新頌

※覚醒ノ物語の内容を含みます



「おや……次は僕の番かい」
 未だ司書の体調が万全でない帝國図書館。館長室へ呼び出された北原白秋は、言葉とは裏腹に、意外そうな素振りひとつ見せずに言った。
「そうだ。まだあんな状態である|都竹《つづき》君のそばから、君を引き離すのは気掛かりではあるんだが……」
 館長の顔にいつもの快活さはなく、言葉にも迷いがあった。
「君は、都竹君の精神的な支柱だからな」
 白秋は何も答えないが、その沈黙は肯定を意味しているだろう。
「……僕がそばについているからといって、あの子が快復するわけでないなら、僕は僕の為すべきことを為すよ。想定より早かったというだけだ」
「すまない……負担をかけるな」
「負担に感じたことは、一度もないがね」
 白秋は、いつもの優雅な仕草で、顎に手を当てた。そのまま何か考えるようにうつむき、ややあってから再び館長を見た。その目に憂いはなく、ただ静かな意志の光を湛えているのみだ。
「露風にあとのことを任せるよ」
「ああ、そうしてくれ」
 館長は深く頷き、白秋もそれに返すように小さく微笑むと、静かに踵を返して退室した。


 |和仁《なぎと》の体調は、あまり思わしくないようだった。調子の良い時はベッドの上に身を起こして読書することもできるのだが、今日は布団に潜り込み、瞼はぐったりと重く閉ざされている。
 それでも、起きていられる日が1日から2日に増え、2日が4日になり、1週間になり──快方へ向かっているのは確かなのだ。
 眠り込んでいるかと思ったが、白秋がそっとベッド脇の椅子に腰掛けると、ゆっくりと眩しそうに瞼が開いた。
「先生……?」
「おや、起こしてしまったかい」
 白秋が優しく微笑みかけると、和仁の青白い頬が、ほのかに上気したように見えた。
「来てくださって……嬉しいです」
 掠れた声で言い、また目を閉じてしまう。やはりまだ本調子ではないと察しがつく。眠っているべきなのだろうが、この少年の感情を無下にしたくはないと、白秋は思った。
「何か、読み聞かせてあげようか」
「……いいんですか? でも先生、お忙しいんじゃ」
「いいから」
「……ありがとうございます」
「うん」
 白秋が本を開くと、和仁は期待に満ちた眼差しを向けながら、じっと耳を傾けた。静かで穏やかな時間が、ゆっくりと流れてゆく。
 白秋の声がふと途切れると、和仁はどこか寂しげな表情で目を細めた。何かを探すような仕草をするが、手は虚空を握るだけに終わる。
「どうかしたかい」
「いえ……ごめんなさい」
「謝ることはない。何かあるなら、遠慮なく言い給え」
 和仁は少しためらうような様子を見せたが、小さな声で答えた。
「ずっと寝ていると、なにもかも真っ暗で……不安になって……冷たい、夢を見るんです」
「どんな?」
「……」
 しばしの沈黙の後、和仁は小さくかぶりを振った。
「……今は、何も考えなくていい」
 和仁の手がまた、虚空をさまようのが見えた。白秋がその手をそっと握ると、安心したように握り返してくる。その手はひどく冷たく、氷のようだった。
「先生……」
「なんだい」
「……ありがとうございます……」
「いいんだよ」
 白秋は珍しく、少し逡巡した。今この少年を置いて『紡の有魂書』への潜書を行うことが、果たして本当に彼のためになるのだろうか──と。しかし、ここでこうしていても何ひとつ変わらないことも、また事実なのだ。
「和仁くん」
「はい……先生」
「どうやら、次は僕の番らしいのだよ」
 和仁は、小さく息を呑む。その言葉の意味を、すぐに理解したようだった。
「行ってくるよ」
 そう声をかけた途端、青林檎色の瞳から、大粒の涙が音もなくはらはらとこぼれ落ちた。
「……和仁くん」
 声ひとつあげずに、ただ涙だけを流す和仁の頬にそっと触れると、手の甲を伝って流れ落ちる熱い雫が、袖口に染みを作った。
「せんせ、」
「なんだい?」
「ぼく──僕は、」
 和仁は言葉を詰まらせた。何かを伝えようと必死に言葉を探すが、結局何も言えずに顔を伏せてしまう。
「大丈夫だよ、無理に話そうとしなくていい」
 白秋の手を握り返す手に力がこもり、微かに震えているのがわかった。
「先生……どうか……お気を付けて……」
 やっとのことで絞り出した声は掠れ、今にも消え入りそうなほど頼りなく震えていた。
「すぐに帰ってくるからね」
 和仁は頷く。その目にはまだ、涙が浮かんでいた。
「もう、おやすみ」
「……はい」
 そのまましばらく手を握っているうち、やがて小さな寝息が聞こえてきた。



❀ ❀ ❀



 指環を手に、無事潜書を終えた白秋の姿を見て、館長は大きく安堵の吐息をもらした。
「よかった、無事に戻れたんだな。大丈夫か? 異常はないか?」
「ああ、どこも問題はない。……他に用もなければ、僕は失礼するよ」
「ああ。早く行って、安心させてやってくれ」
 白秋は踵を返し、足早に廊下を行く。文豪の覚醒と司書の体調の変化は、密接に関係している。これまでがそうだったように、白秋が無事に事を為したことを、和仁は既に勘付いているだろう。
「──和仁くん」
 ノックもそこそこにドアを開けると、和仁は布団に横たわったまま、白秋を迎えた。
「先生……!」
 飛び起きようとした和仁を、白秋はそっと押しとどめる。
「無理はいけないよ」
「ごめんなさい……でも……」
 布団に添えられた白秋の手に触れて、ようやく安心したのか、和仁はほっと息をついた。その目元にはうっすらと涙の跡が残っている。
「少し顔色がよくなったね。よかった」
「先生、本当に大丈夫ですか……お怪我とかされてませんか……?」
「平気だよ。この僕が、つまらぬ輩にやられるはずがないだろう? 君は、自分のことを第一に考え給えよ」
 和仁は、ようやく安心したように微笑んだ。
「先生のことは信じてますけど……僕、どうしても心配で……」
「うん」
「だから、先生が無事に戻ってきてくださって、本当に嬉しくて……」
「うん」
 和仁の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「……よかったです……」
「もう心配はいらないよ。だから泣くのはおよし」
「だって……僕……本当に……」
 次第に嗚咽が抑えきれず、子供のようにしゃくりあげはじめた和仁の頭を優しく引き寄せると、素直に身を預けてきた。しばし、部屋には少年のすすり泣く声だけが響く。
「先生がいてくださらないことが、こんなにも心細くなるなんて、思ってませんでした」
「君は今、心身ともにとても弱っているからね。無理もないことだ」
「恥ずかしいです……僕、もっとしっかりしなくちゃいけないのに」
「君はよくやっている。ただ、今は休息が必要なだけなのだよ。だから、もうひと眠りしなさい」
 ベッドから白秋を見上げる青林檎の瞳は、朧げに揺れていた。
「先生」
「うん?」
「起きたら、先生の見てきたもののお話を……聞かせてくださいますか?」
「もちろんだよ。君が望むだけね」
 和仁は安心したように小さく頷き、瞼を閉じる。寝息をたてはじめたのを見届けて、白秋は軽く息をつくと、踵を返した。


 宿舎の片隅に設けられた喫煙所から、白秋はぼんやりと庭を眺めていた。
 咥えた敷島は吸い口を潰しただけで火を点けられることはなく、銀色の|魔法燐寸《ライター》は手持ち無沙汰に弄ばれている。
「考え事ですか?」
「……まあね」
 背後から声をかけたのは、高村光太郎だった。白秋は振り返らず、曖昧に答える。
「珍しいですね、白秋さんが煙草も吸わず、上の空になっているなんて。大丈夫ですか」
「僕はいつもと変わらないさ」
 白秋は苦笑しながら振り返り、|魔法燐寸《ライター》を擦った。小気味よい音をたて、火種を与える役割を果たした銀色が手の中で閃く。じっくりと味わうように紫煙を吸い込み、くゆらせる──彼にとっての大切な儀式であるそれを堪能すると、白秋は満足げに目を細めた。
「白秋さんが魂の世界へ行くことになったと聞いて、気になっていたんです。……無事に戻ってきてくれて、本当によかった」
「ありがとう、光太郎くん」
「司書さんは……?」
「大丈夫だよ、今は部屋で眠っている」
 確かにいつもと変わらぬ様子で答える白秋が、知らず|魔法燐寸《ライター》を持つ手に力を込めたのを、高村は見逃さなかった。
「その|魔法燐寸《ライター》は、司書さんからのプレゼントでしたね」
「うん? ああ……そうだね。誕生日に贈ってくれたのだよ」
 高村は、手の中の銀色をじっと見つめる白秋の横顔を、そっと見守る。
「……少しね、考えていたのだよ」
「何をですか」
「あの子を、どう導くべきか」
 白秋は、再び視線を庭へと向けた。
「導く……ですか。それを一番知っているのは、他でもない白秋さんなんじゃありませんか?」
「ああ、そうだね。……けれど、」
 白秋はそこで言葉を切ると、小さく息をついた。
「あの子があんなに泣くところを、僕は初めて見たのだよ」
「白秋さん」
「……ああ、済まないね。こんな話を聞かせても、君を困らせるだけだ」
 また苦笑したきり口を噤み、少しの間、白秋は黙り込んだ。
「あの子を導くことに自信がなくなったかと問われれば、そうではないと確信を持って言える。僕には、義務と責任があるからね」
「それを聞いて、安心しました」
 高村はやわらかく笑んだ。そのまなざしは、白秋の心中を慮るように穏やかだ。
 白秋は、手にしていた|魔法燐寸《ライター》を懐に戻し、独り言のように呟く。それは誰に宛てるでもない言葉だったが、高村の耳には確かに届いていた。
「僕はせめて……あの子の進む道を照らしてやりたいと思うのだよ」



❀ ❀ ❀



 和仁の体調は、翌日には普段通りと言ってもよいほどに快復した。これまでと同様で想定通りだったが、いずれにせよ安堵すべきことである。

 白秋は、約束を果たすために和仁の私室を訪れていた。魂の世界で見てきたもの──さながら「いとほしき夢のきれはし」と呼ぶべきものたちのことを、語って聞かせる。
 和仁の青林檎の瞳は真剣そのもので、一言一句聞きもらすまいとしていた。白秋の言葉のひとつひとつを、その胸に刻みつけようとしているのだろう。
「先生の中で生まれ、結晶にならなかった言葉たちが眠っている場所……」
「あれはひょっとすると、言葉の生まれるところでもあったのかもしれないね」
「言葉の生まれるところ……」
 和仁は、その響きを噛みしめるように呟いた。それはおそらく、彼にとっては「世界」の根源にも等しい場所かもしれない。
「それはどんなに、煌めきに満ちているんでしょう」
 瞳に映るのは、憧憬だ。白秋が語る言葉のひとつひとつを、丁寧に拾い集めているように見えた。まるで、宝物を拾い集めるかのように。
「……君の中にも、それはあるはずだよ。まだ気付いていないだけで」
「僕の中にも……?」
「そう」
 和仁の青林檎の瞳に映るものは、いつだって美しいものであってほしいと、白秋は願っている。
「和仁くん」
「はい」
「僕は君に、言葉との向き合い方や世界の美しさを教えると、約束したね」
「はい……昨日のことのように、よく覚えています」
「ああ、僕もだよ」
 その瞳に映るものを、もっとよく見たいと思う。
 そしてそれを、もっと深く理解したいと思う。
「僕の言葉を受けて世界を知った君が何を見るのか──それは、君しか知りえないことだ」
「……はい。それも、以前仰っていました」
「きっと、君の中でも言葉が生まれるはずだ。旋律が生まれるはずだ。……いつかそれを、僕にも聞かせておくれ」
 和仁が彼自身の言葉でその想いを綴る日がくることを夢見ながら、その成長と歩みを見守っていきたいと思うのだ。
 しかし和仁は、肩に置かれた手をちらりと見やって、困ったように眉を下げた。
「あの、でも……僕、まだわかりません」
「今は、それでも構わない。……言葉の持つ力を信じることだ。そうすればきっと、わかる日がくるよ」
「言葉の持つ、力」
 白秋の声に導かれながら、和仁はゆっくりとその言葉の意味を嚙みしめる。
 白秋の語ったような場所が己の中にも眠っているというなら、どんなところなのだろう。どんな煌めきがそこにあるのだろう──そんなことを考えると、今まで感じたことのない不思議な高揚感と期待感が胸に満ちていくのを感じた。
 初めて聞くその音は心地よく、通り過ぎる言葉は意味を持たないが、どれも美しかった。まるで音楽のようでもあり、どこか寂しげな雰囲気を纏っているように思えた。
「……あ、」

 ことばが、

 和仁は、思わず顔を上げて白秋を見た。彼は、既になにもかもを見透かしているかのように微笑んでいる。和仁にはそれが、祝福のようにも思えて泣きそうになる。心配をかけたくなくてうつむくと、白秋の手がそっと頭を撫でた。
「……ほら。それが、君の詩だ」
 考えたこともなかった。和仁はただ白秋に導かれて、世界の美しさを垣間見ただけだ。しかし確かに、己の中で何かが生まれたことを自覚してもいた。それはまだ、生まれたばかりの小さな輝きでしかなかったが、確かにそこにある。
「僕ができるのはここまで……それは、いつかきっと実を結ぶだろう。その時が、僕は楽しみでならないね」
 白秋は「道」を示した。その先に何を見るのか、それは和仁次第だ。
「それはきっと、君と、誰かの未来を照らす光になるよ」

 この少年には、無限の可能性がある。

 その未来は、光と希望に満ちている。

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