曙光


 吹上御苑といえば、とりわけ皇居の中でも林に神殿が散在するだけの静かな場所である。特に今日などは秋晴れで雲も高く、青空の下、黄色に色づき始めた葉が鮮やかだった。毛利が宮中から離れて数ヶ月経った、昭和二十三年の秋だった。暫く離れていただけで随分懐かしく感じられるものだと敷地内を歩きながら毛利は感慨にふけった。
 毛利はつい数か月前、国立博物館に移送された。書類上は去年のうちに帝室から国立博物館に移管されていたが、漸くそれが実行に移された。毛利とともに多くの皇室所有の刀剣、美術品が上野に移った。
 博物館というものは毛利には新しく、まだよそよそしい場所だった。保管されるだけではなく、展示研究する場なのだと博物館の先達である厚藤四郎に教えてもらったが、毛利には聞き慣れない言葉ばかりでいまだによく分からない。戸惑っているのは毛利だけではないようで、新参皆で慣れようとしているところだった。
 さて毛利が皇居に赴いたのは特別に用があるからだった。鶯丸を探して吹上御苑を歩いていく。別に文でも事足りたのだが、直接足を延ばさねば平野には会えない。この刀工を同じくする兄弟が毛利は可愛くて仕方なかった。まだ宮中にあった頃は菓子を持って八つ時に鶯丸のところに遊びに行くことが日課だったくらいだ。鶯丸は午後になれば祭祀に引っ張り出されることもまずないので、大抵平野と一緒に茶を飲んでいた。今日も吹上御苑で庭を眺めながら茶をしばいているだろう。あの太刀は戦争があってもなくても変わらない気がした。
 予想通り、鶯丸と平野は茶室の縁側で並んで腰かけていた。突然の来訪にも関わらず、驚きながらも快く毛利を迎えてくれた。平野はわざわざ茶を入れてくれたほどだ。
「大包平さん、ご結婚されるんだそうです」
お茶を一口すすってから、毛利は早速本題に入った。実を言えばのんびりできる時間はなかった。
 今朝、大包平から文が届いた。手に取ってみるといつもより質の良い紙だったものだから、毛利は開封する前から何か重大な内容ではないかと疑ってかかっていた。それで開けてみれば案の定結婚の報告で、毛利はやはりという気持ちで喜びつつ、大いに感心した。大包平に嫁ごうと思わせるのも、大包平を娶ろうという気になるのも、どっちにしろ滅多なものではないと思うのだ。
 鶯丸と平野はともに首を僅かに傾けて毛利を見ていた。毎日平野が世話をしているせいか、この二人は仕草がままかぶる。
「俺のところにも来た」
「僕には前田の兄弟から文が。おめでたいことです」
三者三様で話は伝わっていたらしい。それなら話は早い。
「そうなんですよ。池田にご挨拶に行くそうなので、それに合わせて僕も岡山に行こうと思うのです」
「それは楽しみですね!」
平野が微笑む。無邪気で子供らしい小さい子も毛利は大好きだが、年経た付喪神らしく落ち着いた小さい子も毛利は同じくらい愛している。本当はその場で叫び、溢れる気持ちの奔流を吐き出してしまいたいのだが、この場はそれをぐっと堪えた。それをすると平野はぎょっとした顔で立ち尽くしてしまうのだ。小さい子は愛でるものであって、決してその健やかな心をざわつかせてはならないというのが毛利のモットーだった。
「大典太は来るのか?」
茶をすすりながら鶯丸は尋ねた。
「ご挨拶にいらっしゃるんじゃないのですか?」
結婚の挨拶なのだから来るに決まっているだろう。当然毛利はその考えだったから、この太刀は相変わらず不思議な世界で生きているものだと鶯丸の細めた目を見返した。
「あいつは足利の頃から出不精だったからなあ」
「流石に今回はいらっしゃいますよ」
平野が慌てて毛利の手を取った。かすかな不安が毛利の顔にも出ていたのだろう。ちらりとよぎった懸念が吹き飛んで幼子の手の感触に意識が移った。柔らかくてすべすべして温かい。
「大典太さんは決して悪い方ではありません。ただ少々繊細で俗世に身を晒しすぎると疲れてしまうような方なんです」
「せん……さい……?」
平野の手に意識が行ってしまい、言葉が頭の中で上滑りする。
「そうなんです。ちょっと神経の細いところがあって……。僕は大包平さまを存じ上げませんが、大包平さまと釣り合いの取れるような立派な太刀でいらっしゃいます!」
懸命に気を回す小さい子は良きものだ。うんうんと毛利は何も考えずに頷いた。まあ大包平さんも危なっかしいところはあるが、毛利より年も体格も上なのだから頭を悩ます必要もないだろう。全くめでたいことだ。良かった良かった。本当は平野に会うついでに大包平と大典太の話をふたりから聞いておこうと思っていたのだが、そんなことは頭から吹き飛んでいた。
「あのふたり、一度恋仲になりかけて盛大に破局したんだがな。どうやって結婚まで至ったのか是非聞いてきてくれ」
「どういうことですか!」
平野が表情を一変させて振り向いた。子供の甲高い声が茶屋に響く。大きく目を開く表情は見た目相応でもあった。落ち着き払った平野もこういう表情をするらしい。
 鶯丸は庭を見つめたまま美味そうに茶を飲んでいた。雀のちちという声がいやによく聞こえる。暫く凍り付いたような沈黙が落ちた。穴が開くのではないだろうかというほど鶯丸を見つめる平野と、その横顔を見つめる毛利と、泰然として茶に口を付ける鶯丸がいた。毛利は何があろうと平野の味方だから、さっさと答えてやれば良いものをと思っていた。
「大典太が大包平のもとに通っていたんだ」
「いつのことですか? 場所はどこでしょう?」
的確に質問する平野は鶯丸をよく理解している。この太刀はどうも何かを伝えるのが下手だ。具体性がないか内容に穴が開いているかのどちらかだった。起き抜けの大包平もよくそういう話し方をしたと鶯丸を見るほどに懐かしく思う。毛利も一つ一つ質問して丹念に内容を掘り出していったものだ。
「大包平が足利の屋敷に来る前のことだったはずだ。俺も詳しくは知らん。これについては大包平も何も教えてくれなくてな。どこまでの仲だったのかも分からないが、大典太を振ったんだ。一晩庭先で待ちぼうけを食らわしたんだったか」
「それは……」
平野が小さく息を飲んだ。待ちぼうけとはまた随分と痛烈な拒絶を繰り出したものだ。
「大包平さんらしくないですね……」
ぽつりと毛利は言った。口を挟むつもりはなかったのに漏れ出ていた。
「本気にしていなかったんだろう。多分な。それくらいしか理由が思いつかん」
「そうですよねえ……」
腕を組んで毛利は池田の日々を思い出した。本当に色恋の話の出ない太刀だった。恋仲をつくるどころかそういう素振りも見せなかった。毛利はある種の潔癖ささえ感じ取っていたものだ。
「ではあれは、大典太さまのことだったんですかね……。僕は大包平さんが振られたとうかがっているんですけれども」
首をかしげる毛利に、「そうなのか?」「僕が分かるはずないでしょう」と鶯丸と平野も顔を見合わせていた。




 毛利と大包平の付き合いは長い。輝政公が姫路に移封された頃からだ。毛利が家康から輝政に拝領されて、最初に挨拶に訪れたのが大包平のところだった。
 まだ大包平が重宝と呼ばれるほど、池田の家は古くなかった。殿様の一のお刀というのが大包平の扱いだった。それでも家をお守りする大事な役目だ。案内のものも真面目くさって「粗相のないように」などと言うものだから毛利はかなり気を張っていた。ついでに言うと、池田の付喪神を纏めるものがどういう太刀か見極めてやろうという気持ちもあった。もちろん顔には出さなかったが。
 そういう心持ちであったから、大包平と相対したとき少々拍子抜けした。初めてまみえた大包平は袴姿に数領の裡儀を重ねるといういささか古風な装いだった。庭から春の柔らかな風が吹きこみ、ふわりと衣に薫きしめた香が毛利の元にも届く。王朝絵巻の姫君といった風情だった。古い太刀であろうとは思っていたが、正直女性は考えていなかった。
「お前が毛利藤四郎か」
「はい、お初にお目にかかります」
正面から毛利を見つめる瞳は鋭く、声には凛とした張りがあった。きりりとした顔立ちには気の強さがはっきりと表れている。手弱女とは程遠い。生まれは平安だそうだが、やはり刀の付喪神というものは武をその身に宿しているものだ。
「大包平だ。なに、私も最近見出されて目覚めたばかりでな、新参同士仲良くしよう」
うっすら笑む赤い唇は成熟した女性のものだった。にわかに目の前の太刀に興味が湧いてきた。
「ずっと眠られていたのですか?」
まさか問いかけられるとは思っていなかったらしい。大包平は一瞬目を丸くした。驚く表情はあどけない。どこか隙があり、子供っぽかった。威厳に満ちた妙齢の女性にその表情は実にアンバランスだった。
 じっと見つめる毛利にはっとしたように大包平は居住まいを正した。見目に見合った顔つきに戻る。
「そうだ。ここ二百年くらい眠っていたようだ」
「二百年……」
「ああ。長いだろう? まだ慣れないことも多い」
大包平は毛利の瞳を見据えながら語る。鋼の色が瞬きのたびにきらりと光った。その溌溂とした輝きに好感を覚えた。大包平の目には若い無邪気さが宿っていた。
「僕で良ければ慣れるまでお手伝いしますよ」
するりと口から零れ落ちていた。この美しい太刀のいる家ならば、毛利は楽しく過ごせそうだ。
 毛利と大包平が親しくなるのに時間は掛からなかった。同じ宝刀同士で気兼ねがなかった。大きいひとと小さい子では対応が変わるというような、毛利の子供っぽい露骨さも、大包平は文句は言うもののさして気にする様子はなかった。いつも子供の話だと不平を口にするのにもかかわらず、大包平は頻繁に毛利を訪ね、また自身の部屋に呼んだ。毛利もお世話をしたり聞き役に回るのは嫌いではないから、呼ばれれば参上して話し相手になった。
 大包平の語る話題は素朴なものが多かった。家中がどうであるとか庭の梅が花をつけただとか蝶が部屋に迷いこんで来ただとか、たわいなくも心が温まるものだ。対して毛利はやはり子供の話だった。
 毛利もはじめから子供の話をしていたわけではない。出会って間もない頃は話を聞いてばかりだったが、ある日大包平からたまには毛利が話せとせっつかれたのだ。相手は殿様のお太刀だからと最初は遠慮していた毛利だが、大包平に私には話したくないのかと拗ねられれば話さないわけにはいかない。池田の可愛い小さい子について思う存分語り明かした。にわかに興奮し、平常より高い声でまくしたてる毛利に大包平はひどく驚いたようだった。だが呆れたり茶々を入れたりしながらも、ちゃんと最後まで話を聞いてくれた。
 輝政の没後、ふたりの運命は一端分かたれた。毛利は岡山に残り、大包平は光政に付き従い因幡鳥取藩へと居を移した。
 五月晴れの青空が目にも眩しい日だった。毛利は偶然、因幡に挨拶という名目で遊びに行く機会を得た。となれば姫路や岡山で共に過ごした付喪神たちに会いに行く。どうなっているのか心配だったのだ。なにしろ光政が幼少を理由に国替えされてまだ間もなく、家中はてんやわんやの大騒ぎだった。付喪神は表向き平穏な生活を送っていたが、城下町から城中までどことなく落ち着きがなかった。それも致し方ないだろう。人間たちは浮足立っていた。何しろ家臣の数に石高が見合っていない。大緊縮財政の最中だ。
 そんな折に、大包平に庭の茶室に呼ばれた。茶会などやる余裕もなし、内密の話であろうかと毛利は少々気を引き締めて茶室に向かった。これはもしかしたら知己が売り払われる話かもしれないと密かに覚悟もしていた。
 さて茶室の狭い入り口をくぐって入れば大包平と毛利しかいなかった。鳥取は山陽よりもやはり夏が遅い。陽光に温まった風にもぴりりと引き締まる涼やかさがあった。庭の外れの茶室の中はしんとして、亭主の大包平の動きだけがよく聞こえる。流れるような動作で茶を点てる。それ以外音はなかった。黙々と茶を点ててもらい、頂いた。
「輝元殿が亡くなったそうだな」
「はい」
平静を装って返事をしたが、やはり少し驚いた。いくら鳥取が大名毛利と関わりのある土地柄とはいえ、まさか大包平の口から輝元の話が出るとは思いもよらなかった。
「輝元殿の話を聞いたことはなかったと思ってな。このところ落ち着かなかったが久々にお前もやって来たのだ。ゆっくり思い出話を聞きたくなった」
「輝元さまですか……」
「お前の号は輝元殿から頂いたのではなかったか」
「ええ、そうです。その通りですけれど……」
何を話せば良いのだろう。語ろうとして思い返してみれば、毛利に強く印象を残しているのは幼くして大大名毛利の家督を継いだ輝元の姿だった。ひとりの少年、あるいは男性としての側面だった。聞いて面白い話があるわけでもない。つまらない話だと前置きしてから毛利は慎重に言葉を選びながら語り出した。
「幸鶴さまはお小さい頃からたゆまぬ努力を続けられていた方でした。家中は皆、立派な当主におなりになるよう期待をかけていましたから、それに応えよう応えようと懸命に励んでいらっしゃったのです。僭越ながら僕は懐刀の栄誉を賜りました。家督を継がれて初めて御自ら手入れして下さったのは僕だったのですよ。少々危なっかしくてひやひやしたのも今となっても良い思い出です。……そうです、ずっと大きくなるのをおそばで見守って参りました」
温かな安芸の日々を毛利は忘れないだろう。毛利が粟田口吉光の一振りから毛利藤四郎になったのは輝元に拝領されたときからだった。
「成長されることが僕には悲しく思われました。大きくなるほど色々なものが見えてきます。比べられます。義務を負わせられます。心が複雑になります。童のままならどんなにか幸せだろうかと何度も思いました。……一人前になった輝元さまはまだほんの小さな女童を見初めました。幼いながらも目鼻立ちの整った美しい子供でした」
「ほう……」
これは初耳であったらしい。大包平は目を丸くさせていた。
「輝元さまは連れて行きたがっていましたけれど、その時は本当にお小さかったので諦めました。家臣もお諫めしましたしね。その子は大きくなってから他家に嫁がれましたが、結局連れ戻されて輝元さまの室におなりになりました。無理を通してのことでした」
「夫はどうしたのだ」
「殺されました」
大包平に驚いた様子はなかった。
「僕の目から見てもあの頃の輝元さまは驕り高ぶっておられました。僕が毛利のお家を離れる直前のことです」
毛利は語りながらゆっくりと記憶を咀嚼していった。色々なことを見聞きしていたはずなのに、心に残っているのは表向きのことよりも奥向きの個人的なことばかりだ。それが短刀の性なのかもしれない。
 輝元はその後西軍の大将になり大敗を喫し、大きく領地を削っての萩入城となった。毛利の名を冠しながら、皮肉にも毛利はそれを全て東軍の家で聞いていた。悲しいとは思わなかった。ただ輝元とその側室のことが気掛かりだった。子供のままではいられなかった人たち。子供時代の幸福を脅かされた人たち。喉に引っかかった魚の骨のようなものだ。
「僕は子供が好きです。特に幸せな子供を見ていると安心します。無邪気で我儘を言って泣きじゃくって生意気で、それで良いんです。小さい頃くらい……」
「そうか」
端的だったが丁寧な相槌だった。とりとめのない、極めて私的な話だというのに大包平は集中力を途切らせることなく耳を傾けていた。
 これがきっかけだったのだろう。再び同じ家で暮らすようになってから、言いたいことを言うようになった。互いにしか話さない内容というものが増えた。家中のものに話したら気を遣わせ、大ごとになっても困ることを話すようになったのだ。大包平が愚痴を漏らしたときは聞いていない振りをしてすぐに忘れてやった。反対に疲れた毛利が散々文句を言い散らすときもあった。
 とにかく気楽な間柄だった。ただの友人だった。ふたりきりなら言葉遣いもざっくばらんで、毛利は「大包平さん」と呼ぶようになった。
「どうしてそんな長いこと寝てたんですか?」
毛利はずっとこれを尋ねてみたかった。初対面から気になっていたのだが、誰も眠る前の大包平についてよく知らないそうだから、やがて何かあったに違いないという確信に変わっていた。
「それを聞くか?」
「最初から気になってましたよ。触れられたくないのかと思って聞きませんでしたけど」
「本当にお前、遠慮がなくなったな」
「言いたくないならいいですよ。話したくないことだってあるでしょうし」
毛利も長く生きているから、思い出したくないことの一つや二つくらいはある。無理に聞き出すつもりもなかったが、大包平にとって触れられたくない過去というのは興味があった。何と言っても大包平はそういう影とは無縁に見えるのだ。
「どうしても知りたいか?」
「いえ別に」
「お前なあ!」
「あっ取らないで下さいよ」
間食で食べていた柿をひと切れ奪われてしまった。橙の柿はあっと言う間に大包平の口の中に消えてしまった。毛利を軽く睨みながら大包平は咀嚼する。せめてもっと美味しそうに食べて欲しいものだ。
 柿をしっかり飲みこみ、茶で喉を潤してから大包平は仕切り直すように口を開いた。
「酷い振られ方をしたんだ」
「ちょっと待ってください。……殿方の話ですか?」
大包平は眉間に皺を寄せて頷いた。
「失恋して二百年も眠ってたんですか……?」
「そうだ」
このときの毛利は目をかっぴらいて大包平を凝視していたことだろう。本当に驚いたのだ。大包平は見た目相応の振舞いを身に付けつつあったが、城中皆が首を横に振るくらい色気のある話と無縁だった。殿方と最も距離が近くなるのは手合わせのときくらいのものだった。それも毎回相手をこてんぱんに伸しているから色っぽい話が出るはずがない。傍目に見る分には立ち姿も美しく、惚れ惚れするような若武者といった風情だが、刀を手に相対してみれば、気を抜いていると剣気に気圧され吹っ飛ばされると言う。おかげで城中、男衆も含めて大包平は大層慕われてはいたものの、そういう目で見るものは皆無だった。というより皆嫌がった。
 毛利の同輩に在五中将もかくやというような太刀がいた。もっぱら社に伝わっていたせいか武家の意識が薄い刀だった。そのせいで煩悩を断ち切るどころか色好みを保ち続けたというのは皮肉な話だ。見目も身分も性別も何のその、これはと思えば老女にすら夜這いに行くような男だったが、大包平には決して手を出さなかった。それを知った他藩のものが揶揄ったのだ。これは毛利が漏れ聞いたものだが、あの女重宝の寝所に忍び込んでこその色好みではないのかとか言われたらしい。たちまち抜刀騒ぎになった。重宝を汚されたと怒髪天を突いて怒り狂う太刀を皆で止め、大包平の耳に騒ぎの内容が届かぬように、酒にしたたかに酔った上での粗相だと口裏を合わせた。
「大包平さんは恋の一つもしたことのないおぼこだと思っていました」
「お前もっと言い方があるだろう!」
「僕の考えが間違っていました」
きっと大包平の柔らかな心を傷つけるようなことが起こったのだ。不用意に過去を詮索するような真似をしたことを反省した。いつになくしおらしい毛利に大包平の方がうろたえた。
「いいんだ。気にするな。それに私も子供じみた仕返しをしてしまったから、一方的に責めるわけにもいかない」
口では吹っ切ったようなことを言うが、眉尻が下がっている。これは引きずっているなと毛利は察した。大包平は自信に満ちているが、己を顧みられないわけではないのだ。人前で弱ったところは見せないが、このひとも悩んだりすることもあるだろうと思わせる人間味があった。そういうところが大包平の愛嬌だった。
 それからさらに油で漬けられるようになると、ますます色事から遠ざかった。毛利は初めて油の中で保管されるという話を聞いた際、この財政難に豪勢なことだと驚き呆れつつも、さもありなんと思ったものだ。あの豪壮さをいつまでも残したいと人が願ったことは容易に想像がついた。年中行事で使われる際、起き抜けのぼんやりとした風情などはいかにも神さびていて付喪神ごときが触れて良いものに思われなかったものだ。
 大包平は誰にとっても池田の重宝だった。何より本人もそれを望んでいた。
 だが毛利が思うに大包平はただ安穏と重宝だったわけではなかった。大包平は常に重宝であろうとしていた。池田の什器、往時は八千を超えたそのものたちの筆頭であろうとたゆまぬ努力を続けていた。
 大包平に縁組の話が出たことがある。岡山に居を移し、もっぱら油に漬けられていた頃だ。完全に眠りにつくことはなかったが、寝ている時間は長い。その折にもたらされた縁組だった。
 まだ相手が決まっていたわけではない。小面の付喪神が大包平に夫君を見繕っては如何かと進言したのだ。たまたま毛利はそのとき大包平のそばに控えていた。ぴしりと空気が張りつめた。
「しない」
「添うお方がいらっしゃれば心強いものでございましょう?」
ぴしゃりと拒絶した大包平に小面は食い下がった。京女の柔らかな声音は若武者のような大包平と対照的だった。しなやかでなよやかだ。
「いつ私が心細いなどと言った」
大包平はきっと睨みつける。小面も負けてはいなかった。
「おひとりでは荷が重かろうと思うまででございます」
流石は室町時代から舞台を踏んで来た面だ。毛利は内心舌を巻いた。これが毛利なら余計なことは言わずにさっさと退散しているところだ。
「この大包平に至らぬところがあると、そう申すか」
「決してそのようなことを申し上げているわけではござりませぬ。身を固めて得られる安寧もございましょう」
大包平は口をつぐんだ。というよりも唇を一文字に引き結び、口から飛び出してくるものを押さえこんでいるようだった。
「この身は池田の物だ。夫に仕えるようにはできておらん」
漸う口を開いた。押し殺した声だ。
「確かに眠りにつくことも多いからお前たちの助けが必要なときも多かろう。だがそれは鍛錬とお前たちの助けを得て乗り越えていくものだ。添う相手を見繕う方便にはならぬ」
「申し訳ございません」
小面はさっと平伏した。
「良い。心配無用だと他の者にも伝えておけ。だがその忠言、心に留めておこう」
「はい」
退出する小面を毛利は見つめ過ぎないよう気を付けながら見送った。未だに空気は凍りついている。内心毛利はこの場に居合わせて良かったものかと思った。
「なあ毛利」
「なんです?」
平静を装って答えた。
「最近色々な者に結婚を薦められる」
見上げる横顔は鼻白んでいた。
「大包平さんに幸せになって欲しいだけなんですよ」
「ああ、分かっている。ありがたい話だな」
深くため息をついて、苦く笑う。
「その気になれないんですか?」
「まあな。必要だと思えん。毛利、小さい子らに会いに行くついでにお前からも気にしないように伝えて来てくれ」
「僕を使い走りにするつもりですか」
「重宝だからな」
「仕方ないですねえ」
毛利は人が好いから先ほどの小面を慰めてやり、愚痴も聞いて励ましてやった。ついでに周りに、あんまり縁談のことを言い募ると大包平も気に病むからそっとしておいてやれと言って聞かせた。もちろん次の日にちゃんと大包平にお駄賃を要求した。
 ひとまず家中のものをなだめたが、大包平にも思うところはあったのだろう。その翌日、小袖に打掛姿で大包平は現れた。髪も結い、まるきり武家の作法に則っていた。その日までは大包平は毛利と出会ったときと同じ姿、袴に打掛をもっぱら身に着けていたのだ。古風な装いはいかにも古めかしく、長くを生きた太刀らしく、だからこそ池田の重宝の権威をよく示していた。このような古くも立派な太刀がいるのだと知らしめるのに調度良いと大包平は笑っていたものだ。備前岡山藩は山陽道の要に当たる。武力を用いずに争いを回避させるには権威が有用であることを知っていた。
 無論のこと武家の装いも文句なく似合っていたが、真っすぐ伸びた後ろ姿を見ながら、こういう方だから誰か恋仲を見つけて欲しいと皆が願うのだと思った。わざわざ見合いの場を設けるつもりもなかったが、毛利は毛利で大包平に良い相手が見つかることを願っていた。恋仲でなくても良いが、もう少し心を寛げる相手が必要だと思われた。
 そして徳川の御世が終わり、御一新で色々なものが変わっても、大包平の私的な関係というものは変わらなかった。友や知り合いはいる。江戸時代を通して近所だった童子切とは喧嘩仲間のようなものだった。毛利は池田を離れ、宮中に召し上げられた。東京で時代の移り変わりを目にしているうちに、大包平には気の置けない朋友に囲まれて過ごす日々も良いものなのだろうと思うようになっていた。幸せなんて、それがどんなに大切で見知った仲の者だとしても、他人が決められるものではないのだ。
 そう考えるようになっていた毛利が再び大包平と色恋の思い出を話したのは、時代は下って昭和の頃だった。国宝指定の折に東京に来ていた大包平の元を訪ったのだ。祝いのためだ。顔を合わすのは数十年ぶりだった。
「国宝指定おめでとうございます」
まずは挨拶で平伏した。親しき仲にも礼儀ありということだ。上座の大包平はゆったりと寛いでいた。
「かたじけない。息災そうだな」
「ええ。池田とはまた違って色々な方がいます。粟田口の兄弟もたくさんいるのですよ」
「小さい子らもたくさんいるのか」
小さい子の話を振ってくれるのが大包平の良いところだ。大包平は自分ばかり話しているように思わせて、聞き役に回るのも好む。静聴せずにことあるごとに毛利の言葉に口を挟んでくるのが欠点と言えば欠点だ。
「ええ! そうなんですよ! 本当に可愛らしい子たちばかりで! 八つ時はみんなで集まるんです。騒がしい子も大人しい子も色々な子たちがいるんですけれど、流石は名刀揃いでどの子も愛らしくも美しくて……。違うんですよ大包平さん、小さい子に貴賤はありませんし、どんな子たちも『ちひさきものはみなうつくし』です。ですが、ですがですね大包平さん、僕よりも若いのに万事が隙なく礼儀正しい子! そうかと思えば楽しそうに雀を追いかける無邪気な子! 可愛い! とっても可愛らしい! どうしてあんなに可愛いのでしょう!」
「……宮中でも楽しそうで安心した」
「とっても楽しいです!」
「そうか……」
大包平は呆れ果てて二の句を継げないようだった。ちなみに大包平は話は聞いてくれるものの、一度も共感してくれることはなかった。
「大きいものの話はないのか?」
「皆さん良い方たちですよ」
「急に冷静になったな」
同じように語れというのは無茶な話だ。
「そうですね……兄がいます。一期一振さま。名前はご存知でしょう?」
「お前……もう少し楽しそうに語ってやったらどうだ? 兄なのだろう? その兄君が不憫だ」
「何ですか、僕を不人情みたいに。心配されずともいち兄とは仲良いですよ。一緒に小さい子たちのお菓子を見繕ったりしているんです。いつもお菓子をあげ過ぎだってお小言を貰うんですけどね……。でも小さい子の笑顔の前にはそんなこと関係ないじゃないですか。だいたい僕たち付喪神ですよ」
「お前の兄の言う通りだ。よく兄の言葉を守り、精進するんだな」
「これだから大きいひとたちは」
嫌だ嫌だと大仰にため息をついてやった。もっと小さい子の魅力が広がれば良いのに。
「あと大きい方となると……鬼丸国綱さま」
大包平の顔が強張った。
「そうだ。そう言えばそうだったな」
「ええ。いらっしゃいますよ」
大包平の表情が急に引き締まった。
「天下五剣のことでしょう?」
これくらいしか心当たりはなかった。宮中住まいとはいえ東京にいるのだ。情報は早い。
「聡いな」
「いいえ。選ばれなかったことを気に病んでいるんですか?」
「当たり前だ。悔しくない方がどうかしている」
ぎゅっと眉根を寄せて、大包平は身を乗り出した。
「鬼丸国綱も童子切も選ばれた。なのに私が選ばれなかったのは何故だ。何か足りないところがあったのか。長年私のそばにいたお前なら分かるだろう」
「僕からすれば、どなたも比類なき名刀ですよ」
「はぐらかすな」
「率直に言いましょうか?」
「ああ」
大包平の傲慢さは不思議と鼻につかない。これが他の刀剣ならば、毛利は穏やかに笑みを浮かべて当たり障りのないことを言っていた。
「大包平さんは地味なんですよ」
「なに?」
信じられないと言わんばかりだった。もう一度繰り返した。
「地味なんです」
「地味? この大包平が地味だと!」
「地味です。要するに華々しさが足りません」
「輝政公に見出されたんだぞ!」
「この世の中で池田輝政と聞いてすぐに誰だか分かる方がどれくらいいると思っているんですか。地元の方くらいのものですよ」
「酷い言い草だな! 二百年以上世話になった家だぞ!」
「事実です。それに僕の号は毛利家から頂いていますし」
目に力を込めると大包平は諦めたように視線を逸らした。毛利に尋ねずとも大包平も何が原因かくらい気付いていただろう。
「やはりそれか」
「そう思います。三日月宗近様なんて天下人の間を渡り歩いていらっしゃいますから」
「そうか……」
「そんなに悔しいですか」
「申し訳が立たん」
大包平は足を崩すと酒器ののった盆を引き寄せた。毛利が酌をしようとすると手で制された。
「今はお前、陛下のお刀だからな」
面白がるように言うから、毛利も遠慮なく酌をしてもらうことにした。初めての経験だった。
 口を付ければすっきりとした甘みが広がった。懐かしい味がする。わざわざ岡山の酒を出してくれたのだろう。
「お前には話したな。池田に来る前は二百年眠っていたんだ。眠りにつくときは二度と目覚めるつもりはなかった。幼かったからな。意固地になっていた。それが輝政に呼びかけられて目が覚めた。一国にも代えがたいと言われたら起きるしかない」
懐かしげに目を細める。大包平が池田の家で大切にされていたのは、自身の美しさも無論のことだが輝政公と光政公が重く扱ったからだ。武家は由緒を尊ぶ。家祖と藩祖がこれぞ天下の名刀と認めたのなら、それは子孫にとって何にも代えがたい宝になる。
「本当に大切にしてもらった。世に知られることのなかった私が名前を残せるのも池田のおかげだ。徳川の刀であろうと宮中の刀であろうとこの大包平ほど愛されたものはいない。だから恩返しをせねばならないのだ。池田の人々は正しかったと証明しないといけない」
「大包平さんに逸話がないのは池田の方たちがしまいこんでいたからですよ」
「分かっているさ」
笑みを浮かべて大包平も酒を飲む。赤い塗りの酒器は誂えたように大包平によく似合った。この太刀は赤が似合う。でも血にまみれたことはないのだ。
「油に浸けられるときに斬っちゃえば良かったんですよ。そうしたら面白い逸話もできましたし」
「そんな逸話こちらから願い下げだ」
「いいじゃないですか。源氏のお刀は吠えたり勝手に他の太刀を斬ったそうですよ。それくらいやっちゃえば良かったんです。この大包平に斬れないものはないぞって主張したら良かったんです」
「酔っているのか?」
常になく脈絡のない言い様に大包平は呆れるよりもただ不思議がっていた。付き合いも長いから本気にもしていない。毛利だって真面目に言っているわけでもなかった。
「大包平さんは融通がきかないくらい真面目だから、何があったって不平も言わないでお役目をこなしていたでしょう。妙なところでおっとりしているから。だから! 選ばれなかったのは大包平さんのせいでも何でもないんです!」
「毛利、落ち着け。おっとりしていて悪かったな」
やんわりと大包平は毛利を押しとどめた。毛利の瞳を真っ直ぐ見つめる。強い眼力に毛利も背筋を伸ばした。
「すみません」
「お前がそんな風になるなんてどうしたんだ」
大包平は困ったように団子を差し出した。酒に団子とはいかなる組み合わせかと思われるが、毛利が小さい子のために菓子を集めてばかりいるから、いつのまにやら大包平は毛利と二人きりのときはお菓子を用意するようになったのだ。団子を一口食べると冷静になった。こしあんが美味だ。感情的になってしまったことに羞恥を覚えた。
「見苦しいところを見せました」
「いや、昔からお前は義理堅かったからな。存外」
「やめてくださいよ……。あと存外は余計です」
いたたまれずに項垂れた。付き合いが長過ぎて大包平のために怒ったのだと口にするのは照れ臭かった。
 大包平があんまり抱え込み過ぎて、毛利は腹が立ったのだ。毛利は生々流転というものを、人の無常というものを見つめてきた刀剣だ。毛利家での凄惨な事件を目の当たりにした。それから紆余曲折の末、池田の家にやって来て、そこだって終の住処にはならなかった。大包平は天下五剣に入らなかったと悔しがるが、そもそも毛利は天下五剣どころか国宝に指定されてもいないし、明治天皇に献上された身の上だ。それも並みの刀剣では得られぬ名誉ではあるけれども、言い換えるならば池田の家にとって手放すことのできる存在だった。
 人の思いは付喪神にとって何より大切なものだ。毛利も人を愛しく思う。それでも所詮は人の思いなのだ。歪みもあれば損得もある。清濁併せ持っての人の情だ。それなのに、どうして大包平は一番綺麗なところだけを掬い上げて、大切に抱え込んでしまうのだろう。
「大包平さんは美しいです」
「あ、ああ。当たり前だ」
大包平には憎まれ口ばかりの毛利が突然賞賛し始めたものだから、大包平は随分狼狽えていた。そもそもお互い名刀宝刀であるのだからそんなことは分かりきっている。それをあえて真正面から言うのは毛利も初めてだった。
「でも大包平さんを見たことがある人なんて少ないですよ。天下五剣も同じでしょう。そうそう見れるものじゃないです。そうしたら由緒や逸話で決めるしかないですよ。それに美しいかどうかなんて見ないと絶対に分かりません」
「言い訳だろう。それに言い出したのは見たことがあるものだ」
「いいえ。いつか皆の前に現れたら、誰もが大包平さんの美しさを讃えます。見て持って、初めて刀のことは分かるはずです。僕たちは物ですから。そのとき輝政公の正しさは大包平さんとともに永遠に語り継がれるに違いありません」
「毛利……」
呆気にとられたように大包平は毛利を見つめた。毛利もじわじわと頰が熱くなって堪らなくなった。
「お暇します」
「馬鹿。帰るな」
腕を掴まれてしまった。
「何ですか! 十分理解できたでしょう! これで納得しなかったら根性ひん曲がってますよ!」
「分かったから! いったん座れ!」
引きずり下ろされるように毛利はその場に座った。大包平の顔も赤かった。
「照れないで下さいよ」
「お前も照れるな」
奇妙な雰囲気だった。むず痒い。毛利と大包平は気兼ねなく悪態をつく仲だったのだ。この雰囲気は居た堪れない。
「大包平さんの失恋ってどういうものだったんですか?」
「……は?」
大包平の表情は「こいつとち狂ったか」と語っていた。
「僕も今の質問はどうかと思っています」
「なら口にするな!」
「正直、どうなんです」
「何がだ」
「引きずってます?」
「お前は!」
くわっと般若のように目が吊り上がった。空になった盃を目の前に突きつけられた。注げといういうことらしい。毛利は膳の徳利を取って、零れそうなほどなみなみついでやった。
 大包平は一息で飲み干し、空けた杯を静かに置いた。
「引きずっている」
本当に小さな声で、心底悔しそうに認めた。




 刀剣の付喪神というものは付喪神の中では最も位が高く、神として勘定するなら低位と言える。だから毛利が東京から本体を離れて岡山を訪れるのは無理を押してのことだった。滞在できる日程も決して長くない。
 こうも無茶をして池田に行ったのは、この後池田の宝物たちがどうなるか分からないからだった。
 華族というものがこの日本からなくなってしまったのは戦が終わって間もない春だった。いわゆる日本国憲法の発布だ。それについては毛利を含め、宮中の古い刀たちも殊更驚くことはなかった。突然世の中がひっくり返ることも、物事の儚さもよく知っていたのだ。しかしそれよりも宝物たちに激震が走ったのは、その前年に走った噂だった。旧華族に高額の税が課せられるというのだ。
 金がないときに売り払われるのは古美術の宿命だ。しかも今回は相手がアメリカと来ている。さらに言うなら戦争は終わっても世情は混乱したままだ。もう本当にどうなるか分かったものではない。
 毛利の周りにいるようなものたちは、売られたり贈り物になった経験はあれど、そういう場合もほとんどは身元のしっかりした人間ばかりであった。ところが今度に限っては海外に売り払われてしまうかもしれない。よしんば国内に残れたとしても、この何にもなくなってしまった国で、一体誰が買ってくれるというのか。安く買い叩かれ、粗末に扱われやしないか。そうして忘れられて人知れず朽ちるような羽目になるのではなかろうか。ものによっては戦争の最中よりも消滅が間近に感じられた。戦々恐々とはまさにこのことだった。
 ある日、毎日の日課で毛利が平野の元に遊びに行くと、常になく不安げな様子で耳打ちをされた。普段の毛利ならやにさがってしまうところだが、そんな気にもなれないくらい、平野の表情は沈痛だった。
「前田の家は伝来の什器をほとんど手放すそうです」
掛ける言葉は見つからなかった。池田の家も他人事ではなかったし、何より皇室も財産のほとんどを国有財産に払い下げている真っ最中だった。
 大包平が池田に挨拶に向かうのもこのためだろう。池田も武家の商法で事業を始めたそうだが、この先どうなるか誰にも先行きは見えていなかった。
 毛利が池田を訪ったのは十月も末の頃だった。大典太が十月中は出雲にいるというから、その間、大包平は池田で過ごすことにしたそうだ。大典太が岡山に来訪するのは出雲での用事が終わる十一月初めの予定だった。
 数十年ぶりの岡山は記憶に違わず晴れていた。頭上では鳶がのどかに飛んでいる。
 玄関で早速出迎えてくれたのは、件の大包平まさしくそのひとだった。質素な着物にたすき掛けをし、何か立ち働いている最中のようだった。池田にいるときはそんな場面には一度も出くわしたことがなかったから、毛利は目をしばたたかせて見間違いではないことを確認した。
「どうなさったんですその恰好」
挨拶もそこそこに思わず毛利は尋ねていた。
「ああ、厨で備前の料理を教えて貰っていたんだ」
「料理ですか? 厨?」
客間まで案内してくれるというから大包平の後ろを付いて歩いていた毛利は素っ頓狂な声を上げた。
「そうだ。料理の手ほどきを受けたのが金沢だったからな。どうしても岡山の味を学びたくて、朝昼晩ずっと厨に詰めている」
「料理されるんですね……」
厨に詰めている付喪神たちは格が高くない。大包平を直接目にしたことがないものも多かったのではなかろうか。それが突然、重宝が現れて料理を教えてくれと乞うのだからさぞや驚いたことだろう。
「みなさんびっくりしたんじゃないですか」
「最初は追い出されかけたぞ。薙刀には真っ向から仕事の邪魔だと言われた」
毛利もそうだが、打ちものは大包平に忌憚なく意見を述べるものが多い。
「薙刀の言うことももっともだったから、邪魔にならない方法を聞いて教えてもらった。まあ手際が良いからすぐに馴染めたがな。皆、私がだしの取り方も知らないと思っていたらしい」
「池田では一度も厨に足を運ばれたことがなかったじゃないですか」
「今思うと損をしていた」
庭を横目に見ながら廊下をぐるりと回って進む。客人用の間に案内してくれるらしい。池の傍に生える椿の木はもう花を付けていた。
「料理は好きだ。手間をかければそれだけ美味しくなるだろう?」
「大包平さん、桂剥きとかお上手そうですよね」
毛利が桂剥きの名前を出したのは、厨で難しい芸当を要求するものと言えばそれくらいしか知らなかったからだった。毛利だって厨に足を運んだことはない。
 庭を挟んだ向かいの廊下を年若い短刀たちが駆けて行く。新刀だろう。動きも表情も幼い。毛利は空いている手で子らに手を振ってやった。
「金沢では誰が一番薄く長く剥けるか競争したぞ。ここでやってみるのも良いな」
ちっちゃな手が振り返してくれた。それから慌てて客人であることに気が付いたのかぺこりとお辞儀をする。
「はああ、可愛いですねえ」
「聞いてないだろう」
「聞いていませんでした」
「あの子らか。あとで遊びに行くと良い」
大包平も朗らかに手を振り返してやっていた。
 実際、家事は性に合っているようで、毛利が滞在している最中も庭や廊下で立ち働く大包平をよく見かけた。たまに小うるさい薙刀に仕事を取るなと怒られていたが、働く大包平はいきいきとしていた。もともと率先して仕事を見つけてくるような方だったが、池田の頃は立場もあって身の回りの細々としたことは仕えるものたちに任せていた。厨に足を踏み入れるどころか、自室の掃除すらしたことはなかっただろう。それでも大包平は整理整頓が身に染み付いていたから、掃除のものも随分楽をしていたそうだ。つまり、もともと適性はあったのだろう。
 大包平は池田にいたときよりもとっつきやすくなった。池田を出た身だからだと大包平は言うが、以前よりも立場の壁を感じさせることがなくなった。気さくな大包平につられて、皆も幾分か砕けた態度で接している。目くじらを立てるものはいなかった。大包平以上に格式にうるさいものもいるのだが、ため息をつくか苦笑いをするだけで見逃している。和気あいあいとした空気の裏側にあるのは、これで最後なのだからという諦念だった。
 明日は大典太がやって来るという晩、その晩だけ特別に大包平の自室でふたりだけで食事を頂いた。晩餐は華美でも突飛なものでもない。魚の塩焼きに豆腐、おひたし、ご飯に味噌汁と、時勢を考えれば豪勢ではあったものの素朴な膳だった。。素材は地の物で魚はママカリだ。箸で身を解せば湯気が立ち上る。白味の淡泊な味に塩加減が絶妙だった。
「美味いか?」
味噌汁の椀を片手に大包平が尋ねる。
「凄く美味しいです。このお魚、大包平さんが焼いたんですか?」
「全部自分で作った」
「はい?」
「厨に我儘を言ってな、私とお前のふたり分だけ全て作らせて貰ったんだ。献立は皆と同じだがな」
だから夕飯がふたりの分だけ遅かったのかと納得しつつ、それでもびっくりしてまじまじと御膳を見つめてしまった。焼き加減から野菜の切り口まで全てが申し分なかった。美味しい。岡山の味だ。
 昼に新刀の付喪神が毛利に耳打ちしてくれたことを思い出した。初日に庭先で出会った子だ。もとは若君の守り刀で、明治に入ってから付喪神として姿を取れるようになったそうだ。道理で毛利が知らないわけだ。
 大包平も幼い刀たちのことは池田を離れる前からよく可愛がっていたものらしい。数年ぶりに再会し、またかつてのように頭を撫でてくれたのだが、その手の皮は以前よりもずっと厚くなっていたのだそうだ。金沢で苦労されていないだろうかと短刀はおろおろと毛利に囁いた。
「短刀たちも心配していましたよ」
「知っている。皆、心配してくれている。料理も洗濯も家事も何だってやっていると言ったら、お能のものたちなど卒倒しかけていたからな」
器物の在りようで性格もある程度決まるもので、武器でもある刀よりは芸能を司るものたちのほうが汚れ仕事を嫌がった。それでも刀だって決して家事が好きな性質ではない。
「大典太さまは……良い方ですか?」
「良い方か……まあ悪いことはできない男じゃないか? 元は力のある刀だからやはり血の気は多いがな」
「どうして大典太さまのところに行こうと思ったんです」
ひたりと大包平は箸を止めた。
「心残りだったからだ。会わずに死ねなかった。お前が言った通りだった。ずっと引きずっていた。それで愚かしいこともたくさんした」
「はい」
「この話は後でしよう。食べながらするものでもない」
「色々あったんでしょう?」
冗談めかして笑ってやった。
「そうだ。色々あったんだ」
ふふんと大包平も笑って塩焼きをつついた。
 食べ終わってから茶を運んでもらった。酒で酩酊したくなかった。数百年来の友人が嫁ぐのだ。毛利にも一抹の感傷があった。
「さて、お前を安心させてやらないとな」
「まあ大包平さんは抜けてますしね」
「減らず口め」
「じゃじゃ馬が何言ってるんですか。そういえば鶯丸さんは大典太さまが振られたって言ってましたよ。大包平さんが振られたって話でしたよね。それともこれって別の殿方との話ですか?」
「そこから話すのか?」
「当たり前ですよ。鶯丸さまにその辺りも聞き出しておくようにお願いされています」
「下品だ」
「心配されてると言って下さい」
その後の大包平の話は長かった。京にいた頃の大包平の話はとにかく青く潔癖だった。本人も思い出すだに辛いものがあるのだろう。眉根を顰め、時折頭を押さえながら語っていた。しかも合間に大典太の方で何があったのかも補足されるから、毛利もただただ呆れるばかりだった。
「僕が大典太さまだったら絶対こんな女忘れてやろうって思いますね」
「私だってあんな男知るものかと思っていた」
「似た者同士ですね」
「……うるさい」
酒も飲んでいないのに目尻が赤い。どうしてそこで照れてしまうのか。
「池田でのお役目に思い残すことはなかった。できることは全てやって来た。本当に光世のことだけが心残りだった」
「だから金沢にまで行ったんですね」
「うん……」
「ご自身まで持ち出して。ちょっとお会いするだけじゃだめだったんですか」
「そのときはその考えがなかった。笑っていいぞ」
大包平は苦笑して、脇息に肘を付いた。リラックスした大包平の姿を見ることができるのは、この家の付喪神の中でも限られたものたちのみだった。
「仮初の姿だけではいけないと思ったんだろう。真っ向から会わなければと……」
大包平の視線は毛利の傍を通り過ぎ、遠くへ飛んでいた。何を見ているのか毛利は知りようがない。だがそれは過去を見定めるような、はっきりとしたものだった。
 融通の利かないところが大包平の良いところで欠点だった。一度これと決めてしまったら、変えることなど思いもよらないどころか、心変わりすることもできないのだろう。
「大典太さまもびっくりされたでしょうねえ……」
「驚いたと言っていた」
「どうなんです? すぐに元鞘に戻ったんですか?」
毛利としては軽く馴れ初めを尋ねたつもりだった。大包平は頬を掻いて困ったように答えた。
「恋仲になったのは……行った次の年の冬か、春か?」
「その割にご結婚の話は遅かったじゃないですか」
口には出さなかったし詮索もしなかったが、大包平が金沢に行くという話を聞いたときに、さていつ身を固めたと連絡が来るかと思っていた。あの大包平が身一つで金沢に会いに行ったというのだから、並々ならぬ覚悟があったはずだ。それとなく大典太の暮らし向きを平野に尋ねてみれば、手伝いの短刀ふたりがいるだけだと言う。毛利も決して下世話ではないが、同じ屋根の下に男女がいてどちらも独り者とくれば何が起こってもおかしくない。それに身内の贔屓目かもしれないが、大典太の方が大包平になびくだろうと心の端で思っていた。
「色々あったんだ」
大包平は夕飯のときの言葉を繰り返した。
「大典太さまがなかなか振り向いてくれなかったんですか?」
「別に……」
大包平は言い辛そうに顔を背けた。ここで毛利は大包平の言う『色々』が余人に立ち入ることを拒むようなものであることを悟った。大包平をよく知る毛利にはそれが意外で堪らず、また一方で大包平の変化にも合点がいった。
「まあいいです。大包平さんが幸せなら良いんです。みんなそう思ってますけどね」
毛利はさっさと話を切り上げた。言いたくないならそれで良いのだ。毛利は大包平の性根を心の底から信じていた。迷ったって間違えたって、後ろ暗いことは決してしない太刀なのだ。
「悪いな」
「いいえ」
そして毛利の気遣いに気が付かぬ方でもない。
「どうして大典太さまなんです?」
平野から大典太がどんな太刀なのか聞いていても、何より大包平の口から聞きたかった。大包平が選んだ相手だ。その選択を信じているけれども、どんな方を好きになったのか、ずっと毛利は聞いてみたかった。
「誰より私に惚れているからだ」
柔らかく大包平は微笑んだ。こんな風に笑えるくらいなのだから本当に好いひとを見つけたのだろう。




 毛利は池田を出てかなり経つから、古巣といえどどこかお客さんのようなところがある。大包平のように勤勉でもないから、しいて仕事を探そうとも思わない。だから大典太はいつやって来るだろうかと小さい子を構いながら玄関に注意を払っていた。小さい子を前に気もそぞろになるなど数百年に一度あるかないかのことだった。
 大典太が池田の家に到着したときは空も夕焼けに赤く染まっていた。にわかに廊下を通るものが増える。ざわめきが障子ごしにも聞こえてくる。これは来たなと毛利は身軽に立ち上がり、お座敷から飛び出して行った。見た目から性格までどんなひとなのか興味があったのだ。
 玄関が近づくほど野次馬は増えていった。往時に比べれば池田も付喪神が減ったものだが、それでもまだまだ多いのだ。特に芸能関係のものたちは噂好きで姦しい。毛利は小柄な体格を生かして足元の隙間を通り抜け、最前列に顔を出した。
 随分大きな男だった。黒い髪に黒い着物、履物を脱ぐその横顔は白い。肌の白さは大包平と変わらないのではないだろうか。肩に付くほどの髪が立ち上がるのに合わせて揺れている。首筋がちらりと見えた。赤い瞳がさらりとこちらに投げられて、すぐに逸らされた。
「まあ……」
頭上の花器の女がため息とも感嘆ともつかない声を漏らしていた。毛利も驚いていた。平野曰く繊細で、大包平曰く優しい男で、鶯丸曰く出不精だという大典太を、毛利はもっと別の姿で想像していた。先入観は持たないようにしようと肝に銘じていたのだが、それでも小春日和のような雰囲気のなよやかな方を想像していた。いざ実物を目の前にして、己が勝手に予想を立てていたことを思い知った。
「お前たち! 見世物ではないんだぞ! 散れ!」
毛利含めて全員が後ろから投げつけられた鋭い声に引っぱたかれた。大包平だ。毛利からは見えないが、肩を怒らせ腕を組んで仁王立ちしていることだろう。やれやれ、はいはい、後でちゃんと挨拶して下さいよと言いながら、三々五々に去って行く。毛利は一応客人なのを良いことに、壁際に突っ立ってそのまま見物することにした。
 ひとも減った玄関にすたすたと大包平はやって来る。毛利が初日に見たときのように小袖にたすき掛けだ。毛利にとっても最近はすっかり見慣れた姿になっていた。
「すまないな。やはり物珍しかったようだ。悪気はないんだ」
「予想はしていた」
このふたりは何から何まで対照的だった。はきはき喋る大包平に、ぼそぼそ声のこもる大典太、背筋をぴんと伸ばして話すときはしっかり相手の目を見据える大包平に、猫背で大包平の方を見てはいるものの、いまいちどこを見ているのやらはっきりしない大典太。共通点が全くなくて、それで返って目が離せない。
「案内してやるからついて来い」
「一月、寂しかった」
大典太がぽつりと言った。本当に小さな声だったから、耳にしたのは大包平と、短刀だから格別耳の良い毛利くらいのものだったろう。さりげない仕草で大典太は大包平の手を握って指を絡めた
「馬鹿! 人の目があるんだぞ」
ぺしりと大包平が手をはたく。絶対照れ隠しだ。頬が赤い。声は怒っていたけれど、すぐに困ったような柔らかい表情に変わった。
 さてその夜、夕飯を終えた毛利を手招くものがあった。女衆だ。どれも輝政公の代からこの家に仕えているものたちだった。ちらほらと伝来の短刀たちの姿も見える。
「どうしたんです?」
座敷に上がれば大包平がいる。居心地悪げだった。
「何もしていらっしゃらないそうなのよ」
何のことかと薙刀の女官に尋ね返す前に大包平が拗ねたように答えた。
「盃は交わした」
祝言のことらしい。口をへの字にしている。女官はじっと大包平を見据えた。
「それだけだとお聞きしました」
「十分だ。……全て終わってから伝えることになって悪いとは思っている」
そういえば『色々』あったのだったかと、話に聞いていた毛利は察した。
「お前たちの好意は嬉しいが、今は池田を出ている身だ。祝われるのも過分だろう」
「まあ、お見送りもさせて頂けませんの?」
「先に我儘を言って出て行ったのは私の方だ」
けんもほろろとはこのことで、大包平は聞く耳を持たなかった。『色々』を含めて自ら家を出て行ってしまった負い目もあるのだろう。
「前田の方では如何いたしたのでしょう」
「娶ったという報告はしたそうだ」
「それだけでございますか?」
薙刀は声の険を隠そうともしなかった。
「こら」
止める大包平に薙刀は怯まなかった。
「軽く扱われるようでは困ります。お輿入れするのですから」
「だからふたりで決めたと言っているだろう! この大包平が選んだのだぞ、信じられぬか!」
「それなら申し上げますが、信じろという方が無理難題でございます!」
気迫のこもったひと声だった。
「私どもは大典太さまのことを何も存じ上げておりません。文でご報告を頂いただけなのですよ! 少しは気を揉んでいた私どものことも慮って下さいまし!」
鋭い声はしんと余韻を残した。
 大包平は表情を引き締め、ゆっくりとその場にいる全員の顔を見回した。
「皆も同じ考えと思って良いか?」
否と言うものはいなかった。
「お前たちには苦労を掛けたことを謝ろう。配慮が足りなかった」
「差し出がましいことを申し上げました」
薙刀に大包平は莞爾と笑った。
「良い。顔を上げてくれ。お前の言う通りだ。自分のことにばかりかかずらってしまった」
大包平はひとつため息をついた。
「お前たちを安心させてやりたいが、だが大ごとにもしたくないのだ」
眉を顰めて困っている。家中のものも反対しているわけではない。今更変えようもないことをせめて納得したいだけなのだ。家がなくなるのだ。重宝といえどもどこにやられるか保証はない。そこで毛利は閃いた。
「大典太さまに通って頂いたら如何でしょうか。三日通ってお餅を頂くくらいならささやかなものですし、金沢からここまで毎夜通って下さるならば、お心も本物でしょう」
大包平はぎょっとしていたが、残る全員はその案に飛びついた。先ほどの緊迫感が雲散霧消して、姦しい声が部屋を覆いつくした。
「あらまあ古めかしい」
「風情があって良いじゃありませんか」
「絵物語でしか見たことないわあ」
「歌も詠みましょうよ」
降ってわいた明るい話に楽しそうにしている。
 わなわなと肩を震わせている大包平に毛利はそっと耳打ちした。
「今度こそちゃんと通って頂けそうですね」
「毛利!」
般若もかくやという形相で睨まれた。
 風呂上りの大典太に通ってもらう旨を伝えることになった。毛利は客人のはずなのだが、大包平が強固に主張したせいで伝える役目が回ってきてしまった。
 障子ごしに訪ったことを告げると大典太はすぐに招き入れてくれた。表情が乏しいので機嫌を損ねたのか、それとも何とも思っていないのかちょっと判別がつかない。大典太の向かいで居住まいを正した。
「明日からのことですが」
「ああ」
「大典太さまにはここに三夜通って頂きます」
「通うのか?」
「はい」
声は平坦でやはり真意が見えてこない。
「餅の用意はそちらでしてくれるのか?」
「え? はい。こちらでご用意いたします」
「分かった」
話が早すぎて毛利は少々呆気に取られた。
「ご気分を害されたりはしないのですか?」
「思っていたよりずっと良い」
「存じ上げないことが多すぎるだけで、皆歓迎しているんです」
「分かっているさ」
ほんの少し口角が上がった。笑っているらしい。
「大包平とは仲が良いらしいな」
「長いお付き合いですから」
「あんたは反対しないのか」
「大包平さまが選んだ方です」
ならばあなたは大包平さんに相応しい方なのでしょうと、毛利はしたたかに笑ってみせた。




 まだ暗いうちに大典太は出立したようで、朝食は大包平ひとりきりだった。珍しく膳を自室に運ぶよう言付けていた。
 さて、こういうときは井戸端会議に花が咲くと相場が決まっている。針仕事に精を出す女たちはかまびすしくお喋りを始めていたので、その場に居合わせた毛利も場に加わることにした。話を聞くのは好きなのだ。ひとがどういうことを考え、何を好むのか知るのが毛利は好きだった。
「びっくりしたわね」
「本当に」
貝桶の言葉に伸子張りが大きく頷いた。ふたりとも嫁入り道具としてこの池田にやって来た。元の用途と相まって、大包平も祝言をすれば良いのにとずっと言い続けているのもこのふたりだった。毛利は常々不思議なのだが、どうして伸子張りの方がでっぷりしているのだろう。貝桶はむしろ瘦せぎすだった。
 伸子張りがうっとりとため息をついた。
「お刀さまって皆さま見目が美しいものだけれど、大典太さまがいらっしゃったときはどきっとしたわ」
「ああいう美しさもあるのねえ。美しいお刀さまなんて大包平さまで見慣れたものだと思っていたわ」
些か夢見がちなところがあるのも嫁入り道具の特徴だった。結婚の華やかな部分を具現化した付喪神なのだから当然と言えば当然かもしれない。
「大包平さまってああいう方が好みだったのね……」
「もう、下世話ですよ」
伸子張りは畳を軽く叩いて遮ったが、強く止める気はないらしい。
「道理でどんな方を紹介しても纏まらない筈だわ」
と深く納得していた。うんうんと貝桶が頷く。
「実は今朝ね、大典太さまをお見かけしたのよ。そこの渡り廊下のところ」
「どうだった?」
「目が離せないのよー! 御髪も少々乱れていてね、それがまた色っぽくって。年甲斐もなくどきどきしたわ」
「私も明日早起きしようかしら」
「おすすめよ! 寿命が延びる心地だから!」
「やあねえ!」
この場で最も年が上なのは毛利であるし、大包平や大典太に至っては更に生まれが古いのだがと思ったものの口にはしなかった。こういうのは気の持ちようなのだ。
「大典太さまはどういう方だと思います?」
毛利なりに池田のものたちの反応は気になっていた。貝桶と伸子張りは一呼吸分ほど考えて、最初に口を開いたのは伸子張りだった。重々しい体をゆっくりと動かしていた。
「もの慣れていらっしゃいそうな方よねえ」
「どうしたのよ」
「だって大包平さまがべた惚れじゃない。元は押しかけ女房だったようだし」
「そういえばお聞きになった? 大包平さまが厨のお手伝いされていた話。岡山のお料理を大典太さまにも食べさせたいって始めたそうじゃない」
「お心が深いのねえ」
大包平も金沢に帰ってから食べたかったのだと初日に毛利は聞いていた。大典太に食べさせたいというのも決して偽りではないだろうから、訂正した方が良いのか迷うところだった。池田にいた数百年、毛利はこういう場面に何度も出くわして来た。間違っているわけでもないのだが、正しくもない噂話が一番厄介だ。
「昨日大包平さまと大典太さまがご到着した知らせを受けたのだけれど、もうねえ、ぱっとお顔が華やいでいたもの。これで大典太さまがつれない方だったら腹が立つわ」
「殿方はそういうことをお見せしないものですし……。毛利さまは何かご存知ですか?」
貝桶が毛利に水を向けた。池田家中での毛利はこういう役回りが多かった。
「僕も存じ上げていないんです。何だかお話したくないようで……」
ここまで言って下手を打ったことに気が付いた。女ふたりで顔を見合わせている。勘が鈍っていたと毛利は反省した。
「毛利さまにもお話にならないって相当よ」
「ちょっと大丈夫? 戦争で自棄になってしまわれたのかしら」
「これからどうなるかなんて分かったものではないけれど……」
「あー! 照れてるんじゃないですかね! ほら、大包平さまってこういう話とは無縁でしたし!」
毛利も事の真偽は知らないが、大典太の印象が悪くなり過ぎるのも可哀想だった。毛利自身は兄弟から人となりを聞いていたし、昨日から短い時間なりに接してみて悪い方ではなさそうだという気持ちだった。
「照れてるだけなら良いのですけれど」
伸子張りがしみじみ言った。
「大典太さまがいらっしゃったようよ!」
毛利が冷や汗を流していると同僚の茶器がやって来た。
「早くない? まだ昼過ぎよ!」
皆で顔を見合わせて、玄関に向かった。
 今日も今日とて昨日と同じように玄関前は人だかりができていた。毛利は混雑しているのを見て取って、すぐに庭から突っかけて門前に回った。門のところは大きなリヤカーが入り口を塞ぎ、そこに大典太がたたずんでいた。もう十一月だというのに随分薄着だった。
「昨日は何も持参せず礼を失していた」
事情を聞きに来たものに言うと荷台から米俵を下ろし始めた。受け取ってしまって良いものかと皆がざわついていると大包平が裾をからげてやって来た。まさかこんなに早くやって来ると思っていなかったらしい。
「早すぎるだろう!」
開口一番叫んでいた。
「帰って荷物を積んですぐに来た」
「荷物ってそれ……」
「暫く通うと言ったら持たされた」
「いやだが……」
「貰ってやってくれ。前田が気にする」
大包平は米俵と大典太の間で視線を何往復かさせたのち、諦めたように腕を組んだ。
「ああ分かった。お前たち、気にするな! 運び込め!」
男衆が人込みから出て来て、次々に俵を運び込んでいく。それよりこのひと何俵持って来たんだろう。
「あとこれも皆で分けてくれ」
米だけかと思いきや、次に大典太が取り出したのは反物だった。リヤカーから数巻出して腕に抱えている。どれも異なる色使いで、ちらほら金糸や銀糸も見える。加賀前田家の本気を垣間見た。
「限度を知らんのか!」
「前田が初日からこれくらいするべきだったと反省していた」
大包平は天を仰いで大いに唸った。
「前田……お前のことは信じていたんだぞ……!」
その間も大典太は荷台から反物を出しては女たちに渡している。
「急なことで家紋入りのものは用意できなかったと前田が詫びていた。追って送らせるそうだ」
「頼むから断ってくれ!」
「俺が家を出るときには発注が終わっていた」
「黙って見てないで止めて来い!」
「こういうのは前田に任せておくのが一番確かだ。あんたも知ってるだろ」
前田にいる兄弟は随分信頼されているようだと毛利は何だか嬉しくなった。
「この箱入りめ」
「……迷惑だったか?」
しゅんとした声だった。心なしか目尻も下がっている。
「いいや、ありがたく頂戴しよう。皆を代表して礼を言う」
大典太の口元がわずかに綻んだ。
「先に風呂に入ってこい」
気を取り直したように大包平は大典太の肩を叩いた。
「……眠い」
「昨日からろくに寝てないな。まったく金沢で寝てから来るものだとばかり」
「早く会いたかった」
リヤカーを端に寄せようとしていたさす股と、最後の反物を受け取った茶筅が大典太を二度見した。全員つい話を止めて耳を澄ましてしまった。
「通って娶れるならいくらでも通うが、それはそれで一月ぶりのあんたと離れたくない」
不明瞭な小さな声だったのに、沈黙が落ちた午後の玄関前に大典太の言葉はよく通った。甘いを越えて甘ったるい。大包平は耳まで紅葉のように真っ赤になっていた。
 風呂で汗を流したのち、大典太が膝枕で昼寝をしたことは瞬く間に屋敷中に広まった。




「皆は大典太のことをどう思っているんだ?」
大包平が毛利に尋ねたのは、大典太が通い出して二日目の午前中のことだった。大包平の自室には毛利しかいなかった。昨日の様子ならまた昼過ぎには大典太が到着するだろう。
「想像以上に大包平さんにぞっこん、ですかね」
「ぞっこん……」
「あとは嫁がれても大事にして貰えそうで良かったとか」
「当たり前、だろう」
つっかえながら大包平は茶を飲んだ。
「大典太さまって慣れると端正なお顔に目が行きますよね」
「あいつも名刀宝刀だからな。見目は整っている」
「焼きもちですか?」
「何の話だ」
「誤魔化そうったってそうはいきませんよ」
 大典太は注目の的だった。ある種の流行かもしれない。大典太自身は人目につくのが苦手なのか、池田に来ればほとんど大包平の部屋に籠っているが、膳を運ぶものや廊下で出くわすものもいる。じろじろ見たり品のない真似はしないが、つい話にしてしまうものだ。何をしていた何をお召しになっていたと一瞬で屋敷中に広まる。この数日だけのこととはいえ毛利も不憫に思うが、気になってしまう池田のものたちの気持ちも分かるから強いて諫めようとも思えなかった。
 特に女衆が大典太を気に入った。顔つきも精悍で、頼り甲斐のありそうな方だという印象から、結納代わりの反物と玄関での率直な物言いがとどめだった。絵に描いたような二枚目でないのが返って誠実に見えたらしい。ちょっと毛利には理解しがたい発想だった。
 とにかく顔が良い、色気があると女たちは話に花を咲かせた。もちろん本人たちの前ではしないが、大典太が一旦金沢に帰っているときなど気が緩む。そこに大包平が出くわしてしまった。
「申し訳ございません!」
縮こまって平伏されれば大包平も文句は言えない。噂好きもほどほどにしろと注意するに止めるまでだ。女たちを仕事に戻しひとりになった瞬間、大包平は唇をきゅっと噛み締めていた。上手く飲みこめないような納得できないような、そういう複雑な表情だった。
「横恋慕しているものなんていませんからね」
「そんなことは分かっている! 侮辱するか!」
「じゃあどうしたんです」
「毛利から見ても、大典太は女好きする男だと思うか?」
「刀はモテるじゃないですか」
そう刀はモテる。付喪神の中で最もモテると言っても過言ではない。大典太に限ったことではなくて、大包平もそれこそ毛利もその気になれば両手に花も夢ではない。ただそういうことに興味がないものも多い。それも打ち物の類が人気な所以でもあった。
「知ってはいたんだ……。大典太はモテる。だが実際に見たのは初めてだった!」
「それで焼きもちですか」
「情けない。……まあ褒められて嬉しくもあるな。あれは綺麗な男だ。誇らしいだろう」
「惚気を聞きたいわけじゃないんですけど。それにしても大包平さんにも独占欲があったんですね」
「独占欲?」
「そうでしょう?」
「そうだなあ」
ふふと大包平は微笑した。
「光世には嫉妬しないとよく言われるんだがな」
「大典太さまは焼きもち焼きなんですか?」
「あいつは嫉妬の塊だぞ」
大包平と比べれば誰だって焼きもち焼きだろう。
「……黄泉路まで追いかけて来るような男だ」
不穏な言葉に目を瞠った毛利をちらりと見て、大包平は秘密だぞと一言添えた。
「一度、自害したんだ。大典太は黄泉路で私が腐って骨になるところまで見届けて、骨の私を連れ帰ったんだ。お陰でこうしてお前と話していられるんだがな」
「色々にも限度があるでしょう……!」
我知らず声に怒気が滲んでいた。自害だ。大包平が自ら死を選んだと言うのだ。
「どうして自刃されたのです」
「理由を聞いたらお前怒るだろう」
「すでに怒っています!」
大包平は姿勢を正して毛利と向かい合った。
「大典太に無理やり矜持を折られたんだ。そのときはもう心身ともに擦り切れていた。自刃するしか仕様がなかった」
「……辱めを受けたのですか?」
大包平の言葉を聞いて、十中八九そうだと思った。大包平がひとりきりで傷つき立ち竦んでいるのならば、毛利は察するだけで黙しただろう。だが今ばかりは確かめないわけにいかなかった。
「そうだ」
しっかりと大包平は頷いた。
「それでも金沢に行かれるんですか!」
「行く。言っておくがな、決着は付けた」
「それで納得しろと言うんですか!」
「もう決めたことだ」
「激情は身を滅ぼしますよ」
「知っている」
「分かっていないでしょう! 執着は人を殺すんです!」
毛利は恋着がいかに命を奪うかを知っている。まだ毛利家にいた頃、一人の女を巡って女の父と夫が殺された。だがその女だって結局長くは生きなかった。
「たとえ付喪神でも心があるなら鬼にも般若にもなりますよ」
「それは言い得て妙だな」
「大包平さん!」
「私が鬼や般若にならなかったと思うのか」
愕然として言葉が出なかった。大包平が修羅に変じたことがあった。美しいものと正しいものからつくられたような大包平が。
 毛利は唇を噛み締めてため息を殺すしかなかった。決めてしまったものに他のものが掛ける言葉などない。だが言わなければならないこともある。
「僕は反対です」
「当たり前だ。私がお前だったらぶん殴ってでも止めている。愚かなのは承知の上だ」
静かな微笑が白皙に落ちた。
「それでも選んだから、足掻くことにしたんだ」
「……こんな話、誰にもできないじゃないですか」
「お前には聞いておいて欲しかったんだ」
「勘弁して下さいよ……」
大包平に頼られるのは初めてだった。頼み事をされたことは何度もあったけれど、頼られたことはなかった。そういった変化も金沢へ行って生まれたのだとしたら、それはとても悔しい。毛利はぶすくれた。
「一つだけ悔いが残るのは池田のことだ」
「戻る気はないんですか」
「ない。そもそも戻る場所がなくなるだろう。おそらく私も池田にいたら売られていた」
「はっきり言いますね」
「長く生きているからな。それに今の方が外のことも色々耳にする」
きっともう、家に仕えることはなくなるのだ。明治に入って徐々に毛利たちの在りようは変わっていった。だが緩やかだったその変化はこの数年で濁流になり、一息に全てを押し流していく。
「お前も博物館所蔵になったんだろう。どうだ?」
「悪いところではないですよ。まだまだ慣れませんけれど。お仕えする方もいませんし……市民のためって何なのかよく分かりません」
「私も展覧会は慣れなかったな」
「ここのものたちも行くのかもしれませんね」
「博物館か心ある者のところに行ければ良いんだが……。怯えているものも多いな」
池田のものたちが戦前と同じように過ごすのは、そうするしかないのもあるが、そうやって平静を保っている部分も大きかった。諸行無常と理解していても、家名という歴史をいきなり奪われるのは辛いものがある。
「せめて高く売られて家計の足しになってやれれば良かった。だがその前に重宝を辞めてしまった。人が手放すのを待てなかった」
ぶすっとしたままの毛利に構わず大包平は続けた。
 だからこの方は毛利に話したのだと理解した。池田のものでもなく、大典太でもなく、毛利に話してくれたのだ。共に池田にあった頃、毛利は大包平の目線に近かった。それでも毛利には重宝というものが分からない。毛利は家の名を冠していても、家を背負うことはなかった。どこに行こうと毛利の核はたった一人の武将なのだ。毛利の号とはそういうものだ。だからどんなに付き合いが長くとも、その意味で大包平とは分かり合うことはない。「大」包平、包平の偉大なる傑作、大包平にとって誉れの号がもたらすのは人への感謝だった。
 その刀が重宝として一つの家で数百年大事にされてきた。毛利よりも精神的な枷はきっと重い。理屈は分かってもどうしてこう背負いこんでしまうのかと思わずにはいられなかった。
「池田の重宝をどれにするか選んだのは人間です。だから大包平さんがどこにいようと折れようと池田の家が絶えようと、重宝は大包平さんです。辞めるだなんて見当違いも甚だしいです。たかだか物の分際で身の程知らずにも程があります!」
生真面目で不器用な友人を毛利は思い切り叱り飛ばした。何しろ毛利に残されたのは名だけだから、実のない身で生きていくことをよく知っていたのだ。
「はは……そうか、そうだな……」
脇息に肘を付いて大包平は笑った。心底可笑しそうに笑っていた。
「まだまだ未熟者だな」
「世間知らずなだけでしょう」
「本当にその通りだ」
珍しく大包平は反論しなかった。何があろうと毛利の憎まれ口には言い返していたのだ。思わず恨み言が口をついて出た。
「火遊びの一つや二つくらい経験しておけば良かったんですよ……」
「無茶を言うな」
最後の恨み言はやはり悔しかったからだ。




 夜明け頃に目が覚めた。大包平の話を聞いて、飲み込んだつもりでいたが神経が昂ぶっていたのかもしれない。抜き足で手洗いに立った。手水からの帰り、体を動かしてしまったせいか目が冴えて、暇つぶしに庭を散歩することにした。霜月はじめの庭は葉も色づき、地面に枯葉も落ちていたが、赤や黄に色鮮やかなはずの葉はまだ夜明けに暗く沈んでいた。池を周り松のそばを通ったところで、障子の開く密やかな音がした。目をやれば大典太の後ろ姿がある。建物の影に隠れて様子をうかがった。
 大典太は大包平の居室から出て行くところのようだった。どうせまた昼頃にやって来るのだろう。そうして今日の晩を過ごせば約束は果たされる。これで池田のものも大っぴらに賛成できる。皆、大典太を信じたいのだ。重宝がどこかに売られるくらいなら、人知れず幸せに暮らして欲しいと思っている。長い付き合い故の優しさでもあるし、池田の晩節を汚してくれるなという願望でもあった。
 ぼそぼそと声がする。大典太の背に隠れてほとんど見えないが、女物の着物が男の影から覗いていた。部屋から見送ってやるのだろう。律儀なことだ。でも大包平らしい。後ろ姿からも大典太の手が大包平の頭か髪に触れているのが分かる。甘えるように名残を惜しんでいる。
 白い腕が大典太の背に回された。薄暗がりに白さが際立つ。夜明けに孵化する幼虫のような、透明で生々しい白だった。肘から指の先まで至る曲線は艶めかしい。両の腕が柔らかく背に絡みつく。男の肩甲骨に這う。足元の着物が波打った。
 白い手は抱擁しながらゆっくりと背を愛撫していた。穏やかに上下する。それが不意にぴんと止まった。手の甲がいびつに歪む。着物に爪が立てられ、指の関節が浮き上がった。指先が緊張をはらみながらのたうつ。白皙に筋が浮く。息を飲んで、毛利は二本の腕を見守った。風もない、音もない、動くもののない静寂の底のようなこの場で、身じろいでいるのはどこまでも白い腕だけだった。爪の先まで張りつめて、耐えきれずに震えている。きっと昨夜あんな風に大包平は大典太の肌に爪を立てたのだ。男を力の限り抱きしめて、両手で閉じ込めて、泣き咽ぶように爪痕を残したのだ。
 始まりが唐突なら終わりも唐突だった。突然腕が弛緩して、ぱたりと落ちた。大典太が慌てて大包平の体を支える。接吻で腰が砕けるとは恐ろしいと、笑うことはできなかった。あの光景を目にした毛利には至極当たり前のことに思えてしまった。
 くずおれてなお、大包平の姿は大典太の影から覗くことはなかった。何事か囁きあっている。内容は聞き取れないがさっきよりも強い語調だから、小言を言っているのかもしれない。大典太は頷きながら大包平を横抱きにする。白い素足が大典太から飛び出して揺れていた。手は位置を変え、大典太の首に回される。回されてはいるけれど、ほとんど添えるだけで力は入っていない。ゆったりと弛緩して肩から背に落ちていた。大典太は危なげなく抱え上げ、大包平の信頼を裏切ることはなかった。
 音を出さぬよう細心の注意を払ってその場を離れた。衝撃が強かった。閨の最中に出くわす方がまだましだった。大包平に恋情であるとか執着心であるとか、膿のような心が備わっていたのだ。ただただびっくりした。
 庭から玄関に向かうと、ちょうど大典太が出て行くところだった。ひょいとやってきた毛利に不思議な顔をしていた。
「今日もいらっしゃいますか?」
大典太の隣を毛利も歩く。
「そのつもりだ」
「ちゃんと来て下さいね」
頭上から視線を感じた。
「本当に大事にするつもりだ」
大包平に由縁のあるものに気を使っているのか単なる臆病なのか、毛利には判別できない。この数日で分かることなんてほとんどなかった。それでも大包平を送り出すしかないのだ。家から重宝がいなくなるのだと毛利はひしひしと感じた。
「お別れする前に大典太さまのお話が聞きたいです」
「俺の話か?」
「ええ。大包平さんと添おうなんて並大抵のお心映えではできないでしょう」
大典太はわけの分からない顔をしていた。
「あんなに気立てが良いのも滅多にいないと思うが……」
「大包平さんは浮いた話の一つもなかったんですよ」
「……そうなんだろうな」
「分かるんですか」
「なんとなく。俺が手折らせて貰ったから」
「手折ったとは言わないんですね」
「泣き落として許して貰った。大包平が望んでくれた」
複雑なんだか単純なんだかよく分からないひとだ。この数日の大典太はとても率直に、誠実に愛情を示していて、毛利も含め家中のものは良い方をお選びになったと胸をなでおろしていた。だがやはりそれだけではないのだろう。謙虚な言い方をしながら手折ったことを否定しない姿に、隠しきれないプライドの高さを感じた。
「どうして大包平さんはずっと独り身だったんだと思います?」
「あんたの方が詳しいだろ」
「大典太さまのお考えをお聞きしたくて」
黙り込んだまま大典太は歩き続けた。これは問いを黙殺されたかなあと思いながら、毛利も後を付いて行った。どうしても大典太という刀が気になったのだ。
 十一月の早朝は温暖な岡山といえどもなかなか冷える。雲の多い朝だった。晩秋の突風が市街を吹きすさび、歩くふたりにぶつかっていく。ぶるりと一つ身を震わせた。トタンの看板が風にがたりと揺れる。
 空襲で焼け野原になった岡山市街は、それでも復興がかなり進んでいた。家が地を覆うように立ち並び、朝の喧騒が目覚め始めていた。今にも風に吹き飛ばされそうな木造の家々を横目に進んでいく。黙々と大典太は歩みを進める。滅多にいない大男で容姿も常人離れしているのに、色の沈んだ街並みにしっくりと馴染んでいた。
 市街を抜ければ水田地帯に入る。急に道が真っ直ぐになって遮蔽物がなくなった。風はますます強く吹きつける。砂埃が目に入らぬよう目をすがめながら歩いた。さりげなく大典太の後ろを歩いて風除けにした。
 毛利はすぐ後ろから大典太を観察していた。見上げるような体格にしっかりとした手足がのびている。信頼が置ければ頼もしいことこの上ないが、襲われることを考えた途端怖気が走った。許す許さないではなく、大包平は恐ろしくはないのだろうか。どうしてあんな風に甘えることができるのだろう。
 百間川に辿り着いた。稲も刈り取られた閑散とした平野にコンクリート製の橋は真新しくも寒々しい。毛利の下駄がコンクリートを叩いて高い音を立てる。
「手を出していい相手に思えなかったんじゃないか。綺麗すぎるから」
かつかつという鋭い音の合間に大典太の声が混じる。まさか答えが返ってくるとは思っていなかった。この独特な間に大典太も古い太刀であることを思い出した。
「大典太さまもそう思われたんですか?」
「初めて接吻するときは緊張した」
「合意ですよね?」
「半ば無理強いだったよ」
「僕に話して良いんですか」
「大包平が話したと言っていた」
「ちょっとだけですよ。ほんの少し、さわりだけ。大包平さんが特大の馬鹿をやっていて驚きました」
大典太が振り向いた。川風が髪を揺らしていた。ばたばたばたと三輪バイクがふたりを追い抜いた。
「反対しに来たんじゃないのか?」
反対されていると思いながらここまで歩いていたのか。毛利は目を見張った。弁明も懐柔もせずに歩き続けるとは一体どういうつもりだったんだろう。
「乱暴した方に嫁ぐなんてどうかと思いますよ。でも大包平さん、自分の為に何かするなんて初めてだから、仕方ないでしょう」
目の前の男が毛利には分からない。優しさを信じたい気もあるし、大包平に付け入っているのではと不安にも思う。清廉潔白な大包平は大典太のために変わってしまったのだろうか。それとも誰も知らなかっただけで大包平にもねばつくような何かがあったのだろうか。言いたいことも飲み込んだものもある。でも大包平は決めてしまった。毛利と大包平の仲は確かに親愛で結ばれているけれども、決して寄り掛かりあうようなものではなかった。
「僕が何言ったって曲げませんよ。それに……」
大包平は足掻くと言った。でもあのひとはずっと重宝であろうと足掻いてきた。足掻くというのは大包平なりに幸せになるという宣言なのだ。幸せや安寧は不断の努力の末に打ち立てられるものだとあの太刀は信じている。
「幸せそうですしね……」
「そう見えるか?」
「幸せどころか骨抜きになって腑抜けてますね」
大包平は重宝だ。未来永劫、好むと好まざるとに関わらず。大包平のことだから池田の重宝であったことは錆落ちるまで誇り続けるだろうけれど。だが魂を得て記憶を持つのなら、それ以外の心の支えだってできるだろう。ただ一振りの、大包平の生の問題として大典太を選んだのなら、毛利はそれを友人として尊びたかった。
「このところ大包平は悩んでいる」
「それはやはりお家の要でしたし。簡単に割り切れないでしょう」
「以前の大包平なら迷わず池田に帰ったよ」
訳知り顔で語られることが毛利には面白くなかった。
「随分知ったようなことを言いますね」
「最初は心残りを除くつもりだったらしい」
大典太の後ろ姿が訥々と語っていた。橋を渡り終えても田畑は続いていく。黒い墳丘のような鎮守の森がざわざわと揺れていた。大典太の声が風に搔き消えないよう隣に駆け寄った。
「昔のことを解決しただけだったら、今頃、大包平は池田にいた」
「でしょうね」
「俺は手放したくなかった」
真横にある拳が震えるほどきつく握りしめられていた。見上げれば大典太は顔をしかめていた。男のひとが泣くのを我慢するときの顔だった。
「俺は一番やってはいけないことをしたが、あそこまでしなかったら大包平は俺のところにはいなかったと思う」
「……もしもの話でしょう」
「それでも何度も考えた」
無意味だと分かっていても考えずにはいられなかったのか。
「どうして僕にこんなことを話すんです」
「池田でひとりくらい知っている奴がいた方がいい。あんたは信頼されているんだろ」
 このひとはとても情が深くて優しいのだろう。そして芯の部分で冷たさを持ったひとだ。冷酷に、冷静に、物事を捉えてしまう。おそらく大典太の言うことは正しいのだ。仲睦まじく過去を清算しただけなら、大包平は重宝のままだったに違いない。ふたりの仲は美しい思い出になっていたのかもしれない。
「盃だけ交わしたとうかがいましたけれど、どんな風だったんです?」
大典太は目をぱちくりさせて毛利を見た。
「盃じゃないぞ?」
「はい?」
「うちに生っている橘を食べてもらった。ずっと一緒にいられるように……」
「凄いことをお願いしますね」
「食わせろとせっつかれて……食べさせたいと俺も、思っていたが……」
気まずげに大典太は顔をそらした。
 一気に視界が開けたような気がした。空を裂く閃光弾の輝きが脳裏に走った。曇天に弾けるような笑い声が響いた。毛利は可笑しくて可笑しくて仕様がなかった。何が誰より私に惚れているからだ。素直じゃない。毛利も重宝の大包平しか知らなかったから見誤っていたのだ。難しいことは一切抜きで、ただ好きでどうしようもないから大典太を選んだのだ。堂々と嫁ぐと宣言できるのに、好きなのだという心のひだを開陳できない繊細さが可笑しかった。
 ふたりの仲がこの先上手く行くにせよ破局するにせよ、おそらく今の大包平には大典太が必要なのだ。あのひとは恋をしている。もしかしたら一生に一度きりの大切な恋をしているのだ。だから義務を果たせないことを悔いながらも、残り短い時間を池田に残ると言わないのだ。愚かしさを理解して、恋の刹那を選ぶのだ。あの大包平が! あのお堅い重宝が! 毛利は笑い続けた。厚く垂れこめる鬱屈を吹き飛ばす清々しさだ。大包平は自由を選び取った。人も物も関係ない。心あるものは皆愚かで美しい。
「ねえ大典太さん、期待に添えず申し訳ありませんが、僕は大包平さんがどんな道を選んだって気にしませんよ。僕は僕で、大包平さんは大包平さんですから。不幸になれだなんて欠片も思っていませんし、心配だってしますけれど、でも大包平さんはちゃんと自分で決断できる方です。大典太さんを選ぶと決めたのなら、僕はそれを尊重します」
頭上の空ではびょうびょう鳴る風が冬の訪れを告げていた。
 だだっ広い平野を黙々と歩き続けた。毛利はすっきりして気持ちを割り切ってしまったが、何となく引き返すタイミングを失っていた。徐々に日は昇り、景色が段々と色づいていく。
「今日もちゃんと来て下さいね」
次に出くわした川のほとりで毛利はまた同じ言葉を投げかけた。
「ああ」
大典太は毛利をまっすぐ見て答えた。
「大典太さまとここにいるのも変な感じですねえ」
吉井川は備前長船揺籃の地だ。古備前の大包平もこの流域の鉄から生まれたのだろう。対して毛利は山城の生まれであるし、大典太に至っては九州だ。この川と最も縁の薄いふたりだった。
「東京に帰るときは途中まで一緒に来るか?」
「はい?」
「大阪までは道も同じだ」
「やですよ。ちっちゃい子もいないのに馬に蹴られるなんて」
「蹴られるのか?」
「蹴られます! はい、もう行って下さい! 今日が三日目ですからね!」
ぱんぱんと手を叩いて急かした。少し照れくさかったのだ。




 当然、大典太はその日も昼過ぎにやって来た。大包平は玄関まで迎えにも出ず、自室でその知らせを聞いていた。「そうか」とひとこと言って、静かに笑っていた。
「明日の朝この屋敷を発つ。世話になった」
芯のある声にその場に控えていたものたちは居住まいを正した。
「皆を大広間に集めてくれ。皆だぞ。ここにいる付喪神すべてだ」
 この屋敷が模しているのは奥御殿だが、大広間だけは表の間として用意してあった。付喪神が政務をつかさどるわけでもなし、付喪神が仕えるのは人間なのだから、使われることは今までなかった。
 大広間いっぱいに付喪神が集められた。大正に一度多くのものが売り払われ、今この家に残っているのは由緒のはっきりした古参のものばかりだった。空気は落ち着かなげに騒めいている。家を出た毛利は居並ぶものたちには連ならず、大包平が入ってくるはずの戸の脇で控えていた。戸の向こうから足音がする。毛利は無言で開けたが、かすかな戸の音がすると、たちまちしんと大広間は静まり返った。
 大包平は一段高い上座に置かれた座布団を一瞥するだけで下に降りた。最前列のすぐそばに端座する。
 ただひとり顔を上げて前を見据える大包平に、ものども全て平伏していた。時代錯誤な光景だった。この国から大名というものが滅んで久しいのに、付喪神は等しく人間に仕えるものなのに、遠い昔の営みを再現する行為は滑稽だった。この光景を知る人間はみなすでに土の下だ。誰もがこの場の奇天烈さを理解していた。それでもこれが彼らのけじめだった。
「よく集まってくれた」
大包平の声は朗々と響いた。
「私がここに座るのはこれが最初で最後だ。今更言うまでもないが、池田の家は平民になった。お前たちも近々のうちにこの家から出されることになる」
毛利は一言一句聞き漏らさず、この場を見届けようと決めていた。一つの家に仕え続けた付喪神たちの離別の時だった。
「博物館に行くものもあるだろう。払い下げられるものもあるだろう。我らの命も脆いものだ。忘れられ、消え去っていくものもあるかもしれん」
ゆっくりと大包平は一同を見回す。柔らかな声音には悲しみも悔恨もなかった。あるがままに運命を是とする潔さだった。
 戸の向こう、毛利のすぐ背後に気配があった。じっと立ち止まって、扉の向こうで聞き耳を立てている。
「最期の瞬間まで誇り高くあろう。ものというのは口がきけぬ。そのたたずまいでもって人と渡りあうものだ。我らが美しく残り続ける限り、池田の家も消えた同胞も、あるいはこれから消えていく同胞も忘れ去られることはない」
ぐすりと誰ぞの鼻をすする音が大きく響いた。つられるように幾人かのすすり泣きが続く。
「私は一足先に人の手を離れてしまった。選んでしまったことだが、お前たちにばかり重荷を背負わせるのはあまりに不人情というものだ。だから何があろうと生き残ってみせる。この身が滅びようと名を残してみせよう。お前たち、達者で暮らせ。二束三文で売り払われようとも誇りを失うな。それでもいまわのときが訪れたならば、安寧のうちに黄泉路を下れ。備前岡山、我らが池田の名はこの大包平が確かに残してやる」
毛利は唇を固く噛み締めて、毅然とした大包平の横顔を見つめていた。力強い宣言とは裏腹に前を見据えて座るさまは泰然としていた。
「また会えるときを楽しみにしている」
長い一息ののち、大包平は立ち上がった。毛利は何事もなかったように戸を開けた。戸の前に立っていた大典太に大包平は一瞬目を見張ったが、平然とした態度は崩さずにそのまま退出した。続いて毛利もざわめく大広間を後にした。
 無言で大包平たちは歩いていた。早くもなく遅くもない歩調で部屋へと帰る。
「毛利、手伝ってくれ」
掻取から腕を抜きながら大包平が話しかけた。晴れの場の一等良いそれを受け取って丁寧に畳んでいく。
「あんたは抱え込みすぎだ!」
癇癪が爆発したような勢いだった。大典太も叫ぶことがあるのか。
「重宝なら当然のことだ」
「……俺だって前田の神品だったぞ」
「なら分かってくれないか」
「人もものもあんたが抱えこまなければならないほど弱くない」
「弱いからじゃない。これは責務だ。在り方の問題だ」
「もう少し自分を顧みてくれ」
「顧みているさ。障子を閉めてくれ。着替える」
大典太は猶も不平を顔に表しながら言われた通り閉めた。障子の竪桟は音もなく合わさった。このひともなんだかんだ言って育ちが良い。
「私は生きる。何があろうとだ。お前と一緒に幸せになってやる。私が美しいほどに池田の名は尊く響くのだからな。重宝とはそういうものだ」
毛利には大典太の苦労がしのばれた。そしてあれほどの重宝ぶりを見せつけられても、夫として憤りを露にする胆力に素直に感嘆した。天晴だ。まさしく破れ鍋に綴蓋だ。
 その日の午後にふたりは池田の家を後にした。毛利は最後まで馬に蹴られるのを理由に抵抗して、ふたりと一緒に帰るのは回避した。でもいつか今度は金沢か東京で会いたいと思っている。




 その翌日、まだ日も明けぬうちに毛利も東京へ発った。ひとりきりで歩いていく。孤独は感じなかった。もう東京が毛利の帰る場所なのだ。数日離れていただけでそれを理解できた。あの石造りの堅牢な建物が毛利の家だった。
 暁がまだ空を染めきらぬ時分、吉井川は大きな闇となって静かに揺蕩っていた。黒々とした田の真ん中で光を吸い尽くし、悠然とそこにある。山はうすぼんやりとか細い光に浮かび上がっていた。もの寂しい光景だ。だがどこか懐かしい。堪らず来た道を振り返った。西の地平線はまだ闇に沈み、岡山市街にぽつぽつと灯った明かりが夜の名残りだった。毛利はその明かり一つ一つに目を凝らした。どれも人工灯の白い光だ。それからまた歩き出した。

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