ギムレットにはまだ早すぎる

 バーカウンターの内側に入り、今は不在のバーテンダーの代わりにグラスを磨く。並んだボトルの中身はまちまちで、見覚えのないラベルに知らない名前のスピリッツの他、ソーダ水、ジュースなどがクーラーの中で冷えている。並べられたグラスを見て時々感覚だけで注文をして出されたモクテルやジュースなどを飲むことはあっても、アルコールの類はここでは飲んだことがないから、随分空いたボトルをみて穹はみんな結構飲んでるんだな、とその時漸く気付いた。
「あら? 今日はあなたがバーテンダーさん?」
「そー。シャラップ師匠は定期メンテナンスで二日ほどヘルタに入院中」
「それは仕方がないわね。注文は受けてもらえるの?」
「そりゃもちろん。俺はシャラップ師匠の弟子なんでね。こう見えて一人でモクテル作って店番も出来るくらいには、バーテンダー経験は豊富な方」
「頼もしいわね。じゃあ、お酒も頼めるのかしら?」
「酒かぁ……」
 酒のボトルは使えても列車のルールで味見が出来ないんだよ、と答えながら、穹はカウンターに物珍しそうな笑みを湛えて近づいてきたガーデン所属のその賓客に答えた。「だからモクテルなら、大体味もわかった上で作れるんだけど……アルコールはやっぱりあったほうがいいのか?」
「ルール?」
「未成年は飲酒禁止」
「あら。それは守らないといけないわね」
 でもレシピなら私が知っているから作れるわ、と彼女――ブラックスワンは言う。譲るつもりはないらしい。温和な顔をして要望を押し通してくるなあ、と穹はむ、っとした表情でブラックスワンを見つける。彼女はにこりと微笑みながら、「夢境でバーカウンターを手伝っていると聞いた時は遊びに行くことが出来なかったから」と穹に答えた。
「随分評判だったと聞いているわ。余程腕のいいバーテンダーさんなんでしょう?」
「ふふん、まあな。俺がモクテルを作って、喜ばぬ者はいなかった……」
「ふふ。楽しみね。じゃあ、いつも作ってもらっているものと同じものをお願いできるかしら」
「かしこまり~」
 答えてしまってから、俺って単純かも、と穹は一度息を吐く。結局、レシピは、と続けてブラックスワンに尋ねた。今日はバーテンダーさんがいないからどうしようかと思ったの、と彼女はまず氷を削る所から、とロックグラスを指さして言う。
 氷は丸くしてね、と彼女は続けた。はいはい、と言われるがままに軽く氷をピックで削る。慣れたものだ。時々モクテルではなく、ただのスッキリソーダやペッパードクターをロックで、なんて注文をしてくる客も数人いたから。軽く氷の角を取り、円柱を作ってから丸に近づける。大体削ったところでピックからナイフに持ち替えた。
「本当に器用ね」
「それほどでもある」
 ロックグラスに丁度はまるくらいの大きさになった。穹はくるくるとマドラーを片手にステアして、次は、とブラックスワンに尋ねる。彼女はバーカウンターに並んだボトルから、丸い琥珀色のボトルの上に軽く指をかけ、「これをグラスに一杯、ゆっくりと」と穹に言った。
「他には?」
「ないわ。それだけよ」
「ただのロックじゃん……」
 よくみるとボトルキープの印のつもりなのか、ボトルのくびれに紫のリボンが結ばれていた。瓶をあけ中身を灌ぐと、甘いアルコールの強い匂いと共に、星屑のようにきらきらとした粒子を伴い、瓶を染めていた通りの琥珀色の酒が丸い氷の上を滑り落ちた。溶けた丸い氷がぷかぷかとその上に白銀の月のように浮かぶ。グラスのぎりぎりまで注ぐまでブラックスワンは穹の手を止めもしなかった。もう一度ステアして中の酒の温度を均一にする。
「これで終わり?」
「レモンがあれば嬉しいわね」
「たしかあったと思うけど」
 バーカウンターの下にある冷蔵庫をしゃがんで覗きみる。大方の材料はそこに保管されているのだが、黄色いレモンの姿はたまたま見当たらなかった。代わりに、保存容器の中に似たような色のものはある。試しに手に取って開けてみると、中には蜂蜜に漬けた輪切りのレモンが数枚入っていた。
「これならあった」
「それをいつも入れてくれているの」
「蜂蜜入ってるけど、ついでに入れる?」
「そうねえ、どうかしら。いつも入れてくれているかどうかわからないのよね」
「匂いが甘そうだからそんなに入れなくてもいいかな。で、これで出来上がり?」
「ええ。ありがとう」
 バーカウンターで待つブラックスワンにそうやって注文を提供したところで、不意にラウンジの方からドアが開いた。階段の上を見、やってきたのが丹恒だと気付く。彼もまた、バーカウンターの中に立っている穹に気付いた。
「……何をやってるんだ」
「見ればわかるだろ、師匠の代わりに店番だ」
「師匠――シヴォーンのことではなさそうだな。ならばシャラップか」
「シヴォーンもそのうちの一人ではあるけどさ。ほら、シャラップは今定期メンテ中だろ?」
「ああ……そういえばそうだったな」
「というわけでおにーさん、通りかかったついでに一杯いかが? バー・ナイトメアの名物美少女バーテンダーが今宵は星穹列車で一夜を明かしてるなんてめったにないぞ」
「……酒は列車の規定で飲めないぞ」
「モクテルがあるだろ?」
 さーて今日の気分はなんだ、と横一列に並んだシロップのボトルの上を軽く指でなぞりつつ、左から右へと手を動かしていく。ざっと見た限り少し疲れているようにも見える。アーカイブの整理で数日あまり眠っていないのだろう。ここ数日はいつ部屋に向かっても作業をしていたから、つまんないなあ、としばらく同じ空間でゲームや暇つぶしの読書をしては、結局寝る時間になって退室を繰り返すこと数回。引きこもっていたところ、ここまで出て来たということは漸くひと段落付いたのだろう。
「じゃあ大変お疲れのご様子の丹恒くんには、さわやかでリラックスする滋養強壮によさそうなやつでも作ってやろっと。まずはこれかな~」
 夢境に用意されていたボトルのいくつかは夢境にしかない憶質を加工した特殊な飲み物だが、現実でも似たような味の飲み物はある。その中から数本と、並んだシロップをいくつか選んで、穹は慣れた手付きでグラスにモクテルを用意した。ささ、まずは座って座って、とじっと穹の手元を見つめる丹恒を促す。彼は仕方がなく、と言った表情で、ブラックスワンから一つ開いた席に腰掛けた。
「炭酸は抜いてくれ」
「はいはーい……って注文するんかい!」
「いや、詳しいわけではないからお前の好きに作っていい」
「好きに? ふーん……。じゃあちょっと趣向を変えてみるかな」
 そうだ、とふと思い出す。つい最近、いくつかの特別なモクテルを作った事を。あの時は夢境ということもあり、モクテルは憶質に働きかけ様々な効果を引き起こした。ここは現実で、夢境のようなことは起こらない。だが現実だとしても立ったまま白昼夢くらいは見られるのだ。穹はゆっくりと丸い氷が解けるのを楽しむように、ロックグラスを傾けるブラックスワンに一度目配せをする。きょとん、とする彼女に、穹はそっと端末を取り出し尋ねた。届いた通知に少し驚きながらも、彼女はくすっと一度笑って返事をくれる。
『どんな悪戯のお誘いかしら?』
『悪戯って決まったわけじゃないだろ。ちょっと憶質をさ、こう……モクテルに混ぜたいんだけど……』
『憶質を? ……そうね。出来なくはないわ』
『どうすればいい?』
『そうね……じゃあ、入れるつもりの材料の瓶を私に渡してもらえるかしら?』
『合点承知。あ、入れるのは丹恒がよく眠れそうなやつにして』
『ふふ、わかったわ。よく眠れそうなもの、ね』
 指をたたっ、と動かしてすぐ端末をしまうと、穹は中身がすくなくなったシロップの瓶を手にし、あれっ、あれれ~? と声を上げた。どうした、と尋ねてくる丹恒から自然に離れ、ブラックスワンの前に数歩移動する。
「スワン姉ちゃーん。なんか開かない。開けて」
「あら」
「キャップが開かないのか? 俺がやろう」
「丹恒はお客さんだからダメ!」
「ブラックスワンもそうだろう……」
「ふふ。いいのよ。丹恒さんは座っていて」
 何も知らない丹恒にそう答え、ブラックスワンは軽く穹にむけて片目を閉じた。頼んだぞブラックスワン。念じながら穹は彼女に瓶を渡す。もちろん、キャップは硬い――なんてことも、乾いてしまった甘味料の所為で開けにくくなっているわけでもなかった。ブラックスワンはキャップをぎゅっと絞めていた金具をぱちんと外し、キャップを外していく。「布巾を貸してもらえるかしら」と自然に尋ねてきた。オッケー、とグラスを磨くための毛羽立たない布を貸す。彼女はそれでボトルの口を覆い、瓶を丹恒から上手く見えなくすると、そこにほんの一滴、憶質を混ぜ込んだ。布巾でボトルの口のあたりを軽く拭う。
「きっとしばらく使っていなかったのね。ボトルの口に結晶化した砂糖がついていたわ。これが原因だったんでしょう」
「マジ? ありがとな~」
「どういたしまして」
 にこ、っと微笑んでくるブラックスワンに心の中で穹は親指を立てる。彼女も思いがけなく悪戯に加担することになりどこか楽しそうだ。丹恒はきっと、まだ気付ていないだろう。
 穹は続けていくつかの材料を冷蔵庫から取り出した。レシピと全く同じものがないから作ろうとしていたものと同じものが出来上がることはないが、憶質を混ぜ込んだシロップがどうなるかは未知数だ。シロップをレモン水で溶かし、他に似たような匂い、味、と頭の中にあったレシピを再現して、グラスの中を満たしていく。綺麗な色の三層を作ったところでお待たせ、と穹は漸く丹恒にモクテルを差し出した。
「じっと手元見ちゃってさ。何? 俺のマドラー捌きに見惚れたり?」
「そうだな」
「おかしいな……。飲む前から素直じゃん……」
「飲む前?」
「こっちの話」
 さあ力作だ飲んで飲んで、と穹は丹恒を促す。彼は少し訝しがるような表情をしながらも、ではありがたくいただこう、とグラスを傾けた。底に沈んでいたシロップの透明な煙が揺らぎ、グラスを傾けた瞬間に混ざり合う。グラスの傾きを元に戻すと、中の層はくずれ、グラスの中は青紫色に、星のようにきらきらとした金箔が泳ぎ出していた。
「――飲んだな」
「……飲んだが」
「何か変なかんじしない?」
「いや、特には……。――盛ったのか? アルコールの類は感じられなかったが」
「ふふん。何を入れたかはひみつ。……さて蒼龍ちゃん。ここの所、よくもこの大親友を放置してくれたな」
「アーカイブの整理が溜まっていたんだ。仕方がないだろう」
「それはそれ、これはこれ。おかげで俺ってば毎日とっても寂しかったわけ。ボードゲームだって一人じゃ出来ないんだぞ! デーさんは付き合ってくれるけど、ゲームで手加減するとか知らないからさ、ほよ~っとした顔でこてんぱんにしてくるし。おかげで俺は毎晩枕を濡らしてたの。よよよ……」
「それは……、すまなかった。お前をないがしろにしようとしたわけではなく、ただ」
「わかってるよ。丹恒自身整理とか言いながら楽しそうだったもんな。俺のこと無視して熱中するくらいだし?」
「根に持つな……」
「じゃあ挽回希望」
「どうしたらいい」
 参考にしたレシピは最初に再現したものだ。実はさ、と穹は丹恒にいう。
「この間また夢境でバーの手伝いをしてたんだ。その時に、特別なモクテルのレシピを再現して振舞ってたんだけど。憶質に強く影響してほにゃららみたいな」
「肝心なところを省くな……」
「つまり飲むと何でも言う事聞いたり変化が出たりする特別なモクテルを作ってたってこと」
「まさか同じレシピを? だがそれは夢境の中での話だろう。憶質に影響するなら現実で同じ材料を使ったところで、アルコールでも入れたわけではないならそう影響はないはずだ」
「ところがどっこい。憶質は入ってるんだよな」
「は? ……――ブラックスワンか」
「可愛らしい悪戯に誘われてしまったの。断るのは可哀想でしょう?」
「次からはきっぱりと断ってくれ。……――それで? お前はどうしてほしいんだ」
「んー、じゃあ今日今から話したり遊んでくれたりする?」
「……わかった」
「そのついでに映画でも見て夜更かししよう」
「構わない」
「そのまま一緒に朝まで寝てもいい?」
「……お前が望むなら」
「おかしいな、マジで夢境と変わらず言う事聞いてくれるぞ……」
 俺って現実でも通用する稀有な力を手に入れちゃったのかも、と穹は自分が作ったモクテルのグラスをまじまじと見つめる。丹恒がそれを手に取って、ごくごくと飲み干していった。さほど甘くはないはずだがそうも一気に飲まなくても、と思わず唖然とする。彼が傾けたグラスを降ろした時には、もう中身は殆ど残っていなかった。
「変わった味だが悪くはなかった。ありがとう」
「ど、どういたしまして?」
「で、何を話すつもりなんだ」
「あ、もうはじまる感じ? 急に聞かれても咄嗟に思いつかない……。あ、恋バナでもする? 蒼龍ちゃんの好みのタイプとか俺聞いたことないかも! まあ俺か。なーんちゃって」
 空になったグラスを洗おうとして、穹は冗談交じりに尋ねながらカウンターの上に手を伸ばす。それを、ああ、と頷きながら何故か丹恒が引き留めるように手を伸ばしてきた。
「……うん? なに」
「……だから、お前と」
「えっと……、……うん? 俺と? 何?」
 とりあえず離してくれないとグラスが洗えないんだけど、ときょとんとしながら穹は首を傾げる。すっと、なぜかその時不意に真横からふわっと、仄かに甘いパウダリーな匂いが香ってきた。つい先ほどまでカウンターに座っていたのに、何故かブラックスワンがカウンターに内側にいたのだ。あれ、とテーブルを見る。既に彼女のグラスには小さくなった丸い氷しか残っていなかった。
「もう飲んだのか?」
「ええ。今日はマスターがいないのでしょう? お客さんも私以外にはいないようだし、もう店じまいにしてしまいましょう。片付けは私の方でやっておくわね」
「え、けど」
「ちゃんと仕掛けた悪戯の責任は取らなくちゃ。そうでしょ、いたずらっ子さん」
 え、え、と戸惑っている間に何故か体がふわりと浮き上がる。足元に憶質の塊が泡のように集まり、穹の体を押し上げた。宙に浮かんだところを抱き留められる。弾けて消えた憶泡は霧散して、気付けば視点が先ほどとは逆になっていた。バーの内側に佇むブラックスワンは、ゆったりとした動きでグラスを片付け始める。
「いくか」
「え? あー……うん?」
 抱きかかえられたまま、何故か体が軽く弾みつつ垂直に移動し始める。疑問符を浮かべながらその浮遊感に身をまかせ、あれ、と穹は自分が置かれた状況に漸く追いついた。
「た、丹恒? 降ろしていいぞ? 俺店番しながら飲んで酔ったりしてないぞ? 歩けるし」
「いや、すぐそこまでだ。気にしなくていい」
「そ、そっかぁ?」
 怒っているようには見えないが、何故か少し不自然には見える。これは何だろう? 穹は仕方がなく落ちないようにと丹恒にしがみ付きながら、腕の下で微かに強張ったその感覚を感じ取った。ふむ、と穹は先ほどの会話を思い返す。そして漸く気付いた。
「――あ、そういうこと!?」
「…………」
「え? なんで?」
「……何故と言われても」
「丹恒って好きになった子がタイプな感じ?」
「そうわけじゃない」
「いい趣味してるぅ。こんな美少女宇宙になかなかいないぜ?」
「美醜にはあまり興味はないな……」
「えっ、じゃあどの辺を!?」
 いつも呆れた目で見てくる癖に、と穹は一度腕の力を緩めて丹恒の顔を見ようとする。だが、そうやって顔を覗き込む前に、赤くなった耳の縁に気付いてしまった。浮遊感に身をまかせつつ階段を登り切り、自室のドアをくぐり、電気をつけようとする丹恒の手を一度遮る。
「……? 遊ぶんじゃないのか」
 尋ねてくる丹恒に、それはそうするけど、と穹は少し歯切れ悪く答えた。
「遊ぶは……遊ぶけど。……どうせ運ぶならベッドまでとかどう?」
「…………、映画は」
「見たかったのか? じゃあ横で流しとく?」
「内容が入ってこないだろうな」
「余所見は良くないしな。……丹恒ってば俺の事好きだな~?」
「そうだな」
 飾り気のない言葉で馬鹿正直に頷くだけだったから、穹もさすがにそれ以上は揶揄う気も起きず、う、と言葉に詰まってしまう。憶質って飲み込むと嘘吐けなくなったりするのかな、とぼんやりと考えているうちに、視界がかくんと滑り落ちて回った。寄り道はなし、と。それに驚いている間に上着をさっと脱いでベッドの下に落としていくものだから、穹もさすがに驚いた。
「……マジでなんか変なもんでも飲んだんじゃ」
「飲ませたのはお前じゃないのか」
「ブラックスワンには丹恒がよく眠れる感じの憶質にしといてっていった!」
「ああ……、……どうりで」
「ん? なに」
「飲んだ瞬間に頭の中に何故かいつかのお前がいくつも浮かんだと」
「俺ってもしかして睡眠導入剤?」
「……お前といるとよく眠れるのは確かだな」
 それはちょっと疲れるからじゃなくて、と尋ねるより前に影が視界を覆う。目を閉じるのを忘れていて、穹は近づいてくるその眸をじっと見つめながらくちびるを受け止める。いつもよりくちづけが甘く、すこしふわふわとした気分になる。
 すこし遅れて漸く瞼を閉じると、その瞬間、何故か頭の中にいくつも、目の前の青年の顔が浮かんでは消えた。これが彼の舌先に残った憶質のせいなら、どうやら自分も同じみたいなんだけど、と穹は何故か言い出せず、離れていくくちびるをもう一度自分から捕まえにいって誤魔化した。

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