またねと言う


 路地では鉢植えが住人の手によって季節を変える。名前のわからない花たちにまじって、まるでほんとうの大地に根をはったかのようなチューリップが風を浴びていた。繊細さの代名詞のようでいてそれは、ひとの視線など無碍にするみたいに図太く立っている。
 大きなからだを元気よく体育館へ運んだ花道を見送ったあと、ひと足先に帰路についてダイエーで食材を買いこんだのは、昼休みに花道が取りだした、部で回しているというNBAのビデオにそろって興味を示した友人たちが、じゃあ水戸んとこで観るか、と言ったからだった。翌日が休日とくればいつものように昼前まで居座ることになるだろうと、夕食兼朝食のカレーの材料とスナック、アルコールをかごに投げ入れていけば、大食漢か大家族かという様相を呈する。二袋ぶんになったそれを両手に帰路のつづきを歩いて、膝丈のチューリップを目にとめたとき、ふと気がついたのだった。麦茶のパックが切れている。花道はほとんど酒を飲まない、というより飲めない男だった。ビニール袋をにぎりなおして、風に吹かれる花々を横目に踵をかえす。十分後にはまた同じ景色を見るだろう。

 やがて短い休暇がカレンダーにおとずれると、三井は寮ではなく地元に滞在することを選んだ。二時間足らずの距離を帰省と呼ぶのはふさわしくないように水戸は思ったが、あちらとこちらという区分をしてしまえる時点で、その言葉は成立するのだろう。隔たりが50kmであれ500kmであれ、当事者にとっての距離とはつまり変化だ。真夏には涼しくさえある気温も、まだ慣れない春では特異に感じられる。ずっと暖かい日が続いて、とつぜん冷たい雨が降ると、冬には身についていたはずの耐性をもう失っていることに気がつく。それは新鮮さというより、ここにないはずのもの、すでに過ぎ去ったはずのもの、もう会うことのないはずだった知人と共通の友人を挟んで一杯のコーヒーを飲むようなすわりの悪さを生むのだった——そしてそれは喜びをもたらすことも、憂いをもたらすこともある。そう感じているのが自分だけなのか、三井の側にも似たものがあるのか、確認しようとしなかったのは、三井とのつながりに頓着しなかったからではない。真逆だった、どうしようもないほど。
 そっち行こうと思ってんだけど、と三井が事前に電話口で指定したのは休暇の三日目だった。家族、友人、恩師、水戸、という奇妙な予定を三井はどんな顔で組んでいるのかと、考えないわけはない。暇を埋めるようなシフト表にぽっかりと空いた一日は、きらめく余白というより、底の見えない穴のように見える。そしてその日、藤沢駅の雑踏のあいまから、午後の光を受けた三井が右手をあげるのを見たときに水戸が感じたのは、安定でもなつかしさでもなく、それよりもずっと生々しく新しい熱だった。
「おう、ひさしぶり」「うん、おつかれ」
 おかえり、という言葉を思い浮かべてから、べつの文句を選んだ。肩にかかるスポーツバッグが真新しい。あちらで買い忘れた参考書が休暇明けまでに必要なのだといい、名店ビルのエスカレーターに乗りこんで書店へ向かう三井を見送る。戻りを待つあいだに、広場とは名ばかりの喫煙所と化したハゼの木のもとで煙草に火をつけた。指の長さも、口角も歩幅も、たった数ヶ月で変わるものではない。自分は三井のなにを知っていて、なにを知らないのだろう? 変わるもの一つひとつを数えるより、変わらないものを数えるほうが手短であるに違いない。すくなくとも、三井と書店、しかも参考書、それは水戸にとっては未知な組み合わせのひとつだ。視界を覆うように上空へのぼる煙のどれが自分の吐いたものなのかわからなくなって、すべてこんなふうにまぎれてしまうなら楽だと思った。木は副流煙を吸うのだろうか、とうつろな思考で二本目をこすり潰したとき、よく通る声が名前を呼ぶ——まぎれるわけがない。もう知りつくしたはずのことが、何度でも光ってまたたく。
「買えた?」「おー、ばっちり。悪いな」「ちゃんとベンキョーしてんだね」「高校みてーにはいかねえんだよ」
 バスケのためだからしかたがない、それはきわめて正しい言い分だった。ふたりでビルへ戻って、喫茶店で遅めの昼食をとる。銀色のスプーンが皿を突く音、ジッポが立てる甲高い音、ストローが底面をすすりあげる音。三井の声はべつの色を塗ったみたいに際立って耳にとどく。追わずとも目に入っていた昨年とは違って、水戸が三井のプレイをほとんど見ることができなくなっても、三井は臆することなくバスケットの話をしたし、それは意外なほどに好ましいのだということを水戸は知った。相手を見て話を変えられる器用さよりも、それができないほど一途な人間のほうがすてきだった。
「三井さん、泊まってくだろ」
 最後のひと口になるであろうナポリタンを巻きとりながら、視線だけを向けた三井がうなずく。三井といると、ほとんどの時間を待って過ごしているような気がした。ずっとまえに空になった皿の上に、港の水面のようにチキンピラフの油が浮かんでいる。「うち、いま何もないから。あとで晩めし買って帰ろっか」

 できるだけ音を立てぬように換気扇のひもを引く。くわえた煙草に火をつけて吸いこむと、ようやく頭がまわりはじめるのを感じた。三井といると待ってばかりいる、それはただの実感だったが、あながち間違いでもなかったのだろう。ようするに、一緒にいるだけで、無駄が増える。午後の一部分を思いかえすだけでも、水戸は駅で待つあいだに二本、広場でまた二本、先に食べ終えてから一本吸った。ダイエーの陳列棚で三井は期間限定のビールをじっとにらみ——そのあと彼はいつものドライを選んだ——、帰宅して生ものを冷蔵庫にしまいはじめた水戸を手伝えば息などまるで合わず手間が増え、ふだんは働かされない浴槽を三井が使いたがったために水戸は風呂を洗うはめにもなった。それは当然のように三井の長風呂を招き、ポテトチップスをほとんどひとりで食べ切ったために腹は減らず、やがて強くもないアルコールにさそわれて眠りはじめた三井のために、引っぱりだした寝具の上へとそのからだを転がした。それで、ようやく今にいたる。
 炊きそこねたまま、たっぷりと水を吸った米をみおろす。魚、と言ったのは三井だった。はじめての帰省は三井本人よりもむしろ家族にとって大事なイベントで、持て余す感情をぞんぶんに活用することのできる生活のシーンとは、きまって食事である。特売品を見渡した水戸の、夜どうする、という問いかけに三井は、肉と油に満たされた胃袋の二日間を語って、だから魚、と言ったのだった。楽でいいだろ、とねぎとろのパックをかごに入れ、じゃあネギも、とたしかに口に出したそれを買い忘れたことに水戸が気づいたのは、やはり並んだ鉢植えの前にきたときだった。「なくていいんじゃね、戻るのめんどくせーよ」。そう言った三井に反論をぼやいたものの、それがひどく億劫に感じられるのは水戸も同じだった。しかしいまになって思えば、ひとりでいるときの自分にとって、買い忘れのために数分かけて来た道を戻るくらい、たいした骨折りではない。あるいは友人と一緒ならば、自分だけが戻ることだってあり得ただろう。そもそも、買い出しなんて昨日のうちにすませてしまえばよかったのだ。増えていく無駄を感じること自体が、きっとめずらしいことであると、ほんとうは知っている。
 豆電球まで残らず落とした居間に、安もののカーテンが街灯をうっすらと招きいれている。うまく運ばないことがたくさんある。あんたがいないほうがいいんだろう、水戸は胸のうちではっきりと言葉にした。火に触れれば熱い、走ると息が切れる、それくらい確かで疑いようのないことだった。偶然が遠くおよばないところで、三井が自分と会う理由も、自分が三井と会う理由もわからなかった——そんなものはないからだ。友人と呼ぶには過剰も不足もあり余る。会わない理由なら山のようにあふれていて、なにか抗いがたい運命に包まれているわけでもなかった。ただ好き好んで、こんな一日をつくったのだ。おれも、あんたも。

 夏のように明るい朝、重たいまなざしの三井が、あれ、昨日めし食ってねえな、とつぶやく。「米炊けてるよ」「天才だろ」「どうもね。準備しとく」
 洗面所へと立った三井に背中をむけて、炊飯器をあける。言葉をつくるのは関係だ。言えることと言えないこと、言いたいことと言いたくないこと、言ってもいいことと言ってはいけないこと、すべて関係がもたらすものだった。またね、じゃあね。昼すぎには別れるであろう三井に告げるべき挨拶はどちらがふさわしいか、水戸はよく知っている。関係が変われば言葉は変わるだろう。なら、言葉が変わったとき関係は変わるのだろうか?
 白米の上に、冷蔵庫でひと晩を明かしたねぎとろを半分にわけて盛った。醤油を回しかけてもあきらかに色の足りないそれを、うす笑いでテーブルへ運ぶ。腹をすかせて、それでもきちんと両手をあわせてから箸をとった三井が、やがて「やっぱネギあったほうがよかったな」と言ったとき、水戸は笑った。いいことなどなにもない。でもあんたがいないと淋しいよ。




2023.03.31
無駄が増える洋三、大学生と高校生のゴールデンウィーク

powered by 小説執筆ツール「notes」