堪忍袋
「さ、」
「さ?」
「……参考にします。勝手に見てるんでお構いなく。」
口をついて出た言葉に、色違いのマフラーを持って来た女の手が止まった。
「承知しました。お困りのときは申し付けください。」と相手は頭を下げるが、立ったその場所から移動する気配がない。
五十近くにもなると、堪忍袋の緒が丈夫になるものだ。
お客様、何かお探しですか、と勝手に近づいて来たマヌカンに、『触るなブス、』と言わずに済ませられるだけの忍耐が生成されたのも、子どものPTAを続ける羽目になった経験の賜物だろう。
毎回、もうあかん、と思いながらあれやこれやの荒波を乗り越えているうちに、次の年度では自営業の方が望ましいとの声が上がり、不承不承会長の襷を押し付けられると、妹弟子の助けを借りつつ雑務に追われることになった。思い出したくもない記憶しかない。
どの店に行っても、店員は、タイトスカートに化粧っ気の薄い、流行りのナチュラルメイクが多かった。眉の書き方があの頃とすっかり変わっている、と不躾な視線を向けて観察すると、相手はこちらの値踏みの視線を感じたのか、居心地の悪そうな気配になった。
こうしたデパートというより百貨店と呼ばれるのが相応しいような場所で働くのは、いい家で生まれて社会見学のつもりで働いてる女が半分、という時代もあった。
かつては、私を選びなさいとばかりに勝ち誇ったような笑顔で見返す女も中にはいたものの、世代が変わったのか、オレの年が問題か、そういうことは今ではほとんどなくなったが、自分がこの場にいる間に何かを買ってくれという圧だけはどの時代も変わらない。
寿限無を唱える代わりに腹の中できつねうどんの数を数える。
きつねうどんが一杯、きつねうどんが二杯、きつねうどんが三杯。
三杯唱えたところで、隣に貼り付いていたマヌカンは新しく来た客のところに移っていった。
――倉沢くんのお父さん、『あの底抜けの小草若ちゃん』と仲よろしいんでしょう? 私ら一度お会いしたいんですけど。
草若兄さんのモテようは、時代が変わってもそう変わるものではないらしい。
学童の送り迎えで、誰かがあの人と子どもとが並んで歩いているところを見つけ、あれあの背の高い人、どっかで見たことあるなあ、という話になってからは早かった。
「誰が「倉沢くんのお父さん」じゃ、触るなブス、」と言いかけたのを、とりあえずの愛想笑いで切り抜けるということをしていると、誤魔化し方にも年季が入って来るというものだ。
そもそも、本人が人間的にも落語の技量的にも成長したかはともかく、今はもう名前からはすっかり『小さい』が取れているのである。
そんなことも知らないアホが、人のうちの内情を好き勝手に詮索しようとすな。
そんな罵詈雑言ごと腹の中に飲み込んでいると、人間それなりの忍耐が身に着くようだった。
それにしても、マフラー言うのは女のストールやスカーフみたいなもんと違って、結局どれも似たような色味になる。
どれもこれも、あの人の首に巻くには面白みのない色だった。
だとしても、この手のカシミアのマフラーで、あの人の普段着ているジャケットに合わせた派手な色味のものを見つけるとなると、これはマフラーに出せる金と違うやろという正札の付いた店に行くしか手がなくなるという寸法だ。それも大概、分かり易くもダサいロゴが他人に見えるとこに付いている。
金を貰って広告塔になるというのならともかく、縁もゆかりもないメーカーの宣伝をすることほどしょうもないこともない。
巡り巡って海遊館に流れ着いた魚の気持ちで順繰りに店を回り、ようよう、割引のタグが付いたマフラーをこないして物色してる訳や。
「……なんでもええか。」
プレゼントなんか、自己満足の塊みたいなもんや。
去年みたいに豆まきに風邪を引いたらたまらんし、自分が貰って来た風邪をあの人に映すのも勘弁だ。
その前に渡せたら、なんでもええやろ。
レジ前に立っていた女にプレゼントで、と適当に選んだそこらのオッサンくさく見えそうな色味のマフラーを渡すと、タグについた赤札を丁寧に鋏で切って畳み直している。
「二万五千円の三十パーオフで消費税を加えまして、合計はこちらになります。お客様、駐車場のチケットはございますか。」と女が言って、元々実入りの少ない財布からはものの見事に諭吉が飛んでいった。
今日は雪が降ってますので、と言われてショッパーと呼ばれる小袋をビニール袋で覆っている店員のそこだけは派手な赤のマニキュアで彩られた爪を見ているうちに、この金で、ええ肉を買って帰ってステーキにでもして食う方があの人も喜んだのと違うか、という考えが頭を過ぎったが、すぐに忘れた。
寒い寒いと朝一の仕事から戻って来た人が早速ストーブの前に陣取っているので、茶を入れますか、と声を掛けた。
昼から振り始めた外の雪は止む気配がない。明日には少しばかり積もっていてバスも電車も遅れ気味になるだろう。子どもが戻って来る頃にはすっかり雪模様になっているに違いない。
振り返った人は、ちゃぶ台の上に目当てのものを見つけたらしい。
「お、これ心斎橋のデパートの袋と違うか?」と言われた。
またお前はオネーチャンに貢がせたんと違うやろな、と言いたげな目付きで見つめられてため息が出そうになる。しんとした寒さのせいか、それいつの話ですか、と突っ込む気力もない。
「開けてみてください。」
「おう……?」
マフラーを手に取った人は目を開けて「なんや、これ自分の買ってきたんか?」と言った。
「お前に全然似合うとらんやないか。」と顔の横に当てられる。
「僕のじゃありません。」
「ほな誰のや……。」と言って何かに気付いた顔になった。
漸く正解にたどり着いただろうと胸を撫で下ろしたところで「まさかお前、」と言って、手に持ったマフラーを両手でぎゅっと握った。
「これ、オヤジの墓の前に供えるつもりやったんと違うやろな……おい、もう開けてしもたぞ。」
またもや――そして、もはやわざとかとも思えるような――見当違いの返事が返って来て、がっくりと肩が落ちそうになる。
「違います。」
「ほな、誰のや。」
「もう一人いるでしょう。」
「もう一人て……草原兄さんか?」
なんでこんな鈍い男に惚れてしまったのかと自分でも思うが、仕方がないと諦めるしかない。
「もういい加減そこから離れてください。」と言って、その地味なマフラーを本来の持ち主の首に掛けた。
「似合ってないけど、まあ悪くないですよ。」と言うと、相手は目を丸くしてこちらを見た。
「……お前なあ……。」
「バレンタインの先払いです。」と言ってぼんやりしている相手が正気に戻る前に口づけをした。
先払いて、何やその言い様はと真っ赤になったその人は、「オレはまだ何も用意してへんからな。」と小さく言って買ってきたばかりのマフラーに顔を埋めている。
「ぬくいですか、それ。」
「ん、ああ……これ、もうオレのやから、貸したらんぞ。……お前の匂い付いたら外で変なことになりそうやし。」
「………。」
年を食って堪忍袋はそこそこ丈夫になったが、我慢は利かなくなったようで。
マフラーを解いてもう一度口づけてから、とりあえずは相手の着てるものをその場で脱がせることにした。
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