お薬をもうひと匙

 寝間の襖を引いた渡辺崋山は、踏み出しかけた足を止めた。
「ありゃあ、わざわざ来てくれたんスか。忙しいのに、悪いねぇ」
 横たわる病人の顔は不健康に赤らみ、乾いた肌と対照的に瞳はぼんやりと濁っている。首をもたげるのもやっとの様子に、胸の内がぞっと冷えた。
「ちょっと高野くん、大丈夫なんですか」
「はは……。俺としたことが」
 秋の深まる時分に友人が風邪をこじらせたというので、勤めの帰り際にでも軽く見舞っておこうと思ったのだ。ひどく狼狽したのは、病状が思いの外重かったからだけではない。
 高野長英は自分より一回りも若く、常日頃は覇気に満ちあふれた男だ。こうも弱った姿を目の当たりにすると、発病の報を聞いた時とは比較にならないほど心がざわついた。
 なるべく静かに二本の刀を置いて、枕元に腰を下ろす。布団の反対側では医者が仕事道具を広げて、せっせと薬研を転がしていた。
「このところ、ちぃと忙しかったんだよな。仕事が立て続けに重なって、家の中でも色々、考えないといけないことが多くてさ。やっと全部片付いて、気が緩んだ途端、このザマだ」
 気が紛れるのだろう、長英は浅い息の中でぼそぼそと喋り出した。顔を近寄せて、一つ一つにしっかりと頷いてやる。
「いい機会だと思ってゆっくり休んでください。世間でも医者の不養生と言いますでしょう」
「相変わらず渡辺どのは優しいですね、鬼の霍乱と言った方が正しいですよ」
 薬の調合を終えた小関三英が、遠慮のない口ぶりで言った。
「手厳しいなぁ……」
「長英くん、少しだけ身体起こせますか」
「うん……」
「手伝います」
 崋山が背中を支え、三英が薬包と白湯の入った湯飲みを順に手渡す。微かに震える手でそれらを啜り、長英は無事に薬を飲み下した。
「どうも。持つべきものは、医者の友達」
「軽口はいいから寝てなさい」
「ひと安心ですね。三英どのがいてくださって本当によかった」
 胸をなで下ろした崋山の前に、三英は一枚の紙を滑らせた。薬の名前が並んでいるところからすると、処方箋のようだ。一つ蘭語が混じっていた。
「気を揉むだけ損ですよ。この処方、長英くんの指図ですからね」
 長英の顔を穴があくほど見つめてしまった。病人は気まずそうに目を瞑っている。
「だって~」
「はいはいわかってます、ろくに患者も取らない埃臭い本の虫の調合した薬なんか怖くて飲めませんよね」
「そこまで言ってない……」
 崋山はこらえきれずに笑ってしまった。三英に面倒をかけ倒しになるのが忍びなかったのだろう。確かに見た目よりは元気そうだ。
「ではお大事に。私はここらでお暇します」
「もう帰るんですか?」
 不安が思わず口をついた。薬瓶や乳鉢を片付ける手を止めて、三英は器用に片眉を上げる。
「お気持ちは理解できますけど、私にやれることは全部やりましたから。容態はすぐには変わりませんよ」
 掻巻がもぞもぞ動くのを見て、崋山はその端をめくってやる。緩慢に苦笑いしながら、長英はゆらゆらと手を振った。
「寝てりゃあ治ります。さあ、帰った帰った」
 それでも立ち上がれない崋山の背中に、三英が幾分柔らかい声音で言った。
「ご心配なさらずとも、身体のことは長英くんが一番よくわかっていますよ。今無理をしたら、かえって治りが悪くなります。それを承知で働くほど彼は馬鹿じゃありません」
「……おっしゃる通りですね」
 刀を取り上げながら、崋山は悄然とした。普段さんざん世話になっておいて、いざ医者その人が倒れてみれば、己はなんと無力なのだろう。
 休診中の札が貼られた高野医院を出て、先を歩く三英の細い身体が一回りも大きく見えた。長英が本の虫と揶揄した通り、三英はあまり患者を取らず、日もすがら研究に没頭している。しかしやはり医学を修めた者だ。狼狽えるばかりの自分とは違う。
「三英どの、私に手伝えることがあれば、何でも言いつけてください」
「そう焦らず。とりあえずは貴殿まで倒れないことです」
 ぽんぽんと羽織の袖をはたかれ、三英の後ろ姿が家の中に消えても、崋山は秋空の下で一人途方に暮れていた。


 いてもたってもいられず、とりあえず診療に通っている三英に頼んで、しばしば長英の具合を尋ねることにした。
「昨日行った時はお弟子さんがいらしていましたよ」
 居酒屋の喧騒から隔てられた二階席で、突き出しを食べながら三英が言った。この店はネギのぬた和えが美味い。後に残る微かな風味がぴりっと辛くて、風邪にも効きそうだ。
「お弟子さんというと、内田くんかな。算学や測量術の巧みな方ですよ」
「そうそう、その方です。あれで長英くん、案外慕われてるんですね」
 病臥の噂を聞きつけた友人たちが順繰りに訪ねてきているようだ。尤も鳴滝塾の同窓生たちに関しては大坂から便りが一通届いたきりで、江戸の知人は一人も顔を出さないが。
「三英どの、私にもできることはないものでしょうか」
 病は単なる季節性の感冒で、本人の心得もあるから大事には至らないだろうとの見立てである。三英もついているし過度な不安は無いものの、病状の推移が気になって仕方ない。
「治ってから何かしてあげるのでも充分喜ぶと思いますけどねえ」
「わかってるんです、でも……」
 長英には有形無形問わず沢山の恩義があるし、何より特別な友人だ。このまま放っておいたのでは崋山の気が済まない。
 身を乗り出さんばかりの様子を見かねてか、三英は助け船を出してくれた。
「じゃあそうですね、長英くんに貰って嬉しかったものや、してもらって助かったことを思い返してみてはいかがですか。それをそのまま返すのも一つの手でしょう」
 最も恩恵を受けていることといえば蘭学と医学だが、その方面では力になれそうにない。長英も必要としていないだろう。
 彼との交友を辿っていくうちに、そういえば、とふと思い出した。ちょうど去年の同じ季節、派手に熱を出して倒れてしまった崋山を、長英が何日にもわたって看病してくれたのだ。記憶も曖昧になるほど酷い病状だったが、お陰で無事に回復した。あの時はどんな風にしてもらったのだったか。
 目の前にいる三英の顔をまじまじと見つめて、崋山の脳裏に閃くものがあった。
「一つ思いつきました」
「それは重畳」
 礼代わりに熱燗の酌をする。いずれにせよ早く治るといいですね、と言って、美味そうに三英は杯を呷った。


 高野医院の戸を崋山が再び叩いた日、長英は火鉢の傍らで蘭書を読んでいた。顔色はずいぶんよくなっていたが、時折声がしゃがれ、顔を背けて咳き込んだりする。
「ほとんど治ったんスけど、どうも喉がやられていて」
「そうだと思って葛粉を持ってきました」
 病状のほどは三英に聞いている。痛む喉にも優しいし、身体も温まるだろう。
「渡辺さんまで? いやね、寝込んでる間にあれこれ集まってきたんス。江川さんからは恐れ多いことに切り餅を頂いちまったし、間宮さんからは卵の差し入れ。みんな大袈裟なんだから」
「みんな君のことが好きなんですよ」
 ひぇくっ、と長英の喉が妙な音を立てた。あらぬ方へ目をそらし、唐突に立ち上がってどこかへ足早に消える。戻ってきた手には鉄瓶を提げていた。
「せっかく貰ったんで、葛湯を作りましょう」
 火鉢に網を置いて、鉄瓶をかけた。ぬくもった部屋の中で、二人で鉄瓶を見守る。襖の外で、冷たくなり始めた木枯らしが吹いているのが聞こえた。
 長英が口を開きかけて、一つ咳払いをしてから話し出した。
「しかし病で臥せっていると、孤独がつくづく身に染みました。お袋は迷惑になってませんか?」
「とんでもない。うちの母と出かけたりして、お元気そのもので過ごされていますよ」
 うつるといけないので、長英の母親は崋山宅で預かっていた。近所づきあいのよしみである。
「寂しいなら結婚したらどうですか」
「いや、俺は生涯独り身を誓っているので」
「ほんとかしら」
 長英がとある遊女をいたく贔屓にしているのは周知の事実である。顔立ちも立ち居振る舞いも華やかでしどけなく、しかも男の情の微妙な変化によく気がつく娘だった。彼女と長英が肩を寄せて睦まじげに話していた夜、崋山は三英と顔を見合わせて、なるほど好みがわかりやすいと頷いたものだ。
「なんスかその目は。そろそろ湯が沸きますから、このお椀に葛粉を出してください」
 小ぶりな椀を差し出された。素直に指示に従う。独り身が長いだけあって、長英はこういうことでも結構手際がいい。
 鉄瓶の湯を注いで匙でよく混ぜて、出来上がった葛湯にはいい具合にとろみがついていた。
「どうもありがとう。じゃ、早速いただきます」
 長英が手を伸ばした椀を、先に崋山が取り上げた。
「えっと……渡辺さん? お椀返して……」
「高野くん」
 葛湯をひと匙すくい、顔の高さまで持ち上げる。
「口開けてください」
 長英が目をしばたたいた。鼻先すれすれに匙を突きつける。
「あーん、ってして」
 有無を言わせぬ声音で迫る。何故か伏し目がちになりながら、長英は恐る恐る唇を開いた。
「あ……あー」
「はい、あーん」
 ぱく、と鯉のように口が閉じる。見えない口の中で舌が一生懸命動いているのが、匙を通して伝わってくる。もう結構、と言いたげに舌先で押し返してきたので、つるりと匙を引き抜いた。
「弟や妹が寝込んだ時、よくこうして食べさせてやったんですよ。久しぶりにやってみたかったんです」
「俺そんな動機で付き合わされたの?」
「いけませんか。はい、次」
 四分の三ほど食べさせた辺りで、長英が唇を舐めながらぽつりと独りごちた。
「思い出したぞ」
 崋山はそ知らぬ顔でひと匙すくって、また長英の口に含ませる。椀が空になった頃、長英が天井を仰ぎながら大きなため息をついた。
「前に渡辺さんが大熱を出して、俺が診たことがありましたよね。朦朧としていたあんたに水や薬飲ませてやったり、回復してきてから重湯食べさせてあげたりしました。ええ、確かにしましたよ」
 腕組みしながら向き直り、長英は崋山の顔を覗き込んできた。
「それとこれ、関係あります?」
 空の椀の中で匙をくるくる回しながら、崋山はそらとぼける。
「さあ、どうでしょう……」
 唇に何かが押し付けられる。言葉の先を制するように、人差し指で唇を封じられていた。
「あれは医者の務めとしてやったことなのに。渡辺さんたら不純な人だなあ」
 崋山は目元だけで笑った。まだ甘えたい盛りの頃に、父親が長患いをして床に臥した。長男ということもあって、以来、看病といえば人のためにすることだった。弱っている時に誰かに寄り添ってもらえることが、こんなにも身に沁みるなんて、崋山は知らなかったのだ。
「不純とはなんですか。私のしたことだって真心ですよ」
 押さえ付けてくる指を払い、にやにやしている長英にいざりよる。彼の太腿に手を置き、ぴったりと身を寄せて喉仏に唇を落とした。
「早くよくなりますように」
 身体が離れてから、あんまり病人にべたべたするんじゃありません、と医者のお叱りを受けた。
「でもまあ、そんな風に祈ってもらえるのが一番の薬だな」
「おや、君らしからぬことを言いますね」
「風邪で頭がぼんやりしてるからだます。温かいもの飲んで眠くなってきたし、少し休みます」
「次に会う時は快気祝いをしましょう。三英どのにも伝えておきます」
 火鉢のある部屋に布団を敷いてやってから、高野医院を後にした。
 自宅の戸をくぐる直前、なんとなく呟いてみる。
「まあ、私にやれることは全部やりましたよね」
 びょうと木枯らしが吹きつけて、崋山は大きなくしゃみをした。

powered by 小説執筆ツール「notes」