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小さなグラスに、透明なひやおろしが注がれる。
乾杯、とグラスを合わせ、飲み干すと、冷たい酒が喉を通り抜ける。
悪くない。
髪を切ったばかりの譲介が、双眸をこちらに向け、お疲れ様でした、と言った。
「どうでした。ここに来るまでに誰かに見つかりませんでした?」
「ああ……まあいたにはいたが、狙いはオレじゃねえだろ、……そもそもオレの心配より手前の心配をしろよ。」
「和久井譲介の気になる密会のお相手?」
「今はいねえんだろうな?」と詰め寄ると、譲介は「うーん。」と笑ってから、僕の胸にナイフを刺せるのはあなただけですよ、と頭の沸いたような冗談を口にした。仕方のねえやつだ。
譲介は、にこやかな顔で、まあ飲みませんか、と空いたグラスに酒を注ぐ。
仕事の範疇だろうが、年上相手でも、おめぇのそのツラでやたらと酌をしようとするな、と何度言っても聞きやしないのだ、このクソガキは。
人が見れば、流し目でもされてるのかと勘違いするような切れ長の目で、譲介は今日もやたらとTETSUのことを見ている。
まあ、個室にふたりしかいない打ち上げの席で、窓も庭もない部屋を選んだのはTETSUの方だ。譲介にしてみれば、料理も来ていない部屋で他に見るものもないというのが正直なところだろうが。
「……笑い話じゃねえだろ。何度もスッパ抜かれやがって。」
譲介の切れ間の無い女遊びが始まったのは二十歳そこそこ……いや、高校を卒業した辺りからだろうか。
TETSUや一也のような背丈の男がその身長で一般人に正体を見抜かれてしまうように、譲介のような顔の整った芸能人は、サングラスひとつを掛けて防御したところで、何の意味もない。
女と並んでホテル街を歩く姿が週刊誌に載るたびに、今夜はいつものマンションには戻れないからここに泊めてくださいと泣きつかれ、TETSUは渋々ながらその日限りの寝床を提供して来た。
一時避難のはずの同居が長引いて、新しい深夜帯のドラマの仕事で出かける譲介を、仕事もないので窓から見送ることになり、まるで、出会った頃に撮影していた第四シーズンの再現のような暮らしをしていたこともあった。
ここ数年は、新しいクールが始まる度に、ドラマK2で人気の腐れ縁のふたり、と雑誌の端に並んで紹介されることが多くなった譲介とTETSUだが、実際のところ、譲介の腐れ下半身のせいで、パパラッチが玄関付近を寄りつくようになってしまい、仕事がアルバイトしかないような時期でも支払いが続けられるくらいの狭いアパートメントと集合住宅から二度も引っ越しする羽目になったTETSUから、今度こそ縁を切ってやる、やれるものならやってください僕の才能だけを愛してるんでしょう、ああそうだ、と売り言葉に買い言葉で引導を渡したことが何度もあった。
めでたくも仕事が続いている今は、セキュリティ面がしっかりしているそこそこのマンションを買うことも出来て、結果オーライというやつだが、敷金やら違約金やらで出費が多くなった当時は、何度コイツと揉めて喧嘩をしたか分かりゃしない。
出て行け、出て行きます、と怒鳴り合った後、十五分もすれば、コンビニで夕飯を買ってきました、やっぱり部屋に入れてください、とこちらを懐柔しようとしてくる三十も年下のクソガキを、大人のこちらに許す以外の選択肢があるとでも思っていたのだろうか。
あるいは、それも計算のうちで、譲介の方からTETSUを頼って来ているというシチュエーションを作ることで、ドラマで演じたふたりのように、一度出来た繋がりが遠く離れてしまうことを恐れていたのだろうか。




TETSUは、譲介と初めて会った日のことを未だによく覚えている。
こちらがまだ『ドクターTETSU』という奇妙に複雑な男の背景も役柄も、完璧には掴めていないというのに、声変わりを終えて髭も生えていないような子どもが、こちらの存在を食うほどの演技と、あの目で挑んで来たのだ。
年齢も性別も様々な若手役者達が揃う中、あの日のオーディションは、完全に出来レースのはずだった。大手のアイドル事務所から推薦されてきた顔だけのぼんくらと、大人の顔を取り繕って演技することになるだろうと思っていたTETSUは、新しいレギュラー役のキャスティングのための相手役として、監督や脚本家と言った面々と並んでその場に立ち会っていた。
そして、『和久井譲介』に出会ったのだ。
声の出し方、こちらを睨みつける目線。そこにはないはずの、ナイフを胸から引き抜くパフォーマンス。
大人を完璧に欺いてきた少年の顔が、歪み、引き攣り、抗い、そして砕ける様を見た。

――誰がお前なんかの……、言いなりになるか!

プライドの高い子どもが、これまでの人生や世の中への怒りと憎しみ、全てをぶつける相手として『ドクターTETSU』を選んだのだ。
ゾクゾクした。
この馬鹿がと、薄い胸に手を当てた。TETSUには、皮膚の下を流れているはずの血がどくどくと溢れて、譲介の半身を赤く染めているのが見えた。
端役の少年の台詞を読み上げていた監督から、そこまで、という声が聞こえてきて、ふたりでワンシーンすべてを演じきっていたことに、やっと気付いた。
和久井譲介というのは、K2のW主人公のひとりである一也のかませ犬として出て来たキャラクターだった。子役上がりで旬を過ぎた学生だった譲介にとって、この先役者で食っていくかどうかの試金石となるオーディションだったはずだ。演技を終えた譲介は、緊張していたのか、詰めていた息を吐いて、血の通った赤い頬でオーディション会場の白い天井を見上げていた。
TETSUは、横になっていた譲介を手を持って立たせ、オレはこいつに決めたぜ、と宣言した。テレビドラマという、演技にも脚本にも制約の多いコンテンツの中では、芽が出る前とは言え、自分が役者と認めた相手と共演すること以上の歓びはない。
監督は、横にいたスポンサー企業の人間をちらちらと見ていたが、構うものか、と思った。TETSUに呼応するかのようにシーズン1当時からいくつかの山場の話を担当していた脚本家が席を立って、原作に合わせたいくつかの台詞を、彼本人で当て書きをしたいと言い出した。
こいつは化ける。いつか自分を引き上げる存在になるだろうと、TETSUはずっとそう思っていた。
和久井譲介というキャラクターは『ドクターTETSU』という闇の側に属する後ろ盾がありながら、一也に比肩する存在とは描かれていなかった。それが、登場するなり圧倒的な女性人気を博して、役者である譲介本人が一躍スターダムにのし上がるや、それに呼応するようにして出番が増えた。
今ではすっかり、一也の一番の親友として仕上がった『和久井譲介』の人となりに合わせるようにして好青年の役ばかりが舞い込んで来るようになったが、この先譲介が、どんな脚本を受けて役者として育って行くかは、そろそろ老い先が見えて来たTETSUのこの先の人生の、大きな楽しみのひとつだ。


酒を飲みながら、話をしているうちに、やっと料理が運ばれてくる。
突き出しと焼き物の皿だ。
出ていく仲居に、今日は料理は全部先に運んでしまって構わない、飲み物の追加があればこっちから電話を掛ける、と声を掛ける。
部屋の戸を閉めて仲居が出て行った途端に、譲介は箸を持ち上げてこちらににっこりと笑いかける。
「TETSUさん。」
「ん?」
「はい、あーん。」
……あーん、じゃねえよ、と思いながら、TETSUは譲介が箸で摘まんで差し出したはじかみを口にした。譲介が苦手な長い柄の葉生姜は、齧るとぽりぽり音がする。
役の上ではカレーの偏食王子として知られる譲介だが、本人は至ってなんでも食べる方で、苦手な食べ物はそう多くはない。
酒の入ったときの上機嫌で「そういえば、一昨年のあれは楽しかったですね。パスポートの更新ついでに、TETSUさんの時間が出来たら、また旅行しませんか?」
僕の方で調整しますから、と年下の男はほんのりと桜色に染まる頬をこちらに向け、小首をかしげた。三十代に差し掛かった生意気な小僧がそんな仕草をしたところで可愛げもあったものじゃないが、譲介に限っては考慮してやらんでもないという意識が働いてしまうのがTETSUの弱いところだった。
一昨年のアレ、というのは、譲介とTETSUのふたりでペナンに行ったときのことだ。
そもそも、手土産もなにもなく、いつものようにTETSUの引っ越したばかりの新居にほぼ身一つ転がり込んで来た譲介が、たまの暇つぶしに付き合ってください、と言うがままに脱衣ポーカーを始めたのがコトの発端だった。
今思えばなぜ脱衣、と思うが、互いに深酒で酔っていたのだから仕方がない。
その上、靴下の片方から慎重に脱ぎ始めた子どもが、こちらの負けが込んで来たと見るや、カードに何か仕込みをしたのではないかと思うくらいに連勝し続けたのだ。TETSUは、ペラペラのトランクス一枚という窮地を迎えて、何でもひとつ言うことを聞くから、ここで手打ちにしろ、と潔さとは対極にある年上の強権を発動させて、譲介との勝負を中途で打ち切った。
その時の譲介からの願い事が、件のペナン行だ。
そもそも、初手からペナンに行くと決まっていたわけでもなかった。
譲介は、明日から僕と一緒に、どこか遠くに海を見に行きませんか、と言ったのだ。
TETSUの中には、湘南では近すぎる、という前提があり、その上で、須磨、はたまた南紀、瀬戸内、後は長崎とか。想定していたのはその辺りだ。
ところが、この史上最悪の女たらしに成長したかつての名子役は「あなたが身分証代わりにパスポートを取ってるのは知ってますよ、お揃いですね。」と言って、身に付けて来た小さな斜め掛けのバッグから例の緑色のカバーの旅券を出したのだ。まるで、質の悪い追っかけがこないような場所に旅行に行くことが、最初から決まっていたみたいに。TETSUは、その翌日、若い頃に買った時代遅れのティアドロップ型のサングラスを掛け、譲介と共に成田のチケットカウンターに並び、二十年も使っていなかったターコイズのキャリーバッグを転がして千葉の海からクアラルンプールへ飛ぶ羽目になった。住所不定のアルバイト暮らしを長く続けていたTETSUはクレジットカードの持ちようがなく、手持ちの現金を半分換金した以外の支払いはほとんど、譲介のカード払いになった。
互いにサングラスを外してカンカン照りの空の下で世界遺産を眺め、アッサムラクサというココナツミルクの味がするカレー麺を啜った。白砂のビーチを歩いて、リクライニングの長椅子に寝そべって、そこそこ美しいと言えなくもない海を眺め、冷たい傘付きの飲み物を飲んだ。泊まりは近場にあるリゾートホテル。TETSUは、十時間あまりのフライトで見られる限り、日本では上映もまだのハリウッド映画やらフランス映画、マサラ映画を延々と見続けたので、着いたその夜は昏倒するようにベッドに倒れ込んで、寝るだけ寝倒した。
若い頃はそれこそ、儲かるわけでもない小劇団に所属して、時折入ったテレビの端役の仕事で金を貯めては、ボストンやらミラノ、ペルーやマチュピチュなんかに遊びに行くような生活を繰り返していたので、なんだかんだで、TETSUも、久しぶりの海外を楽しんだ。なにより、料理が美味かったのだ。
あれが、二度の引っ越しを余儀なくされたTETSUへの、譲介なりの回りくどい謝罪の仕方だったとしても、TETSUは驚かない。三泊四日の短くはない旅行の間、男二人で一体何が楽しいのやら、と隣で楽しそうにはしゃぐ、三十一歳年下の男を眺めた。
あれから二年。
譲介は、原作本をずっと読んでいたはずだ。K2というドラマは、多少経年で古びた話の筋や言葉遣いを修正するくらいのことはするが、元々の話の数が多いため、オリジナル脚本というのはほとんどないドラマだ。譲介はもしかすると、あの頃には、ふたりがこのタイミングで同時期に退場することになると気付いていたのかもしれなかった。
「旅行のことは考えておくから、飲め。」とTETSUは手を伸ばして、譲介のグラスに酒を注ぐ。
タイミングを読んだかのように、次の皿が続々と運ばれてくる。夏が終わったとは到底言えない気温の中で、魚の造りの皿には氷が敷かれ、殻付きの生牡蠣がレモンを添えて運ばれて来た。食いあわせが悪そうな天ぷらとか鍋は止めて、こっちに全振りしたらしい。あとは締めのご飯と味噌汁。
牡蠣は、十数年前に当たったせいで二度とは食わないと思っていたが、予約の時に言うのを忘れていた。オレの分も生牡蠣を食っていい、と言うとありがとうございます、と譲介は嬉しそうに笑った。
TETSUは、譲介と一緒になって、出て来た皿を黙々と食べた。
妙に腹が減っていたせいもある。
「もう少ししたら、蟹が出て来る。十月に解禁で、時価で旨いズワイが食えるのは十一月までだ、勤め人にはボーナスが出てクリスマスやら正月やらが近づく十二月ともなれば、値段が跳ね上がるし、冷凍ものを掴まされるからな。」
そう言うと、へえ、そうなんですかと譲介は言った。
しまった。おっさん染みた薀蓄は控えようと思っているのに、譲介ときたら、こっちのいらん話を聞き流すのも相槌も上手いものだから、つい喋り過ぎてしまう。とはいえ、つまらなかったら言え、とも言い辛い。
譲介相手には、しゃべらなくても、間が持たねえ、というわけでもないのだが。
撮影の後の余韻を引きずっていたくないのかもしれなかった。
特に、ロンググットバイみたいな脚本の撮りの後では。
譲介はいつもの診療所のメンバーとの撮影だが、TETSUの撮りは真夜中のワンカットで、誰とも会わずに済んでしまうほどだった。
それを、この馬鹿は、マネージャーに撮影の日程の探りを入れて、目立つ花束を抱えて会いに来たのだ。
鏡像のロケが終わった時の明るい賑やかさとは全く別の、夜の波止場。撮影班がガヤガヤと収録後の片付けをする中で、このハマーも暫くは見納めですね、と言った譲介は、その口でTETSUとの今日の約束を取り付けたのだ。
「クリスマス、ですか。」と譲介が言うのでほっと胸を撫でおろす。「甘いものが苦手なカップルでクリスマスに蟹パーティーとか聞きますね。それにしても、これだけ毎日暑いと、まだ暫く先のことだと思ってしまいますけど、本当のところ、あっという間でしょうね。」
譲介の言葉を聞いて、TETSUはこの先のことを考えてはあ、とため息を吐いた。
その理由のひとつが、全く、ひとつも、この時点では仕事が入っていないということだ。
「どうせなら、正月のスペシャルとかでシーズンの初回の山場ってのがいつものパターンだろうが。」とくだを巻くと、「撮影が前倒しになったの、鏡像の後の反響が凄かったかららしいですよ。譲介のその後が早く見たい、って。人にそんな風に言われると、自分が演じた役も、ただの架空のキャラクターとは思えなくなってきます。TETSUさんのことも、段々お医者っぽく見えてくるようになりましたし。最初の頃は、こんな医者いるわけない、って、脚本持ち帰った日はずっと笑ってましたけどね。」
譲介は、ガキの頃のようにケラケラと笑って、手酌で飲んでまた笑った。
「しっかし、おめぇとまさか酒が飲める年まで一緒にいるとはなァ。かれこれ十…十一、いや、十二年か?」
よく考えれば、二年どころの話ではない。
「十年一昔って言いますけどね。……僕はァ、TETSUさんがもっと酒の弱い爺さんになっても、一緒に飲みますし、家に遊びにも行きますよ。また一緒に海にも行きたいですし。」
海、海か。
そんなにいいものか、とTETSUは思う。
夕陽の沈む海を、譲介はきれいですね、とありがたがるが、自然は変わらない。
自分の目の前で、役者として深みを出し、変わって行く譲介を眺めている方が、余程面白く、興味深かった。
「あ、僕は譲介みたいにアメリカには行かないから、TETSUさんに何かあったら、呼ばれなくても死に水を取りまぁす、お別れ会の仕切りもお任せください!」と手を上げている。
こっちが酔ってるのをいいことに、さらっとろくでもないことを言いやがる。
「こンの、クソガキが!」
「クソガキ上等です。僕がちゃんとした大人になるまで、TETSUさんが見張っててください。」と言って、譲介は二ッと笑った。
「おめぇなあ……今のうちなら冗談言うのもいいが。そろそろ、あちこち女をとっかえひっかえしてフラフラしてねぇで、さっさと身を固めちまえよ。」
そう、問題はそこなのだ。役者、和久井譲介との付き合いは続けていきたいが、三十歳年下の人生の後輩、女たらしの年上キラー和久井譲介のお守役は出来るものなら早々に卒業したい、と思っている。六十も目の前だというのに、四十代の後半から五十代のTETSUときたら、家に戻ればこのクソガキの顔がある、いないならいないで、いつ転がり込んでくるかとひやひやしていたせいで、ひとりの女に感ける暇もなかった。
「嫌です。」
酒が入ってかったるい口調になってきた譲介は、秒で切り返しをしてきた。
「……うん?」
和久井君、ちょっとこっち来なさい、と譲介がふてくされモードになった時の監督の真似をしてやろうかと思ってしまうほどだ。
「おい。譲介。」
「何スか?」と妙な口答えモードに入ってしまった。さっきまでの外営業面はどうした。
口を利きたくないならメシを食って半分貝になってりゃいいのに、こいつときたら。
「いい年なんだから、その本命とかいねぇのか?」と言うと、譲介は「ハァ?」と声を荒げた。
「本命って……ちょっと言い方古くないですか? あなたはどうなんです。」
「オレ……?」
ちょっと待て、その言い方はなんだ、と怒ってる場合じゃない。
その口調は、いるのか、いるんだな。
「こっちに矛先変えようってんだ、図星だろ。」と指を指して言い募ると、譲介は手酌で酒をグラスに入れて「いますけど、僕は相手にされてませんから。」と言った。
「恋する高校生が、恋する大学生になって、今は恋するフリーターです。」
「いや、そこは俳優でいいだろうが。」というTETSUの言葉を遮るように「ずーーーーーーーーーーっと片思い。」と譲介がバカでかい声を出すので、慌てて立ち上がって伸ばした手のひらで口をふさいだ。譲介は、猫のようにTETSUの手のひらを舐めている。
何やってんだこいつは。
拍子抜けするくらい簡単に口を割った譲介に、TETSUは妙な気持ちになった。
人をさんざっぱら便利な宿代わりに利用しておいて、高校の頃から好きだった相手がいたってことか。
いるならいるで、そっちに甘えに行けという話である。手近なところにいるおっさんで妥協しやがって、と言ってこっちも酒を注ごうとすると、すっかり空っぽになっている。
こっちが肴を食ってる間にひとりでペース上げたのか?
ああ、くそ。
さっさと二合くらいは注文しとくんだった、ここで酒を頼もうものなら、最悪、配膳に来た仲居から話が漏れる。和久井譲介、最新熱愛発覚のタイトルの週刊誌をコンビニで見て戦慄するのは、もう沢山だ。
水飲んでちょっと黙れ、と新しいコップに卓の上の水差しから注ぐ。
コップを渡すと、譲介はそれを煽って、それから小さくむせた。
むせながら、「学生の肩書が取れたら、前ほど甘えさせてくれないし。他の共演者と仲がいいし、……僕だって、頼りがいのある男になりたいって思ってるんですけどね。」
口を尖らせ、譲介は小声で言った。
「そうかよ。」
十年の付き合いのある共演者か。誰だ、と言いたくはなるが、TETSUの覚えている限りじゃ、麻上役のあの子か、そうじゃなきゃ、監督か助監という線もある。
「せめてもう十年、早く生まれてきたかったですよ、高校生じゃなくても、芝居の中ではブレザーの制服が着れるんだから。」と譲介は膨れ面で肘を付いた。
おーおー、酔っちまってまあ。天下の和久井譲介が。
「お得意の口八丁で迫っちゃいねえのか?」
「迫っ……たりしたら、殴られるのでしません。」
「殴る?」
どんな女だよ、とTETSUは心の中でツッコミを入れた。
「からかってると思われてるし。」
「そんなことは……。」と言いかけて、確かにそれはそうかと思い直す。
もし自分なら、学生服の頃から知ってる女……まあ仮に男でもいいが、二十代の半ばになってオレのことを好きだと言っても、気の迷いだと思うだろう。もっと若く、隣に立って似合う相手を選べというはずだ。
まあ、実際のところ、オレが共演していたのは美女の卵ではなく、この顔だけ美丈夫に育った、絡み酒の激しいガキだったわけだが。
もしかして、相手はKEIか?
いや、あいつは独身で、いい相手がしたら結婚したいと公言してるヤツだ。譲介みたいなやつが告って来たら、ひょいパクで品プリ…は古いか……まあ、元がいい家の女だ、あの辺りの格付けのホテルのブライダル部門にまっしぐらだ。まあ殴りはしない。
……うん?
「……まさか、イシさんか?」
「どうしてそうなるんですか?」と声を落とした譲介は、恋で苦悩していると言わんばかりの顔で頭を抱えた。
「いや、そんくらいの年の差がなきゃ、おめぇに迫られた女が嫌とは言わねえだろ。」
「そこまで分かってて。」
はあ、と譲介は大きなため息を吐いて、顔を上げる。
「TETSUさん。」
「何だよ。」
「その話から、ちょっと離れましょう。僕の恋愛の話なんて、面白くないですよ。」
「いや、別に面白がっちゃいねえけどよ。」
むしろ、TETSUにしたら腹立たしいの一言に尽きる。いらぬ節介を焼いたところで、譲介相手では暖簾に腕押し、糠に釘。単なる時間の無駄になることは分かっている。
それでも、応援しないわけにはいかないのだ。
TETSUがこの十年、ずっと一緒に走って来た、相棒の一大事だからだ。
「オレはなァ、おめぇが大事だ。」
だからよ、と言って、TETSUは目の前にいる分からず屋の子どもの額を人差し指で押してみた。
コイツとこの先頻繁には会えなくなるとしたら寂しいことこの上ないだろうが、人生と言うのは、そういうものだ。
「それなら。」
「……それなら何だよ。」
「あなたのこれから先の人生、僕と一緒にいてほしい。」と言って、譲介はTETSUの手を取った。
「はァ?」
譲介は、震えるように息を吐いて、「ずっと、好きでした。」と言った。
TETSUの手を取った譲介の指は、微かに震えている。
どさくさ紛れに言うつもりはなかった、という顔で、その視線は泣きそうに揺れた。
譲介は「こんなことなら、髪の毛切るんじゃなかった。」と言って俯いて顔を隠す。
譲介、おい、早くどっきりでしたと言え。
演技でした、次のドラマは年の差婚がテーマなので、とか。ちゃんと理由があるなら、怒らずに流してやってもいい。
そう思ったが、心のどこかでは、今のこれは違う、とも思っている。
こういう冗談は、これまでに何度か聞いたことがあった。
あくまで冗談だった。
愛してます、好きです。
譲介が酔って口にするたび、おめぇは恋愛の演技が下手すぎんだよ、とせめてしらふの時に練習しやがれ、と拳骨でお返しをしてきた。
あれか!?
譲介にそんな素振りは一度もなかった。なかった……と思っていたが。
自分の家の中だ、裸同然、というか風呂上りは時折はほぼ裸で歩いていたというのに、そんなモノぶらつかせて歩かないでください、とか言ってたはずだ、このガキは。手を出すような素振りも、出されることを乞うような様子もなかった。
TETSUは混乱した。
こいつは、オレが認める天才子役で、キレたガキの演技から、最近は好青年役が得意になってきた、最高の『役者』だ。
役者は、観客に素の顔を見せるもんじゃねえ。
それは、TETSU自身が、譲介に言った言葉だ。
「……ちょ、っと待て、じゃあ、ありゃ何だ、熱愛報道とか。」
「そりゃあ、少しは妬いて欲しかったし……仕事がなくてもあなたの家に行く口実が欲しかったので。」
譲介は、拗ねたような顔をしている。
思い出してみれば、一緒に暮らしていた頃も、適当に外で遊んで抜いて来たような気配があった。シャンプーの匂いが、朝と夕方では違っていた譲介を、困った奴だと思っていたけれど。
むしろ、オレと暮らすために抜いてきてた、ってことか?
ちょっと待て。
TETSUの脳裏には、走馬灯のように、いくつかの領収書の金額が思い浮かんで来た。譲介の代わりに追いかけて来たレポーターや週刊誌の記者どもの顔はこの際忘れるとしても、あれは流石に忘れられはしない。
「おめぇなあ……そんな理由で……。」
あの引っ越しで消えていった敷金と礼金と違約金、業者に支払って消えた金と新しい家に掛けた契約金の千二百万が、相手にしねえ腹いせってか。青山斎場辺りで告別式と葬式が出せる金じゃねえか、と二十年前に見送った母親の遺影を思い出した。
がっくりと肩を落とすTETSUのことを眺めて、譲介は「……怒ってます?」と言った。
「怒ってるし、てめえの人の良さに呆れてるよ。こっちは医者じゃねえんだ。金がねぇ時は霞食って生きてんだよ。」
あの頃の譲介はまだ学生だった。
稼いでいるとはいえ、大学に行くとか、演劇を学びに留学するとか、それなりの使い道があると思って、金の話をするのも遠慮していたのだ。曲がりなりにも大人として暮らしているTETSUが半分出せとせびることが出来ようはずもない。
「次の引っ越しはしねえし、することになったとしても、もう絶対、オレからはビタ一文出さねえぞ。」
そうTETSUに言われて、譲介は顔を輝かせた。
今の話に、何を喜ぶ要素があったのか、と思った、が。
「TETSUさんが引っ越しすることになったら、次こそ責任取ります!」
譲介はやおら立ち上がり叫んで、こちらの両手をひっつかんで目をキラキラさせている。
「……おい。」
………つまり何か。
コイツにしてみりゃ、この先もいつ転がり込んで来てもいいっていう許可を、オレが出したってことになるのか?
「あの、TETSUさん、僕と一緒に暮らしてくれませんか。」
どうなってんだよ近頃のガキの精神構造は。
頭が痛くなってきた、と思ったが、早めの二日酔いが来ているのかもしれなかった。
譲介の言う通り、年を食って、やけに酒に弱くなった。
明日起きたら、今話した内容を全て忘れていたらいいのに、と思うが、きっと無理だろう。
長い間共演してきたせいか、譲介が話した言葉は、芝居で交わした台詞のように、やたらとTETSUの頭の中に残って、時折ハレーションを起こす。
「あのなあ、」何かを言おうとしたその時、電話が鳴った。
譲介の手を振り払って出た電話口からは、いつ頃デザートをお持ちすればよろしいでしょうか、という声掛けと、お飲み物の追加がラストオーダーになります、という話があった。
「何か飲むか?」
「いえ。」と譲介は首を振る。
「……仲居が来る、せいぜい大人しくしてろ。」
「はい。」
付き合いもせず、一足飛びに同居か。
TETSUは譲介を見た。譲介は、TETSUの視線に気づいて、はにかむように笑った。
出会って十年、付かず離れずで同居したりしなかったりが七年。しかも、初めの顔合わせは中坊の時期だ。
こいつが女だったら、どう客観的にみてもただのグルーミングじゃねえか。
牡蠣飯を平らげたばかりの胃が、妙に重くなってきた。
メシ食って、酒飲んで、仕事の話をして。一緒の部屋に暮らしてるのに外で待ち合わせしてメシ食いたいって言われたこともあったな、そういえば。
セックスを除けば、若い頃のTETSUが女と付き合ったときにした大概のことは譲介としている。
「オレは引っ越しはしねえぞ。」
「僕がTETSUさんちに越して来ます。」
「……そうかよ。」
「そうかよ、って。」と譲介は笑った。
「こういう時の、それなりの返事が欲しいってんなら、オレはやめとけ。」と譲介の酒のグラスに水を注ぐ。
「酒だ、飲め。上手く酔っぱらえたら、今日はオレの家に連れてってやる。」と手を振ると、「……っ、たく。こういう時までスパルタなんだから。」と譲介は笑って、水の入ったグラスを干した。
頬がほのかに赤くなって、にこにこと笑顔になる。
酔っぱらうたびに口数が多くなってたのは、あれも演技のうちか。
馬鹿なガキほど可愛いとは言うが、ありゃ嘘っぱちだな。
どれだけ賢しらなガキでも、付き合いが長くなりゃ、それなりに可愛いってもんだ。
譲介は、アイスクリームを運んできた仲居が来る前にテーブルに突っ伏し、世界にふたりきりの観客の前で、もう飲めません、と呟いた。二杯飲んだくらいじゃその程度でいいだろうが、これだけ飲んでいるなら、寝てても構わない。
TETSUには下手な演技と思うが、そもそも既に酔っぱらっているのだから、せいぜい五十点というところだろう。
「嫌になったと思えば、これまでどおり家から蹴り出してやるから、それまで粘ってみろ。」
「それって、僕が蹴り出されるの前提で話してないですか……?」
「酔っ払いが整然と話してんじゃねえよ。」
和久井譲介、0点だ。
TETSUはそう言って、譲介の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
譲介は、こうしてもらえるならずっと0点でいいです、と言って、楽しそうに笑っている。

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