責任転嫁
隣に座る男が俺に尋ねてきた。
「あっちにいい女と男はいたか?」
男の言う「あっち」とは、俺がつい数十時間前までいた異国のロケ地のことだ。七月が一番寒くて、出会う全ての人が陽気で人懐こくて、飯がうまくて、愛しい男から遠くはなれた場所。
でも今は、俺の視線の先に愛しい男がいた。数か月に渡った撮影を終えてすぐ飛行機に乗り込み、空港からそのまま陳理髪店へ向かった。
店内の時計をみると、閉店まであと十分ほどだった。店主は今日最後の客となった常連客と雑談を交わしながら、手際よくハサミを動かしている。
待合のソファにじっと座る俺の隣には、理髪店の上の階に家賃も払わずに住みつき、ほぼ一日中店で気ままにすごす男、藍信一が座っている。
俺が数か月ぶりに会う、失恋し続けながらも愛している男に、堪えきれず抱きついてしまわないようにするための監視役のつもりらしい。このプーほんと邪魔だな……。
俺は視線を一つもそらさないまま、正直に答える。
「俺が見つめる先の男よりいい男も女も、いなかったですよ」
隣で、ブブッと吹き出す音がした。
「はいはい、そうですか。お前ってほんと一途だよな」
うんと俺は返し、隣へ視線を向けた。
「そんで悔しいことに、あんたより美しい男も女もいませんでした」
その言葉に、信一は一瞬だけ目を丸くしたあと、太く笑った。
「嬉しいね。それは、育ての親とここの店主と、お前くらいしか言ってくれない言葉だ。まあ、俺を知る奴ら全員も同じことを思ってるけどな」
俺が呆れた表情を見せると、信一はあのなと息巻いた。
「思うのと口にするのは、全然ちげえんだよ。わかるだろ、香港の至宝ってここ最近褒めそやかされてる俳優さんなら」
「まあ確かに。俳優になったって案外『愛してる』なんてセリフ言うことないですからね。しかも俺の役は女にも男にも振られてばっかりで。今回なんて、外国で一緒に暮らしてタンゴまで踊ったのに置いていかれました」
「それはお前の作品選びの問題じゃねえの?」
「脚本があってないようなもんなんですよ、ここの映画作りって」
「お前、ほんと変な世界にいるよな」
「不思議なもんです。城砦にいた頃のほうが秩序があったと思える時がある」
本心だった。俳優という仕事も映画作りも苦になったことはないが、いつも底に穴の開いたボロ船で嵐の中に繰り出している気分だった。毎回この映画がちゃんと嵐を抜けて、観客に届く港に着岸できるのかひやひやしている。
「でも、好きなんだろ」
「城砦の見張りの次に、俺の天職だと思いますね」
「文句ばっか垂れてたのによ」
「でもそのおかげで、俺は一生愛するって決めた男に出会ったんで」
信一が俺の脇腹を強めに小突いた。
「あのときは逃がしたくせに!」
「逃がしたんじゃなく、賭けたんですよ。この男なら何か俺たちを決定的に変えるかもしれないって」
映画作りだって賭けに近い。たとえ嵐に負けて沈んでしまっても、驚くほどあっけらかんとしたこの業界の人間たちは、またいいものをつくればいいさと再び嵐に自分から飛び込んでいく。俺だけでなく、全員が生粋のアドレナリンジャンキーなのだ。
「でも、お前は結局のところアドレナリンだけでは生きていけない。同時に居場所と秩序を求め続けている。城砦で生まれた男だからな、俺と同じように」
この男は遠慮なく本当のことを言うから、嫌いだ。カオスの中の居場所と秩序。城砦の住民だけが知っている、あの感覚がひどく懐かしかった。
客が入れ替わり立ち代わりやってくる理髪店において、店主は歓迎と安心と秩序を象徴する存在だ。龍城髪廊の龍捲風がそうだったように。
この店と店主は、まさにその意味で龍捲風の意思を継いだ唯一無二の存在だった。嵐の遠くに微かに希望のように光り続ける灯台。この店に帰ってくるたび、城砦がまだ存在しているのだとどこか泣き出したい気持ちになる。
人は嵐の中だけでは生きていけない――そのことを、俺はもう骨身にしみて知っている。
最後の客を送り出し、洛軍がこちらを振り返ったタイミングで俺は話し出す。
「二人に手土産があります」
足元のバックパックを開けようとすると、「たったこれだけで帰って来たのかよ」と信一が呆れたように言った。
そうですね、と俺はあっさり認める。ここにはブランドものの衣服も装飾品も何一つ入っていない。
いつだって身軽でいたかった。この体一つで城砦を離れ、縁もゆかりもない芸能界へ飛び込み、嵐にもまれながらも、まだ沈まずにいる。誰にも予想できない海のどこまで行けるのかを知りたかった。そのためには、余計なものは持たないほうがいい。けれど時折、耐えがたいほど寂しくなって、俺はまた灯台へ帰ってくる。
バックパックの奥から、厳重に包装したワイン瓶を取り出す。
「ここじゃあまず手に入らない飛び切り旨いワインは、信哥に」
「お、飲むのが楽しみだ。ありがとうよ」と信一が素直に俺に礼を言う。
俺は腹の中で笑いをこらえる。実はこれは、ふらりと入った酒店で仲良くなった店主に「負けを認めたくない恋敵に飲ませる酒」という、無茶な注文をして出してもらったものだったからだ。店主曰く、こんな酒を飲んじまった夜には恋人と別れたくなるほどの幸福感を覚えるらしい。俺は、財布と靴の裏に忍ばせていたありったけの紙幣を店主に渡した。
「で、洛軍には」
と俺は少しもったいぶって言った。
「情熱の国でつくられためちゃくちゃエロい下着を。俺のために着てほしくて」
その瞬間、信一の拳が腹にめり込んだ。
「それを今すぐ渡せ!地獄の炎で焼いてやる!」
「冗談ですって」
だが当の本人は、そういう下着は擦れて痛いから残念だけど難しいなと笑っているばかりだったので、俺はおやおやと思う。なんだ、擦れない下着はいいんだ。次はちゃんと買ってこよ。
「本当はこっちだよ、洛軍」
と改めて本当の贈り物を差し出す。それは、手の平ほどに紙に包んだ花の種だった。
「ブーゲンビリアっていう花の種なんだ。挿し木で育てることが多いんだけど、あちらの花屋に珍しく花の種があってさ」
俺は、店内を見渡した。草木と花が俺たちをとり囲んでいる。洛軍の故郷では珍しくない光景で、自分もまた手間をいとう性質ではないため、店を持つと自然とこうなったらしい。そんな場所の隅にも自分が贈った花を置いてほしかった。
ブーゲンビリアの花言葉を、花屋の店員は俺に伝えなかった。あきらかに大切な人のために種を買う客であるのに。
あの国には、人間が勝手に花に意味を持たせるような文化はあまりないのかもしれない。花は、そこにただ咲いているだけで十分美しいと誰もが知っているのだ。
「ありがとう。大切に育てるよ」と洛軍は種の入った紙包みを両手にしまいこんだ。
それにかぶせるように信一が「俺に任せろ。一週間で駄目にしてやる」と口を挟んでくるので、なんだか無性に腹がたった。マジでなんなんだこの男は。
俺は信一を無視して店主に「なんでまだこんな男を住まわせてるんだ。信哥は水と土と空気だけで育つ花じゃない。場所はやたらと取るし、飯はドカドカ食うし、くっせえ屁もこきまくる。早く捨てたほうがいい!」と迫った。すると、また腹に衝撃が走る。
「俺は、店一番の花なんだよ! この俺の美しさが、ここに来る奴らの目の癒しになってんの!」
「意味わかんないですよ! 少しは働けばいいでしょ!」
「まあ、そう言わないでくれ」と店主が俺をなだめる。「ここでのんきに陽に当たっている信一を見ながら仕事をするのが、俺の楽しみで励みなんだ」
「洛軍っ♡」と信一が色めき立つ。
「それ花っつーより猫じゃん! 番台で寝てる怠惰なデブ猫じゃん!」
「は? 俺は太ってねえよ!」
そこから、俺と信一のつかみ合いの喧嘩が勃発する。
いつだってこうなるのだ。どんな些細な話題でも俺がここに帰ってこれば、結局は店主をめぐって信一と争うことになる。
しばらく戦っていたところに、シュー!というやかんの沸騰音がその間に入り込んだ。
「まあまあそこまでにして、茶を飲もうじゃないか。俺たちの健康と再会を祝して」
目の前には茶のセットがそろった盆を両手に抱えた店主がおり、俺たちの取っ組み合いの手が止まる。
そして、いつもこうやって、醜い争いはしぶしぶ終わるのだった。
俺はなんだかため息をつきたくなる。
俺たちは、結局のところ、この男の周りをめぐる衛星なのだ。近くでぐるぐる周る美しい星か、遠い円を描きどこまでも遠くに離れたかと思えば、また戻ってくる寂しがりの星。
「やっぱこうなるんだよな」
という俺の独り言に信一が言った。
「素直になれよ」
「はい?」
「お前は、こうなりたくてここに戻ってきて、また飛び出していきたくなって、また俺たちを置いて行っちまうんだ」
俺はむっとして顔をしかめる。
「置いていってるつもりなんて、ない」
「事実そうなんだよ。いつも嵐に突っ込んでいって、音沙汰もなく長い間俺たちを心配させて、ある日ひょっこり帰ってくる」
その言葉に、俺は沈黙するしかなかった。
図星だった。嵐の中では何もかもが煩わしくなる。二人のことさえ、どうでもよくなる。
「だからこそ、お前は香港一の俳優であり、香港一のひどい男なんだよ」
そう語る信一の顔は、まるで世界の理でも知り尽くしているみたいだった。思わずひっつかみたくなるほど憎たらしいのに、どうやったって反論できない自分の無力さを突きつけてくる。
そうだよ。ああ、認めますよ。
俺は嵐の中で二人のことなんてすっかり忘れて、ボロボロになってから思い出すのだ。
自分には、愛おしい男と美しい男がいたってことを。あそこに帰らなきゃって思い出すんだ。
そこで、いや違うなと俺ははたと気付く。
もしかすると俺は城砦を思い出すために、この二人を懐かしく恋しく思うために、いつも嵐の中にボロ船一つで挑んでいるのかもしれない。
「茶でも飲んで反省しろ」
「ああ、大いに反省してくれ」
と二人から次々と言われて、俺は思わずふてくされる。
「ち、うるさいなあ。はいわかりました、次から努力しまーす」
分かってくれたらいいんだ、と微笑む店主が言って俺に茶の入った杯を手渡す。
「おかえり。君が恋しかった」
俺は茶をぐいっと一気に飲む干す。
そして、悔し紛れに思うのだった。
でもあんたたちのせいでもあるんだからな、と
この世で一番愛しい男と美しい男のせいで、俺はひどい男になってしまうんだよって。
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