マイケルとミシェルの愉快なクリスマス

 愉快で楽しいクリスマスの朝、マイケルはひとつも愉快ではなく、これっぽっちも楽しくない気分だった。朝ごはんに手を付けることすらしゃくにさわって、きょうだいたちがとっくに食べ終えて遊びに出かけてもなお、口をむっと閉じて、冷えていくオートミールをスプーンでぐちゃぐちゃと混ぜるだけだった。
 シンクにあった食器をすべて洗ってしまったマイケルのお母さんは、とうとうしびれを切らして、大きな声で言った。
「早く食べちゃいなさい、お皿が片付かないでしょう!」
「わかってるよ! いま食べてるだろ!」
 マイケルはいらいらと言い返した。お母さんの言うことがもっともなのはわかっていたけれど、いまのマイケルは世のなかのすべてが気に入らなかった。
「じゃあ、もう自分で洗っておきなさいね。お母さんはそろそろ行かないと」
 そう言うなり、マイケルのお母さんは蛇口をキュッときつく閉めてから、あわただしくエプロンを外して仕事に出かけてしまった。
 ひとり残されたマイケルは、ますますむしゃくしゃした気分になった。こんなにひどいクリスマスははじめてだった。それもこれもすべて――あのにっくきサンタさんからのプレゼントのせいである。
 この町の子どもは、クリスマスが近くなると「この一年、ぼくはとっても良い子にしていました。つきましてはプレゼントにこれこれをください」というような手紙をサンタさんに書く。手紙は、書き終えると雪のように溶けて消えてしまうのだが、クリスマスには手紙に書いたとおりのプレゼントが、きれいにリボンをかけられて子どもの元に届く。町の人たちはみな、それを『サンタさんの魔法』だと言っていた。
 マイケルは今年の手紙に、セパタクローで使う籐編みのボールがほしいと書いた。クリスマスの翌日にとなり町のチームと試合をするので、その新品のボールを持っていくつもりだったのだ。
 ところが今朝、マイケルの枕元にあったのは、ほしかったボールではなかった。代わりに置かれていたのは、ずっしりと重い台座にふしぎな模様の球体が据えつけられた、何やら奇妙な物体だった。
 その物体が何に使うものなのか、マイケルにはまるで見当がつかなかったけれど、マイケルが大きらいな『お勉強』に関するものだろうということは、すぐにぴんときた。サンタさんは、たいてい手紙に書いたとおりのものをくれるけれど、良い子にしていないと別のものをくれるという。マイケルは、とても悲しい気持ちになって、それから、めちゃくちゃに腹を立てた。
 たしかに、ちょっとくらいお母さんの言うことを聞かなかったり、勉強をさぼったりしたかもしれない。けれど、おつかいを頼まれたらいつだって行ったし、セパタクローでは一生懸命練習をして、チームのキャプテンとしてみんなをはげましてきた。それなのに、こんな仕打ちはあんまりだと思った。
 マイケルはすっかり冷えきったオートミールをかきこんだ。がちゃがちゃとおおざっぱにお皿を洗ってから部屋に戻り、タンスの奥から一番大きなリュックサックを引っぱりだす。マイケルの心は決まっていた。こうなったら、直接文句を言ってやらないと気がすまない。サンタさんに会いに行くのだ!

***

 静かで寂しいクリスマスの朝、ミシェルはちょっぴり愉快で、ふしぎと楽しい気分だった。いつもと同じベーコンエッグとバタ付きパンとオレンジジュースの朝ごはんもやけにおいしく感じられて、ぺろりと平らげてしまったので、お手伝いさんは目を大きくしておどろいた。
「まあぼっちゃん、全部お食べになったんですか! いったい今日はどうしたんです?」
「なんでもない。お父さんたちは?」
「本日も『先に寝ていてほしい』とうかがっております。お医者さまとはいえ人の親。クリスマスくらい、ぼっちゃんとご一緒に過ごされてはと申し上げたのですがねえ」
「いつものことさ。仕方ないよ」
 そう言いながら、上の空でそわそわと何度も眼鏡をかけ直すミシェルに、お手伝いさんは首をかしげた。が、また何か、本で読んだ数学の問題について考えているのだろう、まれに見る食欲はきっと成長期だろうとひとりで納得して、自分の仕事に戻ることにした。
 お手伝いさんが庭を掃きに外へ出たのを見てから、ミシェルは自分の部屋へ足早に戻った。きちんと整とんされた勉強机の上には、ミシェルの手のひらを少しはみ出すくらいの大きさのボールが置いてある。
 この町の子どもの例にもれず、ミシェルはサンタさんにプレゼントをお願いしていた。「天球儀がほしいです」と手紙に書いた彼が実際にもらったものはしかし、何やら植物のつるで編まれた奇妙なボールだった。
 このボールがいったい何に使うものなのか、ミシェルにはまるで見当がつかなかったけれど、ミシェルが苦手な『健やかな心と体をはぐくむスポーツ』に関するものだろうということは、すぐにぴんときた。
 ミシェルは思った。「へえ。サンタさんってば、まちがえたな!」と。ミシェルは最初びっくりして、それからだんだんと愉快な気分になった。
 もちろん、良い子にしていないと別のものが届くという話は知っていたけれど、まさか自分ほど親の言うことをよく聞き、勉強が大好きな子どもが『良い子』でないなんて、天地がひっくり返ったってありえないと思ったのだ。
 ミシェルはお父さんからもらったお古のカバンの中に、懐中電灯や地図、コンパスなんかを次々と入れ、ボールを布で包んでから荷物のすき間にぎゅっと押し込んだ。ミシェルの心は決まっていた。直接持っていけば、きっと正しいプレゼントと交換してもらえるだろう。サンタさんに会いに行くのだ!

***

 勢いのままに家を飛び出したマイケルだったけれど、彼の足は玄関先でぴたりと止まってしまった。サンタさんに会うにはどこへ向かえばいいのか、わからなかったのだ。
「ううん、これは困ったぞ」
 しかし、こんなところであきらめるマイケルではなかった。きょろきょろと庭を見回して、犬小屋に目をとめる。その昔、警察犬だったおじいさんシェパードのジョンは、犬小屋の中で毛布にうずまって、のんびりと寝息を立てている。マイケルの頭にあるアイデアがひらめいた。
「ジョン、ジョン! おいで!」
 マイケルが呼ぶと、ジョンは耳をぴんと立てた。それからゆっくりと起き上がり、ぶるぶるっと体を振ってから、静かな足どりでマイケルの方に歩いてきた。行儀よくお座りをしたジョンに、マイケルはリュックサックから例のプレゼントをよいしょと取り出してみせた。
「このにおいの主、サンタさんのところまで行きたいんだ。ジョン、手伝ってくれないか?」
 ジョンは澄んだ瞳でマイケルを見返し、プレゼントに鼻先を近づけてふんふんと嗅いだ。そしてしばらく嗅いだあと、ジョンはマイケルに背を向けて歩きだし、ついて来いというようにしっぽをゆるりと振った。
「ようし、ありがとうジョン!」
 マイケルはリュックサックを背負い直した。そして、うす曇りの空をきっとにらんでから、鼻息も荒くジョンのあとをついて行った。

***

「よし、完璧だ!」
 鏡の前で自分の姿を上から下までじっくりながめて、ミシェルは満足そうにうなずいた。ファーのついた上着、毛糸のマフラー、もこもこの耳あてに手袋。天気予報ではこのあと夜にかけてずいぶんと冷えるらしいから、寒さへの備えはばっちりだ。道中になにがあるかわからないから、カバンの中には水や食べもの、ばんそうこうや傷薬も入っている。
 お手伝いさんは、いまはキッチンでミシェルのお昼ごはんを作っている。それが終われば、今日はもう自分の家へと帰るはずだ。
 そっと部屋を出たミシェルは、ノートの切れはしに『集中しています。お昼ごはんはあとで食べます』と書きつけたものを扉に貼った。こうしておけば、お手伝いさんがミシェルの不在に気づくことはないのを、ミシェルはよく心得ていた。素直に「ひとりで出かけてくる」と言っても、お手伝いさんは絶対に首を縦に振ってくれない。お手伝いさんは、ミシェルのことをいつまでも「体の弱いちっちゃなぼっちゃん」だと思っている節があった。
 ミシェルは足音を忍ばせて階段を降り、裏門をくぐった。あたりにはちょうどひと気がなく、家を出るところは誰にも見られていない。幸先の良さに、ミシェルはほくそ笑んだ。
 サンタさんがどこにいるのか、ミシェルは知らなかったけれど、おおかたの見当はついていた。北の森だ。人があまり立ち入らないその森は、ひみつを隠すにはうってつけの場所だし、なにより、プレゼントのそばに落ちていた小さな葉っぱは、このあたりでは北の森の奥深い場所にしか生えていない木のものだと本に書いてあった。サンタさんがいる場所はそこ以外に考えられない。
 ミシェルはカバンの持ち手をぎゅっと握り直した。そして、未知なる冒険への期待に胸をはずませながら、意気揚々と足を踏み出した。

***

「ううん、こりゃまた困ったぞ」
 マイケルは足止めを食らっていた。ジョンが導くままに、北へ北へと進んだのまでは良かったのだが、途中で思わぬ出来事に見舞われたのだ。
 新しい家をいくつも建てている道を通りかかったときだ。そこら中にペンキや建材のにおいがぷんぷんしていたせいか、ジョンがつらそうにぷしゅんぷしゅんとくしゃみをはじめてしまい、マイケルはジョンを連れてあわててそこを離れるしかなかった。
 ひとまずは風上の、近くの森の入り口まで逃げてきたマイケルとジョンだったが、かわいそうな老犬ジョンは、きついにおいでその繊細な鼻をすっかりやられてしまったようで、マイケルはふたたびどこへ向かえばいいかわからなくなってしまったのだった。
 すまなそうな目でしっぽを下げているジョンの体を、マイケルは安心させるようにぽんぽんと叩いてやった。
「大丈夫だぜジョン、ここからはおれに任せろ!」
 そう言ったものの、近くに都合よく『サンタさんの家はこの先』と書かれた道案内板が立っているはずもなく、マイケルは困ってしまった。体力自慢のマイケルでも、この寒い中で町じゅうをあてずっぽうに歩きまわるのは、とても骨の折れる仕事になりそうだ。
 マイケルはリュックサックを下ろして、自分も地面に座った。どこに行くにしても、まだときどきくしゃみをしているジョンの気分がもう少しましになってから出発しようと思ったのだ。
 せっかくのクリスマスなのに、どうしてこんなにうまく行かないのだろう。マイケルのいらだちは、ますます募るばかりだった。

***

 北の森はミシェルの家からそう遠くない場所にあったので、ミシェルは地図を見ながら、特に苦労もせず一番近い道を通って森の入り口までやってきた。しかし、ミシェルの順調な旅は長くは続かなかった。そこには先客がいたからだ。
「い、犬……!」
 入り口を陣取るように座っていたのは、子どもがひとりと――黒と茶の毛をもつ、一匹の大きな犬だった。ミシェルは幼いころ、野犬におそわれそうになったことがあって、それ以来、種類や大きさを問わずとにかく犬というものすべてを大の苦手としていた。
 いち早くミシェルに気づいたらしい犬は、立ち上がって小さく「ワン」と鳴いた。ミシェルは立ちすくんでしまった。犬が飛びかってくるのではないか、そのするどい牙で自分の腕を噛みちぎるのではないか、という考えで頭がいっぱいになって、遠くへ逃げたいのに戻ることも進むこともできず、自分の胸がばくばくとうるさい音を立てているのを聞いていることしかできない。
 すると、子どもの方もミシェルに気づいたらしい。いぶかしげに目を細めて、頬づえをつきながらいらいらとした口調で訊いてきた。
「おまえ誰だよ? このへんのやつ? こんなところで何やってんだ?」
 ミシェルは犬が怖くて仕方なかったが、それでもその子どもにむっとした気持ちになった。「おまえ」なんてぶしつけな呼び方も、八つ当たりっぽいとげとげしい言い方も、品がないと思った。体が大きく、見るからに『スポーツ少年』の風体で、昔ミシェルに意地悪をしていた子どもと髪型が似ているのも、しゃくにさわった。ここに来るまでが楽しい気分だっただけに、それまでの楽しさがそのまま裏返ってしまったように、ミシェルは一気に不愉快になった。
「ふん! きみみたいなやつに教える義理はないね! その臭いけだものを早く退けてくれ!」
 言ってしまってから、自分の口から思っていたより大きな声が出たことにミシェルはびっくりしたが、あとには退けなかった。
 その子どもは唇を引き結んで、荒っぽいしぐさで腰を上げた。立つと、ミシェルが見上げるほど背が高い。子どもはミシェルを見下ろしながら、負けず劣らずの大きな声で言った。
「はん! 犬が怖いのかよ、臆病なやつ!」
 言い返されて、ミシェルはかっとなった。
「ぼくはいそがしいんだ、ばかの相手をしている暇はないね!」
 そう言い捨てると、ミシェルは怖い気持ちを押し隠して、わざとらしく鼻をつまみながら犬を大きくよけ、足を踏み鳴らして森の中に入っていった。自分が必要以上にいやな態度を取っていることには気づいていたが、謝る気はさらさらなかった。

***

 眼鏡の子どもの背中が見えなくなったあと、マイケルの怒りはだんだんと後悔に変わっていった。
 自分やジョンをばかにされる筋合いはもちろんまったくないけど、最初にいらいらとした気分をぶつけてしまったのは自分のほうだ。こんなのちっとも良い子じゃない、サンタさんは正しかったのかもしれないと思った。マイケルはひどく落ち込んだ気持ちでその場に座り込み、しょんぼりとうつむいた。
 すると、マイケルの頬にあたたかく湿ったものが触れた。マイケルが顔を上げると、ジョンはもう一度マイケルの頬をなめた。賢そうな光をたたえた瞳が、問いかけるようにマイケルを見つめている。
 マイケルはジョンを見つめ返した。楽しいときも悲しいときも、マイケルが幼いときからずっと兄のように見守ってくれているその瞳を見ていると、少しずつ、ゆっくりと心が落ち着いてゆく。しばらくそうやって見つめ合ったあと、マイケルは感謝をこめてジョンの頭を撫でた。
「そうだよなジョン。おれ、謝らなくちゃ。許してもらえないかもしれないけど、それでも、ちゃんと謝るべきなんだ」
「ワン」
 マイケルは立ち上がった。森は広い。眼鏡の子どもがまだ近くにいるうちに追いつけるよう、マイケルはジョンを先頭にいそぎ足で森に入っていった。

***

 森の中を進みながら、ミシェルはだんだんと冷静になっていった。いやなことをされたからといって、いやなことをし返していいわけじゃないことは、両親によく言い聞かされてきたはずなのに、つい頭に血がのぼってしまった。ミシェルが意地悪な言い方をしてしまったとき、あの子どもが一瞬だけ浮かべた、ひどく傷ついたような表情が、目の奥にこびりついて離れなかった。
 でも、こういうときどうすればいいのか、ミシェルにはわからなかった。ミシェルはひとりで勉強することが好きで、きょうだいがおらず、一緒に遊ぶ友達もいなかったから、仲直りの仕方がわからなかったのだ。ミシェルはもやもやとしたまま、ただ歩き続けるしかなかった。
 しばらく歩いていると、ふいに木々が薄れて、視界が開けた。湖だ。
「うわあ……!」
 ミシェルは思わず目を見開いた。地図を見ながら歩いていたので、湖があることは知っていたけれど、こんなにも広く大きくて、自分の存在がちっぽけに思えることも、湿った風が頬を打つ冷たさも、凍った湖が空を映してほのかに青っぽいことも、どれも地図には書かれていなかったからだ。
 ミシェルは凍りついている水面に近付き、おそるおそる片足をのせてみた。足元がぐらつく様子がないとわかったミシェルは、思いきって両足をのせた。湖の真ん中を突っきることができれば、かなりの近道になる。
 湖の上を歩きはじめたミシェルは、地図に書かれていないことがもうひとつあるのを知らなかった。湖が凍っているのはその表面だけで、氷は中央に向かうほど薄く、割れやすくなっていることを――。

***

 眼鏡の子どもを探して、マイケルは湖がある場所までやってきた。景色の美しさに見とれたのも束の間、眼鏡の子どもが湖の上を歩いているのが目に入り、さあっと血の気が引いていく。
 マイケルはボーイスカウトの経験があって、凍った湖に魚釣りをしに行ったこともあった。そのとき、一見しっかりと凍っているように見えても、湖の凍り方にはむらがあるので、大人がじゅうぶんに安全をたしかめた範囲の外に出てはいけないと、口をすっぱくして言われたことを、マイケルはよく覚えていたのだ。
「おおい! あぶないぞ!」
 マイケルは大声で呼びかけた。しかし、眼鏡の子どもは歩みを止める様子がない。マイケルは手のひらにいやな汗をかきながら、両手を口にあててさらに大きな声で言った。
「はやくこっちに戻ってこい!! 落ちるぞ!! なあってば!!」
 声をからして必死に呼びかけても、眼鏡の子どもはちらとマイケルを振り返っただけで、そのまますたすたと歩き続けてしまう。
 マイケルは大いそぎで湖に近付いた。眼鏡の子どもが歩いたところは、湖の上にうっすらと残っている足あとを見ればわかる。足あとが残っているということは、そこの氷は少なくとも、乗っても割れない厚さだということだ。これをたどれば、あるていど安全に彼のいる場所まで向かうことができるだろう。
 でも、マイケルは大柄で、眼鏡の子どもより明らかに体重がある。本当にだいじょうぶなのかは、運に頼るしかなかった。もし落ちたら、冷たい湖でおぼれ死んでしまうかもしれない。マイケルはためらった。そのときだった。
「あっ……!」
 湖のちょうど真ん中あたりを歩いていた眼鏡の子どもが、足をすべらせた。着ぶくれした格好のおかげで、怪我こそしていないようだったが、問題は足元の氷のほうだった。
 衝撃でひびが入った氷は、きしむような音を立てて割れはじめていた。眼鏡の子どもは尻もちをついたまま、急なことにびっくりして動けないようだった。
 マイケルはつばを飲み込んでから、覚悟を決めてリュックサックを下ろした。心配そうに見上げてくるジョンに言う。
「ジョンはここで待っててくれ。あいつ、犬が怖いみたいだから」
 今ここで見捨てれば、おぼれ死んでしまうのは眼鏡の子どものほうだ。マイケルはもはや、ついさっきのいざこざもすっかり忘れていた。彼を助けたい。それだけだった。

***

「ど、どうしよう……!」
 ミシェルは冷たい汗をかいていた。腰を抜かしている間にも、氷に入ったひびはさらに大きく広がっていく。逃げようとすると、ミシミシ、ギシギシと氷が割れる不吉な音が響くせいで、ちょっとの身動きもできない。
 さっき、犬を連れた子どもが何ごとか大声で叫んでいたのは、てっきり怒っているからだと思っていたのだけど、本当は危険を知らせようとしてくれていたのだろう。今さらそのことに気づいても、もう遅かった。
 氷のひびから水がしみ出し、ミシェルの手袋をじわじわと濡らす。ミシェルは泳げない。湖に落ちたら最後、あっというまに沈んでしまうだろう。暗く冷たい水の底でおぼれ死んでいく自分を想像して、ミシェルはほとんど泣きそうになっていた。そのときだった。
「おおい! こっちだ!」
 ミシェルは声の方を振り返った。いつの間に走ってきたのか、ミシェルのいる場所から少し離れた氷の上で、あの子どもが息を切らせて立っている。子どもは太いひものようなものを投げてよこしてきた。ミシェルは考えるより先に、無我夢中でそれをつかんだ。
「よし、ぜったい離すなよ! せえの!」
 かけ声とともに、子どもがひもを力強く引っ張る。ミシェルの体は氷の上をざりざりとすべり、子どものほうへ勢いよく引き寄せられた。と同時に、さっきまでミシェルがいた場所の氷がとうとう崩れる。助けてもらうのがあと少し遅かったらと思うと、背筋がぞっとした。
「ここもあぶない。いそいで戻ろう」
 子どもに促され、立ち上がろうとしたミシェルだったが、ひざが震えて足にうまく力が入らない。すると、子どもがさっき使った太いひもをミシェルの腹まわりに結びつけた。
「岸までひっぱる。つかまってろよ」
「う、うん」
 そうして、ミシェルたちはどうにか岸へとたどり着いた。服が汚れるのもかまわず、二人してひさびさの陸に倒れ込むように寝転がる。
「はっくしゅん! うう、寒い寒い!」
 ミシェルを助けた子どもはくしゃみをして、ぶるっと体をふるわせた。さっきから、どうしてか彼はシャツ一枚と下着だけの姿だった。こんな寒い日にどうして服を脱いだのだろうとふしぎに思ったミシェルだったが、自分がつかんでいるものが、服を結びあわせて作った即席のひもだということに気づき、納得する。
 ミシェルは服どうしの結び目をほどいて、自分がつかんだせいでできたズボンのしわを、まごまごしながら手で伸ばした。
「あの……えっと……」
 さっきの口げんかを忘れたわけではなかったが、いまは必死になって助けてくれたことへの感謝が勝っていた。でも、どうにも気まずくて、ミシェルは何と言えばいいのかわからなかった。
 寒そうな恰好のまま、子どもは何か言いたげにミシェルをじっと見て、口を開けたり閉めたり、頭をかいたりしていたが、やがて体ごとミシェルにまっすぐ向きなおって、大きな声で言った。
「ごめん!!」
「!」
「おれ、すごくいやなやつだった。八つ当たりして、ほんとにごめんな」
 それが心からの言葉だということは、ミシェルがうたがうべくもなかった。気づいたら、ミシェルは自然と口を開いていた。
「ひどいことを言ったのは、ぼくのほうだ。ぼくこそ、ごめん。助けてくれてありがとう」
 ミシェルの言葉もまた、心からのものであることが伝わったのだろう。子どもはほっとしたように笑った。
「おまえ……きみ……ええと――」
「ミシェル」
「――ミシェル! ミシェルは良いやつだな!」
「マイケルもね。ぼくといい勝負だよ」
 ミシェルはマイケルにつられるように笑顔をうかべ、しわを伸ばしたズボンを彼に返しながら言った。が、マイケルはきょとんとした顔をしている。
「おれ、名前言ったっけ?」
「そこに書いてあるじゃないか」
 ミシェルはマイケルの下着を指差した。隅のところに、オレンジ色の糸で『Michael』の縫いとりがある。マイケルはちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめて、ズボンを受け取った。
「おれんち、きょうだい多いからさ。まちがえないようにって母さんが縫ったんだ」
 マイケルが服を着終わったとき、ミシェルが「あっ!」と声をあげた。
「どうしたんだ?」
 マイケルがたずねると、ミシェルは悲しそうな顔で湖を指した。
「ぼくのカバンが……」
 ミシェルのカバンは、氷が割れたことでできた穴にぷかぷか浮いていた。とにかく助かることだけを考えていたから、カバンを置き去りにしてきたことをすっかり忘れていたのだ。取りに行きたいが、あんな怖い思いをするのは二度とごめんだ。
 がっくりと肩を落としたミシェルに、マイケルが問いかけた。
「大切なものなのか?」
「うん……あのカバンは、誕生日にお父さんから譲ってもらったものなんだ」
 そのとき、二人のうしろから小さな足音が聞こえてきた。振り返ったミシェルは、体を固くした。マイケルが連れていた犬が、こちらに近付いてきていたのだ。
「ジョン!」
 マイケルがうれしそうに駆けよって、その犬――ジョンの体を撫でる。お返しのようにマイケルに鼻先をちょんと押し付けたジョンは、そのまま岸辺に近付いて、ミシェルのカバンがある方角をじっと見つめた。マイケルははっとしてジョンを見た。
「もしかして……取ってきてくれるのか?」
 ジョンは小さくしっぽをふってマイケルにこたえた。ミシェルはびっくりした。
「カバンは水の上だよ! どうやって取るのさ」
「ジョンは泳ぎが得意なんだ。川や海でも訓練をしたことがあるって、じいちゃんが言ってた」
「でも……湖の水はきんきんに冷えてるよ。泳ぐなんて、いくらなんでも無茶だよ」
 ミシェルは不安そうにつぶやいた。犬は苦手だけど、死んでほしいとまでは思わない。マイケルが大切にしている犬なら、なおさらだ。
「だいじょうぶだ。ジョンは『できる』って言ってる」
「言葉がわかるの?」
「わからないけど、どんな気持ちかはわかるよ。ジョンは、ミシェルの助けになりたいみたいだ」
「ワン!」
 ジョンが鳴く。ふしぎなことに、ミシェルにもジョンが「任せろ」と言っているように聞こえた。犬の鳴き声を聞いて怖い気持ちにならないのは、ミシェルにとってはじめてのことだった。ミシェルはつばを飲み込んで、祈るように手を握りあわせた。
「わかった。……ジョン、お願い!」
 ジョンは大きくしっぽを振った。立ち上がって、マイケルを振りあおぐ。マイケルはジョンにうなずいてみせた。
「よし、行ってこいジョン!」
 ジョンは駆けだした。力強くしなやかな四肢で、氷の薄い部分を的確に避けつつ、放たれた矢のように走っていく。そうしてあっという間に湖の中央までやってきたジョンは、ためらいなく水の中に飛び込んだ。
 ミシェルとマイケルが息をつめて見守る中、ジョンは犬かきで泳ぎ進め、カバンまでたどり着いた。そして、氷の上にカバンを引き上げ、体を振って水を飛ばしてから、持ち手をくわえて岸まで運んできてくれた。
「よくやったなジョン! すごいぞ!」
 マイケルがジョンを撫でる。ジョンは寒そうに小さくふるえていて、舌が紫っぽくなっていたが、ほこらしげにしっぽを振っていた。
 ミシェルはさっそくカバンを開けた。幸いなことに、カバンの中までは濡れていない。ほっと息をついたミシェルは、荷物を探って大きなタオルを取り出した。
「これ、使って」
「ありがとう!」
 マイケルはミシェルのタオルでジョンをふいてやった。辛抱づよくジョンの体をこすっていると、やがてふるえが収まり、舌も少しずつ元の健康そうな色に戻っていった。ミシェルは胸を撫でおろした。
「まだ完全には乾ききってないだろうし、どこかで火をおこそう」
「そうしよう。おれもあったまりたい!」
 湖の反対の岸に小屋があったので、二人と一匹はそこで休むことにした。小屋はカギがかかっていなかったが、手入れはされているらしかった。赤いレンガでできた暖炉と、ふかふかのじゅうたん、座りごこちの良さそうなソファには、ほとんどほこりが積もっていない。
 ミシェルとマイケルは小枝を拾ってきて、ミシェルが持っていたマッチを使って暖炉に火をおこした。濡れた手袋やタオルを乾かしながら、あかあかと燃える火にあたっていると、寒空の下で冷えきった体がゆっくりとほぐれていく。
 ミシェルは暖炉に手をかざしていたが、ふと気づいた。一番寒い思いをしたはずの、ジョンの姿がない。首を回してきょろきょろ探すと、ジョンは暖炉から離れた、部屋の隅の方で丸くなっていた。ミシェルは首をかしげた。
「どうしてあんなところにいるんだろう。もっと近くで温まればいいのに」
 ミシェルの隣で暖炉にあたっていたマイケルが、ジョンのほうを見やった。
「ミシェルは犬が苦手だろ。ジョンのやつ、それをわかって遠慮してるんだよ」
 思いもよらない言葉に、ミシェルは胸を突かれたような気持ちになった。
 犬なんて、言葉の通じない野蛮な生きものだと思っていたし、犬を飼っている人は全員頭がどうかしていると思っていた。でも、それは違った。
 ジョンは、ひどい態度を取ったミシェルのことを助けてくれた。今だって、この場の誰よりも温まりたいはずなのに、ミシェルのことを気づかってくれている。ミシェルはジョンのことを、自分よりよっぽど賢く、優しい生きものだと思った。
 マイケルもそうだ。最初はいやなやつだと思ったけれど、身をていしてミシェルを助けてくれた。素直に自分のあやまちを認め、心からおわびしてくれた。それはなんて難しく、勇気のいることだろう。ミシェルはマイケルをばか呼ばわりしたことが、今ではとても恥ずかしかった。
 ミシェルはぎゅっとこぶしを握って、立ち上がった。呼吸をととのえ、一歩ずつ、慎重に、ジョンに近付いていく。マイケルはその様子を黙って見ていた。
 手を伸ばせば触れられる距離まで来たとき、ジョンがゆっくりと顔を上げた。ミシェルはひるんだ。こんなに近くで犬を見るのは久しぶりで、心にこびりついてしまっている犬への恐怖が、急にむくむくと膨らんできたのだ。
 でも、ミシェルは逃げなかった。しゃがみこんで、静かにこちらを見ているジョンと目を合わせて、ふるえそうになる口を開く。
「さっきはごめんね。それから……ありがとう。きみのおかげで、大切なカバンを失わずにすんだよ」
 ジョンはミシェルの言葉にじっと耳をかたむけている。ミシェルは片手をそっと伸ばし、本当に少しずつ、その手をジョンに近付けていった。
 ミシェルにとっては永遠とも思える時間のあと、ミシェルの手はとうとうジョンの体にふれた。ジョンの毛はまだ湿っていて冷たく、触り心地が良いとは言えなかったけれど、それでも、ミシェルはとてもあたたかい気持ちになった。ミシェルはジョンにほほ笑んだ。
「おいで、ジョン。いっしょに温まろう」
 ジョンはうれしそうにミシェルの手をひとなめすると、しっぽを振って暖炉の前にやってきた。マイケルが笑顔でジョンを迎える。
「よかったな、ジョン!」
「ワン!」
 そうして、ミシェルとマイケルはジョンを挟んで暖炉の前に並んで座った。やがて体がじゅうぶんに温まってくると、一気に眠気がおそってきて、二人と一匹はもたれ合いながら眠りに落ちていったのだった。

***

 マイケルはまぶしさに目を覚ました。ぼんやりとしながら体を起こし、小屋の中を見回す。
 窓からはオレンジ色の夕陽が差し込んでいて、マイケルのまぶたを照りつけていたのはこれだったらしいとわかる。ミシェルはまだ寝ていたが、ジョンはちょうど起きたところのようで、前足を伸ばしながらあくびをしている。暖炉の火は小さく燃え残っていて、小屋の中はまだほんのりと暖かい。
 ひとしきりぐるりと見たところで、マイケルははっとしてミシェルを揺さぶった。
「ミシェル、ミシェル!」
「ううん……もうちょっと寝させてよ……」
「しゃっきりしろって! いま何時!?」
「時間……? ええっと……」
 ミシェルは、鼻のところにずり落ちていた眼鏡をかけなおしながら起き上がった。目をしぱしぱさせて、自分の腕時計に顔を近づける。
「五時だね」
「もう夕方じゃないか! まだサンタさんの家にも着いてないのに!」
 マイケルはすっかり目が覚めた。ここからサンタさんの家までどれくらいあるかもわからないのに、今から出発して夕ごはんの時間までに家へ帰ることができるだろうか。
 マイケルが不安そうにしていると、ミシェルがびっくりしたように目を大きくした。
「サンタさん? きみもサンタさんに会いに行くつもりだったの?」
「きみもってことは……ミシェルも?」
「うん。サンタさんがプレゼントをまちがえたから、正しいプレゼントと交換してもらおうと思ってね。マイケルはどうして?」
「ミシェルとおんなじようなものだよ。でも、おれの場合は……たぶん、おれが良い子じゃなかったから……」
 言いながら、ミシェルとはじめて会ったときの自分のふるまいを思い出して、マイケルの言葉は尻すぼみになった。サンタさんに文句を言ってやろうと思ってここまで来たけれど、日も暮れてきたし、もうあきらめて引き返すべきなのかもしれない。
 すると、ミシェルが小さく鼻を鳴らした。
「それはちがうと思うな」
「え?」
「サンタさんは、まちがえたんだ。ぼくのプレゼントをまちがえたのと同じようにね。もしそうじゃなくて、サンタさんがきみを良い子じゃないって思ってるとしたら、それはサンタさんのものの見方がまちがってるってことだ」
 ミシェルがいかにも当然だろうといった風に言うので、マイケルはぽかんとしてしまった。大人が、それもサンタさんがまちがっているかもしれないなんて、考えもしなかったのだ。気持ちの良さすらあるミシェルの言い切り方に、おかしさとほっとした気持ちが同時にこみ上げてきて、マイケルは自然と笑みをこぼした。
「……そうだな。きっとそうだ! ありがとうミシェル!」
 ミシェルは照れたように眼鏡を押し上げた。
「あたりまえのことを言っただけさ。地図によると、サンタさんがいそうな場所はここからそう遠くない。腹ごしらえをしたら、すぐに出発しよう。弱気な考えは、ぜんぶお腹が空いてるからだって決まってるんだ」
 マイケルとミシェルは、暖炉の残り火と、ミシェルのカバンに入っていたビスケット、マシュマロ、チョコレートを使って、あつあつのスモアをこしらえ、ジョンには焼きりんごを作ってやった。
 温かく甘いおやつでお腹が満たされると、力がみなぎってくる。マイケルは注意深く火の始末をしてから、先頭きって元気よく扉を開けた。
「よし、いそごう!」
 そうして小屋を出発して、湖を離れ、森のさらに奥へと歩きはじめて間もなく、すっかり夜になった。
 森の夜は、町の夜とはまったく違う。あたりをすっぽりと包んでいる濃い闇には、なにかおそろしいものが身をひそめているような気がするし、木々が枝を揺らすざわざわという音や、野生の動物たちの鳴き声は、やけに不気味にひびいて聞こえる。
 マイケルは暗いのが苦手で、今まで何度もボーイスカウトでキャンプをしたけれど、けして慣れることはなかった。が、いまはミシェルが渡してくれた懐中電灯のおかげで完全な暗闇ではなかったし、なにより、ミシェルが平然としていたから、自分だけおびえるのは恥ずかしいと思った。
 つま先からじわじわとのぼってくる恐怖に見ないふりをしながら、マイケルは懐中電灯を握りしめて、一歩ずつ進んでいった。
「ねえマイケル」
「うわあ!」
 急にミシェルがマイケルの肩を叩いたので、マイケルはびっくりしてその場でぴょんと飛び上がった。
「お、おどかすなって!」
「ふつうに話しかけただけだよ。それよりさ、明かりを消してくれない?」
「なんだって? そんなことをしたら、真っ暗になっちゃうじゃないか!」
「そりゃあね。だって、真っ暗じゃないと見えないんだもの」
 マイケルはわけがわからなかった。真っ暗だと何も見えないはずなのに、ミシェルはいったい何を見ようとしているのだろう。でも、ミシェルはいたって真剣で、冗談を言っている風には聞こえなかった。
 すると、ジョンがそばに寄ってきた。マイケルの足に体をぴたりと添わせて、はげますように小さく鳴く。それでもまだマイケルが戸惑っていると、ミシェルが近付いてきて、マイケルが懐中電灯を握りしめている手に、その手を重ねてきた。ミシェルもはげましてくれているのだ――と思った、そのときだった。
「さん」
「えっ?」
 暗がりの中、ミシェルが笑ったのがわかった。マイケルはいやな予感がした。
「にい」
「ま、まさか……」
 ミシェルの手は、マイケルの手の甲を通りすぎ、懐中電灯のスイッチを探りあてたようだった。ミシェルのカウントダウンは止まらない。
「いち」
「え、うわ、ちょっ、ちょっと待てって!」
「ゼロ」
「うわあっ!」
 マイケルの静止もむなしく、カチッという音とともに明かりが消える。マイケルはおどろいて懐中電灯を取り落としてしまった。
 暗い。何も見えない。自分が今どこにいるのかも、上も下も、右も左もわからなくなる。マイケルはおそろしい暗闇から逃げるように、無我夢中でその場にしゃがみ込み、目をぎゅっとつぶった。
 そうして、どれくらい時間がたっただろう。ミシェルが言った。
「うん。そろそろ目が慣れてきた頃合いかな」
「慣れるって……あ、あれ?」
 うす目を開けたマイケルは、さっきまで塗りつぶされたように真っ暗だった視界が、ぼんやりとだけれど物の輪郭を映していることに気づいた。おそるおそる目を開けると、自分の手のひらの形が見えて、少しだけほっとする。
「マイケル、上を見てみなよ」
 ミシェルの声に促されて、マイケルはゆっくりと顔を上に向けた。
「わあ……!」
 見上げた先に広がっていたのは、無数の星々だった。森の夜空は、街灯の明かりに邪魔されることがなく、町の中では見ることができない細かな星までよく見える。それはまるで、ビロードの布にきらきら光るビーズを敷き詰めたようだった。懐中電灯を点けていたときは、行く先の地面しか見ていなかったから、マイケルはその輝きに気づいていなかったのだ。
 マイケルは、さっきまで自分が怖がっていたことも忘れて、ため息をもらしながら美しい夜空に見入った。
「東の空に、赤っぽい星があるだろ。あれはオリオン座のベテルギウス。そのすぐ近くの三つ並んだ星を線で結んで、まっすぐ伸ばした先にある明るい星が、おおいぬ座のシリウス。ベテルギウスとシリウスを底辺にして、三角形を作れる位置にある白い星が、こいぬ座のプロキオン。ベテルギウス、シリウス、プロキオンを結んでできるのが、冬の大三角だよ」
 ミシェルが何やら小難しい話をしてくれたが、マイケルの耳にはほとんど入っていなかった。マイケルは、はじめて見る満天の星空に夢中だった。
「おれ、こんなにきれいなもの見たことない!」
「……ふふん! そうだろ! すごいだろ!」
 ミシェルは嬉しそうに声をはずませて笑った。その様子があまりに得意げなものだから、なんだかおかしくてマイケルも笑った。暗闇の中で明かりも点けていないのに、楽しくて笑っている自分がさらにおかしくて、もっと笑った。
 マイケルはすっかり、ミシェルのことを好ましく感じていた。最初はいやみなやつだと思ったし、打ち解けた今でも、ずいぶんと素直じゃない物言いをするなあと思う。けれど彼の根っこのほうには、不器用ながらも相手を思いやる心があることを、マイケルはもう知っていた。
 そうして少しのあいだ夜空を見上げたあと、マイケルたちはふたたび歩きはじめた。夜空の美しさに気づくと、あれだけおそろしかった夜の闇が、どこかやわらかく、優しく感じられるからふしぎだった。そして、それはきっと、自分のとなりにジョンとミシェルがいてくれるからなのだろうとマイケルは思った。

***

「あれっ?」
「わっ」
 先頭を歩いていたマイケルがふいに立ち止まったので、ミシェルはマイケルの背中に顔をぶつけそうになってしまった。ミシェルは口をとがらせて言う。
「ちょっと、急に止まらないでよ。目的地はもうちょっと先だよ」
「ごめんごめん。でも、行き止まりみたいなんだ。ほら」
 マイケルが懐中電灯で照らすほうを見ると、崖がそびえ立っているのがわかった。壁のように高く切りたった崖は、子どものミシェルたちではとても登れそうにない。崖壁は見渡す限り左右に続いているようで、回り道をすればずいぶんと時間を食ってしまうだろう。
「地図ではこの先に行けるはずなんだけど……あっ!」
 ミシェルは崖壁に駆け寄った。行き止まりと思えたそこには、ちょうど子どもが通れるくらいの狭いほら穴があった。手をかざすと、奥から風が吹いてくるのがわかった。このほら穴はきっとトンネルになっていて、向こう側につながっているのだ。ミシェルはぱっと顔を輝かせた。
「やった! ここからなら行けるよ。よし行こ、う……」
 さっそくほら穴の中へと足を踏み出したミシェルだったが、すぐにぴたりと立ち止まってしまう。
 ミシェルは天体観測が好きだから、夜闇をおそろしいとは思わない。が、星明かりも届かないほら穴の中は、それまでの夜闇が子どもだましに感じられるほど暗い、真の闇で満ちていた。ピチョン、ピチョンと水がしたたる音と、湿った冷たい風がおんおんとうなる音も相まって、大きな怪物の腹にのみ込まれてしまったような心地がした。
 こわい。一度恐怖を自覚すると、黒々とした闇がますます速度をもって目の前に迫ってくるように思えて、ミシェルの足はすくんで動けなくなってしまった。そのときはじめて、サンタさんに会いに行くのをあきらめてしまおうかという考えがミシェルの頭をよぎった。そのときだった。
「行こう」
 懐中電灯をほら穴の中に向けて、マイケルが言った。ミシェルはびっくりして、マイケルを見た。マイケルの顔は、暗がりの中でもわかるほど青ざめていた。当たり前だ。ミシェルより暗いのが苦手なマイケルが、怖くないわけがない。それでも、マイケルはもう一度言った。
「行こう、ミシェル。おれたちなら、きっとできるはずだ」
 マイケルはそう言って、片方の手でミシェルの手を握った。ミシェルの手より大きなその手は、小さくふるえていたけれど、声には迷いがなかった。ミシェルはうなずいて、マイケルの手を握り返した。
「……行こう。サンタさんはこの先だ!」

***

 カツン、コツン、カツカツ……。二人と一匹分の足音が、暗いほら穴にひびく。マイケルはしっかりと握りあっているミシェルの手と、ジョンの頼もしい足音にはげまされながら、一歩ずつ足を進めていった。
「……」
「……」
 口を開けば「もう帰ろう」と言ってしまいそうで、自然と口数が少なくなる。それはミシェルも同じようで、二人は懐中電灯の小さな明かりを頼りに、もくもくと歩き続けた。ほら穴は狭く、ぐねぐねとしていたが、幸いにも一本道だったので迷うことはなかった。
 そうして、長い長い、あるいはほんのわずかだったかもしれない時間が――ほら穴の闇は、時間というものを丸ごとのみ込んでしまったように深く、暗かった――過ぎた。
「ワン!」
 唐突にジョンがほえたので、マイケルとミシェルは心臓が飛び出そうになった。
「ど、どうしたんだよ、ジョン」
「マイケル! あそこ!」
 ミシェルが指差したほうには、懐中電灯のものとは別の、小さな光があった。マイケルはミシェルと顔を見合わせ、同時に口を開いた。
「出口だ!!」
 マイケルとミシェルは駆けだし、転がるようにほら穴を抜けた。あたりに積もった雪がほんのりと白っぽく明るくて、それだけで涙が出そうなくらいにほっとする思いだった。
 あたりが明るいのは、雪だけのせいではなかった。もみの木に囲まれたその場所には、明かりの灯った家がひとつ、ぽつんと建っていたのだ。ミシェルがあわててカバンを探り、なにか葉っぱのようなものを取り出して、落ちている葉っぱと見比べて言った。
「まちがいない、ここだ! サンタさんの家だよ!」
 ジョンも、すっかり鼻がもとの調子に戻ったのか、しきりにあたりを嗅いでは、家の方に行きたそうにそわそわと足踏みをしている。マイケルはこぶしを天につきあげた。
「やった、ついにやったんだ! やったなミシェル! やったなジョン!」
「喜ぶのはまだ早いよ。これまでのことをサンタさんに説明して、正しいプレゼントをもらわないとだろ。夜も遅いし、家まで送ってくれないか聞くのも忘れないようにしないと……」
「それはあとにしよう! とりあえず中に入れてもらおうぜ!」
 マイケルはそれまでの疲れも忘れたように走っていって、扉を叩きながら大声で言った。
「ごめんくださあい! サンタさんいますか!」
 ややあって、扉が開いた。
「いらっしゃい。マイケル、ミシェル、それにジョン。はるばるよく来ましたね」
 マイケルとミシェルは目を丸くした。扉を開けてくれたのは、サンタさんではなく――雪のように白い角と毛皮をもった、トナカイだったのだ。

***

 トナカイに案内されて家に入ると、広い玄関に、長い廊下といくつもの扉があって、家の中がその外見から考えられないほど広いことに気づく。きっとこれも、サンタさんの魔法のひとつなのだろう。
「ねえ、トナカイさん! なんでおれたちの名前知ってたの? なんでしゃべれるの? なんで白いの?」
 マイケルの問いかけに、トナカイは人間のように鼻をひくひくさせて笑った。
「それはね、僕がサンタさんのトナカイだからですよ」
「へええ、すげえや!」
「だまされちゃだめだよマイケル。今のはぜんぜん答えになってないよ! で、サンタさんはどこにいるのさ?」
 すっかり浮足立っているマイケルをたしなめたミシェルだったが、ミシェルもミシェルで、自分がいまサンタさんの家にいて、しゃべるトナカイと会話をしていると思うと、興奮をおさえることはできなかった。
 トナカイはにっこりとほほ笑んで(トナカイの顔ではわかりにくかったけれど、たしかに笑っているように見えたのだ)、ひとつの扉の前で立ち止まった。
「ほうら、着きました。こちらがサンタさんのお部屋です」
 トナカイが鼻先で示した、ひときわ大きいその扉には、華やかなクリスマスリースが飾りつけられていて、その輪のところにサンタさんの形をした小さな人形が腰かけていた。
 マイケルとミシェルは息をのんで、目配せした。扉の前に二人並んで、コンコンコン、とノックをする。
「どうぞ! 開いとるよ!」
 部屋に入った二人は、またまた目を丸くした。まず目に入ったのは壁一面の大きな棚で、天井までそびえたつその棚には、たくさんの手紙が保管されているようだった。部屋の中央にはりっぱな書き物机と椅子があって、その上にも手紙の束がいくつも山を作っていた。
 部屋の主――たっぷりとたくわえられた白いひげ、丸い鼻、優しげな目をしたおじいさんは、たしかに町の子どもみんなが思い描くサンタさんそのものだった。が、暖炉の前で半分服を脱ぎ、腰のところに湿布を貼ろうと悪戦苦闘しているらしい様子は、あまりサンタさんらしくなかった。
 ぽかんとするマイケルとミシェルの横から、トナカイが首を突き出した。
「なんて格好をしてるんですか。お客さまですよ!」
「わしだって好きで腰が痛いわけじゃないわい! あいててっ!」
「まったく。もうちょっとサンタさんとしての威厳ってものをですねえ……」
 トナカイは大きなため息をついて、サンタさんの腰に湿布を貼ってやった。マイケルが目をぱちくりさせながら言う。
「サンタさんも腰が痛くなるの?」
「町の子どもみんなにプレゼントを届けるのは、けっこうな大仕事ですから」
 トナカイがこたえながら、二人に椅子をすすめる。ミシェルはお礼を言って座り、サンタさんに問いかけた。
「魔法で治しちゃえないの?」
「わしの魔法は子どもたちのためにある。自分には使えないんじゃよ」
「そうなんだ。サンタさんも大変だね……」
「ほっほっほ。わしのことは気にせんでいい。それで、きみたちは何かわしに用があって来たんじゃろう?」
 マイケルとミシェルははっとした。そうだ、そもそもここまでやってきたのは、プレゼントのためだったのだ!
 マイケルは緊張したようにつばを飲んで、口を開いた。
「おれたちのプレゼントなんだけど、頼んだものと別のものが届いたんだ」
「だからぼくたちは、正しいプレゼントと交換してもらいにきたんだよ」
 ミシェルも口を挟む。サンタさんはおどろいたように言った。
「なんと! それはすまないことをしたのう。まちがった方のプレゼントは、いま持っているかい?」
「うん。これだよ」
「ぼくのはこれ」
 マイケルとミシェルはそれぞれ自分の荷物からプレゼントを出してみせて――お互いの手にあるものを見て、そろって「あれっ!」と声をあげた。
「それ、おれが頼んでたボール!」
「そっちは、ぼくの天球儀じゃないか!」
「ううむ? こりゃいったいどういうことじゃ?」
 首をかしげたサンタさんに、トナカイが言う。
「つまりは、マイケルとミシェルのプレゼントを逆にして贈ってしまったということですね」
「なんじゃと、どうしてそんなことになってしまったんじゃ!? むおう、ちょっと待っておれ!」
 サンタさんが片手を宙にかざし、なにか集めるように手を握りこむと、きらきらとした光の粒がサンタさんの手に集まってきた。
「それ! マイケルとミシェルの手紙はどこじゃ?」
 サンタさんが手をぱっと開く。それとともに、光の粒がいちめんに散らばった。少しして、かさかさという小さな物音がそこここから聞こえはじめる。
「な、何の音?」
 ミシェルが不安そうにあたりを見回す。マイケルはいち早く気づいて、棚を指差した。
「あれだ!」
 とたん、風が巻き起こった。部屋じゅうの手紙がいっせいに飛び出してきて宙を舞い、部屋の中央で渦を作る。サンタさんはその中に手を伸ばし、二枚の手紙をつかみ取った。
「ほっほー! これじゃの! どれどれ……」
 マイケルとミシェルは、サンタさんに駆け寄って手紙をのぞきこんだ。たしかに、自分たちがサンタさんにあてて書いた手紙でまちがいない。書いていることも、記憶の通りだ。
 すると、ミシェルが手を伸ばして、手紙の最後のほうを指差した。
「ねえ、ここを見て!」
「これって、差出人の――おれたちの名前だろ? 何もおかしなところはないじゃないか……あっ!」
 マイケルは自分の手紙に書いた名前と、ミシェルの手紙に書かれた名前を見比べた。
 『Michael』そして『Michel』――そこには、よく似たつづりの名前が、とめ、はらいのちょっとしたくせまでほとんど同じの、よく似た筆跡で書かれていたのだ。サンタさんは、これのせいでプレゼントを贈りまちがえてしまったのだろう。
 マイケルとミシェルは心底おどろいた。まるで正反対だと思った自分たちだったけれど、思いもよらずこんな風に似ていたなんて!
「いやはや、申しわけないことをしたのう。ふたりとも、ほんとうにすまない」
 サンタさんは魔法を解いてから、腰が痛いだろうにマイケルとミシェルの前にかがんできて、二人の手を握った。
 マイケルとミシェルは顔を見合わせて、考えていることが同じだと知り、はにかんで笑った。
「いいよ。おれたち、ぜんぜん怒ってないからさ」
「でも、ひとつだけ確認しておかないといけないことがあるんだ」
「おお、そうかそうか! なんでも聞いておくれ」
「ほら、マイケル」
 ミシェルがマイケルにうながすと、マイケルは少しだけ緊張した面持ちで、おずおずと口を開いた。
「おれたちは、その……サンタさんから見ても、『良い子』だった?」
 サンタさんはにっこりと笑って、マイケルとミシェルの頭の上に手をのせた。
「もちろんだとも。マイケルも、ミシェルも、とびきり優しくて勇敢な心をもった、すばらしく良い子じゃよ」
 サンタさんの言葉を聞いたマイケルは、その顔にじわじわと喜びをにじませ、ついには飛び上がって声をあげた。
「うわあ、やったあ!」
 ぴょんぴょん跳ね回るマイケルを見ながら、ミシェルが得意げに笑う。
「ほらね! ぼくは知ってたけどさ!」
 嬉しそうなマイケルを見てしっぽを振っているジョンの鼻先に、トナカイがそっと自分の鼻先を触れさせて言った。
「ジョンも『良い子』でしたよ。ね、サンタさん」
「もちろんそうだとも! 忘れていたわけじゃないぞい!」
「ワン! ワン!」
 ジョンは嬉しそうにほえた。マイケルはジョンに抱きついて、「よかったなあジョン!」と体を撫でてやる。その様子を見ていたミシェルは、ふいに帰り道のことを思い出して、サンタさんに向きなおった。
「そうだ、もうひとつお願いがあるんだった。もう夜になっちゃったから、サンタさんのそりで町まで送ってほしいんだけど……その腰だと、むずかしそうだね」
「そうじゃなあ。トナカイくんだけだと、空は飛べないしのう……」
 腕組みをしたサンタさんに、トナカイがあきれたように言った。
「なにを惚けたことを言ってるんですか、サンタさん。時計があるでしょう」
「おお! そうじゃったな!」
 サンタさんは膝を打って、ポケットから懐中時計を取り出した。金色の鎖がついたその懐中時計は、さっきの光の粒と同じきらきらとした輝きに包まれていた。
「きれいだな! それで俺たちを送ってくれるのか?」
 マイケルがたずねると、サンタさんはお茶目に片目をつぶってみせた。
「これは時戻しの懐中時計じゃ。一晩のうちに町じゅうの子どもたちへプレゼントを配りきるために、これで時間を巻き戻しているんじゃよ。これを使って、きみたちの時間を今朝に戻してあげよう。もちろんプレゼントは正しいものになっているぞ。そうすれば、今日のことはぜんぶ忘れて、楽しいクリスマスをはじめからやり直せるぞい!」
 そう言って懐中時計のつまみに手をかけたサンタさんに、マイケルとミシェルは同時に飛びついた。
「待って!!」
「なんじゃなんじゃ二人とも! どうしたんじゃ?」
 おどろいているサンタさんに、マイケルとミシェルが口々に言った。
「ぜんぶ忘れるってことは……ミシェルに会ったことも忘れるんだろ? それはいやだ!」
「そうだよ! 今日がなかったことになるくらいなら、ぼく、プレゼントなんていらないよ!」
「おれもだよ。ミシェルを忘れたくない。だっておれたち……友達になったんだ!」
 サンタさんはびっくりしたように目を丸くして、それから、とても優しい顔でほほ笑んだ。
「そうか、そうだったんじゃな。プレゼントよりも大切だと思える友達ができたのは、本当にすばらしいことじゃ」
 サンタさんはマイケルとミシェルをぎゅっと抱きしめ、二人の頭を撫でた。
「ようし、わかった。きみたちの記憶がそのままでいられるよう、わしがなんとかしよう!」
「わあ! ありがとう、サンタさん!」
 ぱっと顔を明るくしたマイケルとは反対に、ミシェルは不安そうに言う。
「ほんとにだいじょうぶ? サンタさんってけっこう抜けてるみたいだから、ぼく心配だな……」
 すると、トナカイがミシェルに笑いかけて言った。
「だいじょうぶですよ、僕が保証しましょう。こんなんでも、一応はサンタさんですから。子どもの夢を守ることにかけては一流です」
 トナカイの頼もしい言葉に、ミシェルはようやく安心した。サンタさんが言う。
「話がまとまったところで、さっそく時を戻すことにするぞい! さ、マイケルにミシェル。手をつないで、目を閉じるんじゃ。ジョンはマイケルにくっついておくれ」
「わかった!」
「うん」
「ワン」
 マイケルとミシェルは向かい合って両手をつなぎ、ぎゅっと目を閉じた。ジョンも言われた通り、マイケルの体にぴったりと自分の体を寄せる。
「そのまま、今日あったことを強く頭に思い浮かべて……おっと、集中しすぎて息を止めちゃいかんぞ!」
 サンタさんが魔法を使っているのだろう、鈴のような音色と、時計の針がカチカチ動く音が聞こえてくる。最初は小さかったその音は、だんだんと大きくなって、耳元に近づいてきているように聞こえた。雪のにおいが、ほら穴のにおいが、暖炉のにおいが、湖のにおいが、つぎつぎと鼻をかすめて、寒かったり、暖かかったりした。マイケルとミシェルは目を開けてみたかったけれど、サンタさんの言いつけを守って目を閉じたままでいた。
「ほっほー! よしよし、いい感じじゃよ! それじゃあ良い子たち――メリークリスマス!」
 鈴と時計の音はいよいよ大きくなって、もうそれしか聞こえないくらいだった。そして、マイケルとミシェルがお互いの手を強く握りしめた瞬間に、すべてが真っ白になった。

***

 愉快で楽しいクリスマスの朝がやってきた。起きてすぐにプレゼントを開けたマイケルは、新品ぴかぴかの、セパタクローで使う籐編みのボールに歓声をあげた。さっそくためし蹴りをしようと手に取る――が、ボールを持ってみたマイケルは、首をかしげて黙りこんでしまった。それを見ていた末の弟のエディが、ふしぎそうに問いかけた。
「にいちゃん、どうしたの? ほしかったやつじゃなかったの?」
「ううん。手紙に書いた通りのプレゼントだ。でも、なんでだろ。『最初』はこうじゃなかったような気がして……」
 そのとき、マイケルの持っていたボールから、きらきらとした光の粒が浮き上がってきた。マイケルがおどろいていると、光の粒はマイケルの目の前で小さく円を描いたあと、鈴のような音とともに弾けて消えてしまった。
「……あっ!」
 とたん、『最初』のクリスマスのことが、マイケルの頭にありありとよみがえってきた。すべてを思い出したマイケルは、いそいで服を着替えると、ボールを持ったまま一段とばしに階段を降りていった。友達に――ミシェルに会いに行くのだ!
「あら、おはようマイケル! 朝ごはんできてるわよ!」
 キッチンではマイケルのお母さんが、ちょうどお皿を並べているところだった。マイケルは「おはよう!」とだけ叫んで、そのまま走って玄関へ向かったけれど、ドアノブに手をかけたところでふいに思いなおし、キッチンへと引き返した。
「ちょっと出かけてくる! 友達と会うんだ!」
「こんな朝から? まあいいわ、いってらっしゃい。暖かくしていくのよ」
「うん。それから、えっと……」
 マイケルはもじもじと続けた。
「お母さんはいつもいそがしいのに、おれたちのために朝ごはんを作ってくれて、ありがとう。洗いものはおれがするから、お皿はそのまま置いといていいよ!」
 ひと息にそう言うと、マイケルは赤くなった顔を隠すようにふたたび玄関に走っていき、「いってきまあす!」と外に飛び出していった。
 マイケルが出かけたあと、マイケルのお母さんはしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがて「あらあら、すっかりお兄さんになっちゃって!」と嬉しそうにつぶやいたのだった。

***

 静かで寂しいクリスマスの朝がやってきた。ひとりで過ごすのは好きだけど、クリスマスの日だけは、ほかの家の子がちょっとだけうらやましくなる。つとめていつも通りに顔を洗い、服を着替えたミシェルは、枕元に置かれていたプレゼントの箱を慎重に開けた。
「へへ、やった」
 中に入っていたのは、ミシェルがほしかった天球儀だった。ミシェルは満足そうに天球儀をながめていたが、ふいに顔を曇らせてしまう。なにか、プレゼントよりも大切なことを忘れているような気がしたのだ。
 そのとき、天球儀がひとりでに回りだした。ミシェルがびっくりしていると、天球儀はさらに速く回って、きらきらした光の粒をほとばしらせる。ミシェルは回転を止めようと手を伸ばした。すると、指先に触れた光の粒は、鈴のような音をひびかせて消えてしまった。
「……!」
 すべてを思い出したミシェルは、はっと息をのんだ。そして、天球儀がゆっくりと回転を止めたころ、早足で部屋を出ていった。友達に――マイケルに会いに行くのだ!
「おはよう、マーサ!」
「おはようございます、ぼっちゃん。今日はずいぶんと元気がよろしいですねえ。朝食はもう少しでできますよ」
 キッチンでフライパンを揺り動かしているお手伝いさんに、ミシェルは告げた。
「あのね……ぼく、今から出かけてくる。ひとりで!」
 お手伝いさんは、いかめしい顔になって言った。
「いけません! ひとりでなんて、もってのほかです!」
 ミシェルは一瞬ひるみそうになったが、意志の強い瞳で、お手伝いさんをまっすぐ見つめた。
「どうしても行かなきゃなんないんだ。友達に会いに行くんだから!」
 ミシェルのはじめての口ごたえに、お手伝いさんはびっくりして口をぽかんと開けていたが、やがて大きく息を吐いて、フライパンの火を止めた。そして、目に涙を光らせながら、何度もうなずいてこう言った。
「ええ、ええ。わかりましたとも。ぼっちゃんは、わたくしが思っていたよりもずっとずっと、ご立派になられていたのですねえ……」
 ミシェルはちょっぴり気恥ずかしそうに笑って、「それじゃ、いってきます!」と元気よく言ったのだった。

***

「ワン!」
 家を出たマイケルは、ジョンのほえ声に呼び止められた。
「わかってる! ジョンも一緒に行こう!」
 マイケルは犬小屋に駆け寄った。ジョンはトナカイの形をしたぬいぐるみを口にくわえ、出かけるのが待ちきれないようにしっぽを振っている。見覚えのない真新しいぬいぐるみに、マイケルはふしぎそうに目を瞬かせたあと、「あっ!」と手を叩いた。
「そうか、サンタさんからのプレゼントだ! ジョンも『良い子』だもんな!」
「ワン! ワン!」
 マイケルはジョンと一緒に駆けだした。目指すは北の森。ミシェルがどこにいるのかはわからないけど、そこに行けばきっと会えると思った。
 長くゆるやかな坂道になっている大通りを、北へ、北へとのぼっていく。走って、走って、息が切れてもまだ走って、そうしてようやく、森の入り口にたどりついた。
「ミシェル……!」
 マイケルは息を切らせながらミシェルを探したが、彼の姿はどこにもない。ジョンも鼻をくんくんさせていたが、ミシェルのにおいは見つけられないようだった。マイケルはとたんに不安になった。まさか、はじめから『最初』なんてものはなく――あのクリスマスの冒険も、ミシェルと過ごした時間も、すべてマイケルの夢だったのだろうか?
 マイケルはその場に座り込んだ。朝ごはんも食べずに、ここまで休みなく走ってきた疲れが、今更のように押し寄せてきたのだ。そのときだった。
「ぼくは、ミシェル」
「!」
 マイケルは弾かれたように立ち上がった。ジョンも声のした方を見つめて、しっぽを振る。声の主はこちらに近づいてきているようだった。
「『このへん』がどこまでを指すのかはわからないけど、まあ、おおむね『このへんのやつ』だと言っていいだろうね」
 ジョンが走り出す。マイケルも、足の疲れなんかきれいさっぱり忘れて、ジョンを追いかける。そこに立っていた声の主は、ジョンを撫でてやりながら、走ってきたマイケルににやっと笑ってみせた。
「『こんなところで何やってんだ』の答えは――友達に会いにきた、が正解かな」
「ミシェル!!」
 マイケルはミシェルに抱きついて、興奮ぎみに肩を叩いた。
「遅いっての! 会えないかと思った!」
「しょうがないだろ。荷物がすごく重かったんだから。マイケルはずっとこれを背負ってたんだろ? ほんとびっくりだよ」
 そう言うと、ミシェルは額の汗を拭きながら、抱えていたカバンを「よいしょ」と降ろした。マイケルがたずねる。
「それ、何?」
「天球儀」
「なんで持ってきたんだ? 重いだろ?」
「きみだって、ボールを持ってきてるじゃないか。まさか、それで一緒に遊ぶつもり? ぼく、ルールわかんないよ?」
「……」
「……」
 マイケルとミシェルは顔を見合わせた。しばらくじっとお互いの目を見たあと、耐え切れなくなったように吹き出す。
「……ははっ!」
「……ふふっ!」
「ワン!」
 マイケルとミシェルは同時に笑いだし、ジョンも嬉しそうにほえた。
「まあいいや! せっかく持ってきたんだし、そのテンなんとかをどうやって使うのか教えてよ! おれ、勉強は大きらいだけど……ミシェルが好きなものなら、好きになれる気がするんだ」
「いいよ。それじゃあ、きみもそのボールの使い方を教えてよね。ぼく、スポーツはほーんのちょびっと苦手だけど……マイケルが夢中になるくらいだから、楽しいんだろ?」
「もちろん! きっと気に入るぜ!」
「ワンワン、ワンワン!」
 二人と一匹の楽しげな声が、すっきりと晴れた朝の空にひびき渡る。マイケルとミシェルの愉快なクリスマスは、まだまだはじまったばかりだった。

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