もどらない



それは、8月の真昼のこと。
ここのところ、毎日のように最高気温が更新されている。部屋の中から見上げれば、窓の向こうには、崩れかけた入道雲が覗き、ひとたび廊下に出れば、茹だるような熱気のなか、あちらこちらから、蝉の鳴き声が反響していた。時折、それに混じって聞こえてくる、生徒たちの声を耳にしながら、階段を下りていく。
学校は、夏季休暇期間中だ。けれど、グラウンドや体育館、音楽室などには、部活動に参加している生徒の姿が、それなりの数、見受けられ、一部では、学期中を彷彿とさせる、にぎやかさすらも感じさせた。

一階の渡り廊下を歩いていると、どこからともなく、足元に、ボールが転がってくる。目を落とせば、土で少し汚れた、野球ボールだった。野球部、と思いながら、なんとなしに手に取ると、校舎の角の方から、「すいません!」という溌剌とした声とともに、軽やかな足音が近づいてきた。

「ありが……って、ヒバリだったのか。サンキューな。」

現れたのは、並中のユニフォームに身を包んだ、見慣れた人物だった。ボールを拾ったのが自分であることが分かると、山本は、深めに被っていた帽子を、少しばかり浅く被り直して、笑顔を浮かべる。たぶん、ボールを追いかけてきたのが、他の部員だったなら、ありえない表情だろう。
それには答えず、無言のまま、差し出された手のひらに、ボールを乗せてやる。彼はそれを、軽く握ると、それから、ふたたび顔を上げた。

「見回りか?ごくろーさん!」

額に滲んだ汗が、太陽の光に反射して、きらきらと光っている。だが、それを気にする様子は、彼には全くなさそうだ。
「君のほうが、よっぽどね。」と、返事をすると、山本は、「ん?」と言って、笑顔のまま、こちらを見る。何を言われているか、分からないといった様子だった。

「暑い中、ご苦労さまって言ったんだよ。」

そう言うと、彼はなぜか、口を半開きにした。分かりづらいけど、驚いているみたいだ。何をそんなに、と思っていると、彼は、こちらを見ながら、ゆっくりと目を細め、唇をほころばせる。それから、「ヒバリから褒められるなんて、思ってなかった。」なんて、予想もしていなかったことを口にする。べつに、褒めてなんかない。物好きだ、と言いたかっただけだ。だけど、わざわざ否定するのも、癪な気がして、黙っておくことにした。

「へへっ。ヒバリの愛する並中、背負ってっからな。なんて!」

そう、白い歯を見せて笑った彼の背後から、また、途切れることなく、蝉の鳴き声がする。逆光の眩しさに、目を細める。
それから。おもむろに、左手を上げると、山本は不思議そうな顔をした。けれど、特に警戒や、緊張はしていないようだった。

「……?」

避けないんだな、と、思った。自分が、こんなことをすれば……と言っても、ただ単に、下ろしていた腕を上げただけなのだが、大抵の人間は、こちらの目的もわからないまま、反射的に顔を背けるか、強張ったように身体を縮めるか、どちらかなのに。
自分がどんな存在であるのか、そして、周囲からどう言われているのか、彼だって、その身をもって、痛みとして知っているはずだ。応接室にのこのこと入り込んできた山本と、その連れを気絶させたのは、ほんの数ヶ月前のことなのだから。なのに、彼は、自分に向けて伸ばされている腕を、避けようともしない。それどころか、ここのところは、こうやって、妙に親しげに、笑いかけてくるようにすらなった。最初はただ、目障りだと、そう思っていた。はずなのに。

「ヒバリ?」

今日の自分は、どうかしている。
だからなのか、自分でも、何の目的で、こんな事をしようとしているのか分からない。
けれど、自然に、指先は、彼のほうへと向かってゆく。彼の額に光る汗が、滑り落ちて、今にも、彼の睫毛を通り過ぎて、目に、入りそうだったから。だから、それを、指先で拭おうとして。







「ヒバリ?」

いつのまにか、蝉は鳴きやんでいた。
記憶よりも、幾分か低い彼の声に名前を呼ばれ、意識が引き戻される。目の前には、さっきまでと同じように、山本が佇んでいた。しかし、彼が身に着けているのは、ユニフォームではなく、黒のスーツ。そして、彼の後ろに見えるのはグラウンドではなく、荒れ果てたヨーロピアン調の、狭くて暗い、部屋の一室。
視線を戻せば、こちらの表情を窺うように、薄茶色の瞳が、自分を見下ろしていた。心配そうでありながらも、おだやかな表情は、あの頃と、何も変わらない。ただ、目を引くのは、顎にある、深い傷跡。そして、額を濡らす、赤褐色の。

―――垂れてしまう。
などと、日頃なら、そんな些細なことに、かまいはしないはずだった。否、彼でなければ、かもしれない。
まるで、なにかに惹かれるかのように。すでに自分が、彼の頬のすぐ近くまで、指を伸ばしていた事に、そこでようやく、気がついた。その事実に、わずか、躊躇した指が、不自然に動いた。その間に、無情にも、その液体は、どろり、と。彼の瞼にむかって、流れていき。

「ったー…!目に入っちまった……。」

片目をつむりながら、「やっぱし、振り降ろし方がキレイじゃなかったからかなぁ。」と、頭をかきながら、山本は、ぽつりと呟く。それは、傍から聞いていれば、バッドのスイングに言及するかのような、軽い口調だった。口元には相変わらず、うっすらとした笑みを浮かべながら。けれど、彼の肌を濡らすのは、きらきらとした汗ではなく。生臭く、ぬるりとした、自分がよく知っていたもの。

(ああ、あのとき。)

行き場を失った左手を下げる。自らの手が、まさに今、彼の目を汚したその色に染まっているのは、いつものことだ。昔から。ずっと。なにひとつ、変わらない。
けれど、目の前で笑ってみせる男は、決して、そうじゃなかったはずだ。いつだって、あの眩しいグラウンドの上で、馬鹿みたいに、ただひたすらに、白いボールだけを追いかけていた。ずっと、飽きることなく、そうしていればよかったのに。それが、何にも変えられない、喜びだったはずだろうに。自分の腕は、多くの人を喜ばせるためのものだと、自分の喜びが、他者の喜びになれば、それが叶えられれば、どんなに嬉しいことだろうかと、夢を見るように、語っていたのは、誰でもなく、彼だったのに。自分は、かまわない。もとより、何も変わらない。それだけだ。だけど。

「……どうかしてる。」
「はは。ひでー。確かに、無茶したけどよ。そう言うヒバリだって……」

冗談っぽく細められようとしていた瞳が、こちらを捉えた途端、不意に、開かれる。その理由は分からない。けれど、ほんのわずか、そのまなざしから露わになったあどけなさを、直視できずに、目をそらした。
10年という歳月は、短くも、長くもある。きっと、誰にとっても、過ぎてしまえば、束の間のことだ。それでも。誰よりも、日常に近いと思っていた彼が、一番早く、自ら進んで、非日常に染まることになるなど、そんなこと。
……そんなこと、は、最初から、どうでもいいはずだ。誰がどう生きようと、まったくもって、自分には関係のない話だ。なのに。もはや、自らの奥底に、何を持て余しているのかすら、よく分からなくなっていた。けれど、到底、よい気分なんて言えるものではなく、ただ、ひたすらに、静かな、けれど腹の底に燻る、深い苛立ちにも似た感覚に、不快さと、形容し難い感情を覚えるばかりだった。もう一度、視線を戻す。思ったとおり、彼は、すでに、やわらかな笑みを浮かべていた。

「どーした?じっと見て。」
「……。」
「……ん。あれ?もしかしてさ、」

「前にも一度、こんな事あったっけ?」
その言葉に、かすかに目尻が震えた。けれど。山本は、傷跡の目立つ顎に手をやって、呑気に首を傾げる。思い出せそうなのに、思い出せない、というように、ほんの少し、眉をひそめながら。そのおぼろげな記憶に、返事を返すつもりは、もともと無かった。「知らないな。」とだけ言って、いつものように、彼に背を向ける。

「早く戻るよ。感染症になられても迷惑だ。」
「へーへー。了解。」

戦闘の後。ついさっきまで、威厳を称えていた屋敷の内装は、脆くも崩れ、廃墟のような様相と化した。薄暗い建物の中を歩きながら、彼の革靴の底が、砂利と擦れる乾いた音が、背後から聞こえてくる。
その足が、もう二度と、グラウンドの土を蹴ることはないのだと、懲りもせず、思う。



―――ヒバリの愛する並中、背負ってっからな。

あの夏の日の真昼。
たった一度だけ、耳にした彼の声が、鮮明に、頭の中で繰り返される。明るい明日を疑わないような、痛いほどに真っ直ぐな笑みだった。どうしてか、自分は、時を経た今でも、その光景を、忘れられずにいる。たった一度だけ、たったの数秒の出来事が、焼きついたまま。それが何故なのかは、分からないまま。この感覚が、未練なのかも、後悔なのかも、どちらとも判別できない。だけど。ひとえに、思ってやまないのは。

(あのとき。ふれておけばよかった。)

と、そんな馬鹿げたことを思うなんて。やっぱり、あの日から、自分は。 

powered by 小説執筆ツール「arei」