夏休みの王国
藤棚に寄り添って伝うノウゼンカズラのオレンジ色が、真っ青な空によく似合う。下駄箱が並んだアプローチ、日陰から眺めた外の景色は夏の日差しが照り付けて土が白むほどまばゆかった。蝉の鳴き声がここまで届く。外へ出たらきっと音のシャワーに包まれるだろう。
束の間の許された自由だ、と一目散に飛び出していった学友たちの背中はすぐに消えた。今はついに晶の姿一人だけ。それでもまだ時間稼ぎをするみたいに、のろのろと下駄箱から運動靴を取り出す。ふとスマートフォンが震えた。スラックスのポケットから取り出して通知を確認する。カインから仲間内のグループへ計画表が早速届いていた。大型プールに行く日、カラオケに行く日、スポーツ観戦の日、バーベキューの日……なんて夏休み中の土日全てに何かしら書かれている。晶は土埃の匂いがする下駄箱の前にまだ立っているのに、彼は一足先に夏休みの王国へ入ったようだった。活動的な彼らしいと眩しく思う。参加者は前日までに連絡すれば良いとその文面だけ確認して、そのまま視線は下へスライドした。髑髏マークのアイコンに新規メッセージはない。晶はしばし眺め、振り切るようにスマートフォンをポケットへ仕舞い直した。
教室の浮ついた空気の中ではミスラの姿は見えなかった。彼は学生の身でありながらモデルという職業に就いている。一学期の終業式の為だけの登校日だ。授業もないのだから出校せず、仕事をしていてもおかしくない。ただ皆と肩を並べて校長の挨拶を聞くなんて馬鹿らしいと、不良らしくサボっている可能性もあった。ひょっこり廊下から顔を出すのではと、帰路に誘うクラスメイトを見送って無意味に時間を潰して待ってしまった。それでもたった三時間もないだろう滞在時間に、ついぞ晶は彼の姿を見つけられなかった。
「…………そっか」
晶はぽつりと呟いた。
ミスラと夏休みに何か約束でも出来たらいいと思ったけれど、よくよく考えると学生の彼にとっては仕事を詰め込みどきだ。SNSの人気を顧みればスケジュールはさぞギチギチだろう。
灰色のコンクリートに置かれた運動靴を見下ろす。下駄箱の周辺は元より廊下にも人の気配は無く、静かだ。カインのメッセージへ返答が続いているのだろう、ポケットだけが連続した鈍い音を響かせていた。普段よりも軽い学生鞄を脇に挟み、晶は運動靴に足を差し入れる。彼の顔を再び見るのは一ヶ月半後だ。胸にすうっと寂しさが降りるのを感じながら、眩しい夏の光へ向かうべく晶はドア枠を潜った。
「ああ、やっと出てきた」
晶は目を丸くさせて声が飛んできた方向へ首を回す。
「ミスラ!?」
長身がドア横の柱に背を預けていた。雨避けのひさしの影の中でも赤い髪が鮮やかに光る。変わらずの黒のボンタンへシルバーのチェーンをじゃらじゃらつけて、色が褪せたような黒のTシャツ姿。剥き出しの腕は筋肉が隆起し、見るたびに晶の細いばかりの腕が貧弱に思える。あんなに探したのにこんなところに居て、晶は驚かずにいられなかった。
「どうして、」
ミスラは眠たげな眼をゆっくりとしばたき、晶を眺めた。
「待ってたんですよ、あなたのこと。全然出てこないから腹でも壊してるのかと思いました」
予想外の返答にさっきまで確かにあった胸の寂しさは影も形もない。晶は慌ててミスラへ駆け寄った。
「俺を待ってた?」
「はい。今日学校で会えなかったらこれから一ヶ月半会えませんし。まあ、連絡入れて呼び出せばいいんですけど、なんかそれも味気ないかなって」
不思議そうに瞬く常盤色の瞳を、晶は不躾なまでに見つめてしまった。晶は勝手に持ち上がる口角もそのままに、スマートフォンを急いで取り出し両手に握る。飛び跳ねてしまいたいぐらいテンションが上がっていた。
「あの、夏休みにどこかで遊ぶ約束しませんか? あ、ミスラのお仕事のスケジュールに合わせます! お休みの日とかあれば! 俺はまだ何も決めてなくて。カインが夏休み中の土日に色んな催しを考えてて、良かったら一緒に」
「仕事のスケジュールに全然休み無いんですよね」
液晶画面をスクロールする晶の人差し指が止まった。
「あ……」
晶の藤煤竹色の瞳が丸くなって、眉尻がしおしおと下がる。晶の見るからに残念そうな表情へミスラは口端を片方持ち上げ、その無防備な鼻先を黒い爪先で摘んだ。
「ふんぐ!?」
柔らかな小鼻の感触。ミスラは上機嫌になった。
「あはは。だから、俺ん家に泊まりに来てくださいよ。俺が仕事行ってる間は留守番になりますけど、それ以外は一緒にいられます」
はっと晶の瞳が明るくなる。そんなこと思いつきもしなかった。
「えっ、あっ、いいんですか!?」
「一人暮らしなので、誰にも構いませんよ」
ミスラの家に晶がお泊まりしに行く。それはこの上もなく素晴らしい提案に思えた。なんて自由で、夏休みらしい。互いに食べたい物を言い合って用意して、ゲームしたり映画を観たり、ちょっと夜更かししたりするんだろう。
「あ、そっか! そっか。えっと、いつからがいいですか?」
「今から」
彼の薄い唇が美しく弧を描き、目尻が優しく落ちる。晶が目を奪われているうちに、長い指が晶の手首を掴んだ。
「だって、今から夏休みでしょう?」
引かれた腕に導かれるまま晶の足が進む。
二人はやっと夏の光の中へ飛び込んだのだった。
ーーー
ミスラの家は真夏でも蝉の声は届かなかった。駅前のタワーマンションに住まう為、二重か三重の分厚いガラス越しに夏の陽炎を見下ろすだけ。ドラマの中で見るような広くて洒落た部屋だ。しかしミスラは学校で会う時と何も変わらず、晶と一緒にコンビニで買ったアイスキャンディをガリガリと齧って共にゲームしたり、のんべんだらりとフローリングに伸びて転がっていたりする。晶もすぐに緊張は解けてリラックスした。ミスラの雇用主――双子のスノウとホワイトがデリバリーをほとんど毎日差し入れしてくれる。晶の両親にも口利きをしてくれたそうだ。若齢のうちから仕事ばかりしている可哀想な学生に友達と過ごす夏休みを、うんぬんかんぬん――。その学生に仕事を与えているのは彼らだったが、ミスラは自らの食い扶持を稼ぐことに異論はない。
ミスラが仕事でいない日中、晶は基本的にリビングのローテーブル前に座って宿題や図書館で借りた本を読んだりと過ごした。壁一面の青い空が染める部屋は静かで、集中出来て捗る。何より涼しい。よく見知った白っぽい長方形のエアコンの類は天井に見当たらず、晶には仕組みが分からなかったけれど。
息抜きに眺めたSNSでは、ルチルがミチルとリケと一緒に巨大ゼリー作りに挑戦していた。なんと三つのバケツいっぱいの、青と赤と黄色のゼリーである。いざ冷やす工程でフローレス家の冷蔵庫にバケツ一つしか入らなくて、ご近所さんのレノックスとフィガロの家まで走り冷蔵庫を借りたらしい。(その際、フィガロの家の冷蔵庫に常備されたビールの数にミチルが苦言を呈している)賑やかしい五人の様子がそれぞれのアカウントでも投稿され、仲間内のレスポンスが行き交い、タイムラインがちょっとしたお祭り騒ぎだ。晶もひとしきり笑った。
「お菓子作り……料理、かぁ」
ちらと立派なキッチンへ首を伸ばす。小綺麗なシンクやコンロは普段使われている形跡はない。お湯だってウォーターサーバーから出てくる。ミスラの家に滞在し始めてから三、四日程度は過ぎた。ノートに向かうのも少し飽きてきたし、せっかくならちょっとしたオヤツなんて作ってみてもいいかもしれない。仕事から帰ってきたミスラも喜ぶだろうか。そう思うと、なんとなくそわそわする。泊まらせてもらってずっとお客様気分でもいけないと自らの着替えの洗濯や軽い掃除程度ならすでに晶は率先してやっていたし、今日ミスラが帰ってきたら許可をもらおう。彼のことだから、どうでも良さそうに頷くんだろう。想像して晶の口端に笑みが浮かんだ。
翌る日。晶の計画は持ち越しとなった。双子の計らいで、ミスラの仕事に同行を誘われたのだ。都心部から離れた山間で撮影をするらしい。泊まりということで、ミスラが仕事をしている間は一人になるも、その数時間以外は自由に遊んで良いとのことだった。晶はわくわくした。ミスラの仕事ぶりにも興味があったし、ちょっとした小旅行だ。
早朝未明、まだ明ける前の暗い時間にマンションのエントランスに寄せられたロケバスに乗り込む。一番後ろのベンチ席に二人して並び、晶の分の朝食のサンドウィッチまで渡されて礼を言った。初対面のスタッフたちは晶を邪険にもせず、変に介入もせず二人をそっとしておいてくれた。双子の采配なのだろうか、気を遣わずに済んで助かった。
高い車高の車窓の外、首都高速は明るく照らされ、ビルの黒い影が乱立する中を縫うように走る。しばらくして、車の振動に眠くなったミスラが赤い頭を晶の肩へ寄越してきた。前の座席のスタッフは静かにタブレットを見ている。晶はこれから彼は仕事をするのだからと言い聞かせ、体力温存の為にそのまま肩を貸してやることにした。ふわふわとした赤毛が頬に触れる。
(くすぐったい……)
晶の口元がむずむずする。ミスラの家で就寝する時だってこんなに近づいたことはなかった。何せ彼の背丈に合わせたベッドは横幅も広く、大人が並んで何人も眠れそうなぐらいなのだ。晶がミスラと同じベッドを借りていても、気兼ねなく寝返り出来るほど距離がある。
少しだけ横目に覗くと、彼の長いまつ毛がふせって、整った鼻筋がすうと伸びているのがよく見えた。普段よく目がいく鮮やかな色の瞳は隠れている分、整った顔立ちがことさら際立っている。普段見ることもない角度に晶は目を奪われた。不躾な眼差しに彼は目覚めることもなく。ミスラは野良猫みたいなところがあって、こんな風に懐くような振る舞いをするのは晶にだけだとは分かっていた。それが特別で、自分以外の誰にも渡したくないと晶は思っている。ただの学友にこんな風に感じていることをまだ誰にも話したことはなかった。胸に広がるおもばゆさは、今はただ充足感だけをもたらす。見つめているうちに晶はあくびを漏らした。待ち合わせ時間に緊張してしまって、眠りは浅かった。すっかり朝を迎えた山間のサービスエリアで声をかけられるまで、いつの間にか眠っていた。
撮影場所はこの国なら誰しもが知る名高い山の麓にある樹海だった。その目的地の手前の山水が流れ込む湖の岸辺、ロッジ風の建物の前でロケバスは止まった。車から降りた足元では、黒土は湿り、枯葉の赤さえも濡れてしっとりと美しい。
晶は何棟か借りているうちの一軒に留守番となった。ハイキングにいくわけでもなし、仕事の邪魔をしてはいけない。その為に宿題の教材とノートも鞄に持参している。いわゆるロケ弁が晶にも手渡され、玄関手前のポーチに上がって振り返った。ミスラはスタッフに囲まれて撮影の為の説明を受けているようだった。晶の肩を我が物顔で借り、あどけない寝顔を晒していた車内と様子が違う。大の大人顔負けの背丈と体格も相まり、仕事慣れした横顔に少し圧倒された。初めて見るミスラの仕事の顔。大人みたいだ。晶だってあと数年したら、社会に出て『大人』になるはずだけれど。なんだか晶よりもずっと、立派に見えた。
「――……」
そのうちミスラの姿は着替えの為にスタッフと共に別棟へ消えた。
建物の中はこじんまりとしつつもキッチンや風呂などあり、立派な家のようだった。丸太で組まれた壁や三角の天井が晶の目には新鮮に映る。リビングの椅子へ鞄を置き、真っ直ぐに突っ切って、湖に面したバルコニーのガラス戸を開けた。鮮やかな景観が飛び込んできて、風が緑と腐葉土の匂いを運ぶ。蝉の音は不思議と街中よりも気にならない。校庭よりももっと広い蒼い水面が静かに波打つ。向かいの岸辺には木々が連なって湖面に影を落としていた。晶はしばらく清涼な空気で移動の疲れを溶かした。
「はあ…………」
一人になるとなんとも言えない寂寥感が胸に広がり、晶は宿題に身が入らなかった。手慰みのスマートフォンの液晶は相変わらず、仲間内が夏休みを賑やかしく過ごしている様子を伝えてくる。まだ一度もカインの計画に乗ってはいない。こんな気持ちを抱えるなら撮影について行くのは止めてこちらに行けば良かったと、後悔まであぶくのごとく浮かび上がった。もう仕方がないことなのに。
気を晴らそうと辺りを散策したけれど、湖沿いの道は細く、湿って滑る。地図もない山道を一人で歩くには怖気付いてすぐに引き返した。ソファに横たわった体を窓から入った湖風が撫でていく。まぶたを閉じると先程のミスラの横顔が浮かび上がる。
晶が知る普段のミスラの様子からなんとなく、大人に宥められながら怠惰な様子で仕事に取り掛かっているんだとイメージしていた。自身の思い込みに反省する。耳に入った会話の内容は晶にはまだ分からなくとも、スタッフたちもミスラに一目置いているのが伝わってきた。大人の世界に動揺もせずに堂々とした彼の立ち姿。
(……どうしてこんなにショック受けてるんだろう……ミスラの仕事ぶりに興味があったのは本当だったのに)
自分の心がよく分からなかった。言葉にならない感情に振り回されているのも幼稚ぽくって、自己嫌悪してしまう。蝉の音に耳を澄ましながら、答えが出ない思考に浸るうちに時間は過ぎていった。
ミスラが仕事を終えて戻ってきたのは案外と早く、晶が遅めの昼飯をもそもそと食べ終わった頃だった。樹海といっても深い奥地まで行かずに山道での撮影だったらしい。昼は帰りのロケバスの中で済ませたとのことだ。メイクは落としたらしく、前髪が少し濡れている。
「これで湖に入って遊べって双子が言ってました」
無造作に渡された紙袋には無地の海パンとラッシュガード、スポーツサンダルが入っていた。晶に断る理由もなく、提案を呑んだ。
ロケバスの前で仕事をしているスタッフたちに一礼し、晶が一人で散策した側とは反対、手漕ぎボートが数隻浮かぶ岸辺に向かった。無人のロッジを幾つか通り過ぎ、草が生い茂る中に船着場はあった。真っ直ぐに湖面へ迫り出している。二人以外に人影はないものの、遊泳の注意点が記された看板はあった。晶は都会っ子で泳ぐといえば人工プールか、人混みで賑わう海水浴場。大自然に囲まれた静寂な湖で泳ぐのは初めてだ。水面は風に煽られてちゃぷちゃぷと小さな波が立ち、その合間から石が転がる湖底が透けて見えている。思いの外に透明度が高い。晶が覗き込んでいると、ドボンと大きな水柱が立った。
「ミスラ!?」
勢いよく水に浸かったミスラが振り返る。彼の長身でも腰の位置ほどの深さに安堵した。束の間、腰をかがめていた晶の手を引っ張られる。
「うわわっ!」
派手な水飛沫をあげて晶も湖に入った。
「っ!? 冷たっ!?」
予想外の冷たさに飛び跳ねる。心臓がギュッと縮んで一気に鳥肌が立ち、目が冴えた。ぬるいプールの水とは全然違う。晶が飛び込んで作った水飛沫をミスラは頭から受けてもなお、明るい笑い声を上げた。
「あははっ」
目の前の屈託のない笑顔になんだか晶の心もほぐれる。良かった、いつもの晶がよく知るミスラだ。
彼はすぐに腕を振って湖の中心を目指し泳ぎ出した。晶も慌てて追いかける。肩や背に受ける陽射しの熱さと、水に浸かった腹や手足の冷たい温度差が不思議に心地いい。湖は流れが弱く、晶でも安心して泳ぐことが出来た。潜って覗いた水中は驚くほど透き通り、岩陰に走った魚影にテンションが上がった。足元に広がる小石に水面の模様が映っている。なんて綺麗。潜水して両脚を優雅に動かせば、まるで自分も魚になったみたいだ。先に泳ぐミスラは晶が尻込みするような更に深い場所まで進んでいるのが見えた。運動神経が良いと知ってはいたが驚くほど巧みに泳ぐ。晶が水中に潜ってその勇姿を見つめていると、ほの青く染まった底からやがて戻ってきた。二人して底に足をつけて立ち上がる。肩が出て、途端に陽がうなじを照らす。
「見てください、これ」
ミスラの指は器用に沢蟹の茶色の甲羅を摘んでいた。捕えられた沢蟹は朱色のハサミを必死にばたつかせて忙しい。晶の目が見張る。図鑑やテレビではなく、初めて本物を見た。
「蟹だ!」
「深いところにはこの辺りよりもっと大きな魚も居ましたよ」
「へえ! 鮎とかヤマメかなぁ、これだけ水が綺麗ですもんね。スマホ持ってきたら良かった。ネットで調べたら蟹の種類が分かったかも」
ミスラは晶の生き生きとした顔をじっと見つめる。二人の髪から雫が滴り落ち、光に反射してきらきらと光った。
「なんか、元気になりましたね。さっきまで俯いてもそもそ喋ってたのに」
それまで沢蟹を熱心に観察していた晶はミスラへ視線を戻した。咄嗟に繕えず、頷く。
「蟹好きなんですか?」
思わず晶は笑ってしまった。隙がなさそうな雰囲気なのに、ちょっと抜けてるところもミスラの良いところだ。人の機微に疎いところがあるからこそ、晶は素直に自分の気持ちを伝えることが出来る。
「……仕事してるミスラが眩し過ぎて、勝手にちょっと距離感じてたんです。……ミスラの仕事ぶりを見てみたいと思ってたのにおかしいですよね。俺も自分のことがよく分からなくて混乱してて……。でも、俺と一緒の時のミスラはいつも通りだから、なんだか安心しました」
「はあ。俺が眩し過ぎて……。まあ、俺は格好いいですからね」
「あはは。そうですね、ミスラは本当に格好いいです」
ストレートな賞賛に彼は満足げに笑った。晶はその輝くような顔を眩しげに見上げる。
ミスラは晶にとって憧れの人だった。いつも廊下側の出入り口の近くで馴染みの仲間とつるんでいる。晶と親しいルチルと親族ということで時々は晶の仲間内と混じって話すこともあれど、ルチルが引っ張って来ないと輪には入らない。それがいつのまにか、晶と二人きりになるとぽつぽつと会話するようになった。きっかけはなんだったか、突然の雨に傘を持っていないミスラとたまたま会って、晶は開いた折り畳み傘を差し向けて、二人肩をくっつけて駅まで歩いた時だっただろうか。特別でもなんでもないことだ。きっと誰だって有名人の彼になら傘を半分貸しただろう。
「……どうして、ミスラは俺と仲良くしてくれるんですか?」
「どうして?」
晶の言葉が転がり落ちたのは、ミスラが沢蟹へ興味を失せて遠くへ放っている時だった。振り返って晶の言葉を繰り返す。まるでそんなこと考えたこともないみたいにも見えて、晶の胸が何故かきゅっと締まる。
なんとなく。まあまあ気が合うから。険悪な空気になったことが今までないから。誰かに声をかけようと思った時にたまたま近くにいたから。親しくすることに特別な理由なんて、必要無い。それなのにミスラからの言葉を晶は欲しがっていた。
途端に、『不相応』という言葉が頭の中に浮かんだ。
(そうか、俺、単にミスラが眩しく見えたから寂しかったんじゃない。ただの変哲もない普通の俺とじゃ釣り合いが取れないんじゃないかって、突然怖くなって――)
晶の藤煤竹色の瞳は水面を映し、蒼く揺らめいた。
ミスラは濡れて張り付く前髪を手のひらで拭った。普段は隠れた白い額は滑らかで、彫り深い顔立ちがあらわになる。晶へちらと流し目を寄越した。彼の常盤色がきらりと光る。どきんと晶の心臓が派手な音を立てた。午前中に垣間見た仕事の顔とはまた違うのに、どうしてか、ひどく大人っぽく見えた。
「そんなことも分からないんですか?」
「……はい」
勝手に喉がつっかえたみたいな声が出て、両耳がぱっと熱を持つ。今すぐにでも再び潜って冷やしたくても、晶の瞳は奪われて動けない。夏の光が二人の頭上から照りつける。
「晶はまだまだですね」
セリフと裏腹にミスラの晶を見つめる瞳は滲んで、薄い唇はたわみ、彼は微笑んでいた。
ーーー
樹海での撮影を皮切りに、ミスラの遠出の撮影は怒涛の勢いとなった。三、四日の外泊後、ミスラの家へ帰宅しホッとした翌々日にはまた出発するの繰り返し。もちろん晶の同行は当然のように、切符やホテルの部屋が用意されていた。しかし、前もってスケジュールを知らされていなかった晶にとって目まぐるしく、今自分が何処に居るのかも咄嗟に分からなくなるほど。ある時は国内の南の島で白い砂浜が広がるビーチだとか、その翌週には全く真逆の、最北端の切り立った崖の上だとか。移動にほぼ一日費やす時もあり、晶は人生初の飛行機にも乗った。離陸の為の滑走と浮上で全身にかかる圧。晶が頬をこわばらせて肘置きを握りしめていると、隣のミスラが晶の耳にフッと息を吹きかけてきたのは強烈な思い出だった。冗談抜きで晶の心臓が止まるかと思った。他の乗客の手前声を抑えねばという理性と、リズムが崩れた心臓で晶の目が白黒する。
「ミっ、ミっ……!」
「あはは。変な名前になってます」
ミスラはずっとご機嫌で、邪気もない笑顔を見ると否応なしに晶の肩の力が抜けた。
湖畔のロッジで味わっていた寄る辺も無い気持ちはあれ以来消えていた。晶の隣に立ったミスラがいつも通りだから、仕事をしている様子を視界に入れても晶の心が大きく波立つことは無くなった。それより、撮影を済ませて自由時間になったミスラと青く透明な波打ち際を走ってる時だとか、草原で意味もなく共にごろごろ転がり続けてる時だとか、見上げた夜空の星の瞬きに二人して息を飲んだ瞬間が重なった時だとかにあまりにも心が弾んで、どうでも良くなったのかもしれない。民家も少ない土地の、静かな夜の散歩では声が周囲に大きく響くことに驚いたり、知らないことも多くあった。初めて体験するたびに晶の隣にミスラがいて、共有出来たことがとにかく嬉しかった。晶の胸のうちに広がる感動の味をミスラも知っている、その時の二人は共同体だった。
晶のスマートフォンのカメラロールには美しい風景と、その中で佇むミスラ、時々一緒に撮った二人の写真がいつの間にかいくらスクロールしてもぎっしり並んでいた。消灯した後ベッドの中で一人振り返って眺めて、一瞬で埋められた彼の存在に晶は息を呑んだ。液晶画面の向こうから晶を見つめて、ミスラの瞳が優しく緩んでいる。モデルとしての顔ではない。晶は目を奪われ、写真の中のミスラと時間を忘れてじっと見つめ合った。柔らかく持ち上がった口角、ほんの少し溢れた白い歯。吸い込まれそうなほど深い色で甘く緩んだ瞳。表情のたった一瞬を都合よく切り取ってしまっただけかもしれない。それでも、清らかな湖の水に浸かりながら、ミスラに告げられた言葉が思い出される。
――晶はまだまだですね。
なぞなぞ。晶がまだ分からない、ミスラが晶と一緒にいてくれる理由。
知りたかった。
色鮮やかな真四角は液晶の中で煌々と輝いている。スマートフォンの中身はまるで晶の心の中みたいで、彼のことがあまりにも特別だとこれ見よがしに訴えていた。このカメラロールは誰にも見せられないと気づいた時、咄嗟に晶はスマートフォンを胸に抱いた。
そうこうしているうちに、夏休みはあっという間に過ぎた。遠出の撮影は終わったとミスラに聞かされたのは残り三日間となった辺り。さすがに体がくたくたで、一日は二人してほとんど泥のように眠ってすぐに残り二日間となった。
晶の夏休みの宿題もいい塩梅で終わりを迎えた。リビングのテーブルの前で達成感に喜ぶ晶を見て、ミスラもその存在を思い出したらしい。やる暇は無かった(それはそうだ)というミスラに、せめて少しだけでもやっておこうと晶が手伝いを買って出て、あっという間に八月三十日の晩になった。
ずっと机に齧り付いているのも息が詰まるだろうと、夕食は散歩がてら近場のファミリーレストランでとった。いつの間にか日が暮れる時間も早くなり、帰り道はすっかり暗い。
晶ははっとした。
通りかかった夜に沈んだ公園から鈴虫の音が響き、ぬるくなった夜風が剥き出しの肘へ触れている。秋の気配に包まれ、途端にこの特別な夏休みが終わってしまう実感が湧いてきた。隣でぼんやりと歩くミスラを晶は見上げる。赤い前髪が風にふわりと揺れ、気持ち良さげに常盤色の瞳が細められる。
期間は有限で、季節は必ず進む。晶の意思とは関係なく。突如言い知れぬ寂しさが押し寄せてきて、幼児のように嫌だと叫び回りたくなった。焦燥感に駆られた晶はただ視界に入っていただけの明かりを闇雲に指差した。
「……あの、ミスラ、ちょっと買い物しませんか?」
「はあ。いいですけど」
駅前の生活雑貨や食品も扱う二十四時間営業の総合ディスカウントストア。派手派手しく主張するポップや、天井まで届きそうなほど積まれた段ボール。輸入品のポテトチップスの隣には脈絡もなくボディーソープの大容量ボトルが山積み。なんとなく店内に入ったら不良に絡まれそうなイメージという偏見だけで、晶はあまり入店したことはなかった。ただ強い光に誘われた羽虫みたいに、夜から逃げるように入ってしまった。
カー用品の芳香剤みたいな鼻をきつく刺激する匂いが漂い、どっと押し寄せた店内BGMの騒音に晶は怯んで、ミスラを振り返った。彼は行き慣れているのだろうか、ワゴンに雑多と放り込まれた季節外れのファー素材のスリッパを無造作に撫でている。赤髪と黒いTシャツにスエット姿がなんとなく店内に馴染んでいた。
鍵付きのショーケースに並べられた香水瓶、ケミカルカラーのヨガマット、不思議な形の美顔器からマスクシートの袋、かと思えばペット用の服やクッションなどなど。青白い蛍光灯に過剰に照らされた猥雑な空間を意味もなく泳いだ。ふと、情報量の多さに滑る目が一点に止まった。浮き輪や巨大なビニールプール、いかにもな季節商品が大々的に値下げされた一区画は夏の終わりの虚しさが匂い立っている。その中に陳列されたかき氷器が並ぶ棚。晶のスニーカーは吸い込まれ、思わず手に取る。
「買いたい物見つかりました?」
後ろからついてきていたミスラを晶は振り返った。晶は腕に抱いた箱を見下ろす。手回しがついて安っぽいプラスチックの足の間から、削られた氷が降っている写真。その四角の中にはまだ夏があった。
「かき氷、食べたいんですか」
「そうでもないんですけど……でも……」
さっきまで居たファミリーレストランのメニュー表にもかき氷はあった。口溶けが良さそうなふわふわの氷に果肉たっぷりの特製ソースがたっぷりとかかって、この写真の物よりもっと美味しいだろう。不意に、夏休みの初め頃に思い描いていたデザート作りの計画が頭に浮かぶ。ミスラの撮影の同行で実行には移せないまま忘却していた。おもちゃみたいなチープさでいい。一夏使うだけ。このかき氷器が晶の悔いを鍋底を擦るみたいにこそげ落としてくれる、そんな気がした。
「ミスラ、俺買うので一緒に作りたいです」
「はは、いいですよ」
まるで縋って告げた言葉に、ミスラは愉快そうに応えた。その軽快さに晶は拍子抜けする。さっそく大きな手は隣に並んだボトルを手に取った。
「シロップ、色々ありますよ」
「あ、それも買わなきゃ。やっぱり定番はイチゴですかね。メロンとかもいいかも。レモンとかブルーハワイも揃ってますね」
「そうだ、この白くて透明なやつって結局何味なんですか?」
「え? 何味? ……砂糖味?」
「はあ。それってただ甘いってことですか」
「あはは、そうかも。みぞれって時々無性に食べたくなるけど、そういう時に限ってあんまり売ってないんですよね」
「ふうん。じゃあ白は買いましょう」
テンポよく会話が弾んだ。晶の行き当たりばったりな提案にもミスラは乗っかって面白がってくれる。シロップを両手に持って選ぶ横顔はまだ晶みたいに夏休みを惜しんでくれているように感じられ、晶の気分は少し良くなった。
会計をしビニール袋を片手に下げ、レジ前からミスラの姿を探す。目立つ長身も、高い陳列棚や天井からぶら下がる大きなポップに阻まれ見えにくい。幾つかの棚を通り過ぎてやっと赤い後頭部を見つけた。
「ミスラ、」
声を掛けてミスラが振り返った。彼の正面には一目見ただけで分かるガラの悪い男が三、四人立ち塞がっていた。ブリーチで荒れた金髪や剃りすぎた眉毛、ダボついて裾が擦り減ったボトムス。佇まいからして不穏だ。元不良校生徒会長ミスラの舎弟という空気では無かった。他校の生徒か、そもそも学生でもないのか。そんな彼らから晶へ好奇の視線が走る。いかにも彼らのような者が下に見る、平凡な学生といった晶の雰囲気に獲物を見つけた気配。総毛立ったのは晶よりもミスラの方だった。
「オモテ出ましょうよ」
ミスラはわざと好戦的に顎をしゃくり、高身長を生かして彼らを見下ろした。高圧的な態度に一気に場が殺気立った。
「あ?」
離れた場所にいるはずの晶の胃の底が冷たくなった。ミスラと話すほど親しいと言っても、彼の喧嘩に居合わせたことは初めてだ。〝北のミスラ〟と通り名がつくほど悪名高く、出会った頃にはすでに校内の頂点に君臨し、手軽に絡まれるレベルでは無かった。
「なんだテメェ」
「生徒会長かなんだか知らねぇが態度悪りぃな」
ミスラのサンダルの爪先はすでに出入り口に向かう。冷ややかな流し目で彼らの剣幕をあしらった。
「俺にボコられたいみたいなんで、まあやってもいいですよ。特別サービスします」
「アんだぁ!? オラ」
すでに歩き出したミスラを追いかけ、舌を巻いた怒声が飛んだ。駆け出した彼らのすれ違い様、晶の手元に素早く何かが飛んできた。咄嗟にキャッチする。四角いプラスチックのカード――ミスラの住まうマンションのカードキーだ。はっと視線を向けると、すでにミスラの姿は夜の闇の中へ飛び込み、威嚇の怒号が外に響いていた。
晶は一人、ミスラの部屋のリビングのソファに座り込む。目の前には開封して設置したかき氷器と、手頃な皿も見当たらなくてマグカップが二つ。帰路に何度も振り返ったけれど、ミスラが彼らの注目を一身に浴びてくれたおかげで追っ手は無かった。握り締めたスマートフォンは無言で、ただ時間を刻む。
(ミスラ、大丈夫かな……)
彼がどれほど喧嘩に強いのか晶には見当もつかず、不良っぽい生徒とすれ違うたびに一目も二目も置かれる様子を思い出しては大丈夫だと自身の不安を宥める。晶よりもよっぽどしっかりとついた筋肉だって見たことはある。でも、多勢に無勢ということもあるだろう。腕っぷしが強そうな知り合いに助けを求めたり、警察を呼ぶ方法もあったのかと気づいて悔やむ。その時の晶ではうまく立ち回れず、ミスラの意図を完遂すること――マンションの部屋へ気づかれずに帰ることしか出来なかった。
しんと静まり返った部屋、突如オートロックが解除される音が晶の耳に入った。刮目して立ち上がる。
「晶、居ます?」
「い、居ます。帰ってます。無事です」
のっそりと部屋に入ってきた彼の様子は先程別れた時と何ら変わりはない。ちょっとそこまでとワンマイルの用事を済ませたかのようにも見える。キッチンで汲んだ水を一杯煽って、その後珍しく手を洗っていた。
「ミスラ、おかえりなさい。大丈夫でした? あの人達はどうなりました?」
「ああ、適当にあしらっておきました。それよりあなた弱いんですから、あなたをさっさと帰せて良かったです」
平素の様子であっさりと返された。確かに喧嘩には足手纏いに違いない。相手側へ気づかれずに部屋のカードキーを投げたミスラの機転も場慣れしたものだった。さすが、歴戦の元不良校生徒会長は伊達じゃないのだろうか。ぼんやりと佇んでいる晶の耳がガラガラと派手な音を拾う。ミスラが冷蔵庫の製氷機から氷を掬い大きなグラスへ移している。
「氷、こういうのでいいですか?」
「は、はい……たぶん」
リビングテーブルに向かった二人は早速かき氷器の上部にある蓋を開けた。氷を入れるバケツ部分を覗く。底に氷を削る刃が見える。グラスから真四角の氷をいくつか転がし、剣山のようになっている内蓋を被せた。バネが入っていて氷が固定される。晶が隣のミスラへ視線を投げると目端で促され、晶はハンドルを回した。ガガガと引っ掛かる音がして置かれたマグカップへ削氷がいくばか落ちていく。想像してたよりもずっと儚い量だった。
(これじゃマグカップ一杯でも削るのにすごく時間がかかっちゃうかも……)
晶はスマートフォンのロック画面にある時刻を見た。あと二時間と少しで日が変わる。そうすれば三十一日。夏休みは二十四時間を切る。
「っ、」
焦燥感にハンドルを回す手が力んで機体が揺れる。横からミスラの大きな手が伸びて、本体を上から押さえつけて支えた。晶の視線が赤い色に吸い寄せられる。ミスラの手の甲、突き出た関節の辺りに裂傷が痛ましく走っていた。喧嘩の傷だ。さっき手洗いをしていたのは血を洗い流していたのか。晶の視線に気づいたミスラは裂傷がある左手を下げ、右手に変える。晶の物言いたげな眼差しを受けても、ミスラは無言でただかき氷器をじっと見ていた。その瞳はさっきまで人を殴っていたとは思えないほど、澄み切って、まるであの湖の清らかな水みたいに美しく見える。だって、ミスラは晶を守ってくれたのだ。なんてことない顔をして、さりげない様子で。晶が自責の念に囚われぬように。
(俺のせいだ……)
あの店に立ち寄ろうと言い出さなければ、ガラの悪い連中と会わずに済んだ。晶の姿を目撃されなければミスラは相手を煽って喧嘩にまで発展しなかったかもしれない。
自分のせいで二人でいられる残りの時間を無闇に削ってしまった。
ガリガリとざらついて不規則な音だけが部屋に響く。ハンドル自体は軽いくせに、氷の硬さを歪に伝える振動。
(このかき氷器が本当に欲しかったものでもないのに)
ただ、晶とミスラの思い出を一つでも多く増やしたくて――――。
そう思ってしまったら晶の目の奥がぐっと痛みを訴えた。じわじわと水分が溢れて、慌てて歯を食いしばる。それでも涙は耐えきれずにぽろりとテーブルに落ちた。
「えっ?」
ミスラが驚いて晶の顔を注視する。その時にはもう、決壊した涙の粒がぽろぽろと溢れていた。目を見開いた彼が晶へにじりよる。
「どうしたんですか?」
晶は眉間に皺を寄せ、唇を歪ませる。嗚咽を閉じ込めようとしても呼吸の合間に漏れ出た。晶は今、自分はきっとくしゃくしゃで酷い顔をしていると思った。
「もしかして、さっきのやつらに会った時にすごく怖かったんです? 大丈夫ですよ。二度と声掛けられないぐらいに俺が蹴散らしましたから。怖いことはもうありませんよ」
彼の珍しく焦った早口にも、晶は首を振った。もうハンドルを回していられない。乱れた呼吸の合間、切れ切れと言葉が飛び出る。
「夏休み、終わって、ほしくない」
涙で歪む視界。その中でミスラが息を呑む気配があった。醜い表情の晶でも視線を逸らさずにミスラが見ていてくれていると思ったら、晶の心が止まらなかった。吐き出さないとコントロールを失った感情に溺れて死んでしまう。助けて欲しかった。
「ミスラとまだ一緒にいたい」
転がり落ちた音は震えて、濁声でみっともなかった。
こんな幼稚なこと、言いたくないのに。時間は必ず過ぎていくのに。夏休みはもう終わるのに。晶は絶望感に項垂れ、両手で顔を覆う。手のひらの薄闇の中は熱い呼気ととめどない涙でむっとする。
「あなたって、本当に――」
普段は感情をあまり感じさせないミスラの声が、慌てたような、焦ったような、何か熱いものが込み上がるような吐息にまみれていた。
不意に、震える晶の両肩を大きな手のひらが包む。そのまま彼の方へ引き寄せられて、長い腕が晶の背へ回った。晶の頭頂部にミスラの尖った顎が当たって、痛みに反応する前に力強く抱き締められる。濡れた頬に触れたミスラの首筋もまた、晶の涙で濡れた。至近距離に滑らかな雪肌に走る縫合痕の紅色があった。晶はこんなにも近くで初めて見る。どぎまぎするよりもなによりも、触れるミスラの体温に、涙溢れるまま晶はひどく安心した。
「――可愛いんだから」
このただどうしようもない気持ちさえも彼は嫌ではないのかと思って、赦されたことが晶はただ嬉しかった。ミスラの表情が見えない中、晶の眼前にある彼の喉仏が苦しげに上下する。
「晶、早く気づいて」
彼の呻き声にも似た掠れた響き。安堵していたのに、今度は訳もわからず晶の胸が切なく引きちぎられそうになる。また、あの〝なぞなぞ〟だと思った。
「早く。俺が堪えられないから」
考えたくとも酸欠の頭で晶の思考はままならない。でも直感的に今はこれが正しいと思って、晶の熱い手のひらは自ずとミスラの腰や背中に回り、抱き締め返したのだった。
*
「あの時の晶は本当に可愛かったのに」
姿見の前から晶は振り返った。寝起きの恋人がソファにだらしなく横たわり、股を広げ過ぎて裸足の片足を背もたれの上にまで引っ掛けている。そうすれば元より背が高いことに踏まえて長い脚がことさら目立った。なんだかものすごく体が伸びた猫に似ている。スエット姿でも抜群のプロポーションのせいで海外ファッション雑誌の表紙を彷彿とし、どこかアーティスティックでもあるのが可笑しい。彼は口をへの字に曲げて、スーツ姿にネクタイを締め終えた晶を眺めた。
「俺と離れるのが嫌だって泣きじゃくってた可愛い晶はどこに行ったんですか」
「……もうミスラ、何度その話するんですか。大体何年前の話だと」
晶は熱を持ち始める耳に素知らぬふり、使い慣れたバックパックの中身を確認した。昨晩家に持ち帰ってまで整理した書類ファイルが見える。
今、晶とミスラはあの夏休みと同じように高層マンションの一室で住み暮らしている。一ヶ月と半分を過ごした部屋――双子が学生のミスラに与えた住処からはとうに引っ越し、ミスラが自ら選んで自腹で買った城に違いはあれど、それでも窓に大きな青空が広がる様子などは既視感がある。バニラソフトクリームに似た入道雲が存在感を放っていた。
二人は今や、長らく同棲が続く恋人同士だ。
「晶は釣った魚に餌はやらないタイプなんですか?」
「ええ?」
男は持ち上げていた長い脚をぶんと振って、反動を利用し軽々立ち上がった。出勤前の晶へ数歩で近づき、晶は顎を上げて彼を見上げる。晶の背丈だってあの頃から多少伸びたのに、二人の差が縮まらなかったのは残念だと思う。
「どこからそんな言葉を」
「双子ですよ。晶がつれないとぼやいたらそう言ってました」
俺が釣った方なのか? 俺の方が釣られた側な気がするけれど。晶が思考に囚われた隙にミスラは恋人の背後を取り、両肩へ腕を垂らした。身長差を活かしてしだれかかり体重を乗せる。晶の膝が堪えきれず曲がった。
「ミスラ、重い~っ」
「休みの俺を置いて仕事に行く罰です」
頬と頬が柔らかく触れ、晶は横目を向けた。晶の肩から突き出たミスラの横顔、その唇も不満を訴えて同じく突き出ている。あれからミスラの表情はもっと素直だ。
あの頃の彼はちょっとすかして、格好をつけていた。同じ男の晶はすぐに分かってしまう。意中の子に自分を少しでも良く見せたいと肩肘張っていたこと。
(気づいちゃったらもう、俺こそミスラが可愛く思えて仕方ないんだけどな)
あの夏休みの晶に聞かせたら信じられないだろう。でも、嬉しがった気もする。まだまだ幼くて無自覚だっただけで、根源的なところではすでにこの関係を望んでいた。
晶があの〝なぞなぞ〟の答えを出したのは夏休みが明けて少し経った後。なんの変哲もないいつもの下校途中で、一人で思考を巡らせていた時だった覚えがある。同時に、晶の恋心の自覚をミスラは長いことずっと待っていたと気づいて驚いた。決して辛抱強くはないミスラの性格を深く知っていればなおのこと。その頃から晶はとても大切にされているんだと知った。
俯いた視界に入る晶の足元、フローリングが青い影に染まっている。再び夏を二人で迎えられた。ただ純粋に、離れたくないと願っていたあの夏休み――晶の願いはまだずっと叶っている。
(あ……)
不意に耳殻へ蘇る。雪になりそこなった氷が奏でる音。
眩しい光に染まった胸が輝いて、はち切れそうだったあの夏の日々。
晶の想いは何も変わらない。
「…………早く帰ってきます。ミスラと一緒にいたいから」
肩から飛び出した端正な顔が晶へ向かう。晶はその唇をちゅっと啄んでみせた。恋人が少し面食らった顔をしていて、図らず晶も照れ笑いをこぼした。晶も多少は〝大人〟になって、宥めるキスだってしてしまえるのが少し気恥ずかしい。あの時と変わらずミスラが赦してくれると、晶にはとうに分かっていたから。
晶青年がここに居たら、頬を赤く染めている気がした。
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