供犠


 筑紫の鬼を征伐しろと父に命じられたとき、包平はまだ齢十四の紅顔の少年だった。跪く包平の視界には一段高いところにおわす父の足元しか目にすることはできなかったが、己を見ていないという確信だけはあった。それが癪で、今すぐ立ち上がって父の胸倉に掴み掛かりたいのを必死に堪える。だが懸命に我慢する包平を嘲笑うように背後はにわかにざわつき出していた。
 父の家臣も日嗣の兄も、我が子への仕打ちにはあまりに酷いといさめようとしているが、当の包平は無駄なことだと呆れてすらいた。父は、大王は何としても包平に討伐させる気なのだと、皮肉なことにその場の誰よりも包平が理解していた。
 包平は父に愛されていなかった。理由は単純で、母である皇后が父の勘気に触れたからだ。母の妹である叔母から生まれた兄は愛されたが、見目も出来もよい包平を大王は決して愛そうとはしなかった。どんなに優秀でも無関心を貫いた。
 しかし包平は周囲に恵まれていた。母も兄も臣も皆が包平を愛した。生来図抜けて優秀であったし、努力を怠らない根気良さも人を慮る優しさもあった。だが父だけは包平を愛さない。貶されたこともないが褒められたこともない。それが包平の闘争心に一層火をつけて、文武ともに鍛錬に打ち込ませた。奇妙なことに、長ずるほどに包平は父に瓜二つになった。容姿どころか有能な為政者としての側面も丸ごと受け継いだ。政治も戦争も、包平には父の一手の意味が立ちどころに分かった。そして父は常に幼い包平の一歩先を見据えていた。それを目の当たりにするたびに包平の胸は畏敬の念に満たされた。父のようになりたいとすら考えるのだ。
 それでも包平は父が嫌いだった。為政者としての才覚は認めざるを得ないが、息子たちへの不公平さは唾棄すべきものだと思っている。父について考える度、腸が煮えくり返る。その場で叫び出したくなる。
 深く拝礼し、父の命令を了承した。目に物見せてやるという気持ちだった。




 初めて訪れた筑紫は開放的だった。山に囲まれたまほろばとは異なり、海が近く、大陸との往来も盛んで刺激に満ちている。異国の人々も多く、物珍しい。ぼんやりとしか聞くことのなかった海の向こうの話が、筑紫では随分と身近なもののようだった。
 鬼がいるのは筑紫も南の山中である。陸路を行くより海路の方が早いと言われ、那津からまた船旅となった。そうして辿り着いた三池郷の村人に尋ねれば、確かに人食い鬼は現れるという。幾度か征伐隊を組んだが、いつも大嵐に阻まれて山に入ることすら叶わなくなるので、毎年人柱を奉納して鎮めているのだそうだ。
 鬼のねぐらは山奥深くで何処か分からず、兵を差し向けようにも包平の伴は大王の命で乳母子一人きりだった。そこで包平は一計を案じた。ちょうど祭事の日も近かったので、己が人柱になることにしたのだ。
 みずらを解き、娘風に髪を高く結い上げた。化粧を施し紅をさし、唐物の真紅の裳を纏う。玉を惜しまず身につけ、ふんだんに己を飾り立てる。そして最後に、背負った太刀が見えぬよう白い薄衣を頭から引っかぶり、村人の担ぐ輿に座した。
 新月だった。松明の灯りに先導され、山腹の磐座へと運ばれる。注連縄の張られた巨岩である。村娘を装った包平を磐座の上に担ぎ上げると、すぐさま村人たちは逃げ帰った。松明一本と包平だけが取り残された。
 息を殺し、いつでも抜刀できる体勢で鬼を待った。誰もいない静寂の中でひんやりとした岩に体が冷やされても、集中が途切れることはなかった。松明の爆ぜる音だけが辺りに響いていた。
 布を被って俯いているので視界はきかない。だが山に入ったときからこちらを見つめる気配は感じていた。今も穴が開くほどの視線を感じる。恐怖はないが、不気味である。どこから向けられたものなのか分からないから、一層得体が知れない。
 唐突に海の匂いが鼻をかすめた。海沿いの山中とはいえ浜から三里は離れている。奇妙に思ってふいと顔を上げると真っ黒な人影があった。ぞっとした。足音どころか気配もなかったのだ。緩慢に近づき、包平の目の前で止まった。赤い一つ目が見下ろしている。闇の塊のような腕が包平にのびる。
 恐れを押しのけ、薄布を取り去ろうとする腕を掴んで足払いをかけた。意外なことに鬼は呆気なく引き倒された。即座に馬乗りになって剣を喉元に突き付けた。
「貴様が鬼か」
闇が蠢くだけで実体を感じられない。鬼をも磐座をも覆うような闇だ。なぜか瞳の赤さが一番人らしかった。
「殺してくれるのか?」
鬼は包平を見上げて呟いた。
「は?」
「殺してくれ」
「どういうことだ」
「いいから」
鬼は刃を掴んで喉に突き立てようとする。手から流れ出た血が松明に赤く輝いた。
「馬鹿! 何をする!」
立場も忘れて鬼の手を振りほどいた。
「人を食ったんだぞ。早く殺せ」
「……どうして食った」
「お前に関係ない」
力のない声だった。諦めきって、こちらを拒絶する態度に無性に腹が立った。
「納得せずに殺せるか!」
包平とて父の命を果たさねば命が危ないのだが、鬼の言うままに殺してしまうのはどうも癪に障った。
 しばらく睨み合うと、鬼は細い溜息をついた。その態度にやはり苛立ちを覚えた。
「俺はもともと持衰だった」
ぼそぼそと鬼は話し出した。包平も持衰が何であるかは知っている。船に乗せておく人柱のことだ。船が嵐にあえば海中に投げ入れて海神を鎮め、無事に航海が終了すればそのまま下ろす。身を清めることや髪に櫛を入れること、女人が近づくことも禁じられていた。鬼が人であるということに包平は驚いた。
「最初の記憶は母に片目を潰されるところだ。そのまま売られて船に乗せられた。きっと捨てたつもりだったんだろう。だが嵐にあって真っ先に俺は海に放り出された。そして結局俺だけ助かって、船は沈んだ」
磯の匂いが強くなる。
「家に帰ったら母に泣きながら殴られた」
その言葉に悲しみはなかった。
「売られては戻って来ることを繰り返した。その度に嵐は酷くなって人死にが増えた。化け物と真っ向から言われるようになった」
ぞわりぞわりと夜が蠢く。闇が松明を照り返す。
「俺にも理由は分からない。気が付いたら郷里に辿り着いている。母は最後には気が狂って、身を投げて死んでしまった」
「なぜ人を食うんだ」
包平は静かに尋ねた。
「山の中で飢え死ぬつもりだったんだ。だが母が死んでから俺に憑いている者が見えるようになった。海で俺の代わりに死んだ奴らだった」
闇がゆらりと立ち上がる。辺り一面が闇である。その真っただ中に包平はいた。
「人を食えば嵐は収まる。俺は供儀になれないから、代わりに死ぬ奴が必要なんだ。何十年もそうして来て、殺そうとしてくれたのはあんたが初めてだ。早く殺してくれ。頼むから、早く」
男の体は温かい。だが男の語る歳月に比して、その肉体は若々しい。うっすらと古びた血の匂いもする。人だとは言い難かった。
 生温かい風が吹いた。雨が降る直前の、湿った空気だ。
「早く殺れ」
ごおおという雲の湧き立つ音がする。遥か頭上で風が、雲が、雷が渦巻いている。じきに嵐が来る。
「まるでお前を殺すのを止めたいみたいだ」
「人の肉を食ってまで生き永らえてどうする」
顔が影に覆われているせいか、男の瞳は雄弁だった。男は死にたいのだ。一刻も早く、今すぐに。
「分かった。名は何という」
「呼ばれることもなかったから、忘れてしまった」
袖が風に大きく波打つ。雨粒が落ち始めた。
「そうか」
手を引いて男を起こした。包平はこの男に同情していた。せめて安らかな死を与えてやろうと思った。
「あんたは綺麗だな」
正面に座った男が言った。
「これに似てる」
四寸ほどの金属の塊を懐から取り出した。
「何だそれは」
「船に乗っているときに貰った。拝めば救われると」
「神を拝せぬ者がいると聞くが、それだろうか」
男も包平も知らぬことだったが、それは金剛の菩薩立像だった。
「よく分からないままに手を合わせていたら、これそっくりのあんたが来たんだ。だから、持っていてくれないか?」
一つ頷いて包平は了承した。手を差し出すと仏像が渡される。ずしりと重かった。そしてその手を男はそっと握りしめた。泣きそうな顔をしていた。なぜか包平の心も痛んだ。
「どうしてだろうな。あんたは美味そうだ。人の肉なんてまずいばかりなのに」
「食わせんぞ」
「ああ。俺が食ってはいけないものだ」
凪いだ目で男は包平を見つめた。
「心の臓を一突きで屠ってやる」
「頼む」
剣を持っていない方の腕を男の首に回した。男は包平を抱きしめる。
 心臓にひたりと剣を押し付ける。
「最後に何かあるか?」
「息絶えるまで抱きしめていてくれ」
何と答えれば良いのか分からなかった。
「俺の手にかかるのだから名誉に思え」
そのまま勢いよく突き刺した。男が包平を引き寄せたおかげで、ほとんど力を入れる必要はなかった。肉を割り裂き、刃は貫通した。
 一度痙攣しただけで男は静かだった。流れ出た血が裳裾を重くする。首に回った腕から力が抜けていく。耳元で最期の喘鳴が聞こえる。
「かあさん……」
今際の言葉に包平の方が泣きそうだった。その一言を残して男は息絶えた。ぐったりと男の体が覆い被さる。体温がなくなるまで包平は茫然とその場で座りこんでいた。温かかった血がやがて、不快な冷たさとなって体に張りつく。骸の重たさ冷たさを包平は初めて知った。
 遺骸は磐座の上に丁寧に寝かせた。迷いに迷って、仏は男の胸に置く。何を表す人形なのか分からなかったが、きっと神聖なものなのだ。仏の浮かべる柔和な笑みに男が何を被らせていたのか包平は気付いていた。いよいよ風が吹きすさび、雨粒が痛いほどに包平の頬を打つ。松明を投げ入れ、遺体に火を放った。
 炎は人一人分を超えて、磐座全体に燃え広がった。凄まじい炎である。闇をも焼やし、火柱が高く上がった。熱風が薄布を翻す。雨脚は強く、土砂降りだったが、炎が絶えることはなかった。剣を握りしめて、包平は目が痛むのも構わずに炎を見つめていた。
 耳元でごおごおと風が鳴く音しかしないのに、脳裏に男の声がこびりついて離れなかった。母を呼んでいた。切実な声だった。それを思って包平は耐え切れずに滂沱の涙を流した。声をあげて泣いた。ずっと見て見ぬ振りをしてきたが、父は包平を屠りたいのだ。父が包平を顧みることは決してないのだ。
 炎は燃える。影を焼尽し、包平の周囲四方は火に飲まれていた。時折人の肉が燃える臭いが鼻腔をかすめた。男が無為に帰してしまう。人知れず鬼になった男の話を知る者は包平だけになってしまう。それが強烈な心残りだった。無理にでも名を聞いておけば良かった。呼びかける名すら包平は知らないのだ。
 何か名を与えようと思った。名を贈り、殯屋を作って弔ってやるのだ。男のような、包平のような子供は他にもいるのかもしれない。己は男に比べれば恵まれているのかもしれない。だが包平の心を揺さぶったのも、男を殺してやったのも互いだけだ。忘れるわけにはいかない。それは包平の心を殺すことだ。
「みつよ……」
呟く。不思議としっくりした。あの男はみつよだ。三池郷に生まれたみつよだ。
「よく聞け! お前の名はみつよだ! 俺が名付けた! 俺とこの雨風全てが証立てよう!」
炎は今にも包平を飲み込みそうなほど近く、叫ぶそばから雨粒が口に入って溺れそうなほどだった。
 雷鳴が轟き、視界を白く焼く。轟音が耳をつんざく。嵐はいよいよ激しく、少女と見紛う包平の体など吹き飛んでしまいそうだ。
「お前の汚れ罪科は全て炎が焼き払う! お前はみつよだ! 忘れるな!」
名もない鬼のままで放っておくことは包平にはできなかった。
 夜明けまで嵐は続いた。火は消えることもなく燃え続けた。びしょ濡れの体が寒くもあり、炎で暑くもあり、ただ包平は布をひっ被ったまま蹲って耐えるしかなかった。それでも心中で名を呼びかけることはやめなかった。そうしなければ鬼のままで死んでしまう気がした。
 いつのまにか気を失っていたようだった。包平は磐座の上で横たわったまま目が覚めた。ただの岩だったはずなのに、濡れた岩面は真っ黒に色を変えていた。薄っすらと煙が立っている。のろのろと身を起こして、ぼんやりとあたりを見回した。晴天の朝だった。山の中腹から谷底までよく見渡せた。
 呆然としていると赤子の泣き声が聞こえた。鳥が死ぬ間際のような、長いこと聞いていられない泣き声だ。振り向くと黒い岩肌の真ん中に生っ白い塊が見える。這いつくばって傍まで寄ると本当に赤ん坊だった。力の限りに泣き叫んでいる。歪んだ表情の、細めた目の隙間から赤い光がちらりとのぞいた。
「みつよ……?」
一糸まとわぬ赤子を恐る恐る抱き上げた。鬼の血で赤黒く染まった裳に赤子の肌は眩かった。腕を回して膝の上に載せる。不安になるくらい柔らかい。織り上がり立ての布よりも清新な肌を涙の粒が次々と転がり落ちる。清らかなものを腕に抱いているのだと溜息が漏れ出た。
「みつよ」
乳母が妹をあやしていたときのことを思い出しながら、赤ん坊を抱きしめた。
 乳母子がやって来たとき、みつよは泣くのに疲れたのか、包平の腕の中が心地よいのか、涎を垂らして寝付いていた。動いたら起こしてしまいそうで、乳母子が磐座に上がるのを待っていた。
「ご無事ですか?」
「ああ。ぴんぴんしているぞ」
乳母子は包平を見て、ぎょっとした顔をした。
「その赤子、どうなされたのです」
「息子というか弟というか……」
「はあ?」
「とにかく乳の出る女を見つけてくれ。腹を空かせては可哀想だ」
「それは構いませんが」
乳母子は言いづらそうに口をつぐんだ。生まれたときからの付き合いだのに珍しいことだ。
「どうした」
「南の隼人を討てと勅命が」
「大王か」
「如何致します」
「行くしかないだろう」
被りっぱなしだった布を取り払った。結い上げていた髪を解く。頭皮のつっぱりがなくなって、ほっと息をついた。濡れ髪をそよ風が撫でて心地良い。
 布でみつよをくるんで立ち上がった。すやすやと気楽に眠っている様子に心が洗われた。
「追って援軍を賜れるそうです」
「たいしてあてにならんだろう」
「まあ……」
言葉を濁す乳母子に苦労をかけると思った。ふくふくとした愛らしさに誘われて頰をつつくとみつよが起きてしまった。抜けるような青空に泣き声が響く。
 慣れない手つきであやしていると、小さな手が指を掴んだ。非力な赤子の精一杯の力だ。いじらしくて何としても生き残って、守ってやろうと思った。
「本当にその赤子どうされたんです?」
「可愛くないか?」
「そういうことではなくてですね!」
「みつよというんだ。お前も可愛がってやってくれ」
 如何にも物言いたげな乳母子に笑ってしまった。みつよはまだ火がついたように泣きじゃくっている。元気が良いことだ。
「俺はいつか父を討つぞ」
「はい」
異を唱えない男に苦く笑った。乳母子の方が包平の危うい立場に気付いていたのかもしれない。
「行こう」
磐座から足を下ろした。

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