祟り神



部屋に戻ると、学校から戻って来た子どもがタオルケットを上に掛けて寝入っていた。食事は既に終えてしまったようで、ちゃぶ台には、やりかけの宿題を広げたままになっている。
ただいま戻りました、というと、隣の部屋の住人になってしまった今でも、人の部屋に好きに出入りをしている兄弟子は、薄暗がりの中で眺めていたテレビから視線を離し、おかえり、と僕に向かって手を上げた。
「次から先に寝かせといてください。」と言うと、そうやねんけど、と珍しく歯切れの悪い言葉が返って来た。
「今日はお前が帰ってくるの、こないして十時回るのは分かり切ってたから、オレも『先に寝とけ』って二度、三度と言うたんやけどな。帰ってくるまで起きて待ちたい、て言うから好きにさせたったんや。気持ちちょっと分かるし。」
「次からは部屋に戻ってていいですよ。」と言ってから、流しで顔を洗って歯を磨き始めると、男は「どうせ隣の部屋や、今更オレに気を遣ってどないすんねん。」と言って、笑う気配がした。
「眠くなったらすぐ戻れるし、次に目ぇ覚めたとき、お前が戻ってなかったら、誰もおらん部屋におちび一人でおんのは寂しいやろ。こんだけデカなってんねんから、まあ一人でも良いやろ、とは思っとるけど、枯れ木も山の賑わいっちゅうからな。」と兄弟子は言った。
「……寂しく思ってんのは、兄さんの方やないですか?」
うちの子どもは案外にしたたかだし、何より、この人に愛されてることには自覚がある。
そこまで気に掛けてやる必要はないのだ、本来ならば。
僕はそう思っている。
「お前なあ、そういうのは思ってても言わんもんやぞ。それにオレは……。」とそこまで言ってから、何もない、と兄弟子はそっぽを向いた。
流しで歯を磨き始めても、答えはない。
「兄さん、言いかけてそこで止めないでくださいよ。」
「なんもない。……ビデオ見に来ただけやし。」と言いながら、リモコンを弄っている。
さっきまで見ていたのは今週の大河ドラマの録画だったが、この人がビデオというのは、ビデオそのものではないこともある。最近、所謂、映画やドラマといったものが見られる、配信サービスのチャンネルを、新しく買ったテレビでも見られるように設定をしたばかりだった。衛星放送やケーブルテレビ全盛の頃にほとんど必要も感じなかったが、古い映画がレンタルショップに行かずとも見られるというので重宝している。
「もう布団敷いとくか?」
「はい。」と頷いた間に、映画が始まってしまった。
自分が見たくてテレビを付けたくせに、画面も見ずに布団を敷いて、子どもをその上に寝かせている。
コップに冷蔵庫から出した水を汲んで飲んでいる間に、どんな映画なのかとちらっと見ると、さして面白そうな様子がない。
そもそも、落語以外で僕が面白い、と思えた娯楽と言うのは、これまで生きて来たうちで、ほとんどなかったと言っていいが、僕と違って、この兄弟子は、割と流行りのものに食いつくタイプだった。羽振りの良い時期には、テレビのバラエティー番組も、他局のものは敵情視察じゃ、とか口実を付けていくつか見ていたし、かつて乗り回していた外車を運転して以前暮らしていた高級マンションに送り届けていた頃には、何度か酒飲んでくか、と誘われたこともあった。それが、この人が寂しいと思っていたタイミングだったのだろう。
今となっては勿体ないことをしたと思わないこともないが、あの頃は煩わしいとしか思っていなかった。家には本当に酒しかなく、足りないつまみを買って来るように言いつかることになる可能性が高いことも分かりきっていたので、毎回きっちり断っていた。
あの頃の僕は、この人に対して、草若師匠の息子であるという以外の点では全く興味がなかったが、そうした時期の雑な観察でも、実家にいた頃や内弟子修行中には出来なかった分を取り戻すようにして生きているように見えた。
今日選んだ作品は、海外映画のようだが、普段見ているようなハリウッド映画のような雰囲気はなく、画面に出て来る役者で見たことのある俳優は一人もいない。
「これ、どういう映画なんです?」
「見てたら分かるわ……多分。」そう言って兄弟子は僕の布団を敷いてしまったその上に座って、隣に座るよう僕に促している。
相変わらず遠慮がない、と心の中で思いながら、僕は用意された席に座った。


謎の生物と化した美女が、腕から出した刀でスパっ、スパっと人間の首を切っている。
画面の中で作り物の首が吹き飛ぶたびに、隣の兄弟子が小さくぎゃあ、と声を上げてこちらの腕に腕を絡ませてくる。
普段寝るときに触れることのある腰骨の辺りと似たようなもので、くっついてくる腕には全く肉感というものが感じられないけれど、これが役得かそうでないかと言えば、前者の方に思えてしまうのが重傷だった。
「おい、四草! お前この映画終わるまでちゃんとオレの手ぇ握っとれよ!」
プライベートの時間にまで兄弟子の顔を見せなければ頼ることも出来ないのかとは思うが、こちらでも、もはや慣れに近い。若狭のように肩を抱いてやることは難しいので、仕方なく手を握り返すと、あちらの方から肩を寄せて来た。
なるほど、お化け屋敷みたいなもんにカップルで入って行く方の男の方は、こういうのが役得やと思っていてるんやな、と齢四十過ぎにして長年の疑問が氷解した。
この人が、子どもが寝た後で見たがるのはどんな映画だろうと好奇心もあって隣で見ていたが、ジャンルを尋ねる必要もないほどにホラーと宇宙人の要素がてんこ盛りになっている。この状態から、アクション超大作だとか、シェイクスピア辺りの時代物や、リベンジ系の法廷劇に変わることはないだろう。
分からないのは、なぜこの兄弟子が、苦手要素が多いはずのホラー系SF映画などを見る気になってしまったのか、ということだ。
主人公は女性だが、兄弟子好みの金髪碧眼のグラマー美女という要素からはほど遠い、どちらかといえば赤髪、スレンダーで、薄い化粧にそばかすが浮いて見えるということは、女優目当てで選んだ映画と言う訳でもないようだ。かといって、僕に似た顔かたちの男が出て来るわけでもない。
勢い良く飛んだ首が別の身体の肉体に乗って、悪役の方をぎょろりと睨んだ。
ぎゃあ、という遠慮がちな叫びに次いで「お前、これで途中で先に寝たら、末代まで祟ったるからな!」と耳元にくすぐったい声が聞こえて来る。
末代て……。
「僕の次の代ならそこで寝てますけど。祟りますか?」
これ以上でかい声出したら、それこそ起きてしまいますよ、と耳打ちする。
「あ、そやった!! 今のナシ!」
今のナシて……。
「根性のない祟り神ですね。あいつなら、草若兄さんが化けて出てきてくれても、まあ喜ぶとは思いますけど。」と言うと、「そう思うか? そんならええかな。」と兄弟子はその顔にほんの少しの喜色を浮かべた。ううん、と子どもが唸る声が聞こえたので、お互いに顔を見合わせて口を閉じてから、またテレビ画面に向き合う。
すっかり場面が変わっていて、話の筋は追えてはいないが、悪人が恐れをなして悔悛している様子が多少は伺えるようになっていた。
「まあ、祟り神になるのは好きにしてくれてもええですけど、僕より先には死なんといてくださいよ。」と言うと、兄弟子は映画の音量をまた一段階下げようと手にしていたらしいリモコンを、布団の上に落とした。
「……おい四草、お前今の話で、そういう流れに持ってくのやめえ。」
「先にこの話を始めたのはそっちです。」
「そうやねんけどな、そういう話は、映画見て首取れてギャア、とか言ってる時にするもんとちゃうやろ! もっとなんか……。」
「ぎゃあ、って言ってるの、草若兄さんだけですよ。」と言うと、ああ言えばこう言う減らず口め、と睨まれたが、それも一瞬で、直ぐに逸らされてしまった。
「そういうタイミングとか……シチュエーションがあるやろ。首ちょんぱに驚き過ぎて、危うく大事な話を聞き流すとこやったやないか。」と言って、唇を尖らせている。
タイミングに、シチュエーションか。
指輪を渡す時とか、結婚して何年目とか?
そういう男と女ではあるかもしれない区切りが僕らにはなさそうだから、今言ってるんじゃないですか。
僕にもこの人にも、それを言ったところで結局は詮無い話ではあって。
それこそ、敢えて、今言う話でもないかと口を閉じる。
「これ、若狭に言ったら創作落語のネタになるから止めてくださいね。」
「……お前はどこまで人の心を読んでんねん。」
「兄さんが分かり易すぎるんですよ。」
「そんなら、オレが今何考えとんのか分かるか?」と可愛い顔で言うので「目ぇつぶっててください。」と言って、僕はその首に腕を巻き付けて、うるさい唇を塞ぐことにした。




                                                                                                                                                                                                                                                  
 
 

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