猫
「これ終わったら、どっか温泉でも行きたいわー。」
「はあ……。」
こないだ温泉なんか年寄りの行くとことちゃうか、などとこき下ろしていたのは一体何のポーズだったのか。
兄弟子は僕の膝の上に乗って、疲れた疲れたと連呼している。
あんまり暴れたらこないだみたいに勢いづいてちゃぶ台に頭ぶつけてしまいますよ、と言いたいが、小言を言ったところで止まるものでもない。
草若兄さんは、『はてなの茶碗』の習得というこれまでにない究極の成功体験を積んで四代目を襲名したせいか、挑戦したことのなかった話を覚えるハードルはこれまでより低くなってはいるようだが、この様子を見る限り、根本的な稽古嫌いは完治してないようだった。
そもそも、これ、というのが来月の仕事の話ならいいとして、地獄八景のおさらい稽古と並行して片手間に練習している茶の湯のことを指しているというなら、僕がかつての内弟子時代にこれを覚えたら算段の平兵衛教えてください、としつこく懇願してた頃に師匠から小言を食らったように、一遍覚えたと思った話でも繰り返し稽古をせなあかん、と言わなければならないような気もするが……。そもそも、元が江戸前の落語では、そこまで強く言う必要を感じていないのも本音のところではあった。
――まあ、僕の口から直接言うよりは、今この茶の湯を習ってる草原兄さん辺りを口説いてこの人に言うて貰ろた方が、いつもみたいに聞き流すこともないやろうな。
月日の経つのは早いもんで、僕が師匠からくどくどとあれこれ説教されていたのが二十年近く前の話――ということは、この人にとっては三十年前の出来事ということだった。
そもそも、師匠の『茶の湯』を生で聞いたことがあるのも、草若兄さんまでで、僕も若狭と揃って、師匠の茶の湯は、CDやテープなどの音源に残った声を再生したのを聞いただけ。
青きな粉に椋の皮を入れた抹茶の偽物に、素人の作った芋饅頭。ご隠居さんの始めた隠居生活に巻き込まれる馬鹿馬鹿しい話を、三代目だった師匠はいつものあの調子で軽く洒脱にやってのけて、ただテープを聞くだけでも笑える仕上がりになっていたが、兄さんの方はといえば、いつもの通り、金の取れる芸になるのはいつのことかというところだった。
それにしても、若狭の子どもは、このちりとてちんにそっくりな『茶の湯』の話をどこで聞き齧ってきたものか。
どちらかと言うと、上方では掛ける人間が少ないこの落語は、師匠も僕が弟子になる前にたびたび高座に掛けてはいたようだが、――それが何代目かはすっかり忘れてしまったが――実際、十八番として知られているのは、金馬や圓生、小三治という錚々たる名跡を継いだ江戸前の噺家たちだ。
まあ、そうした話も、数年あっちにいた磯七さん辺りから聞いたのかもしれなかった。
ぼんやりと物思いに耽っていると、「明日も草原兄さんとこでお稽古あるから、おちびと一緒に通勤ラッシュになる前に出てくわ。朝飯ちょっと早うに作ってくれ。」と兄弟子はぶっきらぼうに言った。
「味噌汁は茄子でええですか。」と言いながら、切りそろえたばかりの前髪に触れると、膝の上に乗っている猫は一瞬だけ眉を上げた。
もぞもぞと身じろぎしたかと思えば背中をちょっと丸めて「……なんでもええわ。」と呟いて大人しくなった。
他意があったわけではないが、海老で鯛を釣ったような反応をされれば、ただで返すのも悪いような気がしてきた。
「もう布団に入りますか。」と聞くと、小さくうなずいてから「ほんまに、早めに出てくからな、」と念を押して来る。僕が言うのもなんだが、大概分かりやすい猫だ。
早く出て行けるかどうかは、今夜の兄さん次第とちゃいますか、と言うたら、お前なんか知らん、と毛を逆立てるのは分かっている。
分かっていてもその拗ねた顔が見たいような気がして、僕はいつもの言葉を口にするのだった。
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