定食
「なんかねえ、私の一番古い記憶って、おかあちゃんでもおとうちゃんでもなくて、草原おじさんぽいんやわ……。」
「……そうなんか?」
「うん。」
「こうやって、赤ちゃんみたいに抱っこされて、」
いや、実際赤ちゃんの頃の記憶やろ、それは。
僕は年下の幼馴染が真面目な顔で物心付く前の遠い昔の記憶について話している隣の席で、無言でツッコミを入れた。
夕方の寝床である。
寝床と言っても、布団を敷いた畳の部屋というわけではなくて、幼馴染の住む場所の横にある飲み屋のことだ。
「髪の毛まとめてるからずっとおばあちゃんかと思ってたけど、小浜のおばあちゃんて、もっと細いし髪長いやんな、てこの間やっと気が付いて。どう考えてもあのシルエット、草原おじさんなんやわ。いつものおかあちゃんのカセットテープ、あのド下手なちりとてちん聞きながらあやされて、ときどき『今日からお前の名前は、徒然亭草じきや!』て言われるの。」
「徒然亭草じき? ……何それ。」
僕が首を傾げると、カウンターにいたお咲さんが、ぷっと吹き出した。
「あ、あかん……思い出してしもた。」と言ってお腹を抱えてるのは菊江さん。
「オチコちゃん、それ、絶対草原さんやで。」と奥にいた熊五郎さんがお皿を持ってやってきた。
揚げ物のいい匂い。
万年欠食児童の僕にとっては、このお店はパラダイスだ。
(今日はミックスフライ定食かな。)と小声でオチコが言うので僕は頷いてみせた。
お父ちゃん、子供には揚げ物食べさせとけばええやろ、みたいなの、いつもながら給料日前の毎日素うどんと合わせて、振れ幅が大きすぎるな。
「熊五郎おじさんも知ってるってことは、うち、もしかしてここにいたん? なんや、周りは日暮亭の二階みたいやったのに。」とオチコが首を傾げる。
いや、もうちょっと可愛い本名があるてことは分かってんのやけど、なんか実の親の草々おじさんも、生みの親のおばちゃんですらオチコのことを本名で言わなくなっているので、時々僕も正しい名前のことを忘れそうになる。
「ちゃうねん、若狭ちゃんの芸名決める時にな、みんなでどんな名前になるんやろうな、て言ってたんや。」熊五郎は笑っている。
ここでは、オチコのとこのおばちゃんは若狭ちゃん、おじさんは草々くん、と呼ばれている。おばちゃんは高齢出産で、二人ともええ年の夫婦なのに、ふたりはいつでも二十代の夫婦みたいだ。
「オチコちゃんのおかあちゃんが芸名は『綺麗な名前がええです』て言ったら、草原さん、『徒然亭草じきはどうや?』て言ってね。」
お咲さんはそう言って笑った。
「草々はなんや、徒然亭草りがま、なんてどうや、て言ってたしな。」といつものようにカウンターにいる磯村屋のおじさんが言った。
「くさりがま……って何?」とオチコは首を傾げる。
「え? 今の小さい子、鎖鎌のこと分からんのか……たまらんなあ。時代の流れは無情やで。」という磯村屋のおじさんの横で、菊江おばさんが「そうかて、もうゴールデンタイムに時代劇やってへんのやもん。今時、時代劇言うたら、ケーブルテレビ持ってる中高年の、お金の掛かる趣味やねんで。年末年始の特番くらいでは、何にも分からへんのもしゃあないわ。」と言ってお酒を傾けた。
オチコが隣で(それで、結局『くさりがま』って……?)という顔をしているので、仕方ないので僕が、忍者が使う武器や、と簡単に解説したら、へえ~という顔をした。
「おとうちゃん、昔からそういうセンスの持ち主やったんやね。」
今、コイツ、そういう、の前に「しょうもない」て単語抜いてしゃべったな、と言うのが分かったので、僕はちょっとだけ神妙な顔になった。
ふだん、寝床のカウンター席を陣取っている磯村屋さんのおじさんと仏壇屋の菊江おばさんは、町内の生き字引だ。
磯村屋さんの方は、そろそろ店を畳むかどうかと言う話が出ていたらしいけど、美容師の専門学校を出たばかりという草々おじさんところのお弟子さんに、落語家の仕事と並行して顔剃りの仕事を一緒にしてもらうということにして、床屋さんの現役をまだまだ続けているし、仏壇屋の菊江おばさんは、『うちはもう生涯現役やで!』と看板を掲げて、今でも細々と線香やろうそくを売っている。
ベビーシッターは時々面倒やな、と思うことも多いけど、こないにして、寝床でご飯を食べながら、僕がここに来る前の話、オチコが生まれるずっと前の話を聞くのは楽しかった。
オチコも、この年にして「おかあちゃんとふたりでおると、自分の未来予想図見えてくるみたいで、時々すごいしんどいねん。」と言っているくらいの悲観主義者なので、ご飯のときくらいここにいるのは丁度いいような気がする。
おばちゃんて、怒ったら怖いこともあるけど、楽しい人やと思うけどな、僕は。まあ、うちのお父ちゃんと同じでオチコの前やと地が出てまうのは分かるけど、基本的には外面作ってくれることのが多いし。
「はい、ジュースとささみ巻きチーズ定食お待ちどおさん!」とお咲さんが二つのお膳を持って来た。
「うわーーー!美味しそう!」
寝床って最高!と言わんばかりにオチコの顔が輝く。
ささみ巻きチーズ定食は、三つのフライが乗っている。ささみと、これは魚のフライに、もう一つは何だろう。
「そういえば、うちの父は、その場にいました? 何か言ってましたか?」
「四草な………そういえばあいつ、徒然亭草しきはどうや、て言ってたな。」と磯村屋さんは言った。
うっ……。
聞かなきゃ良かった。
草若ちゃんがオチコのおばちゃんに夢中だった時代の話か、と思うとちょっとは同情を感じないこともないけど、草しきは流石にひどい。
「ほんま、四草くん、妹弟子も色もんになればええのにと言わんばかりの顔してたわね。自分の名前、そんな嫌いでもないくせに。」という菊江さんの言葉に「……いや、それはどうかな~~~。」とお咲さんは言った。
「草若ちゃんは? なんて言ってた?」とオチコは顔を輝かせた。
先代草若の弟子の四兄弟のうちの三人の答えが出そろったのだから、まあそれを聞くのが話の流れとしては順当だろう。
何が出て来るのかというところだが、僕は正直に言うと、ちょっと怖い。
「考えてみたらええで。ヒントは今日のミックスフライ定食や!」と熊五郎さんが言った。
「ささみ巻きチーズ定食やなかったん……?」とオチコが首を傾げてる。
お前の言いたいこと、僕も分かるで、オチコ。
大人って、こないしていきなり適当になることが多いんや。
まあしみじみしてたらフライが冷めてしまう。ヒントはこれかな、と思って、僕は、どうか新ショウガまるごとでありませんように、と思いながら真ん中にあるピンクのフライを齧ってみる。あ、やらかい。
「魚肉ソーセージや。」
「ピンポーン!」とお咲さん。
「いや、ピンポーン!て。」と僕が言うと、「そもそも、ソーセージて、もう、草の字関係なくない?」とオチコが突っ込む。
大人って、大体こんなもんやで、と僕は心の中で答えながら、熱々のソーセージフライを食べた。美味しい。
隣で、チーズ入りのささみフライにソースを回し掛けているオチコはふう、といつものようにため息を吐いて、結局、誰も当たらなかったんやね、と言った。
僕は、日暮亭にあるモノクロ写真でしか見たことがない三代目草若の、粋で茶目っ気のある顔を思い出した。
おばちゃんの芸名にはならなかった『ソーセージ』フライを噛み締めながらしみじみしていると、その隣で、くたびれたサラリーマンみたいにジュースを飲みながら、「私は、徒然亭クサツオンセンエキとかになろかな。芸名て、ちょっと長い方が強い気ぃするし。」と小さな幼馴染は言った。
「それは、底抜けに寿限無やな。草若辺りが、そういうの喜ぶと思うで。」と磯村屋さんが言った。
それを聞いて、オチコが、あはは、と声を上げて笑った。
「それいいわ、ちょっと楽しそう。草若ちゃんが喜んだら、うちのおとうちゃん、隣で薬缶みたいに沸騰するからな~。」
よし、これにしよ、とオチコが軽いノリで言うと、磯村屋さんは、おいおい、という顔をしたけど、上方落語を愛するおじいちゃんは、将来の落語家候補に水を差すようなことは口にはしないと、心に決めているようだった。
いや、お前、ほんまに落語家になるつもりなんか?
僕はお前と一日違いで落語家になるとかすったもんだで喧嘩になるのんは嫌やぞ。
そんなことをつらつらと思いながら、僕は、どんぶりに盛られたご飯を口いっぱいに頬張った。
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