私を泣かせてください(執事パロ)

 分厚いカーテンは清らかな朝の陽射しを一分の隙もなく遮り、室内は未だ真夜中のような静謐さに包まれていた。天蓋付きの大きなベッドに横たわり穏やかな寝息を立てる主は時折、幸福な夢を手放すまいと身動いではむにゃむにゃと何事かを囁いている。
「……」
 幼気な子供そのものの寝顔を眺めること十分。執事は掌に乗せた懐中時計をぱちりと閉じ、優雅なトワルドジュイのカーテンに手を掛けるとひと思いに開け放った。
「――起きなさい。お時間ですよ」
「ふわ⁉ おれのローストチキン……!」
「ローストチキンはディナーに用意させますから。夢の時間はお終いですよ、主様」
 暗闇に慣れた網膜を白い朝日が焦がす。眩しさにほんの一瞬目を眇めたもののすぐに視界を取り戻し、今度は掛け布団を剥ぎ取りにかかった。
「うう〜おきてる……、起きてるってば、要! もう、乱暴なんだから!」
「ちゃんと目を開けてから仰ってくださいね、私には貴方の綺麗な瞳がまだ見えないのですが?」
 微睡みを追い払うように頭を振ってがばりと上体を起こした主は、執事と同じ顔をしていた。勿忘草色の髪に金の瞳。艶やかな漆黒の、皺ひとつないスワロウテイルに身を包んだ慇懃な執事とは対照的に、真っ白でふわふわのシフォンのネグリジェを纏った天使のような青年。所々寝癖のついた髪は彼の人柄を物語るかのようにあっちこっちに跳ね回っている。
「起き……た! おはよう!」
「はい、おはようございます。主様」
 にっこりと笑みを唇に乗せ、要と呼ばれた執事は澱みなく告げる。
「本日のご予定は十時から乗馬のレッスン、十二時に屋敷に戻ってご昼食。十三時半にはヴァイオリンの先生がいらっしゃいます。十五時になったら私と射撃に出掛けましょう、貴方苦手ですもんね。ディナーにはお客様を招いておりますので、十八時までにはお支度を整えてお出迎え出来るように。お相手は××領主の――」
「も〜わかった! 全部要に任せるよ、言う通りにする。それより俺、紅茶が飲みたいなあ!」
「……はあ。ただ今」
 ぱちん、要が指を鳴らすと部屋の外で待機していたメイドがワゴンを運んできた。「有難う。下がりなさい」と素っ気なく言い放ち、紅茶の準備をするべくすぐに主に向き直る。と、彼が桃色の唇を突き出して変な顔をしていることに気づく。
「――如何されました?」
「ふふ。今の子、絶対要のこと好きだよね」
「は?」
「絶対そう! 俺にはわかる、ぽうっとして要のこと見てたもん。罪な男だなあ要は」
「どうでも良いですね。とは言え色恋にかまけて仕事が疎かになっても困ります、場合によっては指導を……」
「かた〜い! 要、そういうとこだよ。執事長なのに、陰で『獄卒長』って呼ばれてるの、俺知ってるんだからね!」
「なっ……⁉」
「あはは! ねっ、紅茶はまだ?」
「……主様じゃなかったら頭から浴びせていたところです」
 撤回する。黙っていれば天使、口を開けば悪魔。要を振り回しては悪戯っ子よろしく大はしゃぎして見せるこの青年とは、もう随分と長い付き合いになる。それこそ彼が『主様』ではなかった頃から。
 元は対等な立場だった彼と、ずっと共に在るために選んだ手段が、今の主従関係だ。彼は以前のように振る舞いたがるけれど、要はこの形に納得している。『主様』はひとりで良い。ならば自分は影となり、愛する片割れに寄り添おう。
「うん、いい香り」
「今朝は取り寄せたばかりのニルギリオレンジペコです。先日、アッサムは苦いと我が儘を仰ってメイドを困らせたでしょう」
「ミルクがあれば飲めるもん……。クロワッサン、チョコのやつ?」
「はい。貴方の好きなチョコチップ入り」
「要も好きでしょ。はい、」
 どうぞ、と鼻先に突き付けられたクロワッサン。バターの香りが鼻腔を擽り、食欲を刺激される。齧り付けということなのだろうけれど、主に手ずから食べさせてもらうだなんて、執事の領分を超えてはいまいか。
「今更でしょ。はい、ひと口。『主様』のめーれー」
「……っ、……、う……。いただきます」
 主の行儀が悪いのは今に始まったことではない。しっかり教育せねばと思い直し、しかし今は目の前の誘惑に抗いきれず大人しく口を開いた。舌に触れたそばからほんのりと甘い風味が溶けだし、歯を立てればほろりと崩れる香ばしい生地の食感が甘美。うっとりと噛み締める要の頬を優しく撫で、誘惑を仕掛けた張本人はやはり天使の微笑みを浮かべた。
「要、美味しい?」
「はい――HiMERU」



***



 本日も要は敏腕執事の手腕を遺憾なく発揮し、HiMERUのスケジュールを淡々と消化していた。ヴァイオリンのレッスンは「もっと楽しい曲がいい!」と駄々を捏ねる彼をどうにか言いくるめてきっちり時間通りに終えた。ヘンデルのオペラ『リナルド』第二幕で歌われるアリア『Lascia ch'io pianga』、音数の少ないシンプルなメロディだからこそ表現力が試される曲だ。ピアノで伴奏をする間そっと盗み見た、物悲しくも清澄な旋律を奏でる主の横顔は、確かに美しかった。
「――お疲れ様でした。よく出来ましたね」
「もっと褒めて〜! 本当は俺はもっとこう、踊り出したくなるような曲を演りたいんだから。バッハのパルティータなんてどう?」
「ガヴォット? 一度挫折して放り出したでしょう」
「要が弾くの。俺よりずっと上手なんだから。そんでもって〜俺は踊る係!」
「……それじゃ意味が無い」
「言うと思った。はいはいわかってま〜す。次は射撃だよね? 行こっ」
 下手くそなステップを踏み、HiMERUはくるりと一回転。真っ直ぐに差し出された両手を要は取った。握り返してくる温もりに思わず相好を崩す。
「仰せのままに、主様」
 外は快晴かつ無風、射撃にはもってこいの好条件だ。ぴかぴかに手入れされた散弾銃を二丁背負った執事は、黒馬に主を乗せて広大な敷地を横断し、森へと分け入った。
「――この辺りで良いでしょう。鳩を」
「承知致しました」
 同伴させている若い使用人がふたり、ピジョン・シューティング用の鳩を準備するべく駆けていく。「待っていて」と告げて散弾銃に弾を仕込み始めた要の背に、馬から飛び降りたHiMERUが手持ち無沙汰に声を投げた。
「ねえ要、今朝のメイドの子だけど……」
「まだその話をしますか。貴方の『神様』も、色欲を禁じているのでは?」
「色欲は駄目でも、愛は禁じていないよ。巽も愛は素晴らしいものだって言ってる」
「……」
 近頃、HiMERUは教会の礼拝へ通うようになった。『神様』に歌と祈りを捧げ、『神様』の言葉を説く男の話に傾聴する。そしてそこへ通い始めて以来、要の主は『巽』という男の名を頻繁に口にするようになった。
「愛、ねえ」
 背筋がざわりと冷たくなる。その名を聞くと。心臓が不安定に暴れ出す。
 自身も彼に付き添って男の説教を聞いたことが幾度もあるが、どれも薄ら寒くて共感に値しない、偽善にまみれた理想論ばかりに感じられた。『神様』などと言う姿のないものに傾倒していく主を見るにつけ、誰よりもよく知る片割れが別の人間に作り替えられていく不安に駆られるのだ。要は無神論者で、しかしある意味ではHiMERUを信仰しているとも言えた。
「……俺は、HiMERUがいれば他に何も要らない」
「要?」
「HiMERUは、違う? 居るかも分からない『神様』が――巽が、そんなに大事?」
「……、巽は……俺を特別扱いしない」
 黙って一度俯いてから顔を上げた彼は、見たことのない表情をしていた。悲しんでいるような、憐れんでいるような。ここから逃げ出したいと、訴えかけてくるような。
「HiMERU……」
「要、わかっているでしょう。俺は特別なんかじゃない、幼い頃から何だって要の方が上手く出来た。なのに、どうして俺が、『主様』なの」
「……」
「巽が言ってたんだ。神のもとに全てのひとは平等。要、俺の言いたいことがわかるよね? 要は俺より賢いもの」
 何も言えずにいると、一歩ずつ、落ち葉を踏み締めてHiMERUが近付く。要はこの青年に対して、生まれて初めて恐怖を抱いた。同時に腹の奥底で黒々とした憎悪が煮え滾る。あの聖人野郎、俺の天使に余計なことを吹き込みやがったな。
「ねえ要。俺はアルミレーナじゃない。囚われの少女じゃないんだよ」
「……っ」
 差し伸べられた手が触れようとした、間際。ここに〝あるはずのない〟不躾な視線を感じ取った要は猛然と振り返った。
「誰だ!」
 間髪入れずに『そいつ』のいる茂み目掛けて散弾銃の引き金を引く。バリバリと木の幹を割く耳障りな音がした。突如間近で響いた銃声に驚いた可哀想な主は、耳を塞いで蹲っている。
「要! 要、どうしたの⁉」
「……狐か狼がいた。俺が行って仕留める」
「ええ⁉ き、気をつけてね?」
「心配はご無用です、主様。――貴方達、ああそう、こちらへ戻って。主様を邸へお連れしてください」
 てきぱきと指示を出すと、何時如何なる時も優雅な執事長は猟銃を片手に地面を蹴り、茂みの奥へと飛び込んで行った。使用人に支えられた彼の主は、駆けていく背をただ呆然と見送っていた。

 先程は確かに視線を感じた。敷地内にいるはずのない『部外者』の気配だ。招かれざる客は主に悟られぬうちに、速やかに排除しなければ。それが従者たる要の役割だった。
「隠れん坊ですか? そこに居るのはわかっているのですよ。みっつ数えるうちに姿を見せれば撃ちはしません。……3」
 狐でも狼でもないことはとうにわかっている。だからお情けで呼び掛けてみたのだが、返事はなかった。
「2、1――よろしい。ぶち抜きます」
 ド、ドン、ドン。
 空飛ぶ鳩を撃ち落とすための銃が空気を震わせて唸る。「どぅわ⁉」と物陰から悲鳴が上がり、直後にずべしゃ、と重たいものが倒れる音。仕留め損ねたか。とどめを刺そうと足音を殺して接近した要は、尻餅をついてわたわたと足掻く獲物に銃口を突き付けた。
「た、タンマタンマ! 落ち着けって執事くん!」
「往生際が悪、……え……?」
 無断で屋敷に踏み入った曲者が何を言う。要はその時初めてそいつの顔に目をやり、そして言葉を失った。地べたに座り込んでいる男の精悍な顔付きに見覚えがあったからだ。
「どうして……」
「え〜っとお初にお目にかかります? 私××領主天城家が嫡男、燐音と申します。よろしく♡」
「まさか」
「ぎゃはは。流石の俺っちも、挨拶代わりに他所様の従者に撃たれたのは初めてっしょ」
 燃える夕焼けの色をした髪を逆立てた美丈夫は揺らめく水面の瞳を細めた。その妖しい輝きに見惚れて、すぐにはっと我に返る。確かに以前夜会で見掛けた彼によく似ているが、しかし。
「――貴方が、天城卿? そんなはずがない、もっとましな嘘を吐いては如何です。彼ほどの身分の方が従者も付けずにこのような場所にいらっしゃるとでも?」
 ふんと鼻を鳴らして要は言い切った。すると曲者は耐え切れないといった風に吹き出し、それから声を上げて笑い出した。
「? 何が可笑しい」
「ぶはは! いや悪ィ悪ィ、ウチってそんな風に見えてンだ〜って思ったら可笑しくって。ンな御大層なモンじゃねェってのに、んふふ」
「何を言って……」
「証明して見せようか」
 とんとん、男が人差し指でこめかみを二度、リズミカルに叩く。銃口を向けられてなお自信満々に挑発するかのような仕草に、思わず口を噤んだ。そいつは至極愉快そうに笑っている。
「――は?」
「天城家嫡男である燐音にしか知り得ない情報を開示してやるよ。漏れれば外交的に不利になる機密情報だ。どこの家も喉から手が出るほど欲してるネタっしょ」
「……」
「だが俺も、危うくてめェに殺されかけたっつうネタを持ってる。軽く強請りゃあ小貴族のお宅は露のごとく立ち消えるだろうなァ。ああでも、俺が燐音だって信じて迎えてくださるっつうなら、今のことは不問にしてやるかなァ」
 ぴくり、要の片眉がほんの少し角度を変えたのを、男は見逃さなかったらしい。
「さあどうする? 伸るか反るか。賢いオツムで考えてみな」
「……」
 ――もし、これがブラフだったら。奴の言う条件を馬鹿正直に呑んで、この得体の知れない人物をHiMERUに近付けさせることが、本当に得策か。仮に天城燐音本人だったとしてもだ。今、誰の目も届かないこの場所でこいつを殺しておけば、何事も無かったことにしてしまえるのではないか。
 魔が差した。引き金に掛けた指に僅か力が籠った。その刹那、瞬きの間のことだった。不意に銃身を強い力で掴まれ咄嗟に反応出来なかった要は、引っ張られる勢いのままにつんのめった。受け身を取る際に瞑ってしまった目を開けた時には鼻先が地面に触れていた。ずしりと背に伸し掛る重みに、男の体重により一切の抵抗を封じられたことを知る。
「ぐっ……貴様……!」
「ヒュウ、おっかねェ。綺麗なツラしてとんだじゃじゃ馬だねェあんた。けど諦めろ、あんたじゃ俺に勝てねェよ」
 天城燐音は武術の達人だ。そう聞いている。要とて主の盾となり刃となるため研鑽を積んだ戦士であるが、それを遥かに凌駕する反応速度と技術だ。並大抵のものではない。歯痒いがこうも実力を見せつけられては信じざるを得なかった。
「……ッ。わかりました。非礼をお詫び致します、天城卿」
「結構。ついでにその物騒なモン、こっちに寄越しな」
 言いながら散弾銃を奪い取った天城燐音は当然のように空いた方の手を差し出してきた。貴族らしからぬ粗野な物言いのわりに、気障ったらしい所作はやけに様になる。
「どこも痛めてねェか?」
 要はこれでもかと眉を寄せ、その手を借りずに立ち上がった。
「――お気遣いなく。逆に貴方はよくご無事でしたね。正確に狙ったつもりでしたが」
「ウチは元々軍属だからなァ、鍛え方が違ェのよ。ま、もし掠りでもしてたら地面にキスさせる程度じゃ済まなかっただろうから、あんたにとってもラッキーっしょ。執事くんってばツイてるねェ」
「はは……」
 冷静になって考えてみれば、自分はとんでもないことを仕出かすところだったのだ。「天城の次期当主を猟銃で撃ち怪我を負わせました」などと白状出来るわけがない。誰かに知られようものなら要はHiMERU共々亡命を強いられるだろう。想像するだに恐ろしい。
 とは言えこの男もこの男だ。よくよく見れば燐音は仕立ての良いウールのロングコートを羽織っているし、よく磨かれたブーツも上等なものだとすぐにわかる。あんな森の中の茂みに潜んでなどいなければひと目でそれなりの家柄の者と気付けるのだ。それなのに紛らわしいことをするから、要が肝を冷やす羽目になった。
「そもそも貴方があんなところにひとりでいたりしなければ私は」
「それは悪かったよ。従者は煩わしくて途中で撒いちまった。好きにさせてほしいンだよな、家の外でくらい」
「……。正面からいらっしゃれば良いものを」
「オトコのコは冒険好きなの」
「ああ言えばこう言う」
「それが俺っち」
「貴方の従者も気苦労が多そうですね。同情します」
 長身の男ふたり、馬を相乗りして邸の玄関に帰り着いた要は、メイドを呼び付けて彼をサロンへ通すよう命じた。こんなに早くにゲストを迎えるはずではなかったから、当然ディナーの支度が間に合っていない。
 急ぎ踵を返し主の元へ向かおうとする多忙な執事長を「なあ」と呼び止める声があった。案内されて行ったはずの燐音である。
「あんた、そう執事くん、名前は?」
「――生憎、名乗る程の名は持ち合わせておりません」
「……」
 むっつりと面白くなさそうな顔をした男は、こちらが名乗るまでその場を動きそうになかった。困惑するメイドが哀れだ。要は仕方なく、ため息混じりに男の望む答えをくれてやった。
「要でございます……天城卿」
 右手を胸に当て恭しくこうべを垂れれば、彼は満足そうに歯を見せて笑った。



***



 先に邸に帰していたHiMERUは、要が部屋を訪れるなり「狼を倒したの⁉ 要は凄いね、どうやったの?」と大きな瞳を輝かせて武勇伝をせがんだ。本当のことを話すわけにはいかないため「私が銃を天へ掲げると雷鳴が轟いて……」とめちゃくちゃな作り話を聞かせるのだが、子供のようにうんうんと頷きながら聞き入る主が些か心配になる。
(貴方はそのままでいい……余計なことは知らなくていい。馬鹿で可愛い俺のHiMERU。俺の、特別)
 先刻森で言い掛けていたことはすっかり彼の脳味噌から抜けてしまったようで、要はひとり胸を撫で下ろした。
 その後超特急で用意させたディナーは、当初のプラン通り盛大に振る舞われた。どれだけ時間が無くともゲストをもてなすことにかけては少しの妥協も許さない。それが要という執事のスタンスだった。でんと存在感のあったローストチキンは、あっという間に主の胃の中へと吸い込まれていった。
「御主人サマはもうおネムか?」
 毎晩のお約束となっている子守唄を歌ってHiMERUを寝かし付けた要は、寝室から廊下へ出たところで大きな影と行き遭った。壁に凭れガウンのポケットに両手を突っ込んで、行儀悪く佇む影。
「――曲者。ここは主人のプライベート区域なのですよ。迷い込んだのでしたら今すぐに出て行きなさい」
 そうぴしゃりと言い放つとそいつは可笑しそうに肩を揺らした。
「あァわかった、あんた俺っちのこと嫌いっしょ?」
「御明答。私はこの家の執事ですから、貴方をお客様としてお迎えし相応に扱っているだけ。俺個人としては好ましく思っていません」
「……あんた面白ェな、要くん」
「気安く呼ばないでいただけますか、天城卿」
 にこり、事務的に微笑んでそこを素通りしようとした要の手首を男が掴んだ。内緒話でもするように低められた声が鼓膜を震わせる。
「〝燐音〟」
「何……」
「〝天城卿〟は俺っちの父上な。まだ正式に爵位を譲り受けたわけでもねェし、つまり俺っちはただの天城燐音なわけ。つーことだから呼んでみ。ハイ〝燐音〟」
「……」
 手首を握る力は強い。これは『命令』だということか。どんな気紛れかは知らないが、要が呼ぶまで離さないつもりなのであれば、従うしかあるまい。執事長にはまだまだ雑務が残っている。
「……〝燐音様〟」
「はァい」
「……? 離してくださいませんか」
「やだ♡」
「この……」
 要の額に青筋が浮かんだ。今晩は邸に泊まり明朝帰ると言うから、私情を殺してもてなしたのだ。本当はこの無作法な客に部屋を貸したくなどなかった。剣呑な囁き合いは続く。
「――それで、〝燐音様〟はこんな夜更けにどちらへ?」
「ん〜、迷っちまって」
「貴方は嘘つきですね。お部屋は三階、南の端、この廊下を真っ直ぐ進んで突き当たりを――」
「いやァ帰り方がわっかんねンだよなァ〜」
 わざわざ部屋まで訪ねてHiMERUに接触しようとした癖に、すっとぼけやがってこの野郎。いい加減にしないと寒空の下に放り出すぞ。要の我慢はもう限界だった。
「だから、説明して差し上げているのです。良いからさっさと、」
「オーケーオーケー、帰るよ。あんたが俺っちを部屋まで送ってくれるンならな」
「はい?」
「わかってねェのか?」
 廊下に灯る燭台の明かりを映した双眸が、夕陽と水平線とが混ざる瞬間の色に染まり、柔く蕩ける。未だかつてこれほど綺麗な色彩を見たことがあっただろうか。いっとき目を奪われ、要はぼうっとその瞳を見つめ返した。
「俺が会いたかったのはあんたなんだけど? なァ要」
「……っ!」
 そろりと、しかし確実に意志を持って、燐音の手が腰に回された。がっちりとホールドされてしまえば要の腕力では振り解けない。
「はな、せっ……! ふざけるな、うぁ」
 背中が壁にぶつかり逃げ道を塞がれたかと思うと今度は男が首筋に顔を埋めてくる。ぬるい吐息をすぐ側に感じ、ぞわぞわと肌が粟立った。不味い。眠っているとはいえ、扉を一枚隔てたところに主がいるのだ。
「やめろ、この色情魔!」
「くく、酷ェなァ。良いからこのまま聞けよ」
「なん……っ」
「天城家の下につけ」
 要ははっと息を飲んだ。耳元で囁かれるのは夜の誘いなどよりもずっと屈辱的で秘匿すべき、家同士の支配被支配にまつわる話であった。
「……な、ぜ」
「お宅の構造は今日ではっきりわかった。傀儡の主人と、それを陰から操る執事長――先代の頃からじわじわと資産を食い潰し弱体化、土地もほとんど売っ払っちまったンだろ? 調べはついてる」
「……」
「このこと、御主人サマは知らねェンだろ。巧妙に隠したモンだぜ……使用人も日々数を減らしてるってのに、上手いこと言いくるめてこれまで通りの生活を信じ込ませてる。ウチみてェな有力貴族ともちゃんと付き合って体面を保ってな。家は朽ちかけだっつうのに偉い偉い。涙が出ちまうね」
 そう言いながらも表情ひとつ変えない燐音を、要は動揺を押し隠して睨んだ。
「主人は誰の下にもつきません」
「あっそォ……。じゃあ聞くが、これからどうするつもりだ、要? 大事なあの子に幸せな夢だけを見せて、あんたはどうする。衰弱して後は消えるのを待つだけのこの家と、心中でもする気か?」
「ああ……それも悪くないですね」
「馬鹿言ってンじゃねェ。ウチにつけばおめェらごと庇護出来るっつってンだよ、そうすりゃ御先祖サンが守ってきた十条の名だって残せる。判断を誤ンな」
 彼の言うことはもっともだ。HiMERUとふたり、生き残るためには力のある者の庇護下に入る他ない。そう、生き残るためには、だ。
「――燐音様は、どうして、そこまで」
「あァ?」
「俺達を、守ろうと……?」
「勘違いすんな、俺が気に入ってンのは要、あんただ。このまま煙みてェに消えられちゃ堪んねェ」
「ふふ、そうですか。……燐音様、お話出来て良かった」
「おう。色よい返事を期待してるぜ」
 ぽん、と頭をひと撫でし、男は身体を離した。迷わず部屋へ戻っていく背中は廊下を曲がる時一度だけ振り返り、こちらに手を振った。本当に気障な男だ。
 燐音の吐息が触れていた首筋がまだ熱い。そこを掌で覆い、要は逸る鼓動を鎮めようと目を閉じた。



***



 数日後、新聞の紙面に踊る見出しに、燐音は目を瞠った。それは十条の邸がひと晩のうちに丸ごと焼け落ちたというニュースだった。密かに送っていた間諜から『使用人達が次々に暇を出されている』との報告を受け取った矢先のことだ。
「あいつ……」
 自分と主だけを残して、館に火を放ったのだろうか。〝心中でもする気か?〟という自分の声が脳裏に蘇る。冗談のつもりだったのだ。それとも、あの時彼は既に、心を決めていたとでも言うのか。
 文字を追っていく。調査の結果遺体は発見に至らず。当館の主は依然として行方が知れぬまま――
「……」
 燐音は確信していた。あの男はどこかで生きている。要の優先順位は何を置いてもまずHiMERUだ、家でも自分でもない。主を路頭に迷わせないためなら何だってやりそうな奴だ。
 見つけ出してやる。どんな手を使ってでも。
「俺から逃げ切れると思ってンじゃねェぞ……要」
 瞬間、澄んだ水面の瞳がぎらりと熱を帯びた。あの夜〝お話出来て良かった〟と寂しそうに微笑んだあいつを、放っておけない。
 新聞をぐしゃりと握り締めた燐音は、事の真偽を確かめるべく街へと馬を走らせた。

powered by 小説執筆ツール「notes」