道行き



出会った夜を思わせる明るい半月の下、譲介はTETSUと共に赤提灯が灯る繁華街を歩いていた。
狭い駐車場に車を置いて、歩くこと十分。酔っ払いがくだを巻き、そこここに嘔吐の跡がある道を、白いコートを着た彼は、いつもより大股で歩く。
翻る彼のコートは鰭だ。濁った水の中を魚のように泳いでいくその後ろ姿を、譲介は診療鞄を持ってついて行く。
たどり着いたのは、線路沿いに建つ掘っ建て小屋のような二階建て。その二階に暮らしているのが今日の患者だった。
この人が、譲介と暮らすあの家の玄関を通ることを許している患者は、殆どが中高年の男たちだ。
見た限り、彼の提示する報酬が払える相手に限るということを徹底している。出所不明で、ボストンバッグに無造作に詰め込まれた札束。
なぜかほとんど記述のないカルテで名前だけを見ていた譲介は、すっかりそうした高所得者層の男の囲い者か外に産ませた子どもかと思っていたので、想像していた住まいの佇まいのギャップに酷く驚いた。そうして、慣れた様子で玄関のたたきでブーツを脱ぎ二階に上がっていくTETSUについて彼女の顔を見たとき、また驚いた。
秀でた眉はペンで描いたもの、細面に見えるのは化粧の魔法。ほとんどの女はそうだ、と心の底では思っていても、今日の相手は、化粧を落とした素顔をTETSUに見せていた。
秀でた眉の、細面で色白の美人だった。名前しか知らないこの女性が「ドクターTETSU」の来訪を喜ぶ笑顔を見て、心臓のない方にある傷跡が妙に疼く。
術着に着替えはしないがニトリルゴムの手袋を填めている彼は、いつもの強面の医者の顔だ。
彼女を診察し、触診している間も、その距離は崩れなかった。
胸から腿の上には、花の描かれたタオルケットを掛けて、端を持ち上げて最低限の場所しか診ない。特別な相手なのだろうか、と考えていたら、名前を呼ばれた。指示された器具を手渡すと、彼はそれを使った。彼女は、痛みを堪えるように眉根を寄せていた。
彼が譲介を同席させるのは主に外科の領域で、雑に脱げといい、丁寧に麻酔を掛ける。男を診ている彼しか知らなかった譲介には、彼の態度は意外だった。
一通りの診察を終えた後、彼は手袋を外し、流しを借りて手を洗いながら、術後の経過は悪くねぇ、と言った。それで終わり。
診察が終わると、身支度をさっと整えた彼女は、ありがとうね、先生、と言って引き出しから薄い封筒を出した。
TETSUはその薄い封筒を「手術の時にまとめて貰ってる。」と言って、突き返した。
「手術の時って、結局ガソリン代くらいしか払えなかったのに。」と手元に戻って来た封筒を見て彼女は困惑したような顔をしている。
「……もう忘れた。」と彼は言い、いくぞ、と譲介に向き直った。譲介は慌てて使用済みの診療器具を鞄に仕舞いつけ、立ち上がった。
半年後にまた来る、と言って、彼女の部屋にあったカレンダーに勝手に丸を付け、すたすたと階段を下りていくTETSUの背中に、彼女はありがとうございました、と言葉を掛けた。
ブーツを履いているTETSUに譲介は追いついたが、聞きたいことがあり過ぎて何から聞いたらいいのか分からない。
玄関を出ると、TETSUが「どうだった。興奮したか?」と聞いて来た。
「――僕を試したんですか?」と反射的に譲介が言った言葉を、彼は否定はしなかった。
「産科はあんなもんだが、医学部に入るなら、避けて通れはしねえ道だ。刺激がキツいってんなら、医者になるのは止めとけ。」
刺激。
刺激か。
患部を診るのが刺激というなら、あなたに対して粋がっている政治家の開腹手術を横で見ている時の方が余程緊張する。
そもそも、あなたが、腕に針を刺すことを許しているあの瞬間の方が、僕にはずっと興奮する。
僕の失敗を腕に受け止めて痛みに顔を歪める時。
腕に刻まれたいくつもの注射針の跡をあなたが黒いサポーターの下に隠す時にも。
そんな風に言ったら、この人はどんな顔をするだろうか。
「止めません。僕は、絶対に医者になります。」
「そうか。」
薄暗がりの中、ネオンや照明に照らされた道を歩くTETSUの背に、譲介は無言で呼びかける。
どうして今日僕を連れて来たんですか。
あの人から金を取らないのはなぜです。
どれだけ教養のない高校生だと言っても、流石に赤ひげの名くらいは知っている。
医療は人を支配する道具だと言いながら――。


TETSUの後ろを歩いていると、急に彼が立ち止まった。考え事をしながら歩いていた譲介は、不意を突かれて、どん、と彼の背にぶつかった。
駐車場はまだ先だ。つんのめってよろけた譲介が「っ、すいません。」と謝罪する声に被せるように「メシ食うぞ。」とTETSUは言った。
「え?」
普段なら、前も見て歩けねぇのか、というドスの効いたジャブが飛んでくるところだ。
困惑している譲介をよそに、ここだ、と彼は言って、三十年前は明るい藍色に染め抜かれていたと思わせるくたびれた暖簾をくぐる。
カウンター席が六つしかない狭い店内に、先客はひとりだった。
煙草のヤニや煮炊きで薄汚れた壁紙に、料理のメニューが張り出されている。金額は書いてない。
彼が、譲介と食事をするために選ぶ場所といえば、大抵はファミリーレストランで、そこに行けばカレーが食べられる場所と決まっていた。
これは、普段の彼の選ぶ店なのだろうか。
落ち着きのない振舞を彼に指摘されるだろうとは思いながらも、場末の路地にある定食屋というロケーションに譲介は浮足立っていた。
カウンターには和食の店で良く見る白の袷を着た男が動かしていた包丁の手を止めてふたりを見た。
「らっしゃい、ああ、ドクター。」
破顔一笑。こちらを見て笑いかける顔にはやたらと白い歯が並んでいて譲介は目を見開いた。
見たところホワイトニングしたばかりか、そうでなければ差し歯のような気がするが、前歯が全部差し歯、ということはあるのだろうか。
「邪魔するぜ。」と言ってTETSUは彼の身体には狭すぎる通路を進み、奥から詰めて腰かけた。譲介が、鞄を手前の席に置いて彼の隣に座ると、いいから足元に置いとけ、と言われる。
調理人がこちらに向き直り、助け船のように「水どうぞ。こっちのあんちゃんも水か?」と言うので譲介ははい、と返事をする。はいよ、という返事の後、すぐにコップに汲んだ水が出て来た。コップは大きさが微妙に違っている。
カウンターには男が一人だけだ。
店主か雇われ料理人かは分からないが、煮締めた大根のような肌色をした男は、この店に妙に似つかわしかった。
TETSUはコートの中から札入れを出し、中から抜いた五千円札と千円札を一枚ずつカウンターに置き、半分のところにくびれのあるいかにも水を入れるためというプラスチックの方を譲介に差し出し、一回り以上小さなコップを手前に置いた。
金を受け取りながら「こっちの子は新顔だな。隠し子でもいたか。」と言う店主に、譲介は吹き出しそうになった。
「オレの鞄持ちよ。」と面白くもなさそうにTETSUが答える。
「弟子か。」偉くなったもんだ、と彼は言う。
「そんなもんだ。」
「オレはいつもの、こいつは……おい、カレーあるか?」
「おいおい先生、うちがそんな洒落たもんが出せるように見えるか?」
「ここで作るようなカレーが洒落た料理のうちに入るかよ。まあ、カレー粉が付いてりゃ、中身は焼き鯖でも何でもいい。こいつのを先に作ってやってくれ。」とTETSUは言った。
「カレー味か。それなら、まあ出来ねぇわけじゃねえが。あんちゃん、あんたそういうのでもいいのかい?」と男は譲介に向き直る。見知らぬ男からあんちゃん、と言われて怯んだ譲介は、勢いに呑まれて「お願いします。」と言った。
考えてみれば、この人の方では譲介に付き合ってカレーを食べることが多いが逆はない。
ただの焼き鯖でも食べられます、と言っても良かった。
カウンターの中の男は冷蔵庫からあれこれと取り出し、譲介の横でTETSUは、水のコップを開けている。
傍から見れば日本酒を引っ掛けているように見えるので、なるほどと譲介は思う。
店の中にはラジオも流れてはいなければ、テレビもない。
普段なら、診療を終えた直後であれば、いつものリビングで彼に点滴を打ちながら、その日に診察した患者の話をして、そこからは類似で紛らわしい症例や術後の経過観察にどこを見ればいいかといった枝葉の話が付いてくる。点滴が終わって話が尽きた辺りで食事に出るか、彼が外に買いに行く間に譲介がノートを取りまとめるという具合で、こんな風に人の耳目を憚る必要もない。
そのうち、奥の席にいた客は、勘定、と言って支払いを済ませて店を出て行った。
店の中には、料理人が鍋を小刻みに動かす音があるだけで、TETSUは酒を傾けるように水を飲んでおり、譲介は何を話せばいいのかと考えあぐねていた。譲介にとっては、医療の勉強自体が、学校の勉強の片手間だ。実地のOJTにせよ、そもそも、ドクターTETSUの主だった患者が男ばかりという理由もあって、産婦人科の領域には、まだほとんど手を付けていない。譲介が所在ないような気持でいると、カウンターからは、はいよ、という言葉と共に、小さな器に、生姜の千切りが掛かった青い山菜のようなものが盛られて出て来た。
TETSUは「突き出しだ、食えるか?」と譲介に聞いて来た。
突き出し、とはこの山菜のことを言うのだろうか。大丈夫だと思います、と譲介は言った。多少味が好みでなくてもこのくらいの量ならなんともないはずだ。
「ドクター、このあんちゃん、突き出しって言われてもわかんねえって面してるぞ。」
「……なるほどな。」と彼は頭を掻いた。
いいとこの子か、と訊かれ、譲介は何と答えればいいのかと答えに窮した。
「ジュンサイだよ。食ってみな。悪くねえから。」と男が言うのに、それだそれ、と言いながらTETSUは杯のように小鉢を傾けて食べた。
「じゅんさい、ですか。」と譲介は繰り返した。初めて聞く食材だった。
小鉢の中身を咀嚼していたTETSUは、「オクラみてえなもんだ。箸で摘まむと食い辛ぇからおめぇも適当にしろ。」と譲介に言った。その間にも、カウンターからは、ジュウ、という勢いのある音がして、カレーと魚が焼ける匂いが漂って来る。
譲介は、ええいままよ、という気持ちで彼がしたように喉の奥にそれを流し込む。ぬるついた酸っぱいものが喉を通って行く。酸っぱいのは恐らく酢の味で、生姜の味もした。妙な食感で、これまで食べたことがない。
「おい、噛まずに飲み込むやつがあるか。」とTETSUは笑っている。不味くはない。
気が付いたら、別の小鉢に里芋と烏賊の煮物が盛り付けられている。
カレー以外の皿が多いな、と譲介は思ったけれど、味の想像は付くのでとりあえず食べてみる。
烏賊も里芋も柔らかく、旨いとは思えないにせよ、出汁が訊いて食べやすい味ではある。
「あの、」
「何だよ。」
「いつもの、って何ですか?」
「……出てくりゃ分かる。待ってろ。」
はいよ、と炊き立てのご飯が盛られた小さな飯椀と、カレーの匂いのする鯖が四角い皿に載ってやってきた。
「ドクターはちょっと待っててくれよ。」と一回り大きな飯椀を手に取っている料理人に「今日はこいつと同じ大きさにしてくれ。」とTETSUは言った。
「そういやぁ、ここんとこ調子が悪いんだったな。」と言われて、彼はふ、と笑った。
腹膜播種を患ってから数年が経っているはずだった。
TETSUの前には、青い飯椀と香の物が置かれた小鉢が出て来て、あと五分だな、と男は言った。カウンターの中では、平たい鍋で魚を煮ているようだった。
譲介が、サバの身から骨を取るのに苦戦していると、煮魚の具合を見ていた男は「ドクター、あの子どうだい。」と言った。あの子。
「身体は回復してる。」とTETSUが言うのを聞いて、譲介はあの二階の部屋にいた女のことを思い出した。
「まだ暫くは経過を観察する必要があるが、これ以上オレに出来ることはねぇ。」
「そうか。こればっかりはな。」
「周りが気を揉んだところで、本人の問題だ。」
「あんたにゃ、面倒を引き受けさせちまって。」
「飯の借りを返しただけの話だ。」
譲介は大人二人が交わす声を潜めたような会話に、譲介はどこかしらピンとくるものがあった。
帝王切開での出産、と言った通常の手術であれば、この人はカルテにそう記載するだろう。
あさひ学園の前にいた施設では、そうした『事件』を経て施設を移動してきた中学生がいた。
譲介は男だ。身体を鍛えること、ナイフを持つことでこれまで何とか自分の力でやりおおせてきたが、似たような顔でも女に生まれついていたら、力では敵わない相手に、同じように屈することになった可能性がある。
喉に小骨が刺さったような気持で、皿に残った半身を平らげていると、はいよ、お待ち、という声がして、TETSUの前にも皿が置かれる。
彼の前に置かれたのは、鯖の梅煮だった。
「もうこんな時期か。」とTETSUが言うと、「これを食って、また顔を見せてくれよ。」とカウンターの中の男が笑った。ふたりが中に入った時のような陽気な笑顔とは違う、疲れた大人が無理に見せる作り笑顔だ。
「そうさな。」とTETSUは、何事もなかったように答える。
箸を止めたまま、メスや医療器具を操るように、器用に箸を使って、小骨を取り除いていく様子を、譲介は眺める。
視線に気づいたTETSUが「おい、こいつにジュース頼む。」と言った。
「え?」
「美味い飯の前で、腑抜けた顔してんじゃねぇぞ。」とTETSUは言い、譲介の背中を力いっぱい叩いた。痛い。
「すんません。」
「医者になりゃ、患者は選べねえ。さっきみたいに不景気な面は見せんな。相手が不安になる。表情が動かないくらいでいいんだ。」
「はい!」と譲介が答えると、声がでけえ、と言ってTETSUは笑った。
コップに注がれたオレンジジュースは妙に甘ったるく、譲介の喉を通って行く。


食べ終えて、店を出ると、半月は雲に隠れていた。
店を出ると、譲介はここに来るよりも重く感じられるようになった診療鞄を、TETSUに取り上げられた。
酔っ払いにぶつかられることもある、と言われて、今はもう手ぶらだ。
「帰るぞ、譲介。」と言われ、譲介は「はい。」と頷く。
今は欠けている月も、いつか満ちるときが来る。
それまではこの人に付いていく。
パーカーのポケットに手を入れ、譲介はTETSUの後ろを歩き続けた。





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