受けます。アヤベが主人公だからといってこれらのモチーフを前半から多用していたらこうはならなかったと思います。やっぱり象徴の水準になったとたん筆致が爆発しているような気がします。

 ところで「1万2,000光年よりも、25光年よりも遥か遠くまで届くことを」とありますが、勉強不足なもので「1万2,000光年」が何を意味しているのか分かりませんでした。検索してみても、ChatGPTに聞いてみてもダメでした。銀河の直径(10万光年)よりは小さい、最も地球から遠い一等星のデネブ(3000光年)よりは遠い。何でしょうかね?私のPCで「1万2,000光年」と検索すると、「1万2000光年先、惑星が恒星にのまれる様子を初観測?」みたいな記事が出てくるだけです。この記事が投稿されたのが2023年5月で、「ポラリスが見えなくても」が投稿されたのが2023年2月だから絶対に関係ないです。

 「25光年」の方はおそらくベガのことです。地球から25光年先にあるので。フォーマルハウト(みなみうお座アルファ星)も確かそれくらい離れてはいましたが、アドマイヤベガの話なんだからベガのことだと思います。

 「1万2000光年」の件、わかる方いたら教えてください!モヤモヤしてたまらん。



・終わりに
 すみません、こう……マイルドに伝える方法がわからなくて無茶苦茶言いましたが、私はこの作品の可能性を評価しているんだ!ということは重要なのでお伝えしたい。ゲド戦記や神話との共通性を見出してきましたが、これらの共通点を見出すことができるのは、作者の南の柳さんの頭の中にこれら名作を動かすメカニクスや歯車と同じものがインストールされているからこそだと思います。後天的に勉強しないとそういう物語を発生させるメカニクスをインストールできなかった私なんかとはもうスタート地点が違う。そういう意味で敬意を払っていますし、もっと短歌だけじゃなくSS形式でも読みたいな~と個人的には思っています!
 もう一つ言い訳しておきたいのは、私が批評内で「~を彷彿とさせる」とか「~に相当」とか「~と共通」と言うときに、決して「パクリだ!」と主張しているわけではないということです!露骨すぎるなら問題ですが、私がこう言うときは「過去の名作のテーマ、メカニクスなどを自分の作品に織り込むことに成功している」的な褒める意図で書いていることがほとんどです。何なら私は過去作品の影響を受けていない作品は存在しないという立場であり、作品の良し悪しを決める鍵は、むしろ過去作品の糸を自作の布にどう織り込むかであると考えているタイプです。
 ところで「ヒーローズ・ジャーニー」なんですが、これ、結構ストーリーの整理に役立つので使ってみることをおすすめします。お手本になるとは微塵も思っていませんが、私自身アヤベさんと妹のストーリーを「ヒーローズ・ジャーニー」を使って作ったことがあるので、どう使っているのかの事例として乗っけておきます。改善の方向を多少なりとも示さない批評は不誠実だと思うので……。使えそうなところがあったら、そこだけ取っていってください。(批評を読んでくださっている方々に一応お伝えしますが、ストーリー丸ごとパクるのはダメですよ!あくまでヒーローズ・ジャーニーの使い方の参考として掲載しただけなので。未公開のプロットなら「書きたい!」という熱意のある人にお譲りできるんですが、私自身このプロットを元に既に連載を始めてしまったのでもう無理です)

 二次創作SSに対しての批評としては長過ぎるくらいもう書きましたが、最後にちょっとだけ。

 いい作品を世に送り出してくれて、本当にありがとうございました。私の中の「妹」に相当するものを、否定するだけではなく受け入れる。そんな旅にいつか私も出ないといけないのだろうな、としみじみ思いました。

 これからも多くを南の柳さんから学ばせてもらうことになるのだろう、と予感しています。もちろん短歌に限った意味ではなく。そんな作品でした。

 だからこそしつこいくらい繰り返します。
 本当に、ありがとうございました!

 気が向いたらSSも書いてくれー!(本音)
 今なら奨学金があるからたとえ有料でも買えるぞーー!!




・おまけ

【ヒーローズ・ジャーニーで整理したアヤベさんのストーリー例】
*アヤベさんの妹は普通に生まれてきた、という設定です。

①日常の世界
アドマイヤベガと母親は過去の交通事故(アヤベさんの父、弟ら、妹が死亡)のトラウマがきっかけで共依存的な関係にある。
②冒険への誘い
同級生からレース勝負を挑まれる。
③冒険への拒絶
最初はレース勝負を断る。
④賢者との出会い
トレーナー、ナリタトップロード、テイエムオペラオーと出会う。
⑤第一関門突破
競争に勝つ。妹の幽霊が見えるようになり、レースの世界に踏み出すことを決意。
⑥ 仲間、敵対者、試練(+挫折)
トレーナーに支えられつつ、オペラオーやトプロとの交流、レースを通してレースへの情熱を高めていく。しかし、家で一人の時間が多くなった母親はより不安定に。仕事部屋からほとんど出てこなくなる。皐月賞でオペラオーに負け、初めての挫折を経験。
⑦最も危険な場所への接近
仕事部屋に近づくと、異常な物音がする。
⑧最大の試練
「入ってはいけない」仕事部屋に突入。母親に自分の思いのたけや、レースへの情熱を語り、もうこんなゆがんだ関係は終わりにしてお互い大人になろうと訴える。
⑨報酬
母親もこれまでのアヤベのレースでの姿を思い返し、夢を追うのを引き留めてしまっていた自分を詫びる。レースを通して成長しようとするわが子を応援しようと思う。
⑩帰路
母親と部屋から出てくる。久しぶりに一緒に外を散歩しようという。母親は「日本ダービー頑張ってね」と応援する
⑪再生
アドマイヤベガは日本ダービーに勝利するが、いつもと違い妹の姿が見えず違和感を覚える。そんな折、母親と和解したアドマイヤベガの姿を見た妹は、もう自分が力を貸す必要はなくなったと考え、別れの前に姉の力を確かめるべく競争を挑む。最後の競争で自分の前を走るアドマイヤベガの姿を見て安心した妹は父親とともに最後の別れを告げる。
⑫帰還
アドマイヤベガは、天寿をまっとうしてまたいつか会える日を見据え、恥じない自分になるため少しずつ大人になっていこうと思う。


【詳細なプロット】
 父、母、双子の妹ともに平凡ながらも幸せな生活を送っていたアドマイヤベガ。妹ともにトレセンに入学し、順調に学生生活を送り、妹とともに将来有望な選手としてみなされるようになっていた中でのこと、ある日父からキャンプに行こうとの提案を受ける。家族全員で賛成し、ついに出発の日がやってくる。しかし、道中突然運転席側から車が突っ込んできて交通事故に巻きこまれてしまう。原因は相手の飲酒運転によるものだった。事故の結果、母親とアドマイヤベガは助かるものの、車が突っ込んできた側に座っていた父親と妹は死んでしまう。アドマイヤベガ自身も左足に重傷を負う。選手生命はもはや終わったと思われた中、奇跡的に妹の左足が損傷を免れており、それを移植することになる。移植の痕こそ残ってしまったが、妹の足は驚くほどぴったりと適合した。
 もう一人生き残った母親は、顔や体に少し傷跡が残りはしたものの、おおむね軽傷だった。よりによってなぜ自分のケガが一番軽いのか、と母親は悩み、次第に不安定になっていく。退院してから数か月がたったころ、アドマイヤベガが帰宅すると母親が自暴自棄になっている。

「もうそんなことはやめて……。私がいるわ。あの子(妹)の分もいっしょにいるから」
「でもアヤベも、いつか母さんをおいていくのよ。アヤベも、お父さんみたいないい人と出会って、恋をして、結婚して、子供ができて……。子供は成長するんだから。母さんは結局独りぼっち」
「大きくなったりしない。おいていかないわ。私はいつまでも母さんの娘よ。ずっとあなたの子供」

 母親はアドマイヤベガの「妹の分も一緒にいる」、「私はいつまでもあなたの娘」という言葉を受け、冷静さを取り戻す。しかし自分の子供につらくあたってしまった罪悪感もあり、今まで以上に猛烈に仕事に打ち込むことで気を紛らわせようと、現在の仕事に加え、家の一室を使い内職を始めた。血気迫った様子で働く母親の姿を見て、邪魔してはいけないと思ったアドマイヤベガは、その一室から離れて過ごすようになり、いつしかその部屋は「開けてはいけない」ものとなっていった。

 時は過ぎ、高校生となったアドマイヤベガ。母親はある程度安定したものの、いまだ不安定さを完全には克服していない。そのため家庭には自分がいること必要だと考えており、かつての「妹の分も一緒にいる」という約束を果たすため、レースや放課後の練習、クラスでの活動などからは遠ざかってなるべく早く帰宅するようにしていた。ほとんどの生徒が委員会活動などを通してトレセンに何らかの形で貢献をする中、そういった貢献を一切しないで毎日さっさと帰宅してしまうアドマイヤベガに対していらつく同級生もいる。時には直接苦言を呈されるが、アドマイヤベガはそれでも母親のため同級生を無視して帰宅する。

 そんな日々の中、アドマイヤベガの行動を「才能にかまけて一切の練習をしない」ものだと受け止めていた同級生から、「自分と競争してこちらがレースに勝ったら、怠慢を認めてもっときちんと学生生活を送れ」との条件を突きつけられる。最初は付き合わず断ろうとしたものの、同様に不満を持っていたほかの同級生からも圧力を受ける。その場面に、クラスの委員長のナリタトップロードがたまたま出くわす。ナリタトップロードはアドマイヤベガに同情して仲裁に入ったが、騒ぎを収める適当な手段が思いつかず、多数派に押し切られる形で、結局のちにレースを行うことが既成事実化してしまった。

 レースの相手はすでにデビューを果たしており、OPクラスに昇級を果たしていた有望株の一人だった。脚の移植後、左右の脚の動き方がわずかに違うことから昔ほどは走れなくなっていたアドマイヤベガであったが、スタートするとなぜか左足がなじみ思うように走ることができた。そしてアドマイヤベガは勝利する。ろくに練習もしていないくせになぜ、と悔しがる同級生に少し申し訳ない気持ちを抱えつつ帰宅しようとした中、アドマイヤベガは驚くべきものを目にしてしまう。それは自分の死んだ妹の姿だった。幽霊なのかと驚くアドマイヤベガに、妹は「片足しかないけどお姉ちゃんに力を貸してあげようと思って戻ってきた」という。左脚が急になじんだのは妹が力を貸してくれたからなのか、と妙に納得できた。レースをするとき、その左脚が本来の役割を果たすときだけは力を貸せるから、そのときだけまた会えると妹は言い、消えていく。やや困惑する中、とある男性がやってくる。その男性は先ほどの競争を見ていたトレーナーの一人で、その才能を見込んで自分の担当生徒になってほしいとスカウトにやってきたのだった。選手になる気はないとスカウトを最初は断るものの、レースをすればまた妹に会えるのではと考えたアドマイヤベガはトレーナーの提案を最終的に承諾する。家庭優先の意向をトレーナーは汲んで、放課後の練習は最小限になるよう取り計らってくれた。

 トレーナーの担当になったことで選手登録されたアドマイヤベガは、数か月後、デビュー戦に出走する。結果は大差をつけての1着だった。その後も2つほどのレースに出て1着を取った。いずれのレースでも妹は姿を現し、共に走り、共に勝利を喜んだ。有り余る才能にほれ込んだトレーナーは、何とかアドマイヤベガを最高格であるG1のレースに出走させてみたくなり、皐月賞に出てほしいと頼み込む。アドマイヤベガは深く考えず、皐月賞への出走を了承した。最小限の練習だけをこなして今まで通りの日々を過ごし、皐月賞の日はあっという間にやってきた。結果は自身初の負け。一着はテイエムオペラオーというウマ娘だった。

 自身初のレース敗北後、テイエムオペラオーに「そのままではボクに勝つことなんて無理。ボクのライバルとして全くふさわしくない」と言われ、アドマイヤベガは初めて悔しさというものを体験した。妹は自分の非力を詫びたが、妹に力を貸してもらっているだけの自分が悪いのだとアドマイヤベガは自覚する。レース後、アドマイヤベガはテイエムオペラオーに勝ちたいとトレーナーに伝え、トレーナーも本格的な練習メニューを組み、次のG1、日本ダービーに備えることになった。

 練習時間を増やしたことで必然的に家庭にいる時間が短くなってしまい、一人で過ごすことの多くなった母親は次第に不安定さを増していく。アドマイヤベガもそれに気づいており、自宅にいる際は精いっぱいのフォローをするが、どうしても勝ちたいとの思いから練習に打ち込むことは譲らなかった。練習の日々の中、ナリタトップロードやメイショウドトウと仲良くなり、彼女らとアドマイヤベガは友人兼ライバルとなる。特にアドマイヤベガ、ナリタトップロード、テイエムオペラオーは世間から世代の3強との評価を受け、3人がそろって出走する日本ダービーへの期待感は高まっていった。

 日本ダービーを1週間後に控えたある日、帰宅すると母親の内職部屋からただならぬ音がする。今まで入ることを避けてきた部屋であったため、アドマイヤベガはドアを開けることを躊躇する。しかし、成長したアドマイヤベガは、母親との間にこれまで抱えてきた不健全な関係性に正面から向き合う決意を固め、ドアを開ける。中に入ると、部屋は相当散らかっていた。アドマイヤベガを見た母親は「いいトレーナーさんに出会ったのね。前に私の言ったとおり。やっぱり結局私の下を去っていく」ヒステリックを起こしていた。暴れる母親をアドマイヤベガは抱きしめ、「約束はしたけど、やっぱり私はいつまでも子供じゃ居られないし、妹の身代わりでもないから、妹の分まで一緒にいるなんてできない。こんな関係は終わりにして、私たち、もう一度やり直しましょう」と思いを伝える。事故後、家庭で一緒に過ごす時間そのものは多かったが、二人はこの時初めてお互いのことを直視した。お互いに子離れ、親離れして大人になっていく必要性を自覚し、母親とともに部屋から出て一緒に外を散歩する。母親は「日本ダービー、頑張ってね」と最後には応援した。

 1週間後、日本ダービーの日がやってくる。トレーナーに背中を押されゲートに向かう最中、テイエムオペラオーとナリタトップロードに出会う。テイエムオペラオーは雰囲気が変わったアドマイヤベガを見て、自身のライバルにふさわしいと笑う。ナリタトップロードは、お互いベストを尽くしましょうと言う。二人はアドマイヤベガに向かって手を差し出し、アドマイヤベガはそれに応え二人の手を握り、三人で固い握手を交わした。そうして3人はお互いの健闘を祈り、ゲートに入る。レースが始まると、妹が力を貸してくれているという感覚がこれまでと違って全くなかった。完全な独力で走らなければならないという想定外の事態に困惑するが、自分だけで持てる力をすべて振り絞り走る。結果は1着だった。テイエムオペラオーとナリタトップロードからも称賛され、母親からも電話で祝福された。

 勝利に喜ぶ一方、妹が力を貸してくれなかったこと、またレース後もなお妹の姿が見えないことにどこか引っ掛かりを抱えたまま帰りの道を歩く。レース後トレセンでトレーナーや3強のメンバーを含めた祝賀会をしていたため、まわりはすっかり暗くなり星空が出ていた。川の土手を歩きながら星空を眺めていると、ふと異様なくらい周囲に人気がなくなっているのに気付く。不思議に思っていると、突然後ろから声を掛けられる。振り返ってみるとそこには妹がいた。「今日のレースの時、どうして会いに来なかったの」とアドマイヤベガは尋ねるが、「もう私がお姉ちゃんに力を貸す必要はないでしょ?」と妹は笑う。どういうことだと思うアドマイヤベガを尻目に、妹は一緒にレースをしようと提案する。妹の真意を測りかねるものの、姉妹間で久しぶりの競争ができることがうれしくなったアドマイヤベガは、それを了承する。向こうの木のところまで土手を走ることになり、レースはスタートする。

 レース後の疲れもあり、最初は妹が先行していたが、もてる技術や情熱をすべて尽くしてアドマイヤベガは走り、次第に妹を追い抜かしていく。ゴールが近づく中、後ろの方から「ほら、やっぱり。お姉ちゃんはもう一人で走れるでしょ。もう私は必要ない」という妹の声が聞こえた。ゴールして後ろのほうを振り返ると妹の姿は消えていた。困惑して周囲を見渡していると、川の向こうの方から声が聞こえた。声のする方を見てみると、川の向こうで妹がこちらに向けて手を振っている。隣には父親の姿もあった。「しばらくはさよならだね」と手を振る二人に「待って!」と叫びアドマイヤベガは川を渡ろうと試みる。「渡っちゃだめだよ!」と妹の焦る声が聞こえた気がしたが、無我夢中で向こう岸に向かう。するといつの間にか周囲に人気が戻っており、アドマイヤベガのただならぬ様子を見た周囲の人間たちは必死でアドマイヤベガを止める。周囲の人間たちによってこちら側の岸にアドマイヤベガは連れ戻され、向こう岸を見てみるともはや父親と妹の姿はなく、頭上には星空が広がるばかり。夜空にはポルックスがまたたいており、以前より少しだけ光が強くなっているような気がした。

 時は経ち、トレセンの最高学年になったアドマイヤベガ。自宅通学ではなく寮で生活するようになっており、支度を済ませると学校へ向かう。登校中にテイエムオペラオーとナリタトップロードに出会い、一緒にトレセンに向かう。3人とも有馬記念を現役最後のレースと位置づけ、練習に励む日々を送っていた。トレセンに到着し、それぞれの朝練に向かうため別れる。アドマイヤベガはトレーナーの下に向かって一人で歩きながら空を見上げ、自分の人生が終わった時、父親や妹といつかまた会える日を見据え、恥じない自分になるため少しずつ大人になっていこうと思うのだった。


【物語論(ナラトロジー)の概要】
 物語論とは、ロシアの学者、ヴラジーミル・プロップから始まった学問です。後に構造主義哲学の形成に大きな影響を与えました。

 物語論とは、物語の分析として単に解釈をするだけでなく、科学の方法論を持ち込んで形式の上から物語を分析する学問です。
 イメージとしては、植物学に例えるとわかりやすいかもしれません。
 植物を調べる方法としてまず挙げられるのは、植物の葉や花を観察したり、解剖したりして中をよく確認したりすることです。これは文学で言うと「解釈」をすることに相当します。

【ヒマワリ】を持ってきて、それを構成する個々のパーツをよく観察する
=【ポラリスが見えなくても】を持ってきて、それを構成するそれぞれのセリフや表現を解釈する

のような感じです。

 だけど、これだとヒマワリのことはわかっても、植物とは何か、ということはわかりませんよね?植物の本質を知りたいのなら、他の植物も解析して「植物に共通すること」を抜きだしてこないと、体系的な理解ができません。
 例えば、あるタイプの植物は維管束が似たパターンで並んでいるとか、あるタイプの植物は種じゃなくて胞子で増えるとか、またはタイプに関わらず光合成をする点では共通しているとか、そういうことがわかって初めて植物をきちんと理解したと言えるでしょう。そして植物に共通する要素がわかってしまえば、それらの要素を備えるような生物を何かの技術で生み出せたとしたら、それは「植物」と言っていいもののはずです。

 同じことが物語にも言えます。
 個々の作品を分析するだけでなくて、「物語に共通すること」を抜き出して体系化したのが「物語論」です。物語論は「物語に共通すること」を教えてくれますから、それらの要素を組み合わせたようなものを作れば、それは物語になっているはずです。植物の時と同じですね。

 でも共通する要素をめちゃくちゃに組み合わせても植物を作ることはできないように、物語の共通要素をただ詰め込んだだけで物語を作ることはできません。植物のパーツがある一定のルールに従って並んでいるように、物語を構成する要素もある一定のルールで並べられています。これは物語の「文法」とか「構造」と呼ばれることが多いです。文法は単語という要素を適切に並べるためのルールですよね。同じことです。

 整った文章が往々にして言語学が示す文法をきちんと守れているように、良い物語は物語論が示すルールをきちんと守っていることが多いのです。そのルールの代表例こそが、「ヒーローズ・ジャーニー」というわけです。しかし物語には多種多様なジャンルがあり、「英雄神話」、「ロシアの昔話」など特定のジャンルに特有のルールを見出した学者も多く、そちらも結構創作に役立ちます。

 興味があればヴラジーミル・プロップ「昔話の形態学」、ジョーゼフ・キャンベル「千の顔を持つ英雄」などで検索!

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