頸と心第二部(15)袖の香

前
横書き
https://notes.underxheaven.com/preview/3732ac3fc9eb56d11313b1f6bc1e2e20
縦書き
https://notes.underxheaven.com/preview/tate/3732ac3fc9eb56d11313b1f6bc1e2e20
    



 山を下りきる頃には、日はもう随分と傾いていた。
 土井はてっきり廃村へ戻るのかと思っていた。けれども先を行く利吉は分かれ道で別の方角に進み、そのまま街道沿いの宿場町まで降りていった。案内された宿は昨日泊まった朽ちかけの家とは比べものにならない設えで、表には馬を繋ぐ場所があり、帳場には明かりが灯り、奥からは夕餉を支度する音と出汁の匂いが漂っている。食事付きの宿などかなりの高級宿だ。昨夜が昨夜だっただけに、畳の敷かれた部屋へ案内されると土井は妙に落ち着かない気分になった。
「随分いいところを取ったんだな」
「湯も使えますよ」
「それはありがたいけど……いくらだった?」
「お兄ちゃんは気にしなくて大丈夫ですよ」
「そういうわけにはいかないだろう」
 荷を置いていた利吉が振り返る。何を言われるか分かっているような顔をしていた。
「ここは私が出しますので」
「何言ってるんだ。年下に出させるわけにいくか」
「私が出します。ちゃんと稼いでますので」
「利吉くん」
「代わりに、全部流してください」
 そうぴしゃりと言われて、土井は口を閉じた。
「……何を」
「何もかもです。山の埃も、汗も、今日一日のことも。湯に入って全部流してきてください」
 最後の一つだけ明らかに意味が違っていて、土井は暫くぽかんと利吉の横顔を見ていた。当人は至って真面目な顔をして荷を解いている。些かの意地と、少しばかり拗ねたような気配が感じ取れる表情。まあ、そりゃあ面白くはないだろう、と土井はため息を吐いた。
 自分と同じ顔をした死んだ男の墓を一緒に作らされて、あまつさえその前で土井が何を言うのかを最初から最後まで聞かされたのだ。勝手な奴だった、置いていくしかなかった、お前のせいで生きた云々と、恨み辛みの皮を着た睦言を。昼間利吉は何も言わなかったけれど、惚れた相手からあれを聞かされて平然としていろと言う方が無理筋なのかもしれない。
「……分かったよ」
「そうしてください」
「でも宿代は」
「お兄ちゃん」
「はいはい」
 取りつく島もない。土井は苦笑しながら立ち上がった。言われた通りに湯を貰うかと手ぶらで出ようとしたところで、利吉から呼び止められ手拭いを投げて寄越される。別に着物で拭けばいいだろうと呆れて言うと、全部流してくださいと言ったはずですがとやはり呆れて返された。確かに土埃を落とせと言われているのに土埃にまみれた布で拭いたら意味がないかもしれない。細かいなと思いながら手拭いを肩に掛け、戸口のところで一度振り返ると利吉はもうこちらを見てもいなかった。土井は今は何を言っても逆効果だろうと諦めて廊下に出た。

 一人になった途端、利吉は小さく息を吐いた。
 土井はさっさと湯を浴びに行ってくれた。それは利吉にとっては幸いだった。考えたいことを考える時間ができた。
 別に、昼間の弔いそのものに腹を立てているわけではないのだ。死んだ人間に言いたいことがあるのは当然だろうし、それを言うためにあの場所まで行ったのだから邪魔をするつもりもなかった。あの首巻きから土井の指が離れないのを見た時など、嫉妬よりも先にこの小さなものを手放すためにこの人は四年もかかったのかと思って何もできなくなったくらいだ。
 ただ──。

「……『利吉』」
 小さく、自分の名を口にしてみる。
 昼間、土井は墓に向かって確かにそう呼んだ。利吉くん、ではなかった。いつも自分を呼ぶ時より少し低く、ひどく柔らかい声で墓の前にいる誰かに向かって『ありがとう、利吉』と言った。あれは自分に向けられた呼びかけでは絶対になかったと利吉は思う。今朝、土井が言った言葉がずっと頭に残っている。
 ──あいつは、君だった。
 似ていた、ではなく。同じ名だった、でもなく。君だった。
「…………」
 利吉は畳の上に胡坐をかき、腕を組んだ。聞いた時にはてっきり土井が自分を揶揄っているのだと思っていた。けれどもあの呼び掛けを聞いてしまうとどうもそうではないらしいと思えてくる。今朝のあの言い方は、何かを誤魔化そうとして出たものではなかった。言ってから自分でも困っていたくらいなのだから考えるより先に本当のことが口から出たのだろう。顔も名も同じで、下手すると中身まで同じ人間が、土井の過去にいた?
 そんなことがあるのだろうか。それは本当に自分だったのか──そこまで考えた時、利吉の頭にふと昔読んだ話が浮かんだ。
 唐代の話だったと思う。離魂記、だったか。想い合う男女が引き離され、女の魂だけが身体を離れて男を追い、何年も夫婦として暮らした末に故郷に残っていた身体と再び一つになる。
「……いやいや」
 利吉はすぐに首を振った。
 あれは物語だ。怪異譚の類を真面目に自分に当てはめてどうする。だが魂魄が身体を離れるという話そのものは、唐土に限らず耳にする。人が眠っている間に魂が身体を抜け出して遠く離れた場所へ行っただとか、生霊となって想う相手の前に現れただとか、そういう話なら昔からいくらでもある。
「…………」
 利吉は腕を組んだまま、今度は首を傾げた。
 例えば、眠っている自分から魂魄の一部が抜け出して、自分も知らないうちにお兄ちゃんと会っていたということはないだろうか。だとしてもお兄ちゃんが彼の言うところの『利吉』と会っていた頃、自分はまだ彼と出会ってすらいない。会ったこともない人間を追って魂だけが出ていく理由がないだろう。
(でも、本当にないんだろうか)
 利吉は考え込んだ。魂は変幻自在であるともいう。子供の身体から抜け出した魂が大人の姿を取ることだって絶対にあり得ないとは言い切れない。ましてや魂というものが生身の人間とは違う理に従っているのなら、まだ出会っていない相手のところへ行くことだって──。
「…………いや」
 利吉はもう一度首を振った。これでは随分自分に都合がいい。まだ出会ってすらいなかった頃から自分の魂が土井のところへ行っていたのだとすれば、それではまるで生身で出会うよりもずっと前から結ばれていたようではないか。身体が出会うより先に魂が相手を知っていたというのならこれほど強い縁もない。土井がどれほどその男を忘れられなくても、結局それは自分なのだから嫉妬する必要などないのではないか。
「いやいやいや」
 何を考えているんだと、利吉は額を押さえた。これではあまりにも自分に都合よく話を作りすぎている。そもそも根拠が「顔と名前が同じ」「お兄ちゃんがその男のことを君だったと言った」しかない。そこから魂魄が身体を抜けたことにして、挙句の果てに出会う前から結ばれていたなどと考え始めるのは我ながらどうかしている。
 けれども、それなら他に何だというのだ。瓜二つの人間ならまだいるかもしれない。名が同じ人間もいるだろう。その二つが偶然重なることだって、天地がひっくり返るほど珍しくはあっても絶対にないとは言い切れない。
 だが土井は、『似ている』とは言わなかった。『あいつは君だった』と言ったのだ。
「…………」
 やはり本人に聞くしかない。そこまで考えが至ったところで、利吉はようやく腕を解いた。どうせ今夜は同じ部屋なのだ。戻ってきたら聞こう。今朝のようにはぐらかされても今度こそ逃がさずに問い詰める。
 そう腹を決めれば少しは落ち着くかと思ったのに、土井はなかなか戻ってこない。
 湯浴みにどれだけ時間をかけているのだと最初は思った。やがて夕餉を運ぶ前に宿の者が一度顔を出し、それでも戻らず、利吉は座ったまま何度も廊下の気配を窺うことになった。こちらは聞く言葉まで考えて待っているというのに肝心の相手がいない。そうしてとうとう待ちくたびれた利吉が畳に片手をついた頃、ようやく廊下から聞き慣れた足音がした。
「悪い、遅くなった」
 障子が開き、湯上がりの土井が入ってくる。髪はまだ僅かに湿っていて頬にも湯の熱が残っていた。昼間まで纏わりついていた山の土埃はすっかり落ちて、珍しくも着替えできてくれたらしい衣からは香木ともつかない良い匂いがする。
「ずいぶん長かったですね」
「ああ。久しぶりにまともな湯だったからな。全部流してこいと言っただろう」
「それは……言いましたけど」
 落ち着かなくなりそうになる自分を制して利吉は思わず俯いた。何事かを言い返しかけ、それよりも先に聞くべきことを思い出す。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「聞きたいことがあります」
 土井が手拭いで髪をかき混ぜていた手を止めた。ほんの一瞬だけひたと目が合い、迫った利吉の方が面食らう。土井は何を聞かれるのか既に知っている顔をしていて、小さく息を吐くと、諦めたように手拭いを放った。
「……まあ、そうなるよな」
 利吉の向かいに腰を下ろしながら、胡坐をかいた膝に肘をついて再び溜息を吐く。
「何ですか、その顔は」
「聞かれるだろうと思ってたことを聞かれるのが面倒で」
「面倒でも、最初から説明してください」
「私にも心の準備というものがあるんだ」
「朝に意味の分からないことを言い出したのはお兄ちゃんじゃないですか」
「あれは迂闊だったな」
 悪びれているのかいないのか分からない。利吉は少し眉を寄せ、しかし今はそこを追及している場合ではないと思い直して背筋を伸ばした。
「……昼間のあれは、どういうことなんですか」
「昼間?」
「利吉、と呼びましたよね。墓に向かって」
「……ああ」
「朝には、あの人は私だったとも言っていました。顔も私と同じで名前まで同じだったと。それは本当なんですか。喩えか何かなのだとしたら、一体どういう意味なんですか」
 沈黙が落ちる。土井は膝の上に置いた手を見ながら、どう説明したものかと考えているような顔をしていた。利吉も答えを急かさずに待った。ここまで来てまた誤魔化すようなら、今度こそ問い詰めるつもりだった。そうして長い長い沈黙の末に、やがて土井は顔を上げた。
「……言った通りだよ。あいつは、君だ」
「ですから、それはどういう、」
「似ている訳でも、同じ名前の別人でもない。私が会った山田利吉は、君本人なんだ」
「…………」
 利吉は土井を見返した。嘘をついている顔ではない。困ったように眉を下げて、こんな信じられる筈もないようなことを言う。いっそ利吉の方が困るくらいだ。つい先程まで考えていた荒唐無稽な思考がにわかに現実味を帯びてきて、利吉はまさか、と細く息を吐いた。
「ではそれは、やはり魂魄が抜け出たとかの……」
「魂? ああ──そうか。唐代の小説か。離魂記だったかな」
 土井はそう呟いて、利吉の顔を見て少しばかり可笑しそうに言った。
「君、ずっとそんなことを考えてたのか」
「そんなこととは何ですか」
「いや、随分可愛らしいところに着地したなと思って」
「話を逸らさないでください」
「はいはい」
 土井は笑いを引っ込めると、再び自分の手元を見て続けた。
「そういうのとは違う。魂が抜けたわけじゃない。これは──こいつだな」
 そう言って、何もない空間に指を掛ける。利吉にもその仕草には覚えがあった。土井の指先が目には見えない何かの端を摘むように動き、そのまま横に指を送ると空気の層が一枚ずれたような感覚が一瞬だけ部屋を通り抜ける。
「……頁、ですか?」
「ああ」
「これが何ですか」
 利吉も、これができるということ自体は知っている。頁を捲れば今いるところとは少し違う場所や時間を垣間見ることができるのだ。明日の天気を確かめたり、数刻前のことを確認したり。便利ではあるがそれなりに気力も使うので特段好き好んで使うものでもない。だから今突然これを見せられたところで正直意味が分からなかった。
「これで私は、六年を跳んだんだ」
「…………は?」
 利吉は思わず呆けたような声を上げた。一夜にして城が立ったという話の方がまだ信じられる。蟻の巣穴に鯨が落ちたとでも言われたような気分だった。
「……六年?」
「ああ」
「六日ではなく?」
「六年だ」
「そんな馬鹿な。だって、頁を捲ったところで精々──」
「数日だな。普通なら」
「あり得ません」
 反射的に否定の言葉が出た。土井もまあそうだろうという顔をしている。
「まあ……私にも、何故あれだけ跳べたのかは分からないんだ。気づいた時には六年先だった」
 利吉は言葉を失った。土井が冗談を言っているようには思えない。そもそもこんな冗談を言う理由もない。では、つまりこういうことなのだろうか。土井は頁を捲って六年後の世界に行き、そこでしばらく過ごして、そこで──。
「そこで……私に会ったと……?」
「ああ。六年先の君に」
「私が、私が今より六つ年上だったということですか」
「今同じことが起これば、そういうことになるだろうな」
 頭の中で数字を数える。この人が山田の家に来たのが自分が十二の時だったから、その頃であればその自分は十八の筈だ。利吉は聞かされていた話の中の男を思い返した。土井と二人であの家を直し、狩りをして一緒に暮らして、最後には土井を庇って死んだ男。──それが、全部自分だと?
「……待ってください」
 利吉は思わず額を押さえた。
「本当に私だったと……?」
「そう言ってるだろう」
「これからそれが起きると言うことですか?」
「それはないよ。あれはもう閉じられた頁の中の出来事だから」
 その言葉で利吉の頭の中はさらに混乱した。土井が抱えていたのはずっと過去の男だと思っていた。彼が自分と出会う前に愛した、もう死んでしまった誰かの話だと思っていた。それが自分の未来だった──いや、土井の話からすると未来の自分ですらないらしい。
「じゃあ……」
 続く言葉を言おうとして、利吉は固まった。ひどく妙なことに気づいてしまったからだ。今まで自分はずっと、土井の抱えた過去の影に嫉妬をしていた。彼の中に自分では敵わない誰かがいて、その男と過ごした時間の重さにどうやっても追いつけなさそうなことが悔しかった。けれども、その男が自分だと言うのだとしたら。
「じゃあ結局……お兄ちゃんが好きなのは、私だったということですか」
 些か回っていない頭でそう訊けば、土井はすぐには何も言わなかった。代わりに利吉が今まで一度も見たことのない顔をしている。困っているのとも、笑って誤魔化そうとしているのとも違う。問いかけられたその言葉が心の中のどこにも収まる場所を持たずに宙に浮いてしまったかのような、ひどく無防備な顔だった。山田の家に来た頃の、まだ名も名乗らず縁側でぼんやりと庭を眺めていた頃の彼でさえ、もう少し何かを隠すような顔をしていたと利吉は思う。
 膝の上に置かれた土井の手が、迷うようにゆっくりと握られた。爪が掌に食い込むほどではない。けれども指の節が白くなっていくのを見て、利吉は自分が何か彼のひどく痛みを持った場所に触れたのだと遅れて気づいた。
「……どうなんだろうな」
 ようやく出てきた声は、驚くほど掠れていた。
「そうなんだろうか……」
「お兄ちゃん……?」
「分からないんだ。本当に」
 土井は利吉を見ない。握った自分の手を見下ろして、どこか遠い場所を見ているかのようだった。先ほど湯で温まったはずの指先から、少しずつ血の色が引いていく。
「あいつは君だった。それは嘘じゃない。顔も、仕草も、獲物を追う時の目も……君が罠を確かめる時に屈む角度だってあいつと寸分違わない」
 利吉は息を詰めた。土井は利吉を見ないまま続ける。
「だから、君を見ているとどうしたってあいつが見える。……でも、違うんだ」
 土井はそこでようやく顔を上げた。湯上がりの火照りが頬にまだ残っているのに、目の奥だけがひどく冷えている。
「君は、あの場所で私たちが何をして、何を話したか知らない。どこでどう生きて、何を最初に与えて何を最後に寄越したかも知らない。君にはあいつの記憶がない。あるわけがない。あれは起こらなかったことなんだから」
「…………」
「起こってもいないことを重ねられても、君だって困るだろう」
「それは……」
 困る──と利吉は思った。確かに困る。今朝、自分を通して別の誰かを見ている土井に腹を立てたのはまさにそれが理由だった。利吉の表情から図星を見て取ったらしく、土井は少しだけ顔を歪めた。
「君は君で、今ここにいる。でも六年先の頁の中で私を庇って死んだあいつも、どちらも山田利吉で、どちらも……」
 土井は言いかけて、口を閉じた。唇が一度震え、それを噛み殺すように強く結ばれる。宿のどこか遠くで器を重ねる音がして、廊下を誰かが行き過ぎる気配がした。長い沈黙の後にぽつりと落とされた言葉は驚くほど小さくて、まるで心許ない子供のようだった。
「……だから、ずっと苦しい」
「お兄ちゃん……」
「君がいるのが嬉しい。君が生きて、君と君の家族が怪我もせずに、君が父上の傷も知らずに大きくなったのがどうしようもなく嬉しい。なのに、君を見るたびに君の中にあいつがいないことを確かめるんだ。いないと分かって安心して、それからまた苦しくなる」
 土井は自嘲するように息を吐いた。笑おうとしたのかもしれない。けれどもうまくいかずにまた俯いた。
「勝手だろう。君からすれば知らないところで知らない自分と比べられて、自分が自分でないことを惜しまれてるんだ。……分かってる。分かってるんだが」
 握られていた指が、ふっと解けた。開いた掌には何もない。それでも土井はそこにまだ何かが残っているかのようにしばらく自分の手を見つめていた。
「……好きなのが君なのかあいつなのか、私にももう分けられないんだ。君はどんどん私が出会ったあいつに似てきて、分けられないから私は君に何も言えない」
 利吉はその顔を見つめたまま、思わずきつく奥歯を噛んだ。目の前のこの人は、きっと自分が想いを告げる度に立ち竦んできたのだろう。四年も──いや、きっと六年先の頁から落ちてきたその日からずっと。
「……でも」
 ぽつりと落ちた声に、利吉は顔を上げた。いつの間にか土井がこちらを見ている。目の前の利吉を見ながら、その形そのものをそっと確かめているような視線だった。
「君にしかないものも、たくさんあるんだ。今日は……それがとても嬉しかった」
「今日、ですか」
「弔おうって、言ってくれただろう。それで私はここまで来られた」
「それは……」
 思いも寄らないところを差し出されて、利吉は返す言葉を探し損ねた。弔いの提案は別に大層な考えがあって言ったことではない。四年経っても彼の中で埋められないままでいるものがあるのなら埋めてしまえばいいと思っただけだ。自分は付いてきただけで特段何をした訳でもない。首巻きを土に置く指すらいつまでも離せずにいる様子を、黙って見ていることしかできなかったのだから。利吉が黙ったままでいると、土井は先程開いた掌をもう一度緩く握り込んで言った。
「それから、一緒に墓を作って、また来てもいいと言ってくれた」
「まあ、言いました……けど」
「あいつだったら、きっとそんなことは言わなかった。墓なんか作ってどうする、死んだ人間に何を言っても聞こえんとでも言っただろう」
 土井はそこで少しだけ笑った。今度はうまく笑えていた。利吉は少しばかりほっとする。
「そうやって文句を言う割に、私が行くと言えば付いてきて、黙って穴を掘ってそれでおしまいだ。また来ればいいなんて口が裂けても言わない。でも私が来たいと言えばきっとまた付いてきた。……あいつはそういう奴だった」
 知らない話のはずなのに、利吉にはその男が穴を掘る背中まで見えるような気がした。六年頁を跳んだ先の自分が、何故そんな素っ気ない様子なのかは分からない。けれども先程の土井の口振りからすると、きっとその自分はもっと過酷な経験をしてきたのだろう。弔いなんぞ何になると言い切るほどの何かがあれば、自分も或いは同じように振る舞ったのかもしれない。けれども自分は言ったのだ。また来ればいい、と。何も考えずに口にしたあの一言が、この人にとってはあの男にはなかったものとして残ったらしい。そしてそのことを妙に大事そうにして笑う。あまりに些細なことに思わずじっと見つめ返してしまった利吉に、土井は少々居心地悪げに居住いを正す。
「……だから……その、」
 土井はそこで目を逸らした。膝の上の手が、着替えたばかりの衣の裾を所在なげに撫でている。
「……柄ではないんだが。こういうのは……」
 消え入りそうな声だった。最後の方はほとんど聞き取れず、土井自身も言ったそばから後悔しているような顔をしている。何がですか、と問い返しかけて、利吉は咄嗟に言葉を呑んだ。またあの甘い香りがかすかに鼻腔を擽ったのだ。
 部屋の中に、ずっと良い匂いがしている。土井が障子を開けて入ってきた時から気づいてはいたのだ。山の匂いでも花の匂いでもない、強いて言えば寺で嗅ぐ香の薫りに似ている。ほんのりと甘い匂いに混ざるのは、おそらく白檀と沈香、それから丁子──思い至って、利吉は喉が渇くかのような気分になった。いつも着たきりの衣で平気な顔をしている人が、今日は珍しく着替えてきた。湯から戻るのが待ちくたびれるほど遅かった。久しぶりのまともな湯だからだとこの人は言った。全部流してこいと言ったのは君だろう、と。
(違う)
 利吉は目の前の人をまじまじと見た。湿ったままの髪。頬に残る湯の熱。落ち着きなく裾を撫で続ける指。この人は甘ったるい空気もそれらしい雰囲気もたぶん得意ではない。昨夜のあの朽ちかけた家で、焚き火の向こうから冗談めかして人をからかうほうがずっと性に合っている人だ。それなのに、そんな彼がわざわざ時間をかけて身を清め、衣を替え、匂いまで纏って戻ってきた。今夜のために。──ほかの誰でもなく、自分のために。
 そう気づいた途端、一気に顔に熱が上るのが分かった。問い詰める言葉ばかりを並べて待っていた自分がひどく間抜けに思えた。この人はとうに、別の答えを用意してあの廊下を歩いてきていたのに。
「……お兄ちゃん」
 呼ぶ声が少し上擦った。土井は答えない。答えられないのだということが今の利吉にはよく分かった。裾を撫でていた指が止まり、それからためらうようにその指が畳の上を擦って少しだけ身体が寄せられる。触れはしない。指一本分の距離を残したまま、彼はそこで止まった。
「……分けられないと、言ったが」
 伏せていた目が、ようやくまっすぐに利吉を捉えた。湯の熱とは違う色がその奥に滲んでいる。もどかしさと渇きと欲と、それから続いた圧し殺したような声にそのまま乗った、何か。
「──これは、君が好きなんだということじゃ、だめか」
 最後の吐息が夜気に溶けるよりも先に、気付いたときにはもう腕を伸ばしていた。

powered by 小説執筆ツール「arei」

130 回読まれています