あなたが


春先は日が落ちるのが早い。
「こんばんは。」
目立つサングラスを玄関で外してこちらを見た譲介は、手土産がないと手持ち無沙汰なので、とはにかんで、近所のカレー屋のロゴが入ったビニール袋を差し出した。
ここに来る、と言っていた時間より一時間も早い。
好きです、という譲介の告白を、受け流さずに聞いたあの夜以来の、初めての訪問だった。
妙にぎこちないのはこちらも同じだ。
「夕飯か?」と言わずもがなの話を口にして、舌打ちをしたいような気分でいると「中で食べようかと思ったんですけど、やっぱり一緒に食べたかったので。」と譲介はためらいがちに微笑み、ビニール袋に入った包みを差し出した。
玄関近くのハンガーに掛けているひざ丈のチェスターコートはオフホワイトで、これまでに見たことのないおろしたてに見えた。確かにカレー屋に入って行くには勇気がいるだろう、とTETSUは思う。
思い返せば、譲介はオレの家に来始めた高校の頃は、まあ、外で待ち合わせするときはともかく、来るたびに小奇麗な格好をしていた。
よそいきの格好をさせる親の躾がいいのだろうと、ずっと思っていた。あの頃、こまめに家の掃除をするようになったのは譲介が来るようになったのが理由だ。
出会った頃から恋慕の情を抱えて傍にいたのだとしたら、鈍いにもほどがある。
そんなことを考えながら、TETSUはカレーの入った包みを受け取った。
「今日はまだアルコールを入れたくないんですけどコーヒーでいいですか?」と問われて、そういやあ、今日は相談したいことがあると言っていたな、と思い出す。
まあ、相談と言ったところで、引っ越してくるタイミングの話だろうが、それにしても、ただ本を貸すだけの日に比べれば話は長くなるに違いなかった。
茶でも入れてやるか、と思ってキッチンに立つと、譲介が後ろからついて来て、「この間僕が持って来たエチオピア、まだありましたっけ。」と尋ねた。
挽いてしまった粉は大体二週間が飲み頃の目安というが、譲介が来なければ来ないで、食器棚の缶の中に仕舞いつけになることが多い。毎日飲むようなこともないので、その辺を探せば出て来るはずだ、と譲介に告げた。
「じゃあ、今日は僕がコーヒーを淹れますね。」
譲介は、電磁調理器のケトルに水を入れて湯を沸かしている。
棚からコーヒーの粉とペーパーフィルターを引っ張り出してコーヒーサーバーにセットしていると、「TETSUさん。」と譲介が名を呼んだ。
「何だ?」
藪から棒に、キスしてもいいですか、と譲介に言われて笑ってしまった。
こういうのは、確かに、コーヒーを淹れるんなら終わってからにしろ、などと野暮を言っている間にタイミングを失ってしまうものだ。
いいぜ、と返事をしながら、それを言い終える前に譲介に唇を重ねた。
女とする時の歯が当たらないやりようは、まだ身体が覚えていたらしい。リップクリームでも塗っているのか、かさついたところのない譲介の唇を、もう一度角度を変えて重ねてみる。
譲介が首裏におずおずと手を回すのが感じられたが、最初ならこんなもんだろ、と思って離れようとすると、追いかけて来た譲介の唇でまた口を塞がれた。流し台に、身体が押し付けられる。
最初のキスの間に、首に回された腕が片手になり、もう片方の手は、こちらのセーターを押し上げている。
譲介の掌が、腰に触れた。
脇腹をなぞり、腰骨を辿るそれは、まるで別の生き物のようだ。
――は?
あくまで自分の知る経験値の中で、TETSU自身がこうしたことのリードをしていたことを思えば、好いた相手にキスを許せば、成り行きでこういうこともあるだろうとは思っていたが、この年下の男との関係において、こうしたことで先手を取られるとは思わなかった。
こちらの身体をなぞる手の動きに、否応なしに譲介の欲を感じてしまう。
この手を退けたい訳ではない、という考えが頭の中に閃いて、TETSUは、更に困惑した。
場の主導権が握れないことに対する不安が半分、こいつがどうするのか、この先を知りたいという、ガキのような好奇心が半分。
唇を開くと、譲介の舌が中に入って来た。初めてではないのだろう。余裕のない譲介のがっつきようは、身体の触れ方の方だったが、舌を受け入れると、それも波が変わった。
胸から臍へ、それから下腹部へ。ジーンズの形を変えた膨らみの上に手を触れられるに至って、反射でTETSUは譲介の胸を押した。
「ちょ、っと待て、おい、」濡れた唇を拭おうとすると、譲介に手首を取られた。
「いやです。」
「話、ってのは。」と言うと、譲介は、視線で射すくめようとするかのように、TETSUを見つめた。いつもの、甘える猫のような顔つきではなかった。
「これです。」と譲介が言って、流し台の縁にTETSUを追い詰めたまま、着ていたカットソーを脱ぎ捨てた。
僕はあなたが欲しい、と譲介は言った。他には何も。
TETSUは、同じ名を持つ、静かな曲を知っている。
それでも、今のこの場では、特別なところのない、ただ欲を表す言葉に過ぎない。
頭に血が上っている様子の年下の男は「僕はもう十分待った、と思いますけど。」とだけ言って、その囁き声の後に、キスの続きを始めた。
ケトルがシュンシュンと、湯を沸かす音を立てている。
空焚きになる前に頭が冷えりゃいいが、と思いながら。TETSUは、譲介の求めに応じて、たくし上げられたセーターを脱ぐために腕を上げた。






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