朝ぼらけという言い回しにぴったりの薄い光が部屋に差し込んでいる。
空気中に漂う埃が視界に膜を張る様子を、狭いベッドの上から眺めた。目に入って来るのは廃材で出来たテーブルで、TETSUが名も知らない道具が、雑然とした様子で置いてあった。
寝返りを打とうとしたが、共寝をした男が襟足に指を伸ばしている。
散髪が面倒で伸ばしている襟足の下に指先が触れ、さりさりと髪が鳴る。
はっきりとした拒絶の意思を示すのも面倒で、「………くすぐってえ。」と応えると、クックと笑う声が聞こえて来る。この部屋の外ではこちらがつむじを眺めるような背丈の男が、ひとたびベッドに入れば、こうして身長の差がなくなってしまう。セックスをして寝入るまでは便利だと思うその違いが、寝起きにはやはり煩わしい。
なあTETSU、と男は言った。
この辺に墨を入れてやろうか。おめぇさんには、花が似合う。
寝ぼけたことを言う、と思ったが反論はしない。
ハートマークだの、女の名前だの、オレの腕がなくともどうにかなる依頼にゃ、飽き飽きだ。百合だの椿だの、男はTETSUも知る花の名を譫言のようにつぶやく。
一発合格で医師免許を取った自分のことを、ベッドの上でただの甘ったれの小僧として扱うこの男の誘惑に、まるきり興味がないわけではなかった。睦言に流されるのは容易いことだ。それでも、男の言うようにひとたび墨を入れてしまえば、もう二度と、明るい場所に出て行くことは出来ないだろう。母とTETSUを見捨てて家を出て行った、二歳年上の男の耳に空いた穴とさして違いはないとは思うが、それでも思い切ることは難しかった。
祖父の代のそのまた前からこの辺りで暮らしているという男の、その気取りのない江戸前の喋りを、半分覚醒した頭で、聞くともなしに聞いていた。
腹が減ってはいないので、まだここにはいられなくもない。
そう思って、TETSUはもう一度目を瞑った。


**


――どうやらコイツも、オレが指に付けてるコレが見えてて粉を掛けて来た手合いか。

陽光に満ちたカフェテリアで知らない男に微笑まれたTETSUは、目を眇めた。
こうした無言のやり取りは、身に付けている物を含めた相手の第一印象で決まるもんだが、世間には、既婚者との関係の利点をあと腐れのなさと考える馬鹿が多い。
目の前の人間が、ただの話し好き――手の甲に錨のタトゥーを入れていようが、刺青が手軽なファッションの一種であるこの土地で、あるいは、そういう男の中に下世話な詮索好きがいるという可能性もゼロではないだろうが――そうした低い可能性に賭けて、この手の手合いが距離を詰めてくる速さを甘く見積もるつもりもなかった。
これがまあ、四半世紀も前の話なら、ここまで近づくのを許した時点で、こっちの負けが込んでいると言ってもいいだろうが。
あの頃のTETSUはまだ、恐れ知らずが恥知らずと表裏一体だった。右手を動かすのも億劫な夜に手っ取り早く欲を解消するには、外面で釣り上げられるような野郎相手がラクでいいと、似たようなことを思ってもいたのだ。
まあ、白衣を脱いでこんなところでちんたらスマートフォンを眺めてりゃ、暇を持て余してるようにも見えンだろう。
年の功というのは腹立たしいが、ただのマウントの取り合いともなれば、こっちに分がある。
その手のナンパは諦めろ、と口にする代わりに周囲を威嚇するための笑みを浮かべると、相手の腰が引けた。
「こちとら、もうお決まりのパートナーってヤツがいるんでな。」
最近は家でしか口に出さなくなった母語で嘯くと、腹立ち紛れにか、男は、Jap、と一言呟いた。こちらの素性を知った相手か、あるいはクエイドのトップの出身地で見当を付けたか。まあ、捨て台詞を吐くような相手なら立ち上がってまで追い払う必要はない。
飲みさしのコーヒーを傾け、とっとと休憩を終わらせるか、と考えていると「まだ休憩中なら、ご一緒しても構いませんか?」と聞き慣れた声が降って来た。
勿論、今の今までここにいたナンパ男のものではない。
どいつもこいつも、という気持ちで顔を上げると、良く知った顔が目の前にあった。
カフェテラスの観葉植物の緑を背にした爽やかな笑顔と染みひとつない白衣。首から下げたカードは、医師や一般職員とは色が違っている。
状況に折り合いをつけるやり方は分かっているつもりだが、この顔を見ただけで苛立ちを覚えるのはほとんど脊髄反射の域だ。じゃあな、と席を立とうとしたところで、男はこちらを見て、「相席しても?」と言葉を重ね意味ありげな視線を飛ばして来た。
「オレの方の用は終わったんでな。」
「まあ、そう言わずに。せっかくの機会ですから。」
男は、こちらの返事も訊かずに向かいの席に腰を落ち着けた。
これ以上ここに引き留めてぇならブローニングでも持って来るんだな。
口には出さないでいるこちらの本心を感じ取ったのか「時間が惜しいというなら、制限時間を設けましょうか。」と朝倉省吾は手にしたスマートフォンの画面を持ち上げ、こちらの目の前に翳した。
Dr. Joe WAKUI と表示されたその画面の中央のボタンを、こちらに見せつけるようにしてタップする。
「もしもし、そう、私だ。譲介君、急用があるんだけど、今から十五分だけ時間が取れるかい? 十五分と言わず? じゃあお願いします。あ、そうか、そうだな、エスプレッソが美味しいって言ってた七階のカフェテリア。君のパートナーのGPSを起動したら分かるよ。……え、平時には見ない? それは良い心がけだ。」
そう言って電話を切ると「彼が来るまでの時間、少し話しましょう。」とお高い時計を見た。
他人に尻を蹴っ飛ばされてえ願望でもあるのか、貴方に割けるのはせいぜい三分程度だというその仕草が妙に似合っている。
「どうです、うちの社食は。」
「三分の間に話す話題がそれか?」
三分間、というフレーズが気にくわなかったのか、省吾は眉を上げた。じゃあさっきのはどういうつもりのポーズだったんだと反論するのも面倒だ。
「私たちはまだお互いを知らないでしょう。まあ私自身に不満はあっても財団への不満はないだろうと思っていますが、職場環境や実際の仕事の面で、他にも意見があれば、どんどん譲介君を通して伝えてくださって構いません。」
行動力だけは無尽蔵だと譲介が評するこの男が持つ決裁の力は相当なもので、これまでにもスタッフの増員の他に、執務用の部屋に新しい分析用のコンピューターソフトと立ち仕事のままで使えるデスクと言った試しで購入した備品が細々と導入されている。
エスプレッソをどうぞ、とカウンター奥に納まっているバリスタが、明るい緑のエプロンに相応しい笑みを浮かべて二人分のカップをトレイに入れて運んでくる。
「セルフサービスじゃねえのか。」
「……いつも、気を利かせてくれているらしいですが、エスプレッソは苦手です。良ければ私の分もどうぞ。」とカップを向かい側に進めて来ようとする。
「そいつは遅れて来たやつに譲ってやりゃあいい。」
小さなデミタスカップを不格好に持ち上げて啜っていると「どうです、最近の体調は。自覚症状があったら今のうちに仰ってください。」と藪から棒に聞かれて、エスプレッソを吹き出すところだった。
「半月ごとの数値は見てるだろうが。」とカップを置いて腕組みする。
「あなたのケアは和久井先生に一任してますので。僕は彼がアドバイスを必要としている時に見せてもらう程度です。」
それなら、今は数値が安定していることは分かっているはずだった。その考えが顔に出ていたのだろう、省吾は、医師に対しているというよりは患者に相対した時のように声を和らげ、数値は数値です、と苦笑した。
「いつも、自分の前では無理をしているのではないかと、彼はあなたのことを気にしていますよ。それに、私もここには長いですから。あなたくらいの年代の人が痛みに我慢強くあろうとする姿勢も分かっているつもりです。加齢で無理が利かなくなったと思ったら、遠慮せずに都度相談してください。……ああ、待ち人が来たようですね。譲介君、こっちだ。」
男は大袈裟とも言える身振りで手を振ってから、手元の時計に視線を遣って、丁度四分半です、と言ってウインクした。
「彼にはエレベーターの待ち時間がありますから、私の予測の方が正しかったようだ。このフロアのリノリウムの廊下は、走るには向いてない。」
「……。」
「ランチくらい賭けておけば良かったかな? ……おっと。愛しいパートナーを賭けの対象にしたくないなら口で言ってくださればいいのに。」
「誰が愛しいパートナーだ。」と毒づく。
人聞きの悪いこと言うんじゃねえ、と口を開こうとしたTETSUの横で「徹郎さん。おはようございます。」と譲介の声が響く。省吾の爽やかさに輪をかけた満面の笑顔で現れた男は、白衣の襟元に大きな黄色の染みを付けてやって来た。
……カレーを食う前に、白衣を脱げつっただろうが。
頭を掻きながら、「おい、そいつはてめぇで洗濯しろよ。」と言うと、譲介は眉を上げた後で「あ、しまった。」と言った。やけに反応が鈍い。
椅子に座らせようかと思ったが、こっちが立ち上がったが最後、三日の無沙汰が続いた男からのキスとハグで攻め立てられてもおかしくはない。
「お二人がご一緒なんて珍しいですね。、さっきの話は、」
「譲介君、この人が今回の急用だから。」ウインクと共に出て来た言葉に、譲介は目を瞬かせる。
「家に戻っていちゃいちゃする前にここでちゃんと話し合ってね。」
「あ、はい。」
「では、ドクターTETSU、私は十分後に会議があるので失礼します。あ、譲介君、カレーの黄色は日に干すと薄くなるよ。」
参考まで、と言って敬礼の真似事をした外科医は、さっとこの場を立ち、寝ぼけ面の譲介を残して観葉植物が築く緑のバリケードの外に出てしまった。さっきのバリスタが入れ替わりにブレンドを二杯持ってきて、飲みさしに見えたのか、手を付けてない方と一緒にエスプレッソのカップを下げていった。
真っ白い壁を背景に向かいの席に掛けた譲介は、TETSUを見つめ「あなたに……三日ぶりに会えて嬉しいです。」と言った。
昼の光が差し込むカフェテラスで微笑む男の顔を見て、どうしてこうも明朗に育った若い男が、オレのようなはみ出し者に惚れたものかと思う。
人生ってヤツは……いや、それを言うのはまだ早いか。
「……オレもだ。」と言うと、譲介は、今すぐハグしたいです、と言わんばかりの様子で嬉しそうに笑った。







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