白秋先生の幸福な災難
あらすじ:北原一門と芥川さんとちょっと司書 煙草にまつわる話
ある夜のことでございます。白秋先生は中庭の池のふちを、ひとりでぶらぶら歩いていらっしゃいました。池の水面は鏡のように静かでした。季節は夏でございましたから、近く遠くに蛙のごろごろいう声がしておりました。蛍がちらちら飛んでいたり、水草の上に腰を据えたりしている様子は雪の降るようで、さくさく踏む草の音さえ積もった雪の心地がいたします。白秋先生は夜の着物の上にいちまい羽織っただけで、夏とはいえやはり水場のちかくは涼しいものだなあと思いながら、図書館の別館の端の端にぽつんと建った喫煙室へ向かっておりました。
皆さんはお信じにならないでしょうが、図書館内の禁煙を司書さんから伝えられてからというもの、白秋先生はよくよくがまんをしていらっしゃいました。本に潜っている間だけは、その手で撃つ弾の速さよりも速く、それはそれはたくさんの煙草をおのみになられました。けれどもそれ以外の場所では、マッチ一本だって取り出すことはいたしませんでした。代わりに近くに居た誰かが、煙草ののめないのの不満のため、ささやかな癇癪の犠牲となることもありましたけれども、それは取るに足らぬことです。いつか司書さんから贈られた、お月さまを模したちいさな持ち運べる灰皿を、先生は司書さんが思うよりもよく気に入られて、たとい煙草がのめずとも、マッチと煙草と一緒にまとめて携えてお行きになられます。ふところに入ったお月さまのことを思い出して、戯れにお月さまいくつ、まだ年や若いな、などと先生がおうたいになりますと、お空の月すら恥じらってこうこうと照るようでございました。そうして先生はなにものにも足を取られず、ただお空に浮かんだ若いむすめの道の照らすままに、喫煙室へと歩いていったのです。
喫煙室とはほとんど名ばかりの小屋は、バスの待合室のような風情をしておりました。天井からぶら下がる傘付きの白熱球の下には、水をたたえた大きな盆があり、それが乗った長机は足が揃っていないのか寄りかかるたびにがたぴし馬車のように音をたてました。机の両脇に置かれた長椅子も同じようにがたぴし言いました。壁も床も天井も、ちょっと動くたびにぎしぎし音を鳴らしました。
古板に滲みた脂の匂いにほっと一息をつき、先生は腰を据えるのもそこそこに自分の一本を取り出すと、器用にも片手でマッチを擦って、いつものようにすぱすぱとおやりになりはじめました。最初の一本は走ったあとにいきを整えるようなもので、二吸い、三吸いするともうあとはしりません。先生は水につけた一本目の火種が消える前に二本目をつけますと、今度こそ温かな湯船に身を浸けたようにゆっくりと煙を吐き出しました。あぁ、これぞこの世の極楽! たなびいてゆく煙まで嬉しそうに、天井の光の周りをくるくると踊っております。先生のお口の中で転がされた煙たちは、玉になってころころと壁の木目の上を滑ってゆきます。時々に風が壁の隙間を縫って、煙の踊りに混ぜてもらいに忍び込んでやってきますが、先生が寛大なこころでお許しになられるので、夜がふけるたび風も調子に乗ってぴうぴう吹きすさぶのでした。けれども、紫の煙ですっかり気持ちの満たされた先生にはそんなことは気になりません。それよりも、早くも心許なくなってきた煙草のほうが心配です。仕方なしに先生は、いつもならとっくにお捨てになるような長さになってももう一口、二口吸ってから捨てることに致しました。
この煙草が尽きてしまったら、どうしようもなく部屋に帰らなければいけない不幸せにかなしさを寄せながら、先生はすぱすぱと吸い続けました。抑、こんなところへ喫煙室を作るというのが間違いのもとです。先生だって、何も朝起きてから寝るまで、一時も煙草を咥えていないわけではありません。もしそうならば、先生のお口は今ごろゴンと同じようにとんがりなっていたでしょう。けれど一日中に三本か、五本かを吸っておしまいというのは、どうにも白秋先生にはわけがわからないのでした。先生ほどではないにせよ、図書館の文士たちのほとんどが煙草と、そして酒をも好みます。先生には彼らが、どうしてあんなにも我慢強く煙草を吸わずにいられるのかが不思議でなりませんでした。
夜はただただ緩慢に、一遍通りにふけてゆきます。先生が懐中時計を見やるたび、明日のことを考えるとどうしても寝たほうがよい時間が近付いているのが分かりました。融通のきかない夜だこと、たまには遅くふけたって良いのに、と先生はお思いになりながら、数の小さいのから数えたほうが早くなった残りの煙草にまた火をつけました。
そこへ扉をがちゃりと開けてやってきたのは芥川さんでした。芥川さんは先にいた先生を見ると、オヤ、というように目を開いて、それからにっこり笑って先生に夜のご挨拶をいたしました。先生はすきま風と草の声から、誰かが近付いてくることは分かっておりましたから、驚くこともなくヤァとご挨拶をいたしました。なかまのうちで、先生と同じくらいに煙草をのむのが芥川さんでしたので、こんな時間にここへやってくるのは彼しかいないと、先生はとうにお分かりになっていたのです。
「どうにもこの部屋はいけませんね。狭いのはまだいいとして、僕たちの部屋からあまり遠すぎます。寝る前の一服するのにだって、こんなに苦労して来なければならない。外は少し冷えてきましたよ」
「まったくその通りだねぇ。おかげでどうにも帰りたくない」
お互いに同じ事を思っているのが分かって、ふたりは笑い合いました。それから芥川さんが一本か二本を吸うのを、白秋先生は自分の吐いた煙とは違った匂いと形のするのをぼんやりと見つめていました。そうして芥川さんの体じゅうにも煙が行き渡ると、ほっと安心したのでしょう、ついと煙を白秋先生へ向けてお喋りを始めました。
「先生は今月の『ヘルメス』はもう、お読みになりましたか」
「うん、読んだよ」
「そうですか。哲学の棚に大昔のアルケミストの霊が出るなんて、ほんとうでしょうかね」
「さあ、僕はあまりそういうことには興味がないから。僕はそれより、夏目先生の記事のほうが好きだな。今月は、林檎の菓子のことをやっていたねえ」
「あの店には僕もお供したのですが、店の雰囲気もとても良いものでしたよ」
「今度、朔太郎君や犀星君を連れて行こうかな」
「是非是非お勧めしますよ。何より、あの店はどこでも煙草を吸ってもよいのです」
「それはいちばん大事だね」
お喋りをしていると、煙草をのむのもゆっくりになるものです。後からやってきた芥川さんは相変わらず言葉の合間合間にすぱすぱやっていましたが、白秋先生はそれを眺めて、マーブル模様を描きながら踊る自分と芥川さんの吐いた煙に浸りつつ、さまざまのことを話して過ごしました。ふたりは今月の館内誌に載った夏目先生の甘味紹介や、編集部連中の書く雑多な話題についてや、それから江戸川さんとアーサー卿の合作小説の犯人についてのでたらめな推理などを言い合い、たまに思い出したように次の煙草に火をつけるのでした。来月には宮沢君と高村さんが合作マンガを描くそうだ、という話になります頃には、お空のむすめもとっぷり眠たくなりまして、うとうとと中天の寝台へ上がりかけておりました。
そんな最中、ふたたび喫煙室の扉をがちゃがちゃんと開ける音がしてやってきたのが菊池さんでした。その荒々しい音にびっくりした白秋先生と芥川さんにも構わず、菊池さんは開口一番芥川さんを怒鳴り付け、その首ねっこをむんずと掴んだのでした。
「龍、今日こそは風呂に入ってもらうぞ」
「えぇ、もう夜も遅いよ寛。僕はあと一本吸ったら寝るつもりだよ」
「心にもないことを言いやがって。そら行くぞ、水風呂に入りたくなけりゃ、さっさと来るんだな。北原先生、邪魔をして悪かった。外は冷えるから、先生も早く帰ったほうがいいぜ。じゃ、おやすみ」
猫の子のように菊池さんに連れられてゆく芥川さんを、白秋先生は成すすべもなく見送りました。すべがあったとしてもそれを成したかは分かりませんが、とにかく先生はまたひとり喫煙室に残ってしまいました。
芥川さんとのお喋りでいのちを繋いだかに見えた煙草の残りたちですが、こうなってしまうともう風前の灯火です。先生は、芥川さんの少しばかりとんちきな推理の続きがなんとなく気になりましたが、どうせ門外漢の推理です、自分のも彼のも当たるはずがないと諦めると、すかすかの煙草の箱を恨みがましく見つめながら、ため息を吐き吐き次の一本に火をつけました。菊池さんの言うとおり、少しばかり風も空気もつんけんとし始めたようで、白秋先生はふるりと震えて、羽織ものを今一度ちゃんと羽織り直して、もう帰らなくてはいけないけれど、最後の一本、これが最後と繰り返しながら、すぱすぱ煙草をやり続けました。
やつの怠け者なのは今に始まったことではありませんが、やっとこ夜は時計の針がお空のてっぺんを指すのに追いつきました。図書館の灯りはすっかり消えて、別館の続き部屋の窓が三つ並んでぴかぴかと、時おり人の影で遮られたり風以外の力で揺れたりしているのを除いては、ほとんどの文士の部屋の窓が灯りを落としておりました。
白秋先生はといいますと、それにしてもどうしてこの部屋はこんなに遠いのかしら、嫌がらせなのかしら、この北原白秋にそんなことをやってのけるとは良い度胸、などとつらつら合間合間にお思いになりながら、新しい詩のことを考えたり、また思い出したようにため込んでいる朔太郎さんのお手紙の返事のことを考えたりして、すぱすぱ煙草をやり続けておりました。底に金魚の描かれた吸い殻盆には、今では金魚を隠してしまうほどの煙草が水底に沈んでおりました。水草の間をゆらゆら遊ぶのが金魚のよいところですが、これだけぎゅうぎゅうに煙草の木が成っていますと、背びれひとひら動かすこともできません。けれど、もがいて困っている金魚もむしょうに可愛く見えて、白秋先生はまた一本、また一本と水中の木を増やしておやりになるのでした。
そうこうするうちになんだか眠たくなってきて、いけない、いけないと思いながら、とうとう白秋先生はうつらうつらの眠り船にお乗りになってしまいました。船が綺麗に水を割って進むとき、お客は流れてゆく景色や水面を見るように、きょうの日のことを思い出します。白秋先生のきょうの日は、朝から晩まで次の煙草を咥え直す暇もないほど忙しく、飛んだり跳ねたり走ったり、それはそれは忙しいものでございました。ですから今日は、こんなに喫煙室を離れるのが辛かったのです。とうとう先生はいけない、いけないと思いながら、どうしたって船から降りることができずに、とぐろを巻いて揺蕩い続ける煙にすっかり包まれながら、どんどんと夢の海をお行きになってしまったのです。
いとしの先生の見つけられない空のむすめは、一晩中あれ、あれと首を傾げて、とうとう西の地平にその顔を隠してしまい、いちばん大きなきょうだい星にその役目を任せました。太陽のにいさんははりきって東の空から地面を照らしましたが、夜じゅう月のかなしむのに付き合っていた風のせいで地面はなかなか温まらず、靄がふわふわ立ち上っていました。早起きの文士はそろそろ起きだして、朝の支度にかかります。当番の仕事や自分の身支度、誰かの手伝い、それからこの芥川さんのように朝の一服のため、新聞配りがやってくるのとおんなしくらいの時間に起きてくるのです。それに加えて芥川さんは昨日、喫煙室へ忘れ物をしていったのでした。
芥川さんが喫煙室の扉をがちゃんと鳴らして中に入ると、そこには机に頬杖をついたまますうすう寝息をのんでいる白秋先生の姿がありました。昨日の夜にはあれだけみっちり詰まっていた煙草の煙は見る影もなく消え失せて、煙で曇った窓からはおぼろげな朝の光が差しています。せっかく白秋先生がいらっしゃるというのに、光が照らすのは先生の背中ばかりであったので、太陽はおかしいおかしいと思いながら、また空にひとつ歩みを進めるのでした。
驚いたのは芥川さんです。どう見たって昨日のままの姿で、自分と同じように目覚めの一服を吸いに来てうとうと二度寝をしてしまった風でもない白秋先生を見て、さしもの芥川さんもぎょっと目を丸くしてしまいました。
「白秋先生、白秋先生。起きてください、白秋先生」
「ううん。なんだい、おや、芥川君。髪はきちんと乾かしてきたの、ぼさぼさじゃないか」
「何を寝ぼけたことを仰っているんです。まさかとは思いますが、ここで一夜を明かしたのではないでしょうね」
「違うと言いたいところだけど……どうやらそう言うほかないらしいね」
揺り起こされた白秋先生は、はじめは不満げに顔を歪めておりましたが、起こしたのが芥川さんだと分かると、風呂の帰りに寄ってくれたのだなと思ってとんちんかんなことを言いました。けれど芥川さんがお風呂に入って髪を乾かしたのは、とっくの昨日の夜のことです。芥川さんの髪がぼさぼさなのは、タオルで髪をごしごしやっただけのせいではなく、それが寝起きのことだからです。それに電球の灯りが照らすより、芥川さんのお顔は明るく見えているようでした。先生は自分がいけないことをしたのだと素直に認めると、続けてクシュン、クシュン、クシュンと三度くしゃみをなさいました。二度までならば白秋先生のこと、早起きの鳥やけものが噂をしているのかもしれませんでしたが、三度も続くとなると尋常ではありません。芥川さんは白秋先生の向こうに自分の忘れたライターを見つけましたが、そのまま自分の部屋に帰ろうとする白秋先生の後を慌てて追いかけ、説得を始めるほかありませんでした。
「駄目ですよ先生、医務室に行きましょう」
「いいよ、そんなことは」
「これから熱が出るかもしれません」
「大丈夫だと思うけどなあ」
「そうら。昨日の夜は冷えたのに、大丈夫だなんて、熱が出始めている証拠ですよ」
「暖かくして自分の部屋で寝ていれば直るよ。さいわい、今日は僕は休暇を貰っているもの」
「先生、言うことを聞いてくださらないと、僕はこのことを犀星に言いつけてしまいますよ」
そのとたん、白秋先生の頭には、部屋の前で仁王立ちする犀星さんと、それから朔太郎さんのことが思い浮かびました。あの二人のことですから、白秋先生がお風邪を召されたと聞いたら取るものもとらず飛んでくるでしょうが、だからといって素直にお見舞いを受け入れる白秋先生ではありません。そして先生の部屋の前で扉を挟んでの押し問答が続き、とうとう犀星さんが言うのです。
『白さん、そこまで言うなら俺にも考えがあります。今すぐ中に入れてくれないと、俺は朔をここに置いてゆきます』
そうなったらもう、大変です。
「部屋の前で天岩戸なんかやられたらいやだよ」
「さしずめ犀は手力男でしょうね」
そうして白秋先生は芥川さんに連れられて、とぼとぼ医務室へと向かったのでした。森先生はお部屋にはいらっしゃいませんでしたが、芥川さんが白秋先生がベッドにきちんとおさまるのを見守ってから呼びに行ってくれることになりました。柔らかく清潔な匂いのするすべらかなシーツに包まると、昨夜とは比べ物にならない眠りの波が乱暴に押し寄せて、芥川さんが部屋を出るか出ないかのうちに白秋先生をさらっていってしまいました。呼ばれてきた森先生が眠っている白秋先生の脈を取りましたが、まったく起きる気配はありません。事情を聞いた司書さんも熱の具合を見に来ましたが、白秋先生はお顔を真っ赤にしてはいるものの、思ったよりもやすらかにすうすう眠っておりました。芥川さんはちょっとだけ悩みましたが、やっぱり犀星さんや朔太郎さんには何も教えないことにして、朝ごはんの前の一服にふたたび喫煙所へと向かいました。
そのころ食堂では、夢の海を泳ぎきった文士たちが腹をぺこぺこに空かせて、空いたテーブルを探しながら船幽霊のようにあっちこっちをさ迷っておりました。
人の一番多い時間の食堂は賑やかなどというものではありません。あっちのテーブルでは何人かの文士がいつも通りひと悶着を起こしていましたし、こっちのテーブルでは犯人当てのヒントを貰うべく、作者たちが質問攻めにあっています。一門を率いるひとたちの周りはいつも賑やかでしたし、友人たちと昨日の夜の夢を話し合う声も明るく朗らか、高らかです。
いつもは北原一門もその中に混ざっているのですが、今朝は朔太郎さんも犀星さんも白秋先生を見つけることができないでおりました。けれど彼らだっていつも先生とばかりいるわけではありませんし、昨日は先生を含めた一派がてんやわんやの大騒ぎであったのを知っておりましたから、今日はゆっくり眠っていたいのだろうと思い至り、朝ごはんにありつくことにいたしました。三好さんなども加えまして、昨夜のテレビドラマの脚本をめちゃくちゃに言い合っていれば、朝の時間は飛ぶように過ぎてゆきました。そのうち、開館アナウンスの仕事がある三好さんがいち抜けたのをきっかけに、他に当番の割り当たっている文士たちがじゅんばんに食堂から出てゆきますと、入れ違いにやってくるのが寝坊助とヨッパライのひとびとです。どの人も一様にアァ、ウゥ、と呻きながら入って参りますので、入り口から遠く離れていても、朝の第二陣がやってくるのが分かります。寝坊助さんの中には昨日、白秋先生と一緒にもうれつに働いたひとたちもいましたので、朔太郎さんたちはついその中に先生のお姿を探してしまいましたが、それらの背の高い人に低い人、髪の長いのに短いの、革靴の音と草履の音の中には、どうにも見つけることができませんでした。やにわにおろおろしだした朔太郎さんを宥めながら、犀星さんはそんな日もあるさと言いながら、でもお昼ごろには一度様子を見に行こうかと約束しました。朔太郎さんはそれでも物足りない様子で、ストローをかじりながらオレンジジュースにぶこぶこと泡をたててみせるのでした。
「しっかしあの先生たちのタバコ好きはすげえもんだよな」
ガヤガヤと皿と靴音かしましくテーブルにつくのは、昨夜三つの窓の続き間で宴会をやっていたひとたちでした。何を肴にはしゃいでいたのかは知りませんが、そんなことはいつものことです。話しているのは彼らには珍しく、話題は酒ではなくて煙草のほうで、なかでも口にのぼるのは本遠く離れた喫煙室のことでした。煙草をのむ人たちにあの待合所の立地はよっぽど不評なようでしたが、だから酒を飲むしかないのだ、そうだその通りと、何やらおかしな話行きです。もっとも犀星さんなどは、中庭を横切る際に猫を見つける楽しみがありましたので、煙草をのんでもそれほど不便には思っておりませんでした。
「せやけど、いくらなんでも煙草のために時はつくれんわ」
「酒なら話は別だがね」
「酒の話はやめろ! 俺ぁもう二度と飲まねえぞ……」
「こないだもそう言ってたじゃねえか!」
おや、と思ったのは犀星さんです。朔太郎さんもおや、とは思ったのですが、その時は頑固なベーコンを噛み千切るのにたいへんでしたので、ひと呼吸遅れてから、やや、と思い直しました。ヨッパライのひとびとの話によると、彼らのうちの一人が朝早く目覚め、眠気覚ましに外など覗いていたところ、煙草のすきなひとたちが連れ立って庭を歩いているのを見たそうです。
白秋先生のことですから、朝起きてまず一服をしに喫煙室へ行くのも不思議はありませんでしたが、弟子の二人が話を漏れ聞いているとなんだか妙な心地がいたします。そこで犀星さんはヨッパライのうち、見知った顔の織田さんを手招きして呼び寄せると、詳しい話を聞くことにいたしました。そのころには朔太郎さんもベーコンのやつをやっつけて、犀星さんと一緒になって話を聞けるようになっておりました。
さて織田さんを通して実際に見た人から詳しく話を聞きますと、まだ太陽ものぼりはじめの早い頃、白秋先生と芥川さんが連れ立って庭を歩いてゆくのを見たそうです。歩いてきたのが喫煙所のほうからだったので、朝早くから精が出ること、それも詩人先生なんかほとんど寝巻で、と半ば呆れてしまったと言うのを聞くと、犀星さんと朔太郎さんは勢いよく顔を見合わせました。いかに煙草のためとはいえ、夜の寝際ならばまだしも、朝の身支度もせずに先生が外を歩くことなどありません。なんだか妙だぞ、と二人で額を突き合わせておりますと、食堂に残っていた余暇の豊富なひとびとも次第に集まってまいりました。そのうちヨッパライのひとりと推理好きの一人が犯人当て小説についてわいわいやりだしたので、ひとびとの関心は半分ほどそちらに移りましたが、犀星さんと朔太郎さんは、これはやっぱり妙だと結論付けると、さっそく調査に乗り出すことにいたしました。犀星さんは自分が芥川さんのところへ行って話を聞いてくるので、朔太郎さんには白秋先生のお部屋へ行ってきてほしいと頼みましたが、朔太郎さんのお皿の上が未だ混雑をしたままでしたので思い直し、自分がどっちもやってくるから、帰ってくるまでにその皿を片付けておくようにと言い直すと、たすきを締め直してすったかと食堂を出て行きました。残された朔太郎さんはすわ白秋先生の一大事、とがんばってお皿の中を片付け始めました。
食堂は未だ食後の珈琲や茶をたしなむひと、なんとなく居座ってしまうひと、お手玉のできるほど暇のあるひとなどが少なくありませんでした。さらにそこへ寝坊助中の寝坊助も新たにやってまいりましたので、三好さんの開館アナウンスが図書館じゅうに響いてもなお、ざわざわざわめいておりました。
お昼の鐘が鳴ったころ、白秋先生は医務室のベッドの上で、とうとうお目覚めになりました。視界のはしにちらちらと映り込む光の影のようなものがうるさくて、白秋先生は一度起こした身体をふたたび倒してしまいました。そのとき勢いよく枕に倒れ込んだので、カーテンの向こうから森先生が気付いて声をかけてくださいました。白秋先生はふたたび身体を起こし、カーテンの隙間から顔を見せます。頭はなんだか、お酒をたくさん飲んだときのようにぽわぽわとしておりましたが、不思議と体のだるいのだとか、節々の痛いのだとかはありませんでした。身体の様子を聞かれてそのことを素直に伝えると、それならば一日寝ていればなおるだろうと森先生が仰いましたので、とりあえずは一安心と、白秋先生はほっと胸をなでおろしました。
それから森先生と入れ違いに、司書さんがお見舞いにまいりました。司書さんは白秋先生の受け答えがしっかりしているのと、見た目が辛くないようであるのをみとめて一安心です。それから、昨日のたいへんな潜書のことを謝ってくれました。煙草を吸えなくなるのが嫌でうっかりあばら家で一夜を過ごしてしまったのだとは流石に言えませんでしたが、白秋先生は自分が夜更かしをしていたからと言い添えて、やんわりと司書さんのせいではないことを伝えました。それから、司書さんが持ってきた林檎を剥いてくれたので、白秋先生はにこにこしながらうさぎの形をした林檎を朝とお昼ご飯の代わりにぱくぱく食べておりました。
そのとき、医務室の窓がガラリと開いて勢いよく誰かが部屋へ飛び込んでまいりました。医務室は一階にありましたので、窓から入ることもできなくはありませんでしたが、あまりに突然のことでしたので、白秋先生は未だ自分は夢を見ているのかしらんと目をぱちくりさせて、不躾な急患を見つめておりました。
「先生、白秋先生。アッ、お目覚めになったのですね。それは良かった」
「君、どうしたの。いつからそこはドアになったの」
「何を悠長なことを。助けてください、追われているのです」
「借金の話なら、石川君だけでもう十分なのだけれど」
「そうではありません、あなたの弟子にです」
「犀星くんならまだしも、朔太郎君に借金取りは難しい仕事だと思うけれどなぁ」
「そうではありません、先生。借金から離れてください」
芥川さんはやきもきしながら、身体を低くして白秋先生のところへ行きますと、窓の外を気にしながらシャッとベッドの周りのカーテンを閉めてしまいました。ちょうどその時、窓の外で興奮しているような人の声がいたしました。よくよく聞いてみると、それは犀星さんと朔太郎さんの声に他ならないのでした。
「芥川先生、一体何があったんですか?」
「ああ、司書さんか。白秋先生のせいだよ」
「何がなんだか分からないな」
「僕だって。ただ、どうも犀星たちは何か勘違いをしているようです。僕が先生をかどわかしたとか、そんな風に何かを誤解しているようなのです」
「はあ?」
白秋先生は掛布団とシーツの間にすっぽり収まり、背中のいちばんよいところに枕を差し込んでから、よくよく芥川さんのお顔を眺めました。冗談みたいに整った顔立ちですが、冗談を言っているようには見えません。それでもやはり芥川さんの言っていることは、ちいとも理解ができませんでした。分からないことなら考えたって仕方がありません。先生は変わらず暢気に新しい林檎に手を伸ばしましたが、芥川さんがそれどころではありませんとぴしゃりと制してしまいます。それから司書さんが促すままに、芥川さんはこれまでのことを話し始めました。
「少し前、犀星たちが僕のところへ、白秋先生を知らないかとやってきました」
「それで君、僕がここに居るということを、話してしまったのではないだろうね」
「もしそうだったら、今ごろドアの外にアメノウズメが構えていますよ。ええ、先生はお風邪を召したなんて知られたくないだろうと思ったので、朝に少し会ったけれどそれからは知らないと答えました。すると犀星、流石は抜け目がないですね、先生のお部屋はもぬけのからっぽ、鍵すらかかっていないのだと言いました」
「おや、昨日はかけ忘れたまま出てしまったのだろうか。いけないねえ、疲れているといけないことばかり起こる」
「朝食の席でもついぞ見かけなかったし、図書館の中にも見つけられない。僕と歩いていたところを見た人によると、先生は寝巻のままで外へ出ていたらしいけれど、白秋先生はそんなことをする人じゃないのでなんだか変だと言うんです。それに、それに萩原君が」
「朔太郎君がどうかしたの」
「誰に入れ知恵されたのか知りませんが、その、控えめに言いますと、もしや昨日の夜から僕が先生を独り占めにして、今はどこか別の場所に隠してしまったのかもしれないと言うんです」
「面白いことを考えるね、あの子」
「笑っている場合じゃありませんよ先生。先生のおかげで僕はとんだ厄日です。犀星は流石に頭から信じたわけではありませんが、やはり最後に一緒にいた僕が怪しいとにらんでいて、本当のことを言ってくれとさっきから僕のことを追いかけ回しているのです」
「適当に撒いてしまうといいのだよ、そんなもの。犀星君のことだもの、朔太郎君が着いてこれなくなったら、きっと追いかけるのをやめてしまうさ。乳離れできない猫のこどもでもあるまいし、僕の姿が一日見えないくらいがなんだというんだい。君も君だ。小説家なら適当に話をでっちあげて、煙に巻いてみせてごらんよ」
「先生は先生だからそんなことが言えるのです。彼らが先生を好きなことといったら、もし彼らが猫ならば犀星は四つ、萩原君は九つ全部のたましいを、あなたにあげて良いと思っているようなものですよ」
「そんなに貰っても困ってしまうよ。天ぷらにでもしようかな」
「またそんなことを仰って!」
事情はすっかり分かりました。白秋先生の脳裏には、どこからか仕入れた噂に猫の目みたいに血相を変える弟子たちの姿が思い浮かびました。どうせ夜までには分かってしまうだろうと考えていたのですが、この様子では八つ時になる頃には図書館をあげての大捜索が始まりそうです。たとえそうならないとしても、朔太郎さんのしなやかな想像の翼がはばたいて、よからぬ風の噂が流れてしまうことだってありえます。しかし本当のことを言えば、北原白秋先生としての面目は丸つぶれです。それに、向こう一か月はや犀星さんや朔太郎さんが片時も離れてはくれなくなるでしょう。今でさえ司書さんにも内緒にしているのに、そんなことが知れたらひどい雷を食らうに違いありません。白秋先生はうんうん唸り、つい懐へ手を伸ばして煙草を出しましたが、火をつける前にぴしゃりと司書さんに言われてしまいました。仕方なしに林檎をしゃくしゃくやるのですが、愛しのむらさきけむりとはやはり比べるべくもありません。
「北原先生、ここは素直に言ってしまったほうがいいのではありませんか。室生先生も萩原先生も、これじゃなんだか可哀想ですよ」
「犀星君はいざ知らず、朔太郎君がかわいそうなのは今に始まったことではないのだけれど」
「お願いしますよ白秋先生」
「見ていて可哀想可愛いのだけれど」
三人でうんうん唸ってしばらくすると、司書さんが名案を思い付きました。それは、白秋先生にお手紙を書いてもらうというものでした。お風邪を召していることと医務室にいることを隠して、あとは適当に書いていただくのです。どうもそうするほか無いようでしたので、先生はやっぱり気が進みませんでしたが、司書さんと芥川さんに説得されて、とうとうお手紙を書くことになりました。こういう困ったときは煙草をぷかぷかやりながらするのが一番ですが、今は到底かなわないことです。代わりに林檎をぱくぱくやりながら、白秋先生はベッドの上でお手紙を書くことにいたしました。白秋先生が次から次へとお食べになるし、芥川さんは白秋先生を急かしながらやっぱり林檎を食べるので、司書さんは一生懸命林檎を剥かなくてはなりませんでした。
白秋先生は、とりあえず自分は朝早くから思うことあって出かけたということにして、しかし出かけた先から手紙が届くというのもおかしな話ですから、ここは芥川さんと司書さんに一芝居打ってもらうことにいたしました。脚本や小説は得意のジャンルではありませんでしたが、そこは国民詩人 北原白秋先生の腕の見せ所です。さらさらと、とは熱のおかげもあっていきませんでしたが、司書さんが持ってきてくださった林檎を半分食べきってしまうまでにはお手紙を書ききることができました。白秋先生は一度林檎の匂いのする指をぬぐってから、図書館へ遊びに来る子供たちから教えてもらったやりかたでお手紙を折り畳みました。そしてそれを司書さんに渡して、合わせる口裏を芥川さんと一緒に言い含めました。
「これは名作中の名作ですよ、白秋先生。僕の命を繋ぐのですから」
「読んでもいないのに滅多なことを言うのではないよ。では司書君、芥川君、頼んだからね」
「はい、承りました北原先生」
司書さんと芥川さんを見送ると、先生はあくびを一つ、クシャミを二つすると、肩までぬくぬくと毛布を引き上げて、再び休むことにいたしました。そうして、日が暮れる頃にはすっかり元気になられた白秋先生を見つけた月が、にこにことまた夏の夜を照らすのでした。
それから何がどうなったのか、みなさんお知りになりたいでしょうから、順番にお教えすることにいたしましょう。
まずは犀星さんと朔太郎さんのことです。一度は芥川さんを見失った二人でしたが、それからしばらくしてようやく見つけることができました。二人で一緒になって芥川さんを問い詰めていると、そこへ司書さんが通りがかって、剣呑な様子を見咎めて間に割って入ってくれました。司書さんは三人の話をじっくり聞いていましたが、ではこれはなんなのでしょうと懐から、例のお手紙を取り出して朔太郎さんに渡しました。白秋先生からのお手紙ということですっかり有頂天になった朔太郎さんは、それまで芥川さんのマントを掴まんとしていた手をひっくり返して、あわあわとお手紙を受け取りました。そしてしばらく、綺麗に折りたたまれたお手紙と格闘していましたが、どうしても破りそうで怖いということなので、とうとう犀星さんに渡してしまいました。犀星さんは、白さんもかわいいことをするものだなあと思いながら、折りたたまれた手紙を丁寧に開いて朔太郎さんに渡してあげました。そのまま食べてしまいそうな勢いで手紙を読み始めた朔太郎さんでしたが、しばらくするとキャッと叫んでその場でちいさく飛び上がった後、へなへなと座り込んでしまいました。朔太郎さんは犀星さんの足に縋りつくと、震える手でお手紙を差し出しました。宛名には犀星さんのお名前も書いてありましたから、二人のどちらが読んでもいいのです。腰に朔太郎さんをぶら下げながら、犀星さんはお手紙を読み始めました。
それによると、白秋先生は気まぐれを起こして朝早くからお出かけになったそうです。部屋の鍵を閉め忘れたような気がするので、気分が向いたら確かめてほしいとも書いてありました。ここまでは特に変わったこと、たとえば朔太郎さんが腰を抜かすようなことは書いてありません。白秋先生がわざわざお手紙を出すようなこともありません。不思議に思って犀星さんは読み進めてゆきましたが、最後におまけのように書かれた追伸のあとを読み、よくよくそのわけが分かりました。
「おい朔、腰を抜かしてる場合じゃないぞ」
「わ、分かってるよ。でも、だって、白秋先生が」
追伸には、今度ご都合よろしければ一門揃って出かけませんかと、たった一文だけ書かれておりました。犀星さんは何度か手紙を上から下まで読み直しましたが、何べん読んでも最後には、揃ってお出かけいたしましょうと書いているのでした。現実の信じられなくなった朔太郎さんは犀星さんのすねをチョイとつねってみましたが、犀星さんがギャッと飛び上がったのを見て、どうやらこれはほんとうのことらしいと、ますます腰を抜かすのでした。
犀星さんは追いかけ回してしまったのを朔太郎さんの分まで謝って、白秋先生はどこかでぶらぶらお歩きになっているそうだと芥川さんに伝えました。二人、正確には二人分素直に謝ってもらえたので、それではと芥川さんも秘密を教えてくれました。実はそのお出かけ先について白秋先生に教えたのが自分だったので、楽しみが減ったらかわいそうだと、わざと知らないふりをしていたというのです。今日の気まぐれも、たぶん次のお出かけの下見に行ったのかもしれませんと。ふたりの北原一門は重ね重ねて謝まって、きっと後でお詫びをするからと言いながら、急いで白秋先生のお部屋へ向かってゆきました。司書さんと芥川さんは顔を見合わせて、いたずらが成功したかのようににやりと笑い合ったのでした。
それから数日して、白秋先生にはお風邪を召されるよりも辛い災難がありましたが、それよりももっともっとすてきな幸いが訪れました。
例の一件の後、助手となった文士の世間話から図書館の噂話まで幅広く聞き集めている司書さんが、白秋先生と芥川さんの話が少し妙なことに気付きました。遠回しに粘り強く責めてみますと、とうとう白秋先生も根をあげて、本当のことをお話になりました。それから司書さんは先生に助手を一日お願いすると、その日じゅうこんこんと司書室でお説教をいたしました。司書室にはほかの文士も出入りしますので、少し漏れ聞いただけでは先生の喫煙癖を諫める内容にしか聞こえませんでしたが、司書さんは人がいないときにちくりちくりと白秋先生を責めるのでした。
ところがその次の日から、今度は司書さんがちくりちくりと責められることになったのです。奇妙な連帯感とでも言いましょうか、喫煙者の代名詞たる白秋先生が怒られていたというのが口伝に広がっていくと、自分ものむのになんだか悪い気がして、一言でも言わなければ気が済まない心地になったのかもしれません。喫煙室が不便なのはみんなが感じていたことのようで、すれ違いざまに、通りすがりに、食事で隣に座るのに、助手の日の終わり際にと、子猫と遊んでいる最中にがぶっとやられるように、司書さんにとっては思いもがけないタイミングで、喫煙室が遠いことの不満を投げつけられるのでした。もし白秋先生がこのことを知ったらひどく憤慨したでしょう。しかし当の先生は、あれから毎日べったりな朔太郎さんと、犀星さんに囲まれていましたので、そんなことに気が付く暇もありませんでした。
司書さんが新しい喫煙室か、それとも分煙を考えるようになったある日のことです。本館の談話室のすぐ近く、誰でも気軽に立ち寄れる場所に、新しく喫煙室ができることになりました。それというのも、文士たちの間でひと騒動持ち上がったためです。
件の犯人当て小説は文士たちの間でたいへんな物議を醸しました。毎日あちこちで挑戦者たちの話し合いが行われ、作者の江戸川さんとアーサー卿、それから館内発行誌『ヘルメス』の編集部には犯人とトリックの予想を書き記した分厚い手紙が届いていました。いつぞやの芥川さんのように追いかけ回された江戸川さんたちは、あちらこちらに逃げるうち、古い物置部屋を見つけました。さらにびっくりすることに、その部屋には地下通路があって、それは本館の哲学の棚の床に繋がっていたことが分かったのです。壁に隠されたその部屋は、いったいどこにそんな場所があったのかと思う程度に広く、家具はちょっと古びていましたが、むかしのアルケミストの資料置き場になっているだけで、掃除をすれば使うにはなかなか良い具合です。そこで司書さんは館長さんにお許しをもらい、壁を壊して館内喫煙室とすることにしたのでした。
そのことを知った文士たちの喜びようは、ちょっとここでは書ききれません。酒や料理の好きなひとたちが中心になって、新しい喫煙室と、その近くの談話室で大宴会をやるために、数日のあいだ図書館の中はうきうきと浮足立っておりました。当の宴会はずいぶんと長いこと続けられていましたが、図書館の建っているのはみなさんがいるところから随分離れた場所ですので、このことを知ってからではどんなに急いでも、若山さんたちが引き上げるのにすら間に合わなかったでしょうね。
それでは北原一門のお出かけはどうなったでしょうか?もちろんちゃんと行われましたとも!
白秋先生が犀星さんと朔太郎さんのお返事を受け取った、その週のことでした。その日はお空があんまり晴れるので、白秋先生たちはお帽子をかぶらなくてはならないほどでした。途中ですれ違う図書館へ来る子どもたちにあいさつをしながら、三人は夏目先生の記事にあった地図とにらめっこをしながら、予定の時間には無事そのお店に着くことができました。そうして頼んだ林檎のお菓子は絶品で、さらにどこでも煙草を吸ってもよいというのですから、白秋先生のご機嫌なんてわざわざお伺いするまでもありませんでした。もちろん、先生となかまと一緒にお出かけとなった犀星さんと朔太郎さんのご機嫌だって、白秋先生が煙草をお好きかどうかよりも明らかでした。三人はめいめいお菓子と、それから好きなものを食べ、食後には揃って煙草をぷかぷかとやりながら、幸福なときを過ごしたのです。
先生は迷惑をかけたお詫びとして、お土産にお菓子をいくつか買って帰りました。ひとつは司書さんに、もう一つは森先生に、そしてあとは芥川さんと、すてきな記事を書いてくださった夏目先生にです。
こんなお出かけもたまには良いので、また今度どこかへ行こうかと先生に言われた朔太郎さんは、ただもうそれだけで幸せで、であれば犀星さんだって幸せですから、もし二人にかなしいことが起こっていなければ、今もまだ幸せなままでしょう。そして白秋先生も、そんな二人の弟子をにこにこと見つめながら、煙草をのんでいるでしょう。
新しい喫煙室ではいつも誰かが煙草をふかし、部屋の灯りは消えるということをしりません。司書さんの用意してくださった道具は素晴らしく、むやみやたらに煙が外へ漏れることもありません。夜にうとうとまどろんでも、きっと誰かが気付きます。とても居心地の良い場所でしたから、煙草をのむのが好きな人たちはいつでもそこに集まって、ひそひそぷかぷかやっています。もちろん芥川さんも、それから白秋先生も。
でも、今でもたまに白秋先生は、散歩がてらにぶらぶらとかつての喫煙室へまいります。朝に、夕に、夜に横切る池のふちを、先生は万年筆の洋墨に使うのがお好きでした。ぽちゃんとする池の音の正体を考えるのも、昼寝にやってくる猫を口説くのも、夕焼け小焼けを歌うこどもの声を聴くのも、雨に降られて犀星さんと朔太郎さんに迎えに来てもらうのも、三つ続いた窓の部屋で踊るヨッパライの影を眺めるのも、お空の月とふところの月をならべ比べてあそぶのも、どれも先生はお好きでした。
図書館の裏の生垣の下に、こっそり空いたちいさなひとたちの通り道があります。もしあなたの運が良ければ、そこから池のふちを歩く白秋先生を見ることができるでしょう。
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