オレンジジュース



油で炒めた葱と卵の香ばしい匂いが漂う蟹炒飯を前にして、TETSUと譲介は、スマートフォンの画面を食い入るように眺めていた。
演技を見ている間は飲んでいる余裕がないことを見越して、互いの間にはジョッキではなくビールの小瓶が置かれている。
譲介が予約を入れた焼肉の店が余りにも混雑していたのと店員の対応が気になる、と言うTETSUの一言で、一軒目は早々に退散して、河岸を変えることになってしまったのだ。
譲介は、TETSUのテリトリーである街中華の席で、師匠の手厳しい批評に晒されすっかり満身創痍となりながら、キンキンに冷えた青島ビールを空けている。
物語も後半に差し掛かり、やっと批評の種も尽きたのか、画面の中の譲介が森の中の暗い一本道を駆ける様を眺めていたTETSUは「おうおう、走ってンなあ。」と笑っている。
とっぷり日が暮れたというのもあって、サングラスを外してしまったTETSUの楽しそうな顔が良く見える。
譲介が気を緩めて「三回撮り直して、結局最初のが一番いいって話になったのはかなりキツかったですけど。」と言うと、「ただ走ってりゃいいってのはつまり、演技らしい演技はしなくていいってこった。これほど楽なことはねぇじゃねえか。」と鼻で笑われてしまった。
現場にいなかったTETSUはそう言うけれど、これを撮っていたのはまだ早春の北海道だったのだ。
鼻水垂れたらそこでやり直し、と監督に厳しめに脅されながらの撮影で、スポーツ選手のようにウォーミングアップをしながら出番を待つ間、ずっとTETSUの家に戻ってストーブの前で暖まりたいと考えていたことを覚えている。あの日の北海道と東京との夜の気温差は軽く十五度を超えていて、身体は全く上手く動いてはくれず、それでも譲介は走った。あまりにもへとへとになってホテルに戻って頭から熱いシャワーを浴びていたら、その短い間にこの人からの着信があって、ストーブで焼き芋を作ったから食いに来いと言う気の抜けるような留守電が入っていたので、譲介は自分のタイミングの悪さにちょっと泣いた。(とりあえず焼き芋の写真は送ってくださいと言ったら、デジタルリテラシーの高い年上の人からは、半分割られて食べかけの芋の、その切れ端の写真だけが送られてきた。)
譲介がビールの満たされたコップを空けるのを眺めていたTETSUは、「来週はどうなる。また走ってるとこから始まんのか?」と言ってからかってくる。
「TETSUさんも、半分冬みたいな知床の大地を隅から隅まで走ってみたらいいんですよ。僕の気持ちが分かりますから。」
こちらが拗ねたような口を利くと、TETSUは、言うじゃねえか、と言って赤くなってきた額にデコピンを食らわせた。
「おめぇと同じ年の頃には夏のドブ川で死体を演ってたロートルに向かって、偉そうに撮影の苦労を説こうとすんじゃねえ。」
スマートフォンの画面にエンドロールの歌が流れる中、TETSUは炒飯の小鉢に付いて来たザーサイを齧りながら、譲介を睨んで来る。
「そうは言っても、寒いのも辛いんですよ。」
譲介がスマートフォンの画面を操作して動画の配信サイトを閉じ、ポケットの中に滑り込ませると「だから炒飯を奢ってやってんじゃねえか。食え。」とTETSUが言った。
そうして、譲介の分の炒飯を器用にれんげでよそってこちらに寄越してきた。
自分から給仕する側に回ろうとするTETSUの気質は、年若い共演者に対する気遣いというよりは鍋奉行のメンタルに近い。譲介はだから、彼と外で食事をするときは、いつも流れに身を任せてこの年上の人に甘やかされることにしている。
「炒飯、ほんとに美味しそうですね。」
「そうだろ。」
夜の炭水化物の摂取は、どう考えても太るには違いないが、蟹炒飯に罪はない。
譲介は、TETSUが自分の皿に残りの炒飯をさらえるのを待ってから、黙々と炒飯を食べた。中華街で食べるようなあんかけの炒飯よりこちらの方がずっと美味しく感じる。
かつてはKEIさんも通っていたというこの中華料理店は、なぜかここにはいない彼女のサインだけが煙を被った招き猫の横に置かれていてTETSUのサインはない。畳み敷きの小上がりにある四つのテーブルとカウンター席は、いつもの打ち上げの店の配置に良く似ていて、中華丼や麻婆豆腐を食べてさっと出ていくという自営業かサラリーマンか判然としない中年男性が、カウンター席を入れ替わり立ち替わりで出入りするこの店で、譲介とTETSUという年齢の違う二人連れに注意を払う客は少なかった。
炒飯で腹を満たしたTETSUがビールのコップを傾けているのを見ながら、譲介はちらちらとTETSUの様子を伺う。
今日は何時まで一緒にいられるのか。
彼が酔い潰れるようなら、タクシーを呼んで一緒に家に行けないだろうか。
TETSUは、譲介のそうした下心込みの視線は全く感知しないので、いつものように「譲介ぇ、おめぇまだ食えるか?」と聞いて来た。
譲介はメニューも見ずに、とっさにいつもの調子で、食べられます、と答えた。
オヤジ、餃子一枚、とTETSUが厨房に向かって叫ぶと、餃子一枚、という威勢のいい店主の声がこだまのように聞こえてくる。
返事がいつもより勢いが良すぎたかもしれないけれど、まあ餃子の一人前なら何とかなるだろう。
そんな譲介の予想を裏切って、はい、お待ち、といい感じのタイミングで厨房から出て来たのは、五人分はあろうかという大皿に盛り付けられた餃子とふたり分のスープだった。
「……何ですか、これ。」
「餃子。」と向かいの席に座る人はそう言った。
明らかにこちらの呆れたような目付きを見て失敗した、という顔になっているにも関わらず、譲介の師匠は、気まずい雰囲気を誤魔化すようにして自分の皿にいくつかの餃子を取って移した。その間にも、美味しそうなニンニクの匂いが漂って来る。
皿が大きい上に、一個一個が大きい。
僕とあなたのふたり分にしては過剰じゃないでしょうか。
そうしたストレートの批判が出そうになった口に一旦チャックをして心の中で深呼吸した譲介は「今この卓を囲んでるのって、僕とTETSUさんのふたりだけですよね?」と遠回しに確認した。
「まあそうだ。」とTETSUは頷く。
「ここまで移動して来る間に一也とか……誰かを呼んだとか。」
「ねえよ。」
「今から誰か呼ぶつもりなんですか?」
普段なら、第三者がそんな風に横入りしようものなら、僕とTETSUさんのデートなのに、と冗談めかした膨れ面を晒すといういつもの手で、なるべくこの愛しい人を独り占め出来る時間を死守しようとする譲介だが、流石にこの皿の量を二人で食べ切るのは難しいと分別するだけの冷静さは残っている。
「いいから黙って食え。」としびれを切らせたTETSUが小皿の中に醤油とラー油、酢で餃子のたれを作っていくので譲介は仕方なしに彼のやり方に倣って小皿の中を満たした。
「僕はもう十代ではないんですが。」と言いながら、譲介はやけになって一つ目の餃子を咀嚼する。肉汁が溢れて非常に美味しい。これが今の半分の量ならもっと素直に喜べただろうなと譲介は思う。
「ンなこたぁ知ってるよ。」
オレがいくつになったと思ってんだ、もういい年のおっさんだ、と餃子に齧りついたTETSUに言い返されて、譲介は笑ってしまった。
「TETSUさんは、僕が知ってる中では一番おっさんらしくない人ですよ。」
「そうかァ?」と彼は首を傾げる。
さっさとそういうおっさんになってくれたら諦めも付くのに、この人は、いつまで経っても譲介の初恋の人のままだ。
三つ目の餃子を皿に乗せてようとした譲介が、ビール瓶がすっかり空いていることに気付くと、こちらを伺っている様子のTETSUと目が合った。
「あの。」
「……なんだよ。」
つっけんどんな物言いをするTETSUの顔に浮かぶ、酔った時の少しの無防備が覗く表情。
少し押せばいけるかな、と譲介は思う。
「今日はもう食べ過ぎてどこにも行きたくないので、TETSUさんちに泊めてください。」と譲介が言うと、TETSUは大きくため息を吐いた。
「……そういうのはせめて全部食っちまってから言えっての。」
我儘を言う子どもを見るような目つきで譲介を一瞥した年上の人は、カウンターの中の店主に向かって、良く通る舞台用の声を張り上げ、ビールとオレンジジュース追加、と言った。


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