賭博者イワン(仮)転 冒頭

 ミハイル・オーシポヴィチ・ラキーチンがイワン・カラマーゾフと組んで賭場に出入りするようになって二週間が経ったが、その二週間でイワンには予算管理というものがまったくできないのがわかった。何度か一緒に行ってルーレットをやっているうちに、イワンは賭博に対して一種のセンスを持っているし、どうやらツキもあるらしいのがわかった。が、にもかかわらず、賭け金が積み重なるとどういうわけか突然無謀な賭けに出てそれまでに得た全額を失ってしまう。しかもそれを至極うきうきと、笑いながらやるのだからたまらない。
 しかし当のラキーチンはといえば、もう全く賭博の才がなく、ちまちまと腰のひけた賭けをしたあげくに、ちょっとしたヘマをやって結局一文無しになってしまうという、何とも情けない成果ばかり引き寄せている。結果として主にイワンに賭博を任せ、自分は資金の計算と管理を行うという役割分担ができたが、あの発作とも言うべき無謀な賭けが始まる前に引き上げなければ無一文で賭博場を出ることになる。そうなればまた借金だ! 実際ラキーチンはあのロシア人に借金を重ねていたし、ロシアから持ってきた品々——銀時計とか象牙細工のたばこ入れとか——を質入れまでしていた。ラキーチンはイワンを羽交締めにしてでも例の「発作」をやめさせなければと思っていたし、実際羽交締めにしたこともあるのだが、体格はそう変わらないはずなのにあっさり振り払われてせっかく積み上げた金を目の前でふいにされた。くそっ、兄弟そろって体ばっかり丈夫なんだ、カラマーゾフのやつらってのは!
「まったくあれは狂気だ!」
 ラキーチンは夜、あのしらみだらけの安宿のベッドに横になりながら歯噛みする。
 あなたには堪え性というものがないのか、ほんのちょっと、こっちの金をそっちに動かすのを我慢すればいいだけではないかと、一度、一千になろうとする賭け金をふいにされた時、その場で辛抱たまらず苦言を呈したことがある。イワンはニヤニヤ笑いながら、そうしようとは思っているのですがね、と言った。
「いえ、この台の前に立つまではそんなふうに思っているんですよ! 今日はほどほどにして、早めに切り上げて、お茶でも飲んで休もうって心に決めているんです。朝起きたらそんな気持ちで、ああ今日は何だか気分がいいな、いっそルーレットなんてやめてピクニックにでも出かけようかなんてね。おや奇妙な顔をしていらっしゃる。私がピクニックに行くのがそんなにおかしいですか? おかしけりゃやめますよ、まあ散歩でも何でもいい、春の粘っこい若葉でも眺めながら外を歩いて、ま、公園が気に入らなけりゃ隣町まで行くのもいいでしょう……とにかくそんなふうに思っているんです。ルーレットのことなんか頭の片隅にほんのちょっとあるだけで、そのまんま朝食の前に座っていると忘れてしまいそうなくらいなんです。だけどここに立ったら! 今度は朝思ったことなんて全部忘れているんですな、忘れるどころか、ピクニックだの粘っこい若葉だのまったく愚にもつかない! なんてばかばかしいことに思いを馳せてたんでしょう、特に若葉なんて滑稽じゃないですか、いえプーシキンが滑稽だと言いたいんじゃあないですよ、え、こんなところに来た賭博者が粘っこい若葉だなんてねえ……」
 イワン・フョードロヴィチはしまいまで言わずに笑いくずれた。肩を震わせて顔を伏せながら笑っているのをあっけに取られて見ていると、突然ひょいと顔をあげ、なけなしの残金を全部赤に賭けてしまった! しかもさっきの発作が嘘みたいにまったく真面目な顔で賭けるのである。結果は言わずもがな、その日もラキーチンのポケットはすっからかんになっていた。
「まったくの狂気だ! いっそユロージヴィめいてるくらいだ!」
 狂気と言えば自身も金の魔力に囚われているのをラキーチンは意識しないではいられなかった。最初にあのロシア人から借金をしたときはぞっと肝が冷えたものだ。借用書に署名するのに何度も書き損じたし、金を受け取った時には手が震えて取り落としそうになった。もちろんラキーチンだって質ぐらい利用したことがある。家賃だとか急な物入りとか、原稿料が入るまでの数日をしのぐために、友人や知人に借金をしたことだってある。しかし、返すあてのない借金は初めてだった。しかも事業でも何でもない、単なる遊興にこんなに金をかけるなんて! もちろんこれは必要経費だ、だがその範疇はとっくに越えているのではなかろうか? ラキーチンは半ばそれに気づいていながら見ないふりをしていた。いまや借用書だって平気な顔で署名するし、金を受け取る時にはまるで自分の金みたいに堂々と受け取り紙入れに入れる。借金というのはある程度以上まで行くと恐れよりも麻痺をもたらすものらしい。
 もちろん借金と言ってもあのミーチェンカやこのワーニカと違って数千だとかの金ではない。が、すでに借金は数百ルーブリに達していた。このままではこの賭博狂いと一緒に債務監獄行きだ! ラキーチンは監獄のあの、どことなく雑駁な、まとわりつくようないやな臭いを思い出して身震いした。監獄は一見清潔で、建られた時代こそ古いが修繕しながら大事に使われている、いかにも前時代的な良い雰囲気の建物だった。けれども、その奥から漂う諦めの臭い、世間から隔絶されて、いわば生きながらあの中に埋められた人々の放つ停滞した空気は、悪臭のようにあそこに染み付いている。自分もあそこに閉じ込められ、あの臭いに染まるのだと思うと怖気が立った。絶対にああはならないと思って外から観察していたものが、刻一刻と近づいてくる。そこから逃げるには、ルーレットの女神の前髪を掴んで高みへ行くしかないのだ。
 そんなわけで、ラキーチンは今日もイワンと連れ立ってゆく。奇妙というか迂遠というか、二人は隣り合った部屋をとっているにもかかわらず、毎日わざわざホテルのロビーで待ち合わせをした。ロビーといっても、勘定台にも食卓にもバーにもなる煤けたカウンターと、緑のクロスもすっかり擦り切れたビリヤード台が申し訳程度に置いてあるだけの空間だったが、慣習的にロビーと呼ばれていた。その日先に到着していたのはイワンの方だった。イワンは玄関先に立ち、ラキーチンが階段を降りるのを無表情で眺めている。黙って立っていれば、イワンは三流ホテルにいるのが何かの間違いみたいに、りゅうとして見えた。実際、賭博場にいれば、イワンは債務者だった過去なんかなかったように、ルーレテンブルクの紳士連に溶け込んだ。振る舞いは堂々としていたし、身につけている小物こそ安物だが、そうと感じさせないような何かがイワンにはあった。というよりは、単に戻っただけなのかもしれない。それまで彼のいた貴族階級という群れに……。彼の身のこなしは貴族のそれで、だから同じような振る舞いの人々の間にいて最も違和感がない。賭博場に集う人々から、奇妙な二人組だと見られているのをラキーチンは知っていた。それは多分、お互いの隣にいるのが毛色の違う人間だからだ。一人ずつであれば、イワンもラキーチンもそう目立たないだろう。
 イワンはラキーチンが玄関先へ来ると、隣に来るのを待たず黙って歩き出した。白い襟に伸びすぎた襟足がわずかにかかっていたが、櫛を通して丁寧に撫でつけた髪は、それが賭博と監獄生活で手入れができなかった結果だということを感じさせない。どこで調達してきたのか、イワンからは香水の匂いさえした。ツケにしろ、金を払ったにしろ、いったいそれが誰の金か、この男は分かっているのだろうか? ラキーチンはイワンに追いつくと、尊大な調子で言った。
「いいですか、イワン・フョードロヴィチ。今日こそ私の言うことを聞いてもらいますよ。それで万事解決するんですから!」
 指を振り立てながらラキーチンが言うと、イワンはにやりと笑って「ええ、もちろんですとも」とうなずいた。含みのある口調と表情にラキーチンはまた腹が立ち、ムキになって言い募る。
「すっかり負けてしまう前に引き上げればいいんです! 一発逆転はやめて、予算から勝った段階で引き上げれば……初日からの総計で言えばマイナスです、もちろん。しかし一日で、一度で埋め合わせようとするのがそもそもの誤りなんですよ、私たちはここへ遊興に来ているのではなく……そう、復讐、一種の復讐のために来ているんです。そうでしょう、あなたの三千ルーブリだって」
「六千ルーブリ」
「何ですって?」
「六千ルーブリです」
 イワンは律儀に訂正した。ラキーチンは一瞬噛みついてやろうかと——比喩的な意味でなく、本気でその取り澄ました鼻先に噛みついてやろうかと思ったが、話を進めるのを優先させることにした。
「ええい、分かりましたよ! 六千ルーブリだってそうでしょう! そのためには賭博に身を焼くなんてもってのほかです! 何も十万や二十万勝たねばならないというわけじゃない、今日は最初の賭け金以上に勝った、そんな日が続けばもう少しタネ銭もできるし、借金だって埋め合わせができるでしょうに……ああ、くそ!」
 イワンはラキーチンの話を一見神妙な顔で聞いていたが、笑い出しそうになりながら、わざと神妙な顔を作っているのが見え見えで、ラキーチンはそれが気に障った。ラキーチンはラキーチンで、自分の口に出していることが愚にもつかない空論であることを自覚していただけになおさらだった。
「何をにやついているんです」
「いえ、分かっちゃいるけどやめられない、ってやつでね。私もあなたのように理性的にやれるといいのですが」
「もちろんできるでしょう、何せあのイワン・フョードロヴィチですからね!」
 ラキーチンはカッとなって言い返した。あの、に力を込めて言うと、イワンの顔がわずかに引きつる。ラキーチンは意趣返しがうまくいって、せいせいした気持ちで賭博場の門をくぐった。
 しかし、この日「敷居を越えた」のはラキーチンの方だった。この日はいつもの通り、K——の一番大きな賭博場に入った。高い天井からはシャンデリアが吊り下がり、夜を徹して明かりが灯され、さまざまな身なりの、と言ってもやはり中流以上の人々が、ルーレット台やカード台の周りで賭博に興じている。二人がやるのはもっぱらルーレットだったが、時々カードもやった。
 その日イワンはいつになく穏やかで例の発作もなく、淡々と金をあっちの黒からこっちの赤へと動かして、大勝ちはしなかったが勝ったり負けたりするうちにその日の収支になんとか多少色がつく程度には金も集まった。ラキーチンもこの結果には至極満足だった。もちろん借金を返すには程遠いし、イワンのこだわる三千ルーブリ——否、六千だったか!——から見れば微々たるものだったが、しかし確実な勝利だ。これを足がかりにして次の日も同じようにすればいい、同じようにすれば! しかしラキーチンは、そこでふと奇妙な引っ掛かりを覚えた。すぐそこに手に入れられるものがあると知らされているのに、自分はそれがどこにあるか分からず、ただおろおろとその周りを回っているような感覚だった。要するにそれは物足りなさであり、賭博場の浮ついた熱っぽい空気に当てられただけのことで、ひょっとしたら賭博場を一歩出ればそんな感覚は忘れてしまい、その日は理性の勝利に酔いしれることができたかもしれない。が、ラキーチンはそれを堪え切ることができなかった。
 彼はイワンに断って賭けの最低金額だけを拝借した。ただの遊びで、勝っても負けても引き上げるつもりだった。ラキーチンは赤に賭けた。締め切りを告げる鐘が鳴り、ルーレットの回転速度が落ちて球がマス目に落ちる。
「11の黒!」
 そこでラキーチンはすっかり逆上してしまった。舞い上がったと言ってもいいかもしれない。つい今し方ただの遊びだと思ったことも忘れて、もう一度——今度はさっきの二倍を黒に賭けた。次は赤が出た。もう一度、やはり二倍——今度は奇数。しかしこれもラキーチンは失敗した。そんなことをやっているうちに、すっからかんになってしまった。
 最後のグルデン金貨が回収された後も、ラキーチンはしばらくぼんやりその場に立っていた。その間に何度かルーレットが回り、大小様々な額の金がやりとりされた。その間、イワンはずっとラキーチンの隣に立っていた。
「おい、やるのか、やらないのか?」
 赤ら顔の紳士がイワンを後ろからこづいた。「失礼」と言ってイワンは後ろに避け、そこでラキーチンもようやく首を振ってルーレット台を離れた。ラキーチンは見るからに憔悴していて、足元もおぼつかず、何度か賭博場の毛足の長い絨毯に足を取られてぎこちなく歩みが乱れた。人の目がなければそのままつまづいたなり頭を抱えてうずくまっていただろう。
「どうやら随分と効いたようですね」
 部屋から出たところでイワン・フョードロヴィチは、ラキーチンの顔を覗き込んでそんなことを言った。
「何がです?」
 ラキーチンは至極厭わしげに尋ね返す。
「あなたに進呈したあのグルデン金貨ですよ! あなたにお会いした日に差し上げたあれです。あれはね、ミハイル・オーシポヴィチ、正真正銘最後のフョードル・カラマーゾフの遺産なんですよ! 無論私が受け継いだ中で、ということですが、あなたもご存知でしょう、十万からあった遺産を全て蕩尽したというのは? あれは本当です、あちこち行きましたが、スイスなんかにも行ったしオデッサへも行きました、それで最後にたどり着いたのがここってわけです。というより、ここが最後になった、と言うべきでしょうかね。詳細はあなたもご存知でしょう。ずいぶん熱心に取材なさっていたようですし! ともかくご存知のようにここで賭博にはまっちまいましてね、それで遺産を使い果たして借金までした——ところが使わずに取っておいたのがあの金貨なんですよ。いえ記念だとかセンチメンタルじゃない、単にトランクの底に残ってましてね、それをなんとなくポケットに入れてそのままになっていたんです……あのロシア人から告訴状を送りつけられた時も、一文なしで監獄に入れられるまでの間その辺をぶらついて過ごしていた時も、もちろん監獄の中でも……あの金貨がずっとポケットに入っていましてね。これだけあっても仕方あるまいに、ただ最後に賭けをするにしてもなんだかしまらないような気がして使いそびれていたんです。あなたに進呈したのはそれですよ、パンドラの箱の希望よろしくトランクの底に残っていた最後のカラマーゾフの遺産です! どうです、ずいぶん効いたじゃないですか、あなたも真っ逆さまがお似合いのカラマーゾフみたいになってきてるじゃないですか!」
 イワンはそこで高らかに笑い声を上げた。ラキーチンはそれを据わった目で見ていたが、突如イワンにつかみかかった。そのまま取っ組み合いになるかと思われた時、場違いに朗らかな女の声が、賭博場の客たちの合間を縫って届いた。
「まあ、ミハイル・オーシポヴィチ! ミハイル・オーシポヴィチじゃないの!」
 ラキーチンはイワンにつかみかかった姿勢のまま、そちらの方を向いて固まった。イワンも襟首を掴まれたまま、凍りついた死体のごとくに顔を青ざめさせた。
「ああ、ミハイル・オーシポヴィチ! やっとお会いできましたわ! そんなところにいらっしゃったのね、ホテルを訪ねても留守だと言うから探していましたのよ、いえ、こちらにいらっしゃるとは思ってましたの、だからここへ着いて最初にこの部屋を覗いたのだけど行き違いになってしまったのかしら? まあ、良かったわ、無事お会いできて!」
 女は朗らかに言いながらまっすぐラキーチンの方へと近づいて来た。客が驚いたようにサッと道を開ける。女はラキーチンの前に止まると、一瞬生真面目な顔で手を差し伸べたが、彼が反応を返す前に高く澄んだ声で笑い声を上げた。
「まあ、なんて顔をしてらっしゃるの、ここで会うのなんて当たり前でしょう、私が行ってちょうだいってあなたに頼んだのに!」
 そう言うと女は笑いくずれた。ラキーチンはその頃にはもう力が抜けたようになって、イワンからも手を離していた。イワンは無言で乱れた襟を直し、笑う女を見下ろしている。
「リザヴェータ・ロマーノヴナ……」
 ラキーチンがやっとのことでつぶやいた。女はぴたりと笑いやみ、唇に微笑みを残したまま、車椅子の上から改めて手を差し伸べた。ラキーチンは腑抜けたような顔のままその手を取って口づける。それはリーズ——スコトプリゴニエフスク村のリザヴェータ・ホフラコーワ、今はカラマーゾフ家の三男アレクセイと結婚し、リザヴェータ・カラマーゾワとなった、あのリーズであった。



※ リーズの父称は捏造です

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