いいこと

四草、オレ、もう出て行くわ。
オレにとっては落語が故郷や、それが分かったから一人でも生きていける。


目覚めると部屋は静まり返っていて、人の気配が消えていた。
暗い部屋の中、外からはザアザアと降り出した雨の音が聞こえて来る。
またあの夢か、と思うほど頻繁に見ているわけでもないけれど、小草若兄さんがここに戻って来てからは見ることがなくなっていた、あの人がいなくなる夢。
夢の中の僕は、手を伸ばせば触れられるところにあった背中が遠ざかるのに任せて、追いかけることも出来ずにただ眺め、立ち尽くしていた。
なんてざまだ、と思ったところで、夢の中の話だ。
自分の思う通りに身体が動くわけでもない。

……まあ、思い通りに身体が動いて、引き留める言葉を口にしたところで、あかんかったけどな。

雨に驚いたのか、平兵衛が籠の中でバタバタと飛び回っている。
「シーソーのドアホ、ドンカン、ドスケベ………………ドアホ、ドアホ、ドアホ、」
あのアホ、稽古もせんと、何を覚えさせてんねん、と口にしようとして、喉の痛みがあったことを思い出した。
手を付いて身体を起こすと、身体も重い。
どこで貰って来たのか、夏風邪を引いてしまったのが昨日のことだった。
今朝になっても直ってへんし、言うつもりもなかった言葉を言うてまうし……。
最悪や、と思った時、枕元に置きっぱなしにして濡れタオルが指に触れる。
あのまま、置きっぱなしになっていたらしい。
額を冷やすためにと湿らせてあったタオルが、あの人の手の中から畳の上に落ちたのだ。……そのままほかして行きよったんか。
あかんたれの落とし物を持ち上げると、タオルの下になっていたシーツが湿り気を帯びている。
湿ったタオルを手にしたまま舌打ちしそうになったが、身体は、そのタオルと同じくらいびっしょりと汗をかいている。湿気のせいもあるのかもしれないが、炎天下で草むしりをしたかのような状態だった。このままでいる方が不快だったし、準備のいいことに、必要な着替えも畳んで枕元にある。
幸いなことに、着替えの方はほとんど濡れてないようだった。
見ると、パジャマの上には、ほとんど高座の時にしか着ない肌着までが重ねて置いてあった。

どこにも行くな、て言ったのに。

着替えの準備は有難いとは思うが、準備をしたその当人はここにはいないのでは。
もう一度布団に倒れ込みたいような気持だったけど、しゃあない。濡れたタオルで身体を拭って着替えをした。汗をかいた湿っぽいTシャツを脱いで着替えてしまうと、やっと人心地が付いた。
こんなことになるなら、あんなこと言わなければ良かった。
酒とか熱のせいにしたいと思ってることほど記憶に残る。
確かに、自分のことながらアホかと思うが、目を離せばその隙にどこかへ行ってしまうような気がして、言わずにはいられなかったし、案の定、『オレ、買い物に行くわ。』という一言を残して、今もまた、兄弟子はどこかへと姿をくらませているのだった。
まあ、ずっとここにいたところで、僕に夏風邪を移されるのが関の山か。
水を飲みたいと思ったが、立ち上がってすぐそこの流しに行くことすら億劫だったので、電気を消したまま、また布団の上に寝っ転がる。
見慣れた天井を見上げて、それから昔のように目を瞑った。
子どもの頃も、成人してからも、風邪を引くことなどほとんどなかった。
子どもだったあの日も、あの時も、確かに病状はあったけど、学校を休んでない以上は風邪とは言えない。頭がぼんやりする状態で登校して、下校して、眠って、次の朝になって。その状態を繰り隠している間に、上がっていた熱は下がり、喉は痛くなくなっていった。
看病してほしい時に枕元に母親がいたことはなかったが、一度だけ、風邪になった日に缶詰を持って来てくれたことがあった。
あれは、パイナップルか、桃だったか。半分あげる、と言われて、本当は甘い缶詰を全て食べたかったが、半分だけ食べた。
食べ終わった後は当然のようにまたひとりきり。布団の上でこんな風に目を瞑れば、広すぎる部屋の中に、自分以外は誰もいないことを忘れることが出来た。


「……電気まだ消えてんのかいな。」
ただいま、という兄弟子の声が聞こえて来る。おかえりなさい、と言おうとして声が出せないことに気が付いた。
筆談できないこともないが、起き上がって病状を伝えるのも億劫だった。このまま寝たふりで黙って置こう、と思ったら、沓脱で靴を脱ぐ音と、おかいさん買ってきたで、という独り言が聞こえて来た。
「……四草。寝てんのか? まあええか、電気付けたとこで、目ぇが覚めてしまうからな。」
もう少し待っててな、と誰に言うでもない言葉が聞こえて来て、キッチンスペースで立ち働く気配が感じられた。
レトルトの粥でも買ってきたのか、お湯を沸かしている様子だった。
その間にも、ぽたぽたと音が聞こえて来る。タオルはいつもの抽斗の中にある
「畳濡れたら困るし、オレも着替えなならんからな。」
ほんま、雨だけはどうしようもないで、という声に続いて服を脱ぐ音が聞こえて来て、いよいよ狸寝入りが難しい。
気が付いた時には、兄弟子もいつものハーフパンツで足を出していた。
僕の喉は相変わらず、痛みは引かないし、熱も下がってない。
それでも、もう少しだけ目を瞑っていたら、いいことがあるような気がした。


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