コロッケ


「お、菊江はん、今日はなかなか斬新な衣装やな。」
寝床の暖簾をくぐると、いつもの先客がカウンターにいた。
「そやろ、そやろ。これであたしも大阪のおばちゃんの仲間入りや。」と言って一人分を空けた椅子に座ると、磯村屋さんはプハッと吹き出した。
この辺りの界隈では雨後の筍ほども見る機会があるアニマル柄の凡庸な出で立ちに、さて誰が一番先にツッコミを入れるかなと思っていたけど、やっぱりというか、流石年季の入った寝床ファンの磯村屋さんや。年を取っても目端が利くこっちゃ。
いつものように一献傾けながら「あんた、今までの自分のことは、何やと思ってたんや。」と笑っている。
「そりゃ、大阪一のセクシーお姉ちゃんや。」と椅子を引いて座りかけてたところでフラダンスのように腰を振ると「オレがオヤジの店継いだときには、あんたもう立派なおばちゃんやったがな。」と苦笑した。
「そんな昔のこと、もう忘れてしもうたがな。」と笑いながらカウンターに座る。
まあ実際、あの頃には、小学生だった仁志が、ガッコで芸人の子と言われるのが悔しいと言って不貞腐れながら、足しげくうちに通って来てたから、否が応でも大阪のおばちゃんに「なってしまった」というのが正直なところ。
「こんばんは。菊江はん、久しぶり。今日は何にしはる?」と咲ちゃんが笑顔で出迎えてくれる。
そうやねえ、と顔を上げて壁に掛けたメニューを眺める。
「久しぶりって、さっきも昼に顔合わせたばかりやろが。」
噂をすれば、熊はん、寝床の大将が奥から顔を出して苦笑している。
「そうかて、あんた。夜に菊江さんの顔見いひんようになったの、寂しいねんもん。」と咲ちゃんは甘えるように言った。
「ごめんなァ、咲ちゃん。最近足元がよう見えんで。酔っては帰られんから夜は自粛してたんや。」
ほんまは仏壇売れんで、このところは年金では生活が厳しいんやけどな。
まあこの年まで自炊なんてようせんと来たからなあ、懐が寂しいになったからって、いきなり毎日カップ麺ていうのもなんや味気ないし、と言い訳をしながら今日はここまで歩いてきたという訳や。
ここに着いたら何か食べたいもんあるやろ、と思って寝床に来たはいいものの、開店してもう十年ほどというところで、新メニューが増えたり、逆に今まで通年で食べられたメニューが消えたりもするもので、食事としゃべりを楽しみに来たというのに、見上げるメニューがどれもピンと来ない。春先だけのわらびの入った煮物とか、復刻して欲しいメニューもあんねんけどねえ、とは思うけど、日暮亭から流れて来るお客も増えて、常連のおばちゃんの好みだけに合わせてては店もやっていけんのやろうね。
「咲ちゃん、今日のおススメは?」
「それなら烏賊と小芋の煮っ転がしと、菜花のお浸しがあるで。」と大将が笑った。
「じゃあそれにしようかな。」昼はハムカツにしたから、夜はあっさりめで。
「あとは焼きおにぎりと、小瓶頂戴。」
「はい、ただいま。」とカウンターに出て来た大将の代わりに、咲ちゃんが厨房に引っ込む。
カウンターの中は熊はんひとりになった。
「煮っ転がし、お待ちどお。」
「待ってました!」
それにしても、店の前に突然日暮亭が出来てからは、昼の部が終わってからと夜の部が始まる前、最後の番組が終わってからの客の入りが段違いで、毎日忙しくなってしまったと言っていたけど、そのバブルも弾けてしまったようだ。
人の入りはぼちぼちと言ったところで、草若さんが噺家を止めてここに酒浸りのために通っていた頃くらいの客の入りに戻っている。
一見のお客で混みあっている夜に「ちょっとここで待っといてや!」と強引に引き留められて、熊はん専用ステージに腰かけて人が引けていくのをふたり並んで待っていたのも、今ではいい思い出。
そういえば、人が少ないのはテーブル席だけのことじゃないみたいやね。
「この間まで雇てた若いアルバイトの子、今日は休みなん?」
「それがなあ、日暮亭のもぎりのバイトに空きが出たから、言うてそっちにすっ飛んでったらしいわ。」と磯村屋さんが横から口を出して来た。
「今の若い子はドライやねえ。」と答えると「そもそも、オレの落語の蘊蓄より、日暮亭に出てる師匠連中の話の方に興味ありそうな顔してたからなぁ。」
「師匠連中て。」
そら仁志みたいのも、その中には入ってるんやろうけど。
「磯村屋さんの蘊蓄は、普段聞いてるワタシらかて、もう興味あるような、ないようなやで。」
「そうかあ、」と長年の友人はがっくり肩を落としている。それになあ、と熊はんが話を続けて「いくら賄い出ると言ったかて、うちは時々酔っ払いもいてる。今の若い子にはなかなか厳しいんちゃうか?」と言った。
「そうやねえ。」一理あるといえばあるかもなぁ。
仏壇屋に向かって値切れて無理難題押し付けて来るような柄の悪い客は、これまでは年に一件あるかないかだったのが、このところどんどん増えていってる、と思っているうちに、気が付いたら新しく建てる家に仏壇入れたろうという人が絶えてなくなってしもうた。
「熊はん、そんな他人事みたいに言わんでもええやろ。」と隣で聞いていた磯村屋さんは、呆れた顔をしている。
「うちは、去る者は追わず、来る者は拒まずでやっとるからな。……っと、いらっしゃい。」
中に入って来た顔を見て「なんや、草若さんかいな。」と拍子抜けしたような声で熊はんは言った。
「なんやてなんや。」
「仁志、あんた何でこんな早よから飲みに来てんの?」
おばちゃんになると、自分のことを棚上げにするのも素早いな、と磯村屋さんが隣で悪い顔で笑っている。
「ちゃうわ。はよ入り。」と言って仁志は暖簾の外で待っている人を呼んだ。
小浜のエーコちゃんかいな、と思ってたら、仁志の背中に可愛いおちびちゃんが付いて来た。
いやあ、可愛い子やねえ、と思ったら、この顔にはなんや覚えがある。
「四草くんとこの子ぉやないの、久しぶりやねえ。」と微笑むと、ちびちゃんは愛想良く笑い返して来てくれた。
背丈だけなら、もう小学生卒業するくらいやと思うんだけど、細くてびっくりする。
「良う来たわねえ。」と咲ちゃんも、この子には相好を崩している。
「こんばんは、菊江さん、お咲さん、熊のおっちゃん。」
「……熊のおっちゃんて……。わしには熊五郎って名前があるがな。」と熊はんが項垂れている。
「オレには茶、この子にオレンジジュース頼む。あとはオレに適当に小鉢で出してくれるか。」
「はいよ。」
手元のメニューは酒しかない。
かつては「いつも」の草若一門の定位置だったテーブルに座って、「なんでも好きなもん頼み。」と仁志は顔を上に上げた。
向かいの椅子に掛けたおちびちゃんは「草若ちゃん、僕冷ややっことコロッケ頼んでええか?」と遠慮がちに言った。
「そんなんでええんか?」
「好きなんやもん。それに、美味しいし、飽きへんしな。」
「ええで、ええで、好きなもん百個頼み。」
「おっ、久しぶりに聞いたな、草若の『百個頼み』。オレもコロッケ食べたなってきた。熊はん、ライスコロッケええか。菊江はんにも。」
「はいよ!」と熊はんの元気な声。
「ちょっと、何を人の分まで頼んでんの。」
「何言ってんの、はオレの方やで。菊江はん、オレが熱々の揚げもん頼んだら、いつも隣からちょっと頂戴、みたいな目で見てるがな。」
「そうかあ。」
「今日はオレのおごりや。たまにはカロリーのことなんか忘れて、夜もあったかい揚げもん食べたらいいがな。」
お互い年取ったなあ、とは言いたくないけど、こんな風に気を使い合うことなんて、昔はなかったなあ。
「そんならええけど。」
「おい、咲、交代するで。」と熊はんが奥に向かって声を上げる。
たまに夜に来るとええこともあるなあ。仁志の顔も見れるし。
そう思っていると、咲ちゃんが奥からぬる燗にしたお酒を持って来た。それを熊はんが上手に徳利にあける。
徳利に入れて残った分をちょこちょこと自分で飲む分にするのが大阪の料理人の始末っちゅうもんなんかなあ。
「……そう言えば仁志、あんたなんや、久しぶりに景気のええこと言ってるなあ。」
「最近仕事がなあ、」と言って頭を掻いてる。
「あんなあ、草若ちゃんってすごい。ラジオ付けたら草若ちゃんの声聞こえるねんもん!」とおちびちゃんが隣で顔を輝かせている。
「落語の番組なんてまだあるの?」と聞くと、仁志は「そんなんあったら草々が先に呼ばれとるわ。」と苦笑した。
あらまあ、今日はまたえらい素直やねえ。
「またパーソナリティやってくれへんか、て言われてな。落語の勉強せい、て自分でも思うんやけど。」と言いながら頭を掻いている。
視線の先に四草くんの子どもがあって、なるほどなあ、という気持ちになった。
草若さんも、仁志が生まれてから、面倒やと渋っていた地方公演の話をよく受けるようになった。
近いところで北陸、中国に山陰に四国。小浜も、そのいくつかの地方都市のひとつやった。
それが仁志には寂しいことであったかもしれんけど、そうして三代目の草若さんに喜代美ちゃんのおじいちゃんとの縁が出来て、そのお孫さんの喜代美ちゃんと、あの頃、名目上は草若さんの弟子ではのうて下宿人になってた草々くんにも繋がっていって、復活した一門に常打ち小屋を作ろうという機運の芽ぇが吹いた。
「不思議なものやなあ。」
「……何がや。」呟いた言葉に磯村屋さんやのうて仁志が先に反応した。
「うん?」と磯村屋さんも首を傾げてる。
「何でもない、おばちゃんも今日は仁志に奢ってもらおかな。」と咲ちゃんと笑い合う。
「そういえば、仁志、あんた最近、この子とようこの辺歩いてんのやてな。」
「そうなん。草若ちゃんがアイスとかおやつ仰山食べたがるさかい、僕が付き合ってあげてんの。」
(これ、四草の仕込みか?)
こまっしゃくたれた口を利いて、という顔で磯村屋さんが小声で耳打ちする。
(分かってやってんのやろ。)
この子、どっちかというと、仁志が小さい頃に似てるわ。
「ときどき、おばちゃんの店にも寄ったってや。」と笑うと、「うん! この間は美味しいお蜜柑ご馳走様でした。」とにっこり笑う。
思った通り、お礼が言えて、行儀もいい。
芋の煮っ転がしの小鉢を食べるのに、箸の持ち方もいい。
どないな振る舞いが大人にウケがいいのか、分かってやってるこの感じ。
どんだけ美味しいご飯食べても、大人に気を遣ってて疲れるんやないの、と思うけど、これは自分が子どもの頃には分からんわな。
「ときどきは、仁志や四草くんに思いっきり迷惑かけたり、好きに我儘言ったりしていいんやで。それでなんかあったら、おばちゃんとこに話しにおいで。」
「おい、おばはん、そらどういう意味や! オレは真面目に子育てしとるねんぞ。」
「どういう意味も何も、あんたまだその年で私んとこに愚痴りに来るつもりなん? そういうのはもう若狭ちゃんとか四草くんに聞いてもらい。」と言うと、仁志は渋い茶を飲んだような顔をして小鉢をつついた。
「そういえば坊、今日は熊五郎の特製メンチカツあるで。食べてみるか?」と熊はんがカウンターから助け船を出すと、うん、と四草くんの子は勢いよく頷いた。
それから、仁志の景気の良さに乗っかろうと言うのか、小鉢といいつつ、色んな皿がやって来て、皆食べるのに夢中になった。



「……草若兄さん、いますか?」と顔を出した四草くんは、大きなキャリーを引いて寝床にやってきた。
今時は風呂敷やのうてこういうのを使うらしい。
まあ服が濡れたり汚れんでいいけど、なんや味気ないな、と磯村屋さんも苦笑している。
「四草、久しぶりやな。」と磯村屋さんが手を挙げるのに軽く会釈をする。
「今日仕事やて聞いてたんやけど、いつ帰って来たん?」
「さっきです。」
「さっきまで起きてたんやけど、仁志、もうぐでんぐでんやで。」と四草くんに言った。
小学生の子どもの横で行儀よくお茶を飲んでいたのも最初の三十分くらいで、気が付いたら飲めや歌えの底抜け大踊り大会。
「この子と一緒に、日暮亭の上に泊めよかって若狭ちゃんと電話で相談してたとこ。」
「手の掛かる人ですね。」
「兄弟子だからって、胡坐掻いてこの子は。」
四草くんの面倒を考えたら、頭のひとつも叩きたいような気もするけど、仕事が出来てあんじょうやってるところを見せたくてお酒頼んでんのやろな、と思えば、叱るに𠮟られんというのも正直なところだった。
「帰ります。お勘定は?」
「ええから、つけにしとくさかい、またお昼に来てや。」と咲ちゃんは笑っている。
別れ際に、四草くんに負ぶわれた仁志の隣から、小さな子がちょこちょこと戻って来て「菊江のおばちゃん、僕はええから、ときどきは草若ちゃんの話も聞いてあげてな。」と言った。
「分かったわ。おばちゃんに二言はないで。」と胸を張る。「そろそろ人生も仕舞かと思ってたけど、まだまだやることがあるねんな。」
「そりゃ、そうやがな。これから若いもんもどんどん出て来る。オレらみたいな年寄りも負けてはおれんで。」と磯村屋さんが言った。
「お咲ちゃん、おかわり。」
「お酒?」
「ううん、コロッケもうひとつ。」と言うと、後で後悔すんで、という顔をした咲ちゃんは「美味しいコロッケひとつ!」と。奥の熊はんに向かって、夜のお店を照らす明るい声を張り上げた。

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