お題: 中央の市場にお買い物に行く2人
晶の全身を淡い風が撫でていく。昨晩の雨で濡れた石畳を滑った風はどこかしっとりと水気を含んでいて、陽射しに照らされた膚を慰めた。心地よさに晶は目を細める。隣に歩く魔法使いも同じように目を細め、しかし見えてきた雑踏に意識がすでに向いているようだった。雪と氷に包まれた土地がマナエリアの彼にはずいぶんうるさく感じるだろう。今二人は中央の国、魔法舎に一番近い市場に赴いている。普段の買い出しではない。任務だ。
目的は〝月の雫〟を買うこと。
この世界を少しずつ壊し続けている《大いなる厄災》の名を恐ろしくも冠にしたその怪しい品は、貴族の子息や令嬢の中でまことしやかに噂になっていた。しかし仔細は不明。秘密主義の貴族文化が阻害し、噂を聞き齧ったクックロビンも中央の国の市場で極秘に入手出来るようだということしか分からなかった。因果関係がありそうな差し迫った被害報告はないものの、名称が名称ということで魔法舎へ話が舞い込んだのだった。
折しも他の任務が立て続けに入っていたため、現物をまず入手し魔法舎に持ち帰って調べようということに決まった。ちょうど留守番をしていた北の魔法使いらに晶は同行を願い出た。一番に話しかけた双子はその場で捕まえたブラッドリーのくしゃみで共に何処かに消え、オーエンにマフィンを差し出したらマフィンだけ持っていかれ姿を消された末、晶の眼前には不眠の魔法使いが一人、肘を撫でていた。
「本当に今晩は寝かしつけに集中してくれるんでしょうね」
「はい、もちろんです! ……たぶん」
不信が残る語尾にミスラはちらりと視線を向け、しかしいつも自分の思い通りには動かない賢者という存在に折れたのか深い溜め息をついた。石畳に靴を鳴らしつつ、晶は自身の信用の足らなささに弁明した。
「〝月の雫〟の危険次第です。急いで対応しなくちゃいけないなら今晩は難しいでしょうし、名前だけで大したことがないならミスラの寝かしつけに集中出来ます」
もちろん、今晩無理だとしても近いうちに必ずと、晶はせめて力強く頷いてみせる。
次第に二人の左右へ店が軒を連ね、広がったタープの日陰に青い空が狭くなる。客とすれ違うようになり賑やかしい喧騒が二人を包んだ。
「じゃあさっさと見つけて買って帰りましょう。その分俺の寝る時間が早くなります。その〝月なんとか〟はどんな物なんですか?」
「それが、どんな物かはわからないんです」
「はあ」
晶の右斜め上から気の抜けた返事が聞こえる。
色とりどり形も様々の果物がうずたかく積まれた横を通り過ぎざま、甘酸っぱい香りが鼻腔を一瞬満たす。隣には大きな瓶や紙袋に詰められたキャンディが並び、次には陶器の食器や編みかご、向かいにはガラスのドームの中で鎮座する焼き菓子。可愛らしい雑貨店、園芸店では溢れんばかりに咲き誇る極彩色の切り花や植木鉢。物の洪水の中で、見たこともないものを探す途方もなさに晶はやっと気づいた。助けを求めるみたいに隣の長身を仰ぎ見る。と、その姿は無かった。
「えっ、あれ!? ミスラ!?」
「ふぁい?」
心臓を冷やした割には彼の姿はすぐ近くにあった。大きなブロックのチョコレートが積まれた露店の前で口いっぱいに頬張っている。今度は違う意味で晶は慌てた。急いで駆け寄る。ミスラの口元からガリゴリと派手な咀嚼音が響く。
「まさかお店の物を勝手に食べたりしちゃったとか」
「試食用のチョコレートさ! お兄さんも食べて行きな」
恰幅の良い男店主が木製のハンマーで気前よくブロックを叩いた。試食用とは思えないサイズの大きなチョコレートにはナッツがふんだんに敷き詰められ、晶は断りきれずに頂くことにした。キャラメリゼしたアーモンドの香ばしい風味が鼻に抜け、その次に口腔でとろけるチョコレートは意外にもさっぱりとしていて、口の中が一杯で言葉を発せずとも晶の目が輝くのに店主は相好を崩した。
「はっはっは、美味しそうに食べるじゃないか」
「賢者様、これもっと食べたいです」
歯応えが良いのが気に入ったらしく、ミスラがチョコレートブロックを見つめる。確かに賢者の魔法使いたちからのお土産で味わったことはない物だ。自分たちで割って楽しむのもリケやミチルが喜びそうだし、晶は大きな試食の礼もかねてポケットから財布を出そうとする。店主はぶるりと太い首を振った。
「賢者様だって? こないだ黒い髪の賢者の魔法使いさんに崩れそうだったテントの土台を直して貰ったんだよ! 気に入ったんなら持って帰ってくれ」
「あらやだ! お前さん賢者様なのかい。うちの茶葉も持って行って頂戴! 孫が怪我した時に助けてくれたそうだからさ」
ぐいと差し出されたブロックチョコレートの包み紙に驚き反応が遅れた晶へ、更に隣の店からしゃがれた声が飛んできた。花柄のスカーフを頭に巻いた老婆が包まれた茶葉の小袋をいくつも紙袋へ勢いよく放り込んでいる。真向かいの揚げ菓子の店の女も高い声を上げた。
「まあ! うちだって世話になったよ! 今揚げたてのこいつを是非賢者様も食べておくれ」
「なんだい? 賢者様と賢者の魔法使いさんが来てるのかい?」
「あわわ」
晶は次々と差し出される品物一つずつに頭を下げ、騒ぎが大きくなる前に足早に移動した。
市場の真ん中、広場の噴水前まで辿り着き、晶は少し乱れた息を整える。今にも溢れそうな両手に高い位置からミスラの手が伸びた。晶を助けてくれるのかと思いきや、油紙にいっぱい入った揚げ菓子が食べたかっただけらしい。それでも重量があるブロックチョコレートの大きな板も小脇に抱えてもらえ、晶は礼を言う。
「買い出しに来るついでにみんなが色々と人助けしてるんですね。あのままあそこで立ち止まってたら両手に持って帰れないほど貰い物してたかも」
「貢ぎ物に逃げるなんて変な人ですね」
ドーナツに似た砂糖がまぶされた揚げ菓子を北の魔法使いは早速口に放り込む。ふわりと香った油の匂いに晶も自ずとミスラの手元へ指を伸ばし、まだ温かい一つを口に入れた。銀河麦の素朴な生地にほんのり香るスパイスの絶妙な味付け。これは後引く味わいだ。もぐもぐと賞味しつつでは説得力が無いだろうが晶は首を振った。
「貰いすぎてしまったら、まるでみんなが謝礼目当てに助けたみたいじゃないですか」
魔法使いの家みたいに、人と魔法使いの隔たりを無くす小さな第一歩になっているはずだ。大事にしたい。
噴水の縁には腰を下ろし足の疲れを取る者や立ち話に盛り上がる者など、思い思いに過ごす憩いの様子があった。ここでも石畳の上は掃き清められ、噴水の飛沫が陽射しにきらきらと舞っている。ミスラは普段の分かっているのか分かっていないのか判断がつかないぼんやりした様子で晶へ視線を向けた。思案顔だった晶は指先についた砂糖をぺろりと舐め、ミスラを見上げる。
「俺が賢者だというのは隠した方がいいかも。ミスラ、賢者だと呼びかけないように気をつけてもらえますか?」
「はあ」
気の抜けた返事に少しばかり不安に思いつつ、晶は当初の目的に頭を切り替えた。
普段の買い出しに使う青果店や肉屋がある表通りは晶もよく知っている。怪しい物を売るような店や看板は見当たらなかった。〝月の雫〟は名前からして魔力を帯びていそうだし、晶と同じくよく出入りする賢者の魔法使いも違和感があれば日頃の時点で気づいているだろう。表通りは避け、歩いたこともない道を出来るだけ進むことにした。あとは基本聞き込みと、ミスラの検知能力に頼るしかない。
二人の足がメインストリートから離れる分、すれ違う人波がまばらになっていく。晶は気になるところからしらみつぶしに行くかと、初めて見る店へ指を差した。今にも傾きそうな古ぼけた店の前には埃まみれのショーウィンドウ。ミスラは食べ歩きに口を動かしつつもその先へ首を傾ける。
「ミスラ、あそこの店先に沢山飾られた薬瓶はどうですか?」
「はあ。何も感じません。ただの精油とか薬酒じゃないですか?」
〝雫〟と言った名称から液体かと当たりをつけて、いかにも怪しげな薬瓶が所狭しと並ぶ様子に目星をつけたのだがミスラの反応は悪かった。晶は少し肩を落とす。
(まあ、一軒目から当たるわけもないか)
明かり取りの窓がなく薄暗い店内をミスラは入り口から覗き込む。その手にはもう揚げ菓子は無く、あっという間に食べ終えたようだ。晶は先程舌に感じた風味を名残惜しげに思い浮かべる。今度買い出しで来たらこっそり買って帰ろう。
「ああ、これはちょっといい物が漬かってます」
「ひぃ!」
晶は虚空を見つめる白い目玉に飛び上がった。ミスラの視線の先、ひとかかえもありそうな巨大な蛇の首が特大の薬瓶に納められている。思わず後退って長身の背後に回った晶へ、ミスラは不思議そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか?」
「いやちょっと俺の常識を逸したサイズの蛇だったので」
「へえ。晶の世界にはこのくらいのは居ないんですか」
名前を呼ばれて晶は顔を上げた。ミスラと目が合う。ちゃんと晶のお願いを聞き入れてくれていたようだ。聞き慣れないその響きに、胸が一瞬撫でられたような心地になる。
「……もしかして〝月の雫〟っぽいですか?」
「ただの伝統的な大毒蛇酒です。サイズが良いだけで魔力も感じません」
暗く埃っぽい店内は精油や薬酒を日光から守る為らしい。奥に鎮座していた店主に〝月の雫〟について尋ねたものの、成果は無かった。
その次には立派な佇まいの宝石店へ向かった。貴族の若者の間で流行しているという情報から、高級店で売っている可能性もあると考えてのことだ。宝石についていそうな立派な名前でもある。店内にはガラス張りのショーケースがコの字に広がり、その中で銀縁の片眼鏡にベスト姿の店主が立っていた。二人が入店した際に揺らしたドアベルの音がからんからんと余韻を残す。見透かすような色でエメラルドが二つ、ぐるりと一周した。
「晶、ここにはろくな石はありませんよ」
聞きようによっては角が立ちそうな台詞に晶はミスラの口を咄嗟に塞いだ。店主の眼鏡越しに透けた視線が鋭い。慌てて顔を寄せ、ぼそぼそと小声で囁く。
「ミスラ、聞き込みする前に機嫌を悪くさせてしまうと教えてもらえなくなっちゃいます」
「〝月の雫〟でしたっけ」
「そうです。一体どんな物か分からないから一つずつ潰していかないと……」
入店するなり内緒話を始める二人へ店主は片眉を上げた。
「エンゲージリングでもお求めですかな」
「エンゲージリング!? いや、その」
いかにも冷やかしらしい客を揶揄ったのだと晶が気づいたのは、にやりと口端を上げている店主と目が合ってからだ。晶は一瞬のぼせた頭を振った。仕方なくストレートに〝月の雫〟について尋ねる。店主はそんな名前は聞いたこともないと首を傾げた。
「ここは人間の店ですよ。市場のもっと北の方の路地には怪しげな店がいくつかありましてね。おおかた流れ者の魔法使いの店でしょう。その辺りの者に尋ねた方がよろしいのでは?」
「北の路地ですね! 行ってみます」
めぼしい情報に晶は頭を下げ、ミスラと共に店を出た。
確かに魔法舎に居たらおやつが出ていた時刻かもしれない。晶はマフィンをオーエンに奪われてしまったことを悔やむ。路地を目指す間、揚げ菓子だけでは物足らなかったミスラの足が匂いにつられてふらふらとするから、晶は空いた片手で彼の白衣の端を握って歩いた。魔法使いが店先で焼いている肉の塊を指差す。
「あの肉ちょっと食べてきます」
「わー! 待って! 夕飯まで待てませんか? 我慢するとその分もっと美味しく感じますよ」
オアシスピッグだろうか、肉の旨味と笑いニンニクの匂いが煙と共に漂い、健康な男子である晶もよだれが出そうになる。決死の覚悟で茶葉が入った紙袋をしっかり持ち直し前を見る。ミスラは小脇に挟んだ板へ視線を下ろした。
「じゃあこのチョコレートを食べていいですか?」
「そ、それはもっとやめて頂けると助かります。お礼の品は手助けした人に差し上げたいので。揚げ菓子はうっかり食べちゃったから、それだけは残しておきたい……。ミスラ、よそ見せず頑張って行きましょう――」
晶の瞳がある一点に吸い寄せられ足が止まった。眼下にあった肩に軽くぶつかり、ミスラはたたらを踏む。
「なんですか?」
「あの塀に登ってる猫ちゃん、首輪がフリルになっててまるでお洋服着てるみたいですよ! 手作りなのかな? めちゃくちゃ可愛い!」
ミスラが晶の指差す方向を見やる。赤土のレンガ塀の上で太った白猫が前脚を毛繕いしていた。首には赤いギンガムチェックのフリルが巻いてあり、ふてぶてしいボリューム感が増している。ミスラには道化めいて見え、しかめ面した。
「全然可愛くないですけど。あなただってよそ見してるじゃないですか、全く」
「だって猫ちゃんが」
「あなたって本当に猫ばっかり」
「違うんですよ、サクちゃんにもああいうのどうかなって」
「何が違うんですか、言い訳がましいこと言って」
北のミスラが同行するからと部屋に置いて来させたサクリフィキウムの名を出されて、ミスラは口端を更に下げた。ただただ引っ張られっぱなしだったが今度は自ら白衣を持って晶の腕を引っ張る。二人の掛け合いが耳に入ったらしく、すれ違った二、三人の買い物客がくすくすと笑った。
「彼ったら猫に嫉妬するほど仲良いのね」
晶に向かってにっこりと言われ、晶の頬がほわりと熱を持った。
突然俯いて黙った晶をミスラが見下ろす。素直な髪筋が垂れて陽光を受けていた。
「晶?」
たった三文字。聞き慣れた役職ではない響きに、今確かにとくりと心臓が跳ねた。晶はミスラの白衣の裾を持ったまま、無言で石畳を進む。幸い、ミスラもされるがまま着いて来る。
おやつをつまみ、あれこれとお喋りしながら色んな店を巡って、デートみたい。一瞬そう浮かんだ単語を晶はなんとか打ち消した。
北側の路地、その両隣は建物と高い塀に挟まれて午後の光を遮り、足元も雨の名残りが消えないままじっとりと暗かった。壁や塀を背に小さな屋台らしきものが点々と立つ。黒いテントには占いなのか水晶玉を前に座るフードを目深に被った人。はたまた幾何学模様を模したわら細工がいくつもぶら下がった奥でひっそりと佇む、背中が曲がった老人。大きな麻袋が積まれた手押し車へ直接腰掛け、煙草をふかす髭に埋もれた男。どの者も二人が通り過ぎる様子をじっと見つめる。晶は居心地の悪い視線に耐えつつ、当てが外れたような気がしていた。
「…………」
宝石店の店主は魔法使いの店だと踏んでいたが、魔法使いがこの場に居るならば北の魔法使いミスラの強い魔力に察し恐れ慄くのではないか。晶はミスラを振り返る。彼はただあくびを漏らしているだけで変わりはなかった。塀に絡む蔦の葉が生い茂り、ひょろりと伸びた枝をなんとか掻い潜る。突き当たりが見えてきて引き返そうかと思った時、不意に女の声が囁かれた。
「〝二人組〟ならウチの店に用があるんじゃないかしら」
「え?」
隣の壁にドア一枚分ほどの窪みがあり、声の主は小さなスツールに腰掛けていた。頭からすっぽり覆ったベール越しにも長いまつ毛が色っぽく上下するのが透けて見える。晶とミスラの間へ視線を下げ、赤紫色の厚い唇がうっとりと弛んだ。
「あら可愛いこと」
晶は羞恥心に掴んだきりだったミスラの白衣をぱっと手放した。晶がちらと見上げる視線も気にも留めず、長身は再びあくびを漏らし空いている片手を気怠げにポケットへ突っ込む。女は微笑んだまま二人を見上げた。
「恥ずかしがらなくていいのよ。だってそういうことですものね」
「そういうこと?」
「お求めのものは〝月の雫〟」
晶は息を呑んだ。
「そ、そうです」
不意に現れた名に晶は飛び上がった。女はその反応へ満足げに頷き、懐へ手を差し入れる。取り出したのは月を模したガラス細工の装飾が美しい小瓶だった。中には薄青い液体が収められ揺れている。陽が差し込まない薄暗い日陰の中で、それはほのかに光って見えた。しかし、それだけだ。なんとなく拍子抜けする。隣のミスラも警戒することもなく、大して興味も無さそうに小瓶を見下ろした。
「へえ、本当に売ってたんですね。見つかって良かったですね、晶」
「これが本当に〝月の雫〟……?」
晶の確認にベールの女は頷いた。
「ええ、そうよ。あなたたちも噂を聞きつけてここまで来たんでしょう」
晶は抱えていた紙袋をひとまずミスラへ預け、言われるがままにお代を払う。念の為に持たされていた予算はほとんど消えた。目が飛び出るような金額を叩きつけられずとも、金貨一枚とはなかなか高額だ。市民に金貨はそうそう縁がない世界のはず、貴族の若者の間で流行しているらしいことはある。
噂の物を怪しまれずに入手するという今日の目的を無事達成し、踵を返した晶はミスラの袖を再び引っ張った。
「末永くお幸せに」
ベールの中から含み笑いが届き、晶の耳に引っかかる。買い物をした客の礼にはそぐわない台詞に晶は振り返った。
「それってどういう……」
「ただいま戻りました」
「ただいまです」
談話室の窓の外は夕焼けに染まり、床板を影の黒と夕陽の金色が彩る。漆黒の外套を揺らし、折よく任務から帰ったばかりのファウストがソファから立ち上がった。
「おかえり。二人だけで行かせてすまないな。どうだった? 〝月の雫〟は」
「買えましたよ。人間が売ってました。魔法薬でも無さそうです」
ミスラが長い腕を伸ばし小瓶を差し出す。ついでにずっと脇に抱えて少し溶けてしまっているだろうチョコレートブロックや紙袋も渡した。ファウストの細い体が驚きで傾ぐ。
「おい、それ以外のなんだこれは」
「市場の人に頂いた日頃のお礼です。あの、皆さんで」
長身の背に隠れるように立っていた晶は早口に告げ、じゃああの、なんて俯いたままミスラとファウストを置いて足早に去って行った。踵を返す際に見えた頬が林檎のように真っ赤でファウストは目を見張る。しかし追いかけることは控えて、ぼんやりと立ったままの長身へ尋ねた。
「どうしたんだ」
ミスラは肩をすくめ、どこか居心地悪そうに首の縫合痕の辺りを指で掻く。
ベールの女の台詞はミスラも耳にしていた。晶の反応も。思い出すと心臓の辺りがむず痒くなってたまらない。それでも目の前の色眼鏡越しの瞳がミスラを糾弾するようだったから、仕方なしに説明した。
「それ、恋人用の飲み物ですって」
「は?」
“月の雫〝には恋人同士で分け合って飲むと、永遠の愛で結ばれるというジンクスがあるらしい。して、名の由来は“毎夜に空にあがる大いなる厄災のように、毎晩あなたに逢いたい〟――という意味の、精力増強剤であった。
帰路につき魔法舎の見慣れたエントランスに立った時、晶は一日を振り返って愕然とした。
今日一日、二人はまるでデートして、周りの人に折に触れては冷やかされ、流行っているという恋愛ジンクスありの品物を買っただけ。
まるで、恋人の一日だったから。
(今晩の寝かしつけの口約束、どうしよう)
全身に血流が走って、頭がのぼせるみたいにくらくらして、この火照りはすぐに冷めそうもない。
締めくくりに共寝なんて、晶の心臓が壊れそうだった。
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